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元ゼロ戦パイロットが語る戦争の真実 - Zero Fighter pilot's testimony
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2014年01月03日 15時33分25秒 ☆YAMACHANの@飛騨MAVERICK新聞
アップロード日: 2011/01/18
原田要(最終階級・海軍中尉)
経歴
昭和12年に支那事変が勃発し、南京陥落直前の同年12月12日、日本海軍機の誤爆によるパネー号事件が発生したが、その時の戦闘機隊の一員として原田も参加している。
その後内地で教員配置を渡り歩いていたが、昭和16年9月、蒼龍の乗組員となり、同年12月8日の真珠湾攻撃作戦に参加し、機動部隊上空直衛任務に就く。
引き続いて、ウェーク島の戦い、ポートダーウィン空襲、セイロン沖海戦に参加。
セイロン沖海戦中の昭和17年4月5日、コロンボ空襲の際、敵戦闘機5機(うち不確実2)を単独撃墜する。
昭和17年6月5日から7日に発生したミッドウェー海戦では、戦闘機隊小隊長として機動部隊上空直衛任務に就く。敵急降下爆撃機の攻撃により母艦を失い、唯一残った飛龍に着艦。
この海戦で原田は撃墜5機(うち協同撃墜3機)の戦果を挙げるが、一方被弾により2機を海中投棄、母艦を失ったことにより海上着水で1機の、計3機の零戦を失う。自身は巻雲 (夕雲型駆逐艦)に救助される。
ミッドウェー海戦での敗戦隠蔽のため、原田は鹿児島・笠の原基地に軟禁されるが、同年7月31日には飛鷹 (空母)乗組を命ぜられる。
同年10月17日、ガダルカナル島ルンガ泊地の敵輸送船団攻撃に、飛鷹戦闘機隊第三小隊長として出撃。
この戦いで、敵F4F戦闘機と対戦、原田は急旋回のGにより失神してしまい、反航戦を余儀なくされ、敵機に白煙を噴かせ撃退するも(のちに日本機26機を撃墜するジョー・フォス少佐機であった。墜落はせず、かろうじて帰還した)、自らも被弾により左腕に重傷を負う。重傷を負った原田は、眼下の椰子林に不時着。数日間ジャングルをさまよい歩き、海軍の特殊潜航艇基地にたどり着く。
同基地にて懸命の治療を受けるものの傷は悪化し、マラリア、デング熱も併発し、生死の境をさまよう。同年11月5日に舟艇に乗せられ、ガダルカナル島を脱出し、約1週間後にトラック島の第四海軍病院で意識を取り戻す。
この戦いを最後に、戦場復帰はできなかったが、ここまでで協同を含め、15機の敵機を撃墜している。
内地送還後は、飛曹長に昇進し霞ヶ浦航空隊教官を務めるが、その後もガダルカナルでの負傷の後遺症に苦しめられる。
昭和20年春、霞ヶ浦航空隊千歳派遣隊の教官として、ロケット戦闘機秋水搭 乗員養成に携わることになるが、その秋水は初飛行で不時着大破して失われたため、原田は実機を見ることはなかった。
千歳基地にて終戦を迎える。
戦後は農業を経営するなどしていたが、昭和39年自治会長になったことを機縁に託児所を開設。続いて幼稚園を経営するようになり、現在に至る。現在、長野市のひかり幼稚園の現役園長。
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