92. 母系社会 2014年3月08日 21:38:39
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日本の「第四インター」のHPに、ウクライナ情勢について信頼できる記事 がありましたので転載します。筆者の「アレクサンダー・ブズガーリン」は、下記の紹介にもあるように、 現在、モスクワ国立大学の教授で、旧ソ連の政権党であった「ソ連共産党」 の後継政党であり、民族主義的な「ロシア連邦共産党」に批判的な立場の 「非スターリン主義的左翼」の学者で、旧ソ連崩壊後、来日して公演した こともある左翼知識人です。 ブズガーリンによると、ウクライナの親ロシア派政治家も、親EU派 派政治家も、両方とも特権的支配層の代理人であり、両者ともロシアの 支配的政治家と同じような、封建的な政治家たちのようで、ウクライナ 国民は、<どちらが「よりマシな悪」であるか>という選択を迫られて いるようです。 つまり、ロシアとEUのどちらと連携しても、ウクライナ国民は、 ウクライナの封建的な特権的支配層自体を打倒しない限り、救われない ということのようです。 今回、電話の会話録音が公表され、親ロシア派の警察官と、親EU派の デモ隊の両方を銃撃して多数の死者を出したのは、反ロシア派デモ隊側 であることが暴露されました。EU側は、この謀略を事前に知っていた 可能性が高く、ウクライナの「ネオナチ」ファシストを利用した現EU 指導部は、米国並みの謀略を駆使する犯罪集団であることが判明しまし た。 膨大な数の民衆が殺された「ユーゴ内戦」の直接の原因は、当時の西独が、 国際社会の反対を無視して、「クロアチア」独立を承認したからですが、 欧米は、セルビア政府だけを一方的に悪者に仕立て上げ、「ユーゴ」の 解体に成功しました。 欧米は「ユーゴ」と同じように、ウクライナを欧米の周辺従属国家 として取り込み、ウクライナ国民を収奪するつもりだったのでしょうが、 今のところ、プーチンが有利に対応しているようです。 -------------------------------------------------- かけはし2014.年2月17日号 よりマシな悪の選択の環から出る決断を ウクライナ マイダン2013:左翼からの観点 抵抗の多重・多次元的弁証法 に立つ回答見出す挑戦が必要 アレクサンダー・ブズガーリン 前号に引き続き、ウクライナの現情勢に関する論考を紹介する。前号に紹介したものは、ウクライナの抵抗運動が真に取り組むべき課題、要求に焦点を絞った現地左派の政綱的性格だった。そのためそれが想定している受け手は基本的に当地の人々であり、現在のウクライナ情勢の危機的発展を導いている複雑な背景への言及はそれほど多くはない。今回紹介するブズガーリンの論考にはその空白を埋めるさまざまな情報が盛り込まれている。(「かけはし」編集部) この文書が書かれている段階では、抵抗の結果は未だ確定してはいない。しかし筆者は、現在のウクライナの権力層はいずれかの形でEUへと否応なく近づいていく、と確信している。他方で、一つのことははっきりしている。すなわち、ウクライナの、またウクライナとロシアの諸関係に付随する、そうした底深い諸問題は、結果として解決を見ることはないだろう、ということだ。 衝突は前回よりはるかに複雑に ウクライナは諸矛盾で撃ち抜かれている。キエフはこの一〇年で二度目となるが、大衆的抗議行動の、また諸統治機構との衝突の舞台となった。しかし二〇一三年末のできごとは、二〇〇四年とは表面上で似ているにすぎない。状況はもっとはるかに複雑になっている。 二〇〇四年、マイダン(独立広場)の主要勢力は、支配的な政治・経済エリートの勝手気ままかつ人を侮蔑した振る舞いに飽きた民衆から構成されていた。民族主義グループとそうした勢力は、二〇〇四年の場合、二〇一三年に劣らず強力だった。しかし当時主要なものごとは、住民の大量の憤激だった。その上二〇一四年に提起された選択は、地政学問題(欧州に合流すべきか、ロシアとの連携にとどまるべきか)のみならず、同じほどに社会政治問題――われわれ、市民と、彼ら、寄生層の間の――だった。 今マイダンの状況は多くの形で異なっている。権力層の寄生に対する全般的な不満はそのままである。しかし今中央舞台を占めているものは、親欧州派の政治エリートと経済エリート部分の側に立つ用心深く考え抜かれた組織化の結果だ。二〇〇四年においては、舞台の陰にいる指揮者たちは、彼ら自身をあからさまにさらすことにまだ尻込みしていた。しかし彼らは今、恥も外聞もなく前面に出てきている。 そしてそこにはもう一つのもの、極めて重要な様相がある。すなわち二〇一三年には、民族主義者と準ファシスト諸組織が、「抗議」の主要な、有効に組織された力をもつ組織に近づく能力を示しつつ、マイダン行動に熱を入れて取りかかることになった。 本質において情勢は今や、多重的、多次元的となった。そしてそれを分析することは、それゆえなおのこと重要となっている。ウクライナを切り裂いている諸矛盾は、今流行の地政学的観点からだけではなく、その社会・経済的次元、政治・イデオロギー次元、さらに文化・歴史の次元の分野においてもまた理解されなければならない。 それゆえ、この文書の主な結論的主張は、現代この時のウクライナに表現されているものは、過去におけるとまったく同じく、ウクライナそれ自身の矛盾だけではなく、底深い諸矛盾の交叉だ、ということにある。 諸々の多元的矛盾とその統一体 ウクライナを構成しているものは、鉄鋼労働者と「事務所の浮遊物」、教員と農民、サービス事業会社経営者と一握りの特権的支配層であり、一番最後のものはさまざまな「一族」に分割されている。この国には、親欧州派と新ロシア派が、そして「独立的」諸労組と公務諸組織がある。後者はほとんどの場合、EUとの統合という問題を、何よりもまず彼らの前にある選挙戦というプリズムを通して見ている、そうした人を見くだした実利主義的議会諸政党からできている。 ウクライナ人はまた、第一次的にウクライナ語を話す住民と、主にロシア語を話す住民だ。 最後にウクライナには、ポーランドとリトアニアへの編入とそれとの何世紀もの戦争が表現されている。そこにはまた、四五〇年というロシアとの統一、並びにロシア帝国による何世紀にも及ぶ抑圧がある。さらに反ファシズムパルチザンのヒロイズムとファシズム支持者の数々の犯罪もある。 こうしてウクライナ社会の底深く基礎をなす諸矛盾は、歴史的に規定され、社会的かつ階級的諸要素によって条件付けられている。諸矛盾は多重的かつ多次元的だ。すなわち、歴史的・文化的、政治的・イデオロギー的、実利主義的・経済的、地政学的、さらに社会的かつ階級的次元が、今再びマイダンで交錯している。 忘れてはならないもう一つのことがある。つまりウクライナは、その民衆、歴史、文化の、具体的であると共に普遍性をもつ統一体でもある、ということだ。これこそが、平和に対する全般的な国民的利益と一体となった、ある種確かな高潔性、全体性である「ウクライナ」だ。 われわれがウクライナの欧州との統合という問題を分析できるのは、また分析すべきであるのは、こうした諸問題のプリズムを通してということだ。 しかしまず、国際的連関について、ロシアとEUに関し数語が必要だろう。 ロシアとの間に深い文化的関係 ロシアに関しては、民衆間の友情の伝統と高まる排外主義、社会的解放の目標と特権的少数資本の貪欲……を挙げなければならない。 しかし始めに言わせてもらいたいことがある。私にとって、ハリコフ、キエフ、リボフ、ドニエプル川、カルパチア山脈、クリミア半島は、私の故国であるソビエト連邦の切り離せない一部だ。私はこの空間の中で成長し暮らした。その中で私は、あらゆるところで友を得た。しかし私は同時に、わが故国のUSSR(ソ連邦)は、それを破壊することのできる、そして最後にはそうなった、深い諸矛盾で満たされているということの理解と共に長じた。そしてまた私は、現代のロシアについて同じことを言うことができる。これが、わが故国のもっとも重要な部分である私の国だ。私はこの国を心から愛しているがまさにそれゆえに私は、現代のロシアでは反動的政治経済諸勢力がほとんどの部分で優勢を誇っている、という事実から顔をそむけるつもりはない。 より正確に言えば、現代のロシアは今もなお、文化、科学、教育の分野で巨大な潜在力を保っている。この国で市民の多数は、社会的公正と人民権力の価値を今なお大切と思っている。数多くの社会学調査がそれを示している。現在まで、そして底深い内部的諸対立と高まる民族主義にもかかわらず、人々は多数派という形で、他の諸国の民衆との友情と対等な関係に向けて方向を保ってきた。これは特に、ウクライナのような国の人々に当てはまる。なぜならばわれわれの親や子どもは、ファシズムに対して共に闘ったのであり、わが人民は何世紀も、一つの統一した社会・文化空間を築き上げる形で合流したのだ。その空間の中では誰一人、たとえば作家のニコライ・ゴーゴリはウクライナ人と見なされるべきかロシア人なのかと問うことなど考えなかった。 ウクライナ民衆とロシア民衆の統合に向けた強力な流れは先のことに源をもってきた。それはウクライナ人とロシア人についてだけではないということを強調したい。つまりわれわれの国々は多民族なのだ。そしてこれを理解することには、原理的な重要性がある。 われわれの一層深い協力、極めて密接な文化的な統合にはらまれた疑いなく進歩的で生産的な性格は、ここに源をもっている。そしてその統合は、われわれ二国がその文化をもっと深くかつ幅広く、その領域のみならず近隣の領域においても、発展させ広げることを可能としてきた。 西部ウクライナがもつ洗練された欧州的遺産を含んで、ウクライナの文化的遺産がないとすればロシアは、困難を抱えまずい生き方をすることになるだろう。そのことを心にとどめることが重要だ。ウクライナの言語、詩、レスヤ・ウクラインカの演劇、ゴーゴリの『ディカーニカ近郷夜話』、ドニエプル川を見晴らす切り立った断崖、リボフ旧市街、ハリコフの街路、これらはすべて、われわれの文化的世界の一部なのだ。 今現在のロシアは悪い連携相手 しかし今日現代のロシアには同時に、その国の原始的資本主義とまた依然と支配を続けるロシアのエリートが育んだ、大きな力をふるう排外主義がある。この点であらゆるものごとははるかに複雑で難しく、実際に悪い。ウクライナはロシアの寡頭支配層にとって、何よりもまず、ロシアにおけると同じく安い労働力と天然の財に寄生するという、同じ政策を彼らが実行できる新たな領域だ。ロシアの「鈍感で無慈悲な」ビジネスはウクライナの人々に対して、それがわが国に対してこれまでもたらしてきたものと同じものをもたらすだろう。それは、酷い資本主義的搾取と反封建的独裁の混合物だ。 われわれの支配的な「政治階級」について同じことを言う必要がある。ロシアは今日、腐敗した官僚制によって統治されている。その官僚制は、天然資源と金融の特権的少数支配層、それに軍事産業複合企業体の経営者たちが加わる形で編み上げられている。ロシア人の実体ある社会的諸権利と市民的諸権利は、民主国家の基準に対応するどのようなものからも離れている。そして独立労組と社会運動の諸権利は極度に制限されている。ロシアの政治生活における重要な要素は、この国の支配的サークルの中にいるさまざまな人物がもつ大きな力のある民族主義的感情だ。 これがロシアの支配的エリートを、控えめに言ったとして、統合に向けた極めて問題をはらんだ相手としている。このロシアとの経済的、政治的統合は、ウクライナの親ロシア寡頭支配層と親ロシア政治エリートを強化するための一基盤を提供するにすぎないだろう。 一方でウクライナの人々は、この国の市民と生産に向けた相対的に安価な資源、加えて重工業と産業プロレタリアートという留保分(そして結果として起こる成長)、さらに関税同盟諸国の大きな市場を得ると思われる。他方で彼らは同時に、原始的な資本主義の搾取形態と労働者の反封建的な搾取といったものの保存と強化をも、国家機構における父権的官僚主義傾向やロシア官僚制による地政学的支配の危険と共に、得ることになるだろう。 これら二つの側面のバランスシートがはっきりさせられた場合、最終結果は、大多数のウクライナ市民にとってほとんど何も変化しない、ということになると思われる。EUに関してはどうだろうか?
EUの成果は労働者市民の成果 言われる必要のある第一点は明らかだ。すなわちEUの成果は、その中心部について語っている限り、本物であり誰にも知られている。そこでは、現在の諸困難すべてにもかかわらず、数多くの大きな建設的な面が今なお残っている。北欧を考えるならば、そこで実行されたいわゆる「スカンジナビア」モデルには、ロシアやウクライナで優勢であるシステムに比べて、真の優位さがある。そこには何よりも、高度な経済の社会化がある。これらの諸国の呼び物は、累進所得税、気前のよい社会福祉給付、教育、健康管理、文化の大部分の無料利用、さらに強力かつ活動的な労働組合だ。そこでは社会的差別の水準が低く(住民の富裕層と貧困層間の差は六〜七倍、われわれの国々における数字の半分以下)、市民社会の諸構造に対しては本物の権利がある。 しかしながらこの樽一杯の社会民主主義の蜜に混ぜ合わせる形で、スプーン一杯のタールがある。事実としては一杯以上だ。この印象に残る社会的達成物は最初何十年も前に達成された。その後前進は……停止した。ところで社会民主主義の趨勢は、自転車と同じように、じっと立っていることはできない。一つの挑戦がある特定点で止まるべく行われるならば、変革が中途で凍結されるならば、社会は停滞の条件、社会的かつ精神的惰性の条件の中で終わりを遂げるだろう。 EUの諸成果とはそういうものだ。第二点――EUの罪悪――は、EU統合と民主主義の敵による、極度にこじつけられたイデオロギー的当てこすりであるように見えるかもしれない。 しかしながら。 EUについてのわれわれの分析では、ロシアの支配的エリートの場合と同じく、一方における欧州諸国市民の達成物と、他方における欧州の多国籍企業とNATOメンバー諸政府が実行した諸政策の間を区別しなければならない。われわれは市民たちの達成成果によって、何よりも労働者の、彼らの労働組合の、左翼の、さらに左翼中道諸政党の、また社会運動と非政府諸組織の達成成果を心にとどめている。社会的権利と市民権を求める一世紀以上にわたるそれらの活発な闘争は、これまでに否定できない諸結果を獲得してきた。 問題がこのような形で提起される時、EUの「行動主体」としてのNAT諸政府が何千人という元ユーゴスラビアの平和な市民の死に責任を負っている、ということは直ちに明白となる。あるいはこれですべてではない。彼らは、二〇〇八年以来事実上世界の全民衆に打撃を与えてきた金融危機に、南欧諸国の大量失業等々に、ありすぎるほどの責任を負っている。
EUへの統合にも陰うつな未来 もっとも重要なことは次の事実であり、それは、ウクライナのEUへの統合が、予想できる未来において、ウクライナ市民がドイツやオーストリアの市民と同じように暮らす、ということを意味しているわけではない、ということだ。 全体としての世界と同様EUは、豊かな地域と貧しい地域に分割されている。この分割の一方には、欧州多国籍企業の「故国」、産品ブランドからあらゆる類の大衆文化とがらくたメディアに広がる極度に価値ある像と並んで、大量の資本と革新的テクノロジーのほとんどをその掌中に集中している国々がある。他方には、資源産業、汚染を引き起こす生産過程、組み立てプラント、「欧州的生活」を共にする目的で休日なしに一二時間から一四時間精一杯働く用意のある住民たちと共に安価な(欧州基準では)労働力が集中している、そうした国々がある。EU内部の社会的格差は、諸国の全共同体を横断して最富裕部分と最貧困部分を比較した場合、ロシアやウクライナ……におけると大雑把に同じであることが分かる。 こうした関連において、ウクライナがEUへの統合という道にしたがった場合、この国は貧しい周辺という類型に落ち込むだろう、ということを認識することが重要だ。このことについては、厳密に言って誰一人論争する者はいない。単純に言って、ウクライナの親欧州派サークルはそれについて「忘れている」。あるいはもっと正確に言えば、その議論を拒否している。 このような環境の中では、わがウクライナの姉妹兄弟を何が待ち受けているのだろうか? 彼らがロシアの方向に動いた場合とまさに同じく、極めて矛盾した結果だろう。 彼らは、議会主義とさまざまな少数派のための権利(労働組合と左翼のための権利はほとんどないとしても)へ向かう一定の形式的移行を期待できるかもしれない。ウクライナのエリートもまた、西とのより楽な対話とEUエリートへの包含を期待できるだろう。そこには、商業や観光業などでの中小ブルジョアジーの活動を拡張する、新たな機会が伴われるかもしれない。加えて――ここには基礎的な重要性がある――国家の諸財源と市場を巡る競争に満ちた奪い合いにおける、ウクライナ親西欧少数特権支配層の勝利があるだろう。 この統合はその間、ウクライナ人のEU諸国へのすでに小さくはなくなっている移民を、主要には低賃金労働者の「アウトソーシング」形態として、強めることもあると思われる。その光景の中ではまた、脱産業化進展の強化増大と、ロシア語を話す住民にとっての実体ある社会・文化的諸問題を伴った、ウクライナ民族主義の成長があると思われる。
ロシア:文化的対話回復も そこで、ウクライナ人にとっては何が最良か? EUのもう一つの周辺となるべきか、ロシアに自身を統合すべきか、あるいは第三世界の一独立国となるべきか? 私は個人的には、三つの線に沿って私の回答を確定したいと思う。第一にこの問題は、ウクライナの市民自身によって決定されなければならない。EUや米国の密使がここで圧力を行使することは、ロシアが行う場合と同様受け入れがたい。 第二に、ウクライナ社会のさまざまな諸層は、異なった回答に利益をもっている。私は当然ながら、何らかの最終的真理を宣言できるなどとは主張しない。しかし一人の学者として、また一市民として、中立の傍観者の立場をとることには躊躇がある。私の観点では、こうして情勢は次のように提起できる(極めて要約された形で)。 東部ウクライナの農民と産業プロレタリアートのほとんどにとっては、ロシアとの協力(強調するが、原則の問題として、ウクライナのロシアへの編入を語っているのではない)は、より大きな安定性をもたらし、新たな文化的な、また言語上の問題をもたらすことはないと思われる。ロシアのビジネスとロシアの官僚制の悪行があるとしても、これは事実だ。同じことは、教員や保健スタッフや国家諸機関の高度な訓練を受けた他の労働者のような、大量の知的専門職メンバーにも当てはまると思われる。これらの人々すべては、ウクライナ官僚制の父権的後見並びに彼らの社会的権利と市民権に関するさらなる制限と引き換えに、相対的な安定を受け取ると思われる。またロシアとの親善回復から利益を得る者は、大事業の対応する派閥となり、そこには、それらと密接に絡み合った政治的、官僚的グループが付随するだろう。これらすべての「プラス」は極度に相反する性格をもつ。しかしそこには、互いに引きつけ合うわれわれ両国から得られる疑いないプラスが一つある。すなわち、われわれの社会的・文化的対話の回復と強め合いだ。この媒介要素は原理的な重要性をもち、等しく建設的だ。
EU:不確かな民主的権利改善 ほとんどの「自由な専門職」メンバーにとっては、つまり、商業部門の中小ブルジョアジー、その活動が西の多国籍企業と織り合わされるようになった者たち、さらにまた親西欧の政治諸勢力などにとっては、EUへの方向が短期的には有利となると思われる。 これらのグループはこの道に沿った先ではほとんどありそうなこととして、彼ら自身がEU「中心部」の企業に従属していることを見出すことになるだろう。それは、中、東欧諸国に起きたこととまさに同じだ。逆説的だが、欧州統合からの一時的利益は、独立的労働組合やさまざまな非政府諸組織(特に今現在の社会経済問題からは一定の距離にある組織、たとえばLGBTの権利を求める運動など)にとってもあり得るものかもしれない。これらのグループは、現在の官僚制から強いられている制限のいくつかから解放されるかもしれない。 これらの民主的前進はしかしながら、仮にたとえすべてで起きるとしても、ほとんど重要とはならず、長続きもしないだろう。EU周辺諸国では、市民権と社会権の基準は、衝撃的なほど楽々と侵犯されているのだ。その間ブリュッセルの官僚機構は、それらのことが欧州多国籍企業とNATO本部にいるブリュッセルの隣人の利益に悪影響を及ぼさない限り、これらの不履行に「気づくことができずにいること」について、驚くほどの無知ぶりを明らかにしている。 この点で鍵を握る要素として今、二〇〇四年のできごと(筆者はそこに自分で参加した)にあった事実とは異なり、民族主義者とファシストが実践と行動の分野で最大かつもっとも組織された勢力となる間際となって、二〇一三年のマイダン諸行動に関わった。以下のことは直裁に言われる必要がある。すなわち、ウクライナにおける右翼民族主義者と準ファシスト諸組織の強さの増大は、バルト海諸国の場合とまさに同じく、これら諸国の当局者ばかりではなく、それを私は特に強調するが、EUの支配機構の直接的失策だ。 欧州の自由民主主義者はすでに折にふれて、そして怪物的結果を伴って、ファシストカードを切ることで彼らの目的を遂げようと試みたことがあった(文字通りの一例に言及すれば、われわれは一九三八年のミュンヘン協定を思い起こすことができる)。マイダン抗議における鍵を握る勢力の一つとしての、民族主義者とファシストの現在における利用は、本質においてまさに先のような、ウクライナ「政権反対派」並びにEUが犯した犯罪だ。
経済と社会の抜本的回復を 第三にウクライナ情勢に関する簡略な分析であってさえ、マルクス主義の観点からもたらされる場合、以下のことを平易に告げてくれる。すなわちわれわれすべては、特にウクライナにおいては、二つの等しく空しいオルタナティブのうちの想定されるより小さな悪の選択という、閉じた円環から逃れる必要がある、ということだ。われわれはある種非常に険しい応答を見出さなければならず、またそうできる。 それは、何よりもまず社会・経済的、政治的、さらに文化的諸問題を解決する平面の上にあり、実利的な地政学のレベル(今言われているような、「われわれ自身を誰に売り渡すのか?」というようなタイプの)にではなく、ウクライナ自身の内部での真に急進的な経済と社会の改革というレベルにある。 ここでわれわれはまた、欧州の民主的左翼の闘争経験を、さらにソ連邦内部で起きた変容の共有された諸経験――高度に矛盾した、しかし原理的な重要性のある――を批判的に利用でき、またそうしなければならない。 あるいはまたわれわれは、決定的な要素を忘れてはならない。すなわち、本質的に階級を基礎とする左翼の政治は、この国の民族集団、歴史、文化、そして地理の具体的・普遍的(そしてそれゆえ矛盾した)統一としての、総体的なウクライナ住民の利益の同じような存在を無視してはならず、そうはできない。この利益は数多くの次元に広く及ぶ諸矛盾によって刻み込まれている。にもかかわらずそれは存在している。ロシア人や欧州の「政治策定者」ではなく、ウクライナそれ自身の民衆のみが、この国の発展に向けて、この総体的な利益に条件付けられた一つの戦略を決定しなければならす、またそうできる。
険しいが道はすでに見えている したがって、ウクライナ市民のためのそのような戦略を私は提示できないし、そのつもりもない。しかし私は、一人のマルクス主義学者として、またわれわれの民衆と文化の対話の真ん中で成長した何者かとして、冷淡な観察者として場外に止まるつもりはない。こうして私は、以下のことをすべての関係者に思い起こしてほしいと思っている。すなわち、あらゆる人々にとっての進歩の最高の基準、「大きな物語の脱構築」というポスト近代主義者の目的にもかかわらず存在している基準はこれまで、個人の自由な、完全な発展であり、それは今もそのままである、ということだ。これは、経済的成長だけではなく、人間的質と諸能力の前進をも、また社会的、人道的、さらに環境の諸問題の解決をも意味している。 過去に私が繰り返し力説してきたことだが、ロシア、ウクライナ、またすべての他の国の民衆にとってのそのようなオルタナティブは、EUであろうが北米であろうが、なんらかの「信用できる帝国」の周辺への転換という道に沿っては存在していない。あるいは、半周辺諸国の寡頭支配者と官僚の一連合の中にも見出されることはない。 広い意味において、そのような回答を見つけ出すために必要となることは、諸々の「よりマシな悪」の間の選択を拒絶することであり、代わりにある種「険しい」応答を追求することだ。この応答は、民主主義と社会主義の道に沿って進むことからのみ構成され得る。この道のみが、世界的な協同(諸民衆と諸文化の協同)への統合とまた民族文化の進歩の双方を生み出すことができる。なぜならば、本物の文化は常に、世界的であると同時に民族的でもあるからだ。 これは抽象的な勧告ではない。このコースに出発することは、世界の最大のあるいはもっとも発展した国の部類ではない諸国にあってさえ、すでに可能なことだ。そのような諸国の今現在の事例には、民衆が米国の後見を拒絶し、発展の民主的で社会的な志向をもつモデルを実行し始めるに至った、全一連のラテンアメリカ諸国家が含まれている。これらの諸国は、それらの第一優先を、地政学的策謀を追い求めることにではなく、資本の世界的覇権に対するオルタナティブを表現する、社会・経済的、かつ政治・思想的戦略の選択に置いてきた。 ▼筆者はモスクワ国立大学の教授であり「社会運動『オルタナティブス』」の統括調整者。第二回ロシア社会フォーラム組織委員会メンバーでもあった。(「インターナショナルビューポイント」二〇一四年一月号) ------------------------------- かけはし2014.年2月17日号 よりマシな悪の選択の環から出る決断を ウクライナ マイダン2013:左翼からの観点 http://www.jrcl.net/frame140217f.html 週刊かけはし http://www.jrcl.net/ エストニア外相:狙撃兵の背後にいるのはヤヌコーヴィチではない、 新政権内の何者か http://japanese.ruvr.ru/2014_03_06/268321479/ |