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訳:石木隆治
1966年に出版された『イスラムと資本主義』――作者は著名な東洋研究者、預言者モハメッドの伝記(原注1)を書いたマクシム・ロダンソンである――は今まで再販されたことがなかった(原注2)。だがこの本は燃えるようなアクチュアリティに富む問題を問いかけている。すなわち、イスラム教世界において、イスラム教と、経済発展、資本主義との間に、どのような関係があるかという問題である。なぜ、イスラム教の世界は「遅れている」とか「発展途上」とかいうことになるのか。イスラム教は福祉政策の採用、さらには社会主義実現の障害になっているのか。イスラム文明本来の規律が存在し、それは西洋を支配する規律とは徹底して異なるのだとする人がいる。あるいは、この「複雑な東洋」は、コーランのスーラ[コーランの章のこと]の解読によって照らされるのだとする人がいる。ロダンソンはこれに反駁する。ロダンソンの分析は社会科学を採用し、独断的ではないマルクス主義思想を取り入れて、分析の筋道とした。ここに新版序言の抜粋を紹介する。[フランス語版編集部]
マクシム・ロダンソンの詳細にわたる分析は、イスラムと資本主義の関係だけでなく、社会主義とイスラム教の関係にも及ぶ。イスラムは富の共有に賛成だろうか。この質問は今日においては奇妙に感じられるかもしれない。それほど、革命という観念は遠い昔のもの――ユートピア的とは言わないまでも[訳注a]――のように思えるし、イスラム主義が、急進的なあらゆる野心的社会政策から遠く離れてしまったように見えるからだ。しかしこの本の出版時はそうではなかった。時は1967年6月の戦争前夜、エジプトの大統領ガマール・アブドゥル・ナセルの革命アラブ・ナショナリスムがその頂点にあった。ナセリスム、バアス主義、アラブ社会主義、共産主義等々、呼称は様々だが、急進的左派が世の思想を支配していた。軍人、知識人、ジャーナリスト、役人、都市に住む中産階級が、これらの教義のあれこれの解釈をめぐって口論したり、殺し合ったりして、熱く語った。革命的な体制変化がエジプト、アルジェリア、シリア、イラク、南イエメンで起こった。君主制が革命の大波により覆されかけていた。
この独裁主義に加え――「ブルジョワ民主主義」は徹底的に批判された――、全てのイスラム国家の体制が共有していたのは以下のような執拗な欲求だ。つまり国家の独立を強化すること、そして社会を変えるという意思にそぐわない外国支配と決別するというものだ。農地改革の策が講じられ、経済発展に拍車がかかった。とりわけ重工業が推進され、国の中心的な基盤となった。体制は決然たる政治を行い、全国民に対する富の再分配、教育、健康を目指した。この時代には第三世界全体が、「基調は赤」であった。時代は根本的変化の時にあった。ラテンアメリカのカストロ主義的地下組織から、インドシナの「解放地帯」、南アフリカのゲリラ隊まで、革命勢力は明日を約束し、社会主義、共産主義を謳った。
アラブの世界でも革命の企図を正当化せねばならなかった。心の底からイスラム教徒であり、大多数が農民である民衆のもとでのことである。そのため権力者はイスラムという資源を利用する必要があった。このことをロダンソンは次のように指摘している。「国民統一に役立つ伝統的宗教に対する大衆の忠誠心によって可能になるもの、それはイスラム教スローガンのデマゴギー的な(正確な意味での、デマゴギー的な)使用であり、イスラム教の威厳の使用である。この威厳を旗印として使用し、他の源泉からやってきた一定程度社会主義的な選択を覆い隠すのである」。
社会主義やその派生物によるイデオロギー的覇権は、革命志向をもたない組織までをも束縛し「イスラム教的社会主義」を呼号させるようになった。この時代のべストセラーに、イスラム同胞団指導者ムスタファー・シバーイー著の『イスラムの社会主義』と題した本がある。作者は書いている。「神はあらゆる形での協力や連帯を命じられた。(・・・)預言者マホメットは十全な意味での連帯制度を樹立された」。そしてこう結論する。「イスラム教的社会主義における連帯福祉の原理によって、この倫理的人道主義的社会主義と、今日知られるたくさんの社会主義とははっきり区別されることになる。もしこの原理が適用されたら、我々の社会は理想的なものとなるだろう。他のどの社会もこの気高さに近寄れないだろう」。しかしシバイは、どうしたらこの理想に到達するつもりなのか、どうしてこの原理が実現されないのかについては述べていない。
シバイの言葉にロダンソンは驚かない。「イスラム教の幾つかの宗派は所有権の抜本的制限を考えた。財産に制限を課すという形でだ」。この要求の起源はしかじかのイスラム法典に見られる。「宗教的信念に従えば、この世の財は我々を神から遠ざけ、罪に晒す」のである。
つまり社会主義の支持者は、宗教を反動勢力を扱うのと同じようなやり方で扱ってよいということか? ロダンソンは「否」と反論する。「反動的な解釈者は、過去の遺産をすべて利用できる立場にある。伝統的な意味での何世紀もの重みのある解釈、それら解釈の持つ威光ばかりでなく、さらにはこうした解釈と当該宗教と結び付けている習慣を利用できる。しかし、その両者を結びつける根拠は少しも宗教的でないのだが」。そしてたいていの場合保守主義的である宗教家の特徴を利用する。この特質は引き続きサウジアラビアの勢力拡大と、イスラム教ワッハーブ主義の伸長によって強化されるだろう。
イスラム王国サウジは、宗教戒律を特別に反動的に解釈することにより、そして石油という天の恵みのせいで、何億の金と世界中の何万の説教師を海外に送り、厳格主義を全世界に拡げた。反動的な原理――特に女性にまつわる――を結び合わせ、新自由主義的経済に賛同し、西欧世界に足を踏み入れた。ここで我々は、米、サウジアラビア、イスラム教国間の戦略的同盟を思い出すべきだろうか? それは少なくとも二回あった。すなわち、1960年代のナセル主義との戦いと、1980年代のアフガン・ムジャーヒディーン兵の援助である。
ロダンソンは締めくくりに次のように述べる。歴史的経験は彼の分析が示すように、以下のことを教えてくれる。「現代において、経済の構築のために群衆を動員することのできる要因をイスラム教の中に見出だすことはできないが、一方経済の構築は、必然的に概成の構造の革命、破壊に到ることが明らかである」。
原注
(1) Maxime Rodinson, Mahomet, Points Seuil, Paris, 2010 (1re éd. : 1961)
(2) Maxime Rodinson, Islam et capitalisme, Démopolis, Paris, 2014, 228 pages, 23 euro.
訳注
[a] 言うまでもなく、社会主義は富の共有を目指しているので、イスラムもそうであれば社会主義に近いことになる。社会主義、共産主義は一種のユートピア思想を含むという論者もいる。
(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2014年4月号)
http://www.diplo.jp/articles14/1404Islam.html
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