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殺戮と武器売買に明け暮れたイスラエルのシャロン元首相は、贈収賄容疑をかけられた状態で死亡
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201401140000/
2014.01.14 櫻井ジャーナル
1月11日、イスラエルのアリエル・シャロン元首相が死亡した。
本人はイギリス委任統治時代のパレスチナで1928年に生まれたが、両親はロシアからの移民。10歳の時にハッサデー(シオニストの青少年運動)に入り、14歳でガドナ(若者向けの軍事組織)に参加した後、1942年にハガナ(イスラエル軍の前身になるシオニストの武装集団)に入隊している。
ハガナを創設したのはウラジミール・ジャボチンスキー。第1次世界大戦ではイギリス軍の一員として戦った。その際、イギリス政府に対し、イギリス軍と一緒に戦う武装組織の創設を願い出ているが、拒否されてしまう。
それでもジャボチンスキーは1920年にハガナを創設する。イギリスはこの武装集団を非合法化、ジャボチンスキーは武器の不法所持で重労働15年の刑を言い渡されたのだが、ほどなくして特赦で自由の身になる。1925年には戦闘的シオニスト団体「修正主義シオニスト世界連合」を結成した。
ところが、第2次世界大戦の頃になると、イギリスの対外情報機関MI6や破壊工作/テロ機関のSOEがハガナを訓練するようになる。イギリスはシオニストをパレスチナ支配の道具と見るようになっていたということだろう。
ハガナから分かれた武装集団としてイルグンとレヒ(スターン・ギャング)が知られている。1940年にレヒを創設したアブラハム・スターンはベニト・ムッソリーニやアドルフ・ヒトラーに接近した人物で、ファシスト的な思想の持ち主だった。
前から住んでいたアラブ系住民を追い出すため、シオニストは1948年4月4日に「ダーレット作戦」を発動する。9日にはイルグンやスターン・ギャングにデイル・ヤシンという村を襲撃させた。石切の仕事で男が家にいない早朝を狙って襲い、残された女性や子どもを虐殺している。
襲撃の直後に村へ入った国際赤十字のジャック・ド・レイニエールによると、254名が殺され、そのうち145名が女性で、35名は妊婦だった。イギリスの高等弁務官だったアラン・カニンガムはパレスチナに駐留していたイギリス軍のゴードン・マクミラン司令官に殺戮を止めさせるように命じたのだが、拒否されたという。
この頃から好戦的だったというシャロンは1949年に中隊長、50年には中央司令部付きの情報将校になり、1年半ほどすると特殊工作を任務とする101部隊を率いるようになった。この部隊は第890空挺大隊として統合される。この大隊にはモシェ・ダヤンも所属していた。シャロンもダヤンも「大イスラエル」が目標で、パレスチナとの和平など論外という立場だ。
しかし、1977年にアメリカ大統領となったジミー・カーターはパレスチナ和平に前向きで、しかもイスラエルの首相も同じ考えのイツハク・ラビン。PLOのヤセル・アラファトも和平を望んでいたため、交渉は進む可能性があったのだが、この年に行われたイスラエルの選挙でリクードが勝利、「元テロリスト」のメナヘム・ベギンが新首相になり、状況は変わった。
この当時、シャロンを中心にイスラエル軍や治安当局の一部幹部が秘密会合を開き、イスラエルがヨルダン川西岸から撤退することを命に代えて阻止するという「血の誓い」を立てている。こうしたグループとは立場の違うイスラエルのエリートたちは、シャロンがアラブ諸国を核攻撃しかねないと考えていた。
1978年にベギンはカーターを仲介役としてエジプトのアンワル・アル・サダト大統領と和平条約を結んでいるが、これは包括的和平を拒否するヘンリー・キッシンジャーのプランに基づくもの。サダトはキッシンジャー配下の人間として有名だ。
北のシリアと南のエジプト、両方から圧力を受けるのがイスラエルにとって最も嫌な状況で、エジプトを「親イスラエル陣営」にすることは大きな意味があった。勿論、国連安保理決議242号に基づく和平を実現するというカーター/ラビン/アラファトの動きとは相容れないものだ。
1980年の大統領選挙では、シオニストがカーターを激しく攻撃、親イスラエル色の濃いロナルド・レーガンが当選する。そして1982年6月にイスラエル軍がレバノンの軍事侵攻。8月20日にイスラエル軍が撤退したのを受け、21日にPLOも撤退、9月12日に国際監視軍が引き揚げると、14日にバシール・ジュマイエル次期大統領が暗殺され、これを口実にしてイスラエル軍が西ベイルートに突入、難民キャンプを包囲し、16日から18日にかけて虐殺が行われたのである。
虐殺後、シャロンと軍情報局長は解任されたものの、局長の部下だった人物が3カ月の間残り、自分自身とボスたちの虐殺への関与を示す証拠を廃棄した。シャロンはかつて武器を売り歩いた中米へ逃げている。シャロンは武器商人としても有名だ。
2000年9月にシャロンはリクードの党首として1000名以上のイスラエル人警官を引き連れてエルサレムの神殿の丘を訪問、イスラム教徒を挑発し、殺戮と破壊を引き起こすことになる。シャロンの思惑通りに進んだといえるだろう。
シャロンは2001年から06年まで首相を務めるが、そのとき、シャロンの周辺が贈収賄容疑で取り調べを受け、起訴されている。リクード党の有力スポンサー、ダビド・アッペルがギリシャの島にリゾート施設を建設しようとして失敗、アッペルは選挙費用を必要としていたシャロンに資金を提供、その見返りに圧力をかけさせようとしたという。
結局、シャロンの人生は殺戮とカネ儲けで終わった。この人物を「英雄」と呼ぶ人がいるらしい。
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