01. 2014年1月13日 18:32:22
: DuP9JLTVbc
この生物兵器ですが、当時反米だったインドネシアのスカルノ政権に対して使う予定だったと推測されます。それについて、説明させていただきます。話の発端は太平洋戦争緒戦の「蘭印作戦」です。蘭印作戦 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%AD%E5%8D%B0%E4%BD%9C%E6%88%A6 (一部転載します。) 日本軍による蘭印の占領は、長年の過酷なオランダの植民地支配に対する現地人による独立運動と、母国の国力の低下によりすでに揺らぎ始めていたオランダの植民地支配を終焉させる決定的な一撃となった。日本の敗戦から2日後の1945年8月17日、スカルノやハッタら民族主義者はインドネシアの独立を宣言し、インドネシア独立戦争へと突入していった。この独立戦争には3,000人以上の旧日本軍兵士が参加しインドネシア独立に協力した。 上記のように、この戦いにおけるオランダの敗北が戦後オランダが同地の植民地を失う決定的な一撃となったこともあり、第二次世界大戦後のオランダはヨーロッパでも最も反日感情の強い国の一つとなる。オランダは多くの日本軍人をBC級戦犯として処刑した上、1971年の昭和天皇のオランダ訪問の際には卵が投げつけられ、1986年にはベアトリクス女王の訪日が世論の反発により中止となった。日本とオランダとは400年にわたる交流の歴史を有していたにもかかわらず、オランダの植民地である同地における戦争は両国間に拭いがたいわだかまりを残した。 (転載終了) ●オランダ領東インドに日本軍が侵攻し、宗主国のオランダは降伏。同盟国のイギリス、オーストラリアも敗退しました。日本軍は現地で独立運動家のスカルノ氏、ハッタ氏を釈放し、彼らと協力。「インドネシア」の名称を解禁し、彼らを現地の官吏として重用しました。奴隷扱いしていたオランダ人とは、えらい違いです。 日本が1945年8月15日に降伏すると、スカルノ氏、ハッタ氏はオランダが帰ってくる前にインドネシア独立宣言を行いました。 インドネシア独立宣言 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%AE%A3%E8%A8%80 これに怒ったオランダ、イギリス、オーストラリアとの間で、インドネシア独立戦争が勃発したのです。 インドネシア独立戦争 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%88%A6%E4%BA%89 ●この戦争に、現地の日本軍人は積極的に独立派に協力。米英軍がフィリピン、沖縄、日本本土爆撃にまい進していたために、インドネシアやベトナムの軍備は丸々残っていました。日本陸軍の兵器は、そのままインドネシア独立軍に使用されました。オランダ軍は独立派を逮捕し、戦争に勝ったように見えましたが、国際世論が許さず、第二次世界大戦で国土が戦場となり、長いドイツ占領下で工作機械など全てを奪い取られたオランダは経済的に疲弊していたのです。(これはインドシナ戦争に敗れたフランスも同じでした。) 1950年8月15日、インドネシアは独立しました。日本の敗戦の日に合わせたと言われています。初代大統領には、独立戦争の英雄、スカルノ氏が就任しました。 スカルノ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%8E スカルノ大統領は、第三世界の英雄となりました。インドのネルー首相、エジプトのナセル大統領との親交が有名です。1955年にはインドネシアのバンドンでAA会議を開催しました。 アジア・アフリカ会議 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BC%9A%E8%AD%B0 話は前後しますが、インドネシアの独立に危機感を抱いたオーストラリアは、アメリカ、ニュージーランドと軍事同盟を結成しました。これが「太平洋安全保障条約」です。 太平洋安全保障条約 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E5%AE%89%E5%85%A8%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E6%9D%A1%E7%B4%84 日韓、日中と関係悪いのは、オーストラリア、インドネシア関係も同じです。両国は関係が悪いのですが、1950年代当時は「仮想敵国」でした。両国の緊張は、ニューギニア島の領有を巡って高まっていきました。ここの西半分はオランダ領のままだったのです。 イリアンジャヤ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%A4 インドネシアのスカルノ政権は、このニューギニアの領有を目指して軍備を拡充。購入先に想定していた日本は、GHQ指令で航空機研究を禁じられ、技術者は自動車に転向していました。このため、航空機の購入先としてソ連が浮上。ソ連から、ミグ15、ミグ17、ミグ19、ミグ21と、次々と戦闘機の供与を受けました。 インドネシアは更に、Tu-16爆撃機を購入しました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/Tu-16_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F) ●このTu-16は、1961年にインドネシアに引き渡されました。オランダが西パプア共和国の独立を認めると、インドネシア軍は侵攻。Tu-16も爆撃に使用されました。アメリカのケネディ大統領が調停に乗り出し、弟のロバート・ケネディ司法長官がオランダ、インドネシアを訪問。国連の管理下に入り、翌年インドネシア領になりました。 これに危機感を覚えたのがオーストラリア。インドネシアはニューギニア島の東半分に侵攻する勢いでした。インドネシアは日本海軍以来のオーストラリア爆撃をTu-16で行うつもりでした。オーストラリアも、インドネシアの本土爆撃を計画していました。しかしオーストラリアにあったのは、イギリスから購入したイングリッシュ・エレクトリック社の軽爆撃機キャンベラです。これではインドネシア本土爆撃は不可能です。 イングリッシュ・エレクトリック キャンベラ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF_%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%A9 キャンベラの後継機として予定されていたBAC TSR-2は、インドネシア侵攻可能な爆撃機でしたが、イギリス国内の事情により開発が中止されました。 BAC TSR-2 http://ja.wikipedia.org/wiki/BAC_TSR-2 ●スカルノ政権に甘かった軍縮志向のケネディ大統領がアメリカ国内の軍産複合体によって暗殺されると、ジョンソン軍拡政権に移行しました。アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドのANZUS連合軍がインドネシアに侵攻する計画が練られつつありました。一方でアメリカ・CIAによるスカルノ政権転覆作戦も水面下で進んでいました。インドネシアで1965年9月30日に軍事クーデターが起こりますが、当方はCIAの援助によるものと考えています。これによりスカルノ大統領は失脚しました。 9月30日事件 http://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8830%E6%97%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ●アメリカ軍が沖縄で生物兵器の実験をしていたのは、この軍事クーデターの失敗に備えた保険であったと当方は推測しています。いずれにせよ、この軍事クーデターによってソ連から兵器を購入していたスカルノ政権は倒れ、インドネシアは反共国家としてソ連、中国(本土の共産政権)との国交を断絶。西側に接近します。膨大なソ連製戦闘機、爆撃機は補充部品の確保が難しくなり、Tu-16は1969年に廃機となりました。 しかしオーストラリアから見てインドネシアは脅威であり、開発中止されたTSR-2の代替にアメリカ製F-111Cを購入することとしたのです。 F-111 (航空機) http://ja.wikipedia.org/wiki/F-111_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F) ●オーストラリアとインドネシアの関係は今も悪く、東チモール問題など紛争が絶えません。 東ティモール http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AB 当方は金髪美人と結婚しているから、うらやまし…と思われるでしょうが、夫婦喧嘩の原因になるのは国際問題ですね。核実験問題とか、民主政治かどうか。当方は日本人ですので、インドネシアに好感を持っていますが、妻はインドネシアは軍事介入して多くの住民を殺したから批判的です。 以上、長々と書きましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。 |