http://www.asyura2.com/13/warb12/msg/279.html
Tweet |
映画『永遠の0(ゼロ)』公開直前specialワイド「奇跡の戦闘機」零戦かく戦えり! vol.01
http://taishu.jp/politics_detail815.php
週刊大衆12月30日号
其の壱 不可能を可能にした天才設計士 堀越二郎の「苦悩と閃き」
なぜ、日本人はゼロ戦に魅了されるのか?
それは、ゼロ戦が旧・日本軍の誇りと悲しみの象徴であるからに他ならない。
この不世出の戦闘機は、登場するや連合国軍から「ジーク」として恐れられ、最後は特攻隊員とともに戦火の空に散っていった――。
今月21日から公開される映画『永遠の0』にちなんで、戦後68年経ってなお、人々を魅了し続ける【奇跡の戦闘機】と、その搭乗員たちの勇姿に肉迫した!
※※
誰もが不可能と思われたことを可能にした――ゼロ戦開発の成功は、そのひと言に尽きるだろう。
そして、それは、主任設計者・堀越二郎の苦悩と天才的な閃きの賜物であった。
海軍が堀越に命じたのは、世界最強の戦闘機を造ること。
そのため海軍の要求は、空戦性能、速度、航続距離のそれぞれについて最高レベルを求めていた。
堀越は、のちに刊行された手記で、この無茶な要求について、こう述べている。
〈たとえていえば、十種競技の選手に対し、五千メートル競走で世界記録を大幅に破り、フェンシングの競技で世界最強を要求し、その他の種目でも、その種目専門の選手が出した世界記録に近いものを要求しているようなものだった〉
しかも、これらの条件のそれぞれが互いに相反しているのだ。
空戦能力の高さのポイントは、上空でいかに小回りが利くかだが、それには機体の軽さが求められる。
一方、速度を上げるには高馬力のエンジンの搭載が必須で、機体が大きく重くなってしまう。
この2条件だけでも十分矛盾しているのに、海軍はさらに航続距離を2倍にしろというのだ。
「さらに、ゼロ戦には、当時の常識では考えられない20ミリの機銃が搭載されていました。当時、他国の戦闘機の機銃は最大で12・7ミリ。20ミリ機銃と比較すると、中高生のアマチュアボクサーとプロほどのパンチ力の差と言えます」(軍事ジャーナリスト・神浦元彰氏)
さすがに堀越も、どれかひとつでも条件を引き下げてほしいと軍に掛け合ったが、答えはノー。
苦悩の末、堀越が出した結論は、ゼロ戦の軽量化を徹底することだった。
堀越自身が〈重量は1グラムたりともないがしろにできなかった〉と手記で語っているように、その徹底ぶりは凄まじい。
全重量の10万分の1レベルまで設計を管理する方針を貫き、3000枚を超える図面の細部に至るまでチェック。
その都度、部下にダメ出しをしたという。
軽量化の取り組みは図面上だけではない。
機体には当時開発されたばかりの超軽量ジュラルミンを使用。
さらに、強度が保てる範囲内で、機体のあちこちに穴をあける「肉抜き」と呼ばれる加工を施した。
また、世界で初めて落下式燃料タンクを採用したことも軽量化にひと役買った。
この増槽タンクはいざ戦闘に入るときに切り離し、高い空戦能力を確保するためだ。
ゼロ戦のこのアイデアは、その後、あっという間に世界の常識になったという。
だが、こうした超軽量化は最大の弱点をも作ることとなった。
「パイロット席の防弾性能が低く、燃料タンクを保護するゴム板もありません。機体の強度や安全性を極限まで削ぎ落とした結果です。不時着したゼロ戦を分解したアメリカ軍人が"クレイジー、こんなんじゃあ、アメリカ軍のパイロットは誰も乗りたがらない"と言ったという逸話もあります」(前出・神浦氏)
この点では、堀越も葛藤したようで、〈軍から防御の指定はなかった〉と、手記で苦悩を告白している。
もっとも、これらの努力と犠牲だけでは、ゼロ戦は生まれなかっただろう。
完成までのあと一歩には、堀越の天才的閃きが必要だったのである。
試作機ができてテスト飛行をすると、高速と低速で操縦桿の効きが違い過ぎる問題が噴出した。
重要視した空戦性能に関わる大問題だった。
これに対して堀越は、大胆な発想の転換でもって応える。
当時、操縦系統が伸び縮みしやすいことは"悪"とされたが、あえて操縦系統に弾性を持たせたのだ。結果、これが功を奏し、ゼロ戦は世界に類を見ない操縦しやすい機体となった。
ちなみに、堀越のこの発想は戦後になって、やっと認められている。
かくして完成に至ったゼロ戦は、1940年9月13日、中国・重慶上空でデビューを飾る。
その日、13機のゼロ戦は中国軍の戦闘機27機に襲いかかり、あっという間にすべてを撃破。
ゼロ戦伝説の始まりであった。
◇
映画『永遠の0(ゼロ)』公開直前specialワイド「奇跡の戦闘機」零戦かく戦えり! vol.02
http://taishu.jp/politics_detail816.php
其の弐 本田稔・元海軍少尉の告白「ゼロ戦乗りの【もうひとつの敵】」
ゼロ戦は、完成当時、世界最高峰の性能を誇った。
だが、いかに性能がよくとも、熟練のパイロットがいなければ、ゼロ戦がこれほど活躍することはなかっただろう。
太平洋戦争初期からラバウル航空隊時代を経て終戦まで、熾烈な空中戦を勝ち抜いた本田稔・元海軍少尉も、その一人だ。
本田氏の告白を詳録した『最後のゼロファイター』によると、本田氏は、「水平方向の空戦では負ける気がしなかった」と言う。
ラバウル時代のゼロ戦のライバルの一つが、アメリカ軍のF4Fワイルドキャットであった。
F4Fは6挺の12・7ミリ機銃を装備しており、その弾幕は凄まじいものであったという。
これに対して、ゼロ戦の20ミリ機銃は一発で敵機を仕留める威力があったが、時間がかかっていると、自分の後方についた敵機に攻撃されてしまう。
そのため、せいぜい撃てるのは1発か2発で、確実に命中させるには30メートル近くまで近づいて撃つしかなかった。
近づいた結果、追いかけている敵機のパイロットが後ろを振り向き、「顔と顔が合うこともあった」と、本田氏は述懐している。
◇
映画『永遠の0(ゼロ)』公開直前specialワイド「奇跡の戦闘機」零戦かく戦えり! vol.03
http://taishu.jp/politics_detail817.php
「これで死ぬことはない…」
無類の強さを誇ったゼロ戦だが、敵機以外にも【もう一つの敵】がいたことはあまり知られていない。
本田氏への取材を重ねた前述書の著者である軍事ジャーナリストの井上和彦氏が解説する。
「意外に思われるかもしれませんが、睡魔です。特にガダルカナルの戦いでは、往復8時間連続で操縦しなければなりません。特に、空戦を終えて帰る復路ではどっと疲れが出て眠くなるわけです」
こうした睡魔によって、急にフラフラしたかと思うと、海に真っ逆さまに落ちてしまう機もあったという。
「現代のように自動操縦がなく、ずっと操縦桿を握る体力と精神力は並大抵ではありません。パイロットたちは、体の至るところをつねったり、先の鋭い工具などで皮膚に刺激を与えたりして、眠気を散らし続けていたそうです」(前同)
また、エンジントラブルなどで海面へ不時着して、"第2の敵"に襲われるケースもあったようだ。
「サメです。実際、本田氏も着水したゼロ戦にサメが群がっているのを発見し、パイロットを助けるためにサメに向けて機銃掃射したそうです」(同)
さらに本田氏は、ゼロ戦の防御の薄さも体感している。
F4Fとの死闘中、後方から12・7ミリ機銃を撃たれたところ、弾が自らの肩をかすめて操縦席の床をブチ抜いたというのだ。
床には10センチほどの穴があき、「その穴から海が見えて、吸い込まれそうで怖かった」と言う。
「本田氏はゼロ戦での空中戦を"浴衣で戦うようなもの"と例えて、初めて紫電改(新鋭戦闘機)に乗ったときに、"これで死ぬことはない"と思ったそうです」(前出・井上氏)
いかに高性能とはいえ、油断すれば一寸先は死。
パイロットたちは、まさしく死線を駆け巡っていたのだ。
◇
映画『永遠の0(ゼロ)』公開直前specialワイド「奇跡の戦闘機」零戦かく戦えり! vol.04
http://taishu.jp/politics_detail818.php
其の参 64機撃破の坂井三郎だけじゃない! 帝國海軍航空隊「撃墜王列伝」
ゼロ戦乗りのエースといえば、『大空のサムライ』の坂井三郎が有名だが、「撃墜王」と称えられた男は、彼だけではない。
まず、202機を撃墜したとされる岩本徹三・元海軍中尉がいる。
戦争中、戦地を転々としていた岩本は、自ら「天下の浪人虎鉄」と自称していた。
この名は、新撰組を率いた近藤勇局長の愛刀・虎鉄に由来している。
岩本は日中戦争の初陣から敵機4機を撃墜。
ラバウル航空隊時代には、1日で7機撃墜したり、強敵F6Fヘルキャット4機を相手に1機で勝負を挑み、すべて撃墜するなど数々の華々しい戦果を挙げた。
「岩本の得意としたのは一撃離脱法。目標となる敵機を見つけたら、上空から一気に襲いかかって射撃を浴びせ、急降下で逃げていく戦法です」(軍事ライター)
まさに天才のみが使える戦法だ。
岩本はまた、こんな伝説でも知られる。
「生きて戦い抜くことを信条としていたため、特攻志願書に"否"を突きつけたそうです」(前同)
撃墜数で、その岩本に匹敵する西澤廣義・元海軍中尉も凄い。
「ラバウルの魔王」と呼ばれ、予科練教官が「予科練卒業生で敵機を一番落としたのは誰か」という質問をしたところ、教え子らがこぞって西澤の名を上げたという逸話があるほど。
撃墜数は、140機以上だとされている。
「坂井三郎と西澤は同じ航空隊に所属し、坂井が負傷して内地に帰還したあとも西澤は戦い続けました。水平線より下の敵機を発見する能力に優れ、"1秒でも早く敵機を見つける"が口癖だったそうです」(同)
機体に黄色い帯を描いていたことから「イエローファイター」の異名で米軍から恐れられたのが、菅野直(かんのなおし)・元海軍大尉。
「訓練生時代に、まだ教わっていない宙返りを勝手にするなど、とにかく破天荒な性格だったそうです」(歴史雑誌編集者)
菅野は共同で撃墜した数を合わせると72機という記録を持ち、B24などの大型爆撃機への攻撃を得意とした。
その操縦技術は高く、特攻志願した際に、上層部が技量を惜しんで出さなかったそうだ。
一方、悲劇の撃墜王と言われるのが杉田庄一・元海軍少尉だ。
杉田は、連合艦隊の山本五十六長官の護衛につきながら、長官の搭乗機を敵機から守れずに墜落させてしまう。
以降、自責の念にかられた杉田は、死にもの狂いで敵機に挑み、21歳の若さで戦場に散った。
「その執念はもの凄く、戦いで全身に大火傷を負って手の指同士がくっついても、不屈の闘志で復帰したと語られています」(前同)
もっとも、世に撃墜王として知られるこれらの人物は、一部に過ぎない。
「戦争半ば、海軍は個人の撃墜記録の記載を止めて、部隊戦果に切り替えました。また、3機編成による空中戦に移行し、敵機を撃墜したかどうか、最後まで見届けられなくなりました。結果、自薦・他薦による撃墜記録が語られ、正確な数字は不明なんです。だから、無名の撃墜王も多数いると言われています」(同)
太平洋に消えた彼らの活躍なくして、ゼロ戦は語れないのだ。
◇
映画『永遠の0(ゼロ)』公開直前specialワイド「奇跡の戦闘機」零戦かく戦えり! vol.05
http://taishu.jp/politics_detail819.php
其の四 待望の純国産戦闘機が誕生間近!「平成のゼロ戦」「心神」の秘密
終戦とともに姿を消したゼロ戦。
だが、そのDNAは途絶えたわけではない。
現在、日本では"現代のゼロ戦"とでも言うべき戦闘機が開発中なのだ。
「先進技術実証機・心神と呼ばれる戦闘機です。戦後、日本の軍事技術は米軍一辺倒でしたが、心神は日本の高い技術力を結集した純国産の戦闘機なんです。かつてゼロ戦は、高度な欧米の戦闘機に対抗して日本が独自に開発し、世界にその名を轟かせました。その意味で、心神はゼロ戦の再来と言ってもいいでしょう」(自衛隊関係者)
心神の開発は、防衛省技術研究本部と三菱重工が中心となって進めているが、奇しくもゼロ戦を開発したのも三菱重工である。
この未知の機体の詳しい性能は、まだ明らかにされていないが、「推定では、全長14メートル、全幅10メートル、重さ13トンで、現在自衛隊の主力戦闘機であるF−15より、かなり小ぶり。最大速度はマッハ2・5を誇ります。現在、世界の最先端は米のF−22をはじめレーダーに映りにくいステルス戦闘機ですが、心神もステルス機です」(前同)
しかも、その性能は、軍事大国アメリカをも凌ぐものだと、前出・井上氏が解説する。
「実はあまり知られていませんが、日本のステルス技術は世界最高峰で、アメリカもその技術を採用しているんです。機体の形状、レーダー電波を弾く性能などは、日本が世界をリードしています」
こう聞くとなんとも誇らしくなってくるが、心神開発の重要性は、「それだけではない」と、井上氏が続ける。
「心神開発の先には、相手のステルス機を見破るカウンターレーダーの開発があります。この技術が確立できれば、相手のステルス機に忍び寄って、バンバン撃ち落とすことができる。このあたりは、まさに"平成のゼロ戦"です」
近隣諸国との緊張関係が増す現在、早い完成が待たれるところだが、「すでに、5分の1モデルで無人操縦による飛行実験を成功させています。気になるステルス性能についても、相手のレーダーに映る大きさは、"昆虫以上、中型の鳥未満"と申し分ない模様」(軍事ライター)
井上氏は、この心神に防衛力以上の期待を込めて、こう言う。
「心神が持つ最新のステルス技術は、防衛外交でも大きなカードとなります。さまざまな防衛外交交渉の席で風上に立てるわけです」
開発完了予定は、2016年。
日本の技術が、再び世界を圧倒する日も近い。
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。