03. 2014年3月07日 11:34:15
: e9xeV93vFQ
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140306/erp14030615560012-n1.htm 「ロシアのクリミア支配に断固反対」 タタール人有力者 2014.3.6 15:55 ウクライナ最高会議(議会)議員で、南部クリミア半島で暮らすタタール人の自治機関、クリミア・タタール民族会議の議長を1991〜2013年に務めたムスタファ・ジェミレフ氏は5日、キエフ市内で記者会見し、ロシアのクリミア実効支配に強く反対し、半島はウクライナにとどまるべきだとの考えを示した。 ジェミレフ氏は「強制移住やジェノサイド(民族大量虐殺)は(19世紀後半に)クリミアがロシアに併合されてから起きた」と指摘、ロシアには歴史的な不信感があると説明した。タタール人は第2次大戦中、スターリンの命令でクリミアから中央アジアへ強制移住させられた後、数年で半数近くが死亡した。 同氏によると、2月末以来、アクショーノフ自治共和国政府首相ら親ロシア勢力が実権を握ったクリミア半島はロシア系住民の熱狂的な雰囲気が強まり「これを止めるのが日増しに難しくなっている」という。同氏はティモシェンコ元首相やヤツェニュク首相が率いる与党メンバー。(共同) 関連ニュース 【ウクライナ情勢】「露は世界の安保秩序を脅かしている」 坂田東一大使 【ウクライナ情勢】自警団ではなくロシア軍…「プーチン氏10の虚構」米国務省が… 【ウクライナ情勢】「クリミアを去れ」武装集団に脅され国連特使、脱出 【ウクライナ情勢】親露派住民が東部ドネツク州庁舎を占拠、ロシア国旗掲揚 【ウクライナ情勢】米、バルト3国領空警戒を強化、ポーランドとは合同訓練拡大 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%BA クリミア・タタール人 Crimean Tatars (Qırımtatarlar) Крымские татары. Мулла.jpg クリミア・タタールの家族とムッラー(1862年) 総人口 500,000-2,000,000
居住地域 ウクライナの旗 ウクライナ: 248,200[1] ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン 150,000 トルコの旗 トルコ 1,000,000以下 ルーマニアの旗 ルーマニア 24,137 [2] 言語 クリミア・タタール語, トルコ語 宗教 イスラム教 クリミア・タタール人(クリミア・タタール語: Qırımtatar、ウクライナ語: Кримські татари、ロシア語: Крымские татары)は、クリミア半島に起源もつテュルク系民族である。 クリミア・タタール語を母語とし、スンニ派ムスリムが大半を占める。 クリミアの原住民族であることを強調して「クルムル」(クリミア・タタール語: Qırımlı、ロシア語: крымцы;意訳:「クリミア人」「クリミア出身者」)という名称で言及されることもある。 目次 [非表示] 1 人口 2 歴史 3 関連項目 4 脚注 5 参考文献 6 外部リンク 人口[編集] 1926年 2001年 現在では、ウクライナのクリミア自治共和国内に25万人のクリミア・タタール人が居住しているとみられる。 また、トルコ共和国には、アンカラやエスキシェヒルを中心に、旧クリミア・ハン国からの移住者の子孫が数百万人居住しているとされ、ルーマニアとブルガリアにも同様の住民が約2万7千人住んでいる。 また、スターリンによる強制移住政策の結果、ウズベキスタンを初めとする中央アジア諸国にも約15万人の住民がいる。 歴史[編集]
クリミア・タタール人は、13世紀から18世紀にかけてクリミア半島を中心に南ロシアを支配したクリミア・ハン国のテュルク系ムスリム住民を起源とする。 15世紀から18世紀にかけてほぼ毎年、リトアニア大公国とポーランド王国の支配下に置かれたウクライナへ来襲し、ウクライナ人の奴隷狩りを行った。 1768-1774年の露土戦争の結果、1783年に、クリミアはロシア帝国に併合され、旧クリミア・ハン国の有力者層の多くは、オスマン帝国領内に亡命した。また、ロシア人、ウクライナ人をはじめとする移民がクリミアに押し寄せたため、19世紀の初めには、クリミア・タタール人はクリミア半島での少数派となる。 クリミアにおけるクリミア・タタール人の人口(1939年)
クリミアにおけるクリミア・タタール人の人口(2001年) 19世紀末には、旧ハン国の貴族階級出身のイスマイル・ガスプリンスキーが、クリミアのバフチサライで、西洋式教育の普及運動(ジャディード運動)を開始し、クリミア・タタール人から多くの民族知識人が輩出された。 1917年のロシア革命時には、ノーマン・チェレビジハンや、ジャフェル・セイダフメトら民族派知識人により、1921年に「クリミア共和国」の設立が宣言されるが、ソビエト政権がこれを解散させてクリミア自治ソビエト社会主義共和国を設立させた。 第二次世界大戦中、クリミアタタール人の多くが赤軍に参加させられたが、1944年には、スターリンによりクリミア・タタール人は対独協力の嫌疑をかけられ、全住民が中央アジアに強制移住を余儀なくされた。強制移住の過程で、住民の多くが命を落とした。この出来事は「クリミア・タタール人追放(Sürgün)」として、現在でも、クリミア・タタール人の間で広く記憶されている。 スターリンの死後、1967年にクリミア・タタール人への追放措置は解除され、クリミアへの帰還運動が始められた。1991年には、ムスタファ・ジェミーレフら民族活動家の運動により、ソ連邦内の全クリミア・タタール人から代議員が選出され、最高意思決定機関であるクリミア・タタール民族大会(クルルタイ)が開催され、クリミアへの帰還に向けての努力が進められた。 現在、約25万人のクリミア・タタール人がクリミアへの帰還を果たし、クリミアの全人口の1割を占めるまでになったが、移民の生活基盤の整備、ウクライナでの政治参加の方法等、移住後の問題は残っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB タタール(タタルとも、Tatar)は、北アジアのモンゴル高原から東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系の様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族名称である。 タタールと呼ばれる人々の実態は多様であり、その名が用いられる時代と場所によって指し示す民族は異なる。 現在では、旧ソビエト連邦を中心にシベリアから東ヨーロッパにかけて居住するテュルク系諸民族がタタール(タタール語: Татарлар, Tatarlar)を自称する。これらの諸民族はロシア連邦内のヴォルガ川中流域(イデル=ウラル地域)に住むヴォルガ・タタール人(カザン・タタール人)、ヴォルガ川下流域に住むアストラハン・タタール人、シベリアに住むシベリア・タタール人、ウクライナ領のクリミア自治共和国に住むクリミア・タタール人、ベラルーシ、リトアニアおよびポーランドに住むリプカ・タタール人などに別れる。 タタール人の人口が多い国はロシアで、統計上の総人口はおよそ550万人でロシア人に次ぐ多数派民族である。このうち数が多いのはヴォルガ・タタール人で、ヴォルガ中流域のタタールスタン共和国に200万人、隣のバシコルトスタン共和国に100万人が居住する。また、中国の少数民族のひとつタタール族(塔塔尔族 拼音: tătăĕrzú)は、中国の新疆ウイグル自治区に居住に住むロシア系タタール人のことで、人口は約5000人。 目次 [非表示] 1 語源と表記 2 概要 3 モンゴル帝国以前のタタール 3.1 三十姓タタルと九姓タタル 3.2 タタル部 3.2.1 構成氏族 3.3 タタル系諸種族 4 東ヨーロッパのタタール 5 西ヨーロッパのタタール 6 東アジアのタタール 7 脚注 8 参考資料 9 関連項目 語源と表記[編集] タタールの語源は古テュルク語で「他の人々」を意味した[1] Tatar(タタル)である。 伝統的にはもっぱら、中国語では韃靼(ダーダー、拼音: dádá)、アラビア語ではتتر(タタル)、ペルシア語では تاتار (タータール)、ロシア語では Татар(タタール)、西ヨーロッパの諸言語では Tartar(タルタル)と表記される[2]。 日本では、古くは中国から伝わった韃靼(だったん)を使っていたが、現代ではロシア語風にタタールと呼びかえることが一般的である。 概要[編集] タタル(Tatar)という語は、テュルク系遊牧国家である突厥(とっけつ)がモンゴル高原の東北で遊牧していた諸部族を総称して呼んだ他称であり、テュルク語で「他の人々」を意味する[1]。その最古の使用例は突厥文字で記した碑文(突厥碑文)においてであり、「三十姓タタル(オトゥズ・タタル、Otuz Tatar)」や、「九姓タタル(トクズ・タタル、Toquz Tatar)」という集団が登場する。このうちの三十姓タタルは中国史書に記されている室韋(しつい)に比定されている。まもなく中国側もテュルク語のタタルを取り入れ、『新五代史』や『遼史』において「達靼」,「達旦」などと表記したが、これは他称ではなく、彼らの自称であるという[3]。 やがてタタルと自称する人々は時の支配者であるモンゴルに従属してヨーロッパ遠征に従軍したため、モンゴルよりも先にヨーロッパの人々にその名を知られ、モンゴル帝国の遊牧騎馬民族が「タルタル(Tartar)」と呼ばれるようになり、その土地名も「モンゴリア(モンゴル高原)」という語が定着するまでは「タルタリー」と呼ばれた。中でもロシア語の「タタール(Татар)」はよく知られているが、ロシアはヨーロッパの中で最も長くモンゴル(タタール人)の支配を受けた国であり、ロシア人にとって「タタールのくびき (татарское иго)」という苦い歴史として認識されている。 モンゴル帝国の崩壊後も東アジアで「タタル」の語は使われ続け、中国側から「韃靼」として記されている。この韃靼はかつての達靼(タタル部)ではなく、北元の後継勢力であるモンゴル人を指しているため、使い方としてはヨーロッパと類似している。 以上のように、「タタル」という呼び名は突厥碑文の「オトゥズ・タタル(三十姓タタル),トクズ・タタル(九姓タタル)」という他称に始まり、そこから派生したタタル部(達靼)が自称するようになるが、同じく派生したモンゴル部が巨大なユーラシア帝国に成長すると、モンゴル人がヨーロッパ,中国から「タルタル、韃靼」と他称された。また、後にロシア領となるジョチ・ウルスのモンゴル人およびテュルク化したモンゴル人は「タタール」と呼ばれたため、その子孫であるテュルク系ムスリムは今もなお「タタール人」と自称している。 モンゴル帝国以前のタタール[編集] 三十姓タタルと九姓タタル[編集] 8世紀の『ホショ・ツァイダム碑文(キョル・テギン碑文)』に、「バイカル湖の東岸方面のクリカン(骨利幹)とシラムレン川のキタン(契丹)の間に、オトゥズ・タタル(三十姓タタル)がいた」と刻まれたように[4]、突厥の時代から室韋は三十姓タタルと呼ばれていたのであるが、一方で『シネ・ウス碑文』などに「トクズ・タタル(九姓タタル)」という集団がセレンゲ川下流近くに居住していたことも記されている。九姓タタルと三十姓タタルとの関係はわかっていないが、九姓タタルが三十姓タタルと同じ起源であるとすれば、これも室韋から分かれた集団であると推測できる。しかしながら、『新五代史』に記されている「達靼(たつたん、タタル)」は「靺鞨の遺種」と記されており、室韋の後身とは記されていない。 860年代に九姓タタルは回鶻(ウイグル)を滅ぼした黠戛斯(キルギス)を撃退し、オルホン川流域に割拠した。13世紀にモンゴルが強大になるまでモンゴル高原の支配部族であったケレイト王家はおそらく九姓タタルの後身である可能性が高い[5]。 一方で室韋の旧地に残っていた三十姓タタルは、かつて九姓タタルが住んでいたセレンゲ川上流域や、ケルレン川上流にまで住地を広げ、13世紀に活躍するモンゴルやタタルといった部族の起源となる。 タタル部[編集] 13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 モンゴル高原中央部で黠戛斯(キルギス)の遊牧国家が倒れると、タタル諸部族は南下を開始し、モンゴル高原の中部から東部に広く分布するようになった。高原の東南に遊牧していたキタイ(契丹)が遼を建国すると、これらの遊牧諸部族は遼の支配を受け、ときに遼に反抗しながら部族の興亡を続ける。この時期に台頭したのが、ケレイト部,ジャライル部,メルキト部,モンゴル部,バルグト部といった諸部族であり、これらと並んで有力部族となったのがタタル部である。 12世紀、タタル部は遼に代わって成立した金と結んで、モンゴル部のアンバガイ・カンを殺害した。そのため12世紀末、モンゴル部の部族長となったチンギス・カンによってタタル部は侵略された。やがてチンギス・カンがモンゴル高原のモンゴル・テュルク系遊牧諸部族を統合してモンゴル帝国を建てると、かつてのタタル部も勢力は振るわなかったもののモンゴル帝国を構成する一部族として存続した。 構成氏族[編集] 『元朝秘史』によると、タタル部族にはアルチ,チャガン,ドタウト,アルクイの4氏族があるという。一方、『集史』ではトトクリウトを筆頭に、同じくアルチ,チャガンの他にクイン,テレイト,バルクイの計6氏族が数えられている。 『集史』ではチンギス・カンのオルドの管理を行っていた最有力の大ハトゥンが第一皇后ボルテを含め五名いたことが述べられているが、うち第五皇后イェスルンおよび第三皇后イェスゲンの姉妹はトトクリウト・タタル氏族の首長イェケ・チェレンの娘たちであった。チンギス・カンの養子としてホエルンらに養育されたシギ・クトクやクリ・ノヤンなど、タタル部族は氏族それぞれがチンギス・カン家の各王家で有力な部将や姻族として政権の中枢を担った。 タタル系諸種族[編集] 以下のものはコンスタンティン・ムラジャ・ドーソンの著書『チンギス・カンよりティムール・ベイすなわちタメルランに至るモンゴル族の歴史』[6]に記されているタタル系の諸種族である。 ジャライル(札剌亦児)…オノン川付近に住み、10の大きな分派に分かれている。 ジャアト タクラウン(トクラウト) クンカサウン(クンカサウト) クムサウト ウヤト ビルカサン(ニルカン) クゲル(クルキン) トランキト ブリ(トリ) シンクウト(シヤンクウト) スニト カイルン(カプタルン) タタル(塔塔児)…ブイル湖付近に住み、6つの部族に分かれている。 トトカリウト(トドクリウト) イルチ(アルチ、アンチ) チャガン クイン テラト(テレイト?) ベルクイ(バルクイ、テルクイ) メルキト(滅里乞)…ウドユト、ウドイト(兀都亦愓)とも呼ばれ、4つの部族に分かれている。 オホズ(ウワズ、兀洼思) ムダン トダクリン ジウン ケルルウト(クルラウト) オイラト(斡亦剌)…数部に分かれ、イェニセイ河のケム川を構成する8川(ゴク、オン、カラ、セディ、アクライ、アカ、チュルチェ、チャガン)流域に住む。 バルグト(タルグト?) コリ コアラシュ(トゥラス) ブリヤト トゥマト クルガチン(ブラガチン) ケルムチン(ケレムチン) ウラスト テレングト ケスティミ ウリヤンギト クルカン サカイト ケレイト(克烈)…5つの部族に分かれる。 トンカイト(コンカイト) チルキル(ジュルキン) サキアト(サカイト) トゥマイト(トゥマウト、トベエン?) エリアト(アルバト) ナイマン(乃蛮)…最も人口が多く、広大な領域に住んでいた。 オングト(汪古)…中国の長城(タタル語でオングウ)付近に住んでいた。 タングート テクリン(ベクリン、メクリン) 東ヨーロッパのタタール[編集]
「タタールのくびき」も参照 ヨーロッパのキリスト教世界の中でももっとも東に位置し、恒常的にテュルク系の遊牧民と接触していたルーシ(現在のロシア・ウクライナ<※当時は、北東ルーシのノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国や南西ルーシのハールィチ・ヴォルィーニ大公国など10以上のルーシ(諸侯)が分裂・割拠していた>)は1223年にモンゴル帝国の最初の襲撃を受け、1237年にはバトゥ率いる征西軍の侵攻を受けて、ノヴゴロド公国以外は全てモンゴルの支配下に入った。ルーシの人々は、おそらく周囲にいたポロヴェツなどのテュルク系遊牧民が東方のモンゴル系遊牧民たちをタタルと呼んでいたのにならって、彼ら東からやってきた遊牧民たちをタタールと呼んだ。 バトゥの征西で大被害を受けたルーシは、続けてバトゥがヴォルガ川下流に留まって建国したキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の支配下に入り、モンゴルへの服従と貢納を強制された。モスクワ大公国が1480年に貢納を廃止し、他地域も独立するまで約200年前後にわたって続くことになる、このモンゴル=タタールによる支配のことをロシア史では「タタールの軛(くびき)」と呼ぶ。 キプチャク・ハン国のモンゴル人たちはやがて言語的にはテュルク語化、宗教的にはイスラム教化してゆく。15世紀にはキプチャク・ハン国は再編と解体が進んでクリミア半島にクリミア・ハン国、ヴォルガ川中流域にカザン・ハン国、西シベリアにシビル・ハン国などが生まれるが、これらの地域ではかつてのモンゴル系支配者と土着のテュルク系などの様々な人々が混交し、現在クリミア・タタール、ヴォルガ・タタール、シベリア・タタールと呼ばれるような民族が形成されていった。タタールの中には、ロシアやルーマニアに移住して、キリスト教を受け入れて現地に同化する者も多く現われており、ユスポフ家、カンテミール家など有力な貴族となった家もある。 ロシアは、16世紀頃までに「タタールの軛(くびき)」を脱するが、その後もクリミアやヴォルガ、シベリアなどに広く散らばるテュルク=モンゴル系の人々をタタールと呼んだ。ロシア帝国は18世紀までにこれらのタタールはほとんど全てを支配下に置く。 ロシア治下のタタールのうち、ヴォルガ川中流域のカザン周辺に住むヴォルガ・タタール(カザン・タタールともいう)が経済的・文化的に成長し、ロシア領内のムスリム(イスラム教徒)中で最大の共同体へと発展していった。ロシア・ソビエト連邦ではさまざまな民族に分かれたタタールたちをまとめてタタール民族として扱っていたが、それらのうちでタタールの自治共和国を持つことができたのはヴォルガ・タタール人のみであった。このため、ロシア領を話題とする多くの文脈で、単にタタール人といったときも、狭義にはヴォルガ・タタール人を指していることが多い。 西ヨーロッパのタタール[編集] バトゥの征西はポーランドからハンガリーまで達し、ルーシのみならず西ヨーロッパ・カトリック圏にも大きな衝撃を与えているが、西ヨーロッパの人々は、ロシア語のタタールという名をさらにギリシャ語で地獄の住民を意味するタルタロスに重ね合わせ、モンゴル人たちをタルタル人と呼んだ。そしてモンゴル帝国以来、中央ユーラシア、中央アジア、北アジアの諸民族をタルタル人と呼ぶ言い方が長く残ることになる。 例えばモンゴル高原や北アジアは、19世紀まで西ヨーロッパの人々によってタルタリーと呼ばれており、その地の住民であるモンゴル系、テュルク系の遊牧民たちはタルタル人、タルタリー人と呼ばれつづけていた。17世紀に中国で清を立てた満州人はツングース系の非遊牧民であるが、彼らもヨーロッパ人にはタルタル人の一種とみなされていた。近代に中央ユーラシアの諸民族に関する知識がヨーロッパの人々に根付くにつれ、タルタルの名は使われなくなっていくが、その名残は現代において払拭されてはいない。例えば、ヴォルガ・タタール人などのタタールの名を冠する民族が英語圏で言及されるとき、Tatars ではなく Tartars と綴られることもしばしばである。延いては黄禍論の淵源と見なしうる。 東アジアのタタール[編集] モンゴル帝国の諸政権のうち中国とモンゴル高原を支配した元は、1368年に北へ逃れて北元となったが、やがて1388年にクビライの直系のハーンが殺害されてクビライの王統が断絶し、モンゴル高原東部の諸部族がオイラト部族連合を形成してモンゴル部族連合から分裂した。 こうしてクビライ王統断絶後のモンゴル高原では、モンゴル系の遊牧諸部族がモンゴルとオイラトの2大集団に分かれて対立するが、中国の明ではこのうちのモンゴルを元以来の呼称である「蒙古」で呼ぶのをやめ、かつてのモンゴル系遊牧民の総称であった「韃靼」と呼ぶことになった。このため明代に記された史料や明朝の正史『明史』では、モンゴルは韃靼の名で記録されている。日本では、明代の表記に従って、伝統的に明代モンゴルのことを韃靼、あるいはタタールと呼んだ。この名称の変化から、当時のモンゴル高原の形勢であるモンゴルからのオイラトの分立とモンゴル・オイラトの対立が、モンゴル部族連合がタタールとオイラトへ分裂し、対立したとして誤って理解されることも多い。 モンゴルと自称する集団が韃靼と呼ばれるようになった明代でも、モンゴル高原の東に住む女真(のちの満州人)はモンゴルのことをMongo(モンゴ)と呼びつづけていた。のちに明に代わって満州人が立てた清は韃靼の名称を採用せず、モンゴルの漢字表記は「韃靼」から「蒙古」に戻った。 日本では江戸時代頃は北アジアの諸民族を漠然と「韃靼」と呼んでおり、清を立てた満州人のことも韃靼人と呼んで蔑視していた。中国や朝鮮では、女真・満州を含めて北方の諸民族のことを「韃虜」「韃子」などと蔑称することがあった。 なお、現代の中国において少数民族の一つとして認定されているタタール族は、18世紀以降にロシアから移住したタタール人の子孫であり、上述の韃靼とは無関係である。 |