26. 2013年12月22日 18:09:26
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1944年(昭和19年)6月15日、サイパンに押し寄せた米軍は、その圧倒的な物量をもってテニアン、グアムに襲いかかり、マリアナ諸島の日本軍守備隊は次々と玉砕していった。同年7月18日、東條内閣は「絶対国防圏」を失った責任を取って総辞職。 9月15日には、パラオ諸島で日米両軍の死闘が始まり、10月の声を聞くや、米軍はフィリピン奪還作戦の露払いとして在台湾の日本軍航空戦力を殲滅すべく台湾各地に激しい空爆を開始した。日本海軍は持てる航空戦力を同方面に投入して来寇する米艦隊を迎え撃った。これがフィリピンの戦いに大きな影響を与えた「台湾沖航空戦」である。 そんな最中の10月17日、その数十万の上陸部隊(指揮官ウォルター・クルーガー中将)を載せた400隻の輸送船と、戦闘艦艇、補助艦艇合わせて300隻余を誇るトーマス・キンケード海軍中将の第77機動部隊が暴風雨のレイテ湾に姿を現したのである。 もはや一歩も譲れない日本軍と、対日戦に王手をかけたい米軍、今まさに壮絶な戦いがフィリピンで繰り広げられようとしていた。 日本にとってフィリピンは、南方の資源供給地との中間に位置する要衝であり、アメリカの手に陥ちれば、日本の継戦能力は潰えてしまう。したがって日本軍はどんなことがあってもフィリピンを守り抜かねばならなかった。 まさしくフィリピンの戦いは大東亜戦争の天王山だった。 その結果、日本軍は50万人という膨大な兵力を失って敗退したのである。それは大東亜戦争における戦没者の4分の1に相当する人数であった。 そして歴史にその名を残す”神風特別攻撃隊”が誕生したのもフィリピン決戦だった。 栄光の連合艦隊は、この比島沖海戦で事実上壊滅した。 しかも水上艦艇による戦果は、1944年(昭和19年12月3日)の駆逐艦「竹」による米駆逐艦「クーパー」だけである。 比島沖海戦より後、残存する日本海軍艦艇が、終戦までに敵艦艇を撃沈したのは、私の調べによればわずか5隻でしかない。 その他は全て潜水艦による戦果だった。伊45潜水艦による駆逐艦「エバソール」撃沈1944年(昭和19年)10月28日、呂46潜水艦による米兵員輸送艦撃沈1945年(昭和20年)1月29日、呂50潜水艦による米戦車揚陸艦撃沈1945年(昭和20年)2月11日、そしてかの伊58潜水艦による米重巡「インディアナポリス」撃沈1945年(昭和20年)7月30日は、日本海軍艦艇による最後の撃沈戦果となった。 がしかし戦史によれば、比島沖海戦から終戦までの約10ヵ月間に日本軍によって撃沈破された連合軍艦艇は280隻に上っている。この数には、沿岸砲による被害や、蝕雷、衝突等の事故による損失は含まれず、また艦艇同士の戦闘による先の5隻も含まれていない。 それは世界戦史上、他に類例をみない”特攻攻撃”による戦果だったのである。 1944年(昭和19年)10月25日午前9時23分、栗田艦隊は米空母部隊の追撃を中止した。これで米艦隊は日本艦隊との強力な砲撃の難を逃れることができた。 ところが栗田艦隊の追撃を逃れた米護衛空母部隊に息つく暇はなかった。 午前10時40分、250キロ爆弾を抱えた5基の零戦がが突然襲いかかってきたのである。 それは、同日午前7時25分にフィリピン・ルソン島のマバラカット基地を飛び立った関行男大尉率いる神風特別攻撃隊「敷島隊」だった。 撃ち上げる対空砲火をものともせず、敵空母へ真一文字に突っ込んでゆく零戦。艦上の米軍将兵はその目を疑ったに違いない。日本機は250キロ爆弾を抱いたまま米空母めがけてまっしぐらに突進していった。 ”Oh, my God!” そう叫んだ米兵が、対空射撃の手を止め、十字を切り終わらぬうちに、関行男大尉の乗機が護衛空母「セント・ロー」の飛行甲板に突入したのである。「セント・ロー」は大爆発を起こし、たちまち火焰と猛煙に包まれた。そして午前11時15分、数回の爆発を起こした「セント・ロー」は真っ二つに折れ、大爆発とともに波間に消えていった。 後の世にその名を轟かせる「神風特別攻撃隊」がここに誕生したのである。 さらにこの同じ日、「敷島隊」の攻撃に先立ってダバオ基地を飛び立った「朝日隊」(2機)、「山桜隊」(2機)、「菊水隊」(2機)に加え、セブ島からも「彗星隊」(1機)と「若桜隊」(4機)が米艦隊に突入を敢行し、大東亜戦争における日本海軍の主役が連合艦隊から特攻隊にバトンタッチされたのである。 1944年(昭和19年)10月25日の神風特別攻撃隊は、合計18機(他、直掩機11機)が出撃し、護衛空母「セント・ロー」撃沈のほか、護衛空母「サンチー」「スワニー」「カリニン・ベイ」の3隻を大破させ、護衛空母「サンガモン」「ベトロフ・ベイ」「キトカン・ベイ」などに損害を与えたのである。さらに、この攻撃によって米艦載機128機を損失せしめ、米軍の戦死・行方不明は1500人、戦傷者1200人を数えた。 日本海軍の大勝利だった。 繰り返すが、これはわずか18機による戦果である。 このようなパーフェクト・ゲームは、1942年(昭和17年)11月30日のルンガ沖夜戦以来だった。 にもかかわらず戦後のマスコミは、まるで口裏を合わせたかのようにこの軍事的大勝利を隠蔽し、ただひたすら特攻隊の”悲劇”のみを声高に言う。 しかし考えていただきたい。 絶対国防圏の砦・サイパンが陥落し、各地で日本軍が敗退を続ける中、この神風特攻隊による大戦果は、意気消沈していた陸海軍将兵をはじめ、1億国民にどのように受け止められたであろうか。 ここであらためて行を割くまでもなかろうが、そのニュースが伝播するや、各地に布陣する陸海軍将兵は奮起し、1億の民は日本の勝利を確信したのである。まさしくかつて「元」の大軍を一夜にして壊滅させた”神風”の再来を祈念した。そして誰もが神風特別攻撃隊に起死回生の逆転を期待し、搭乗員もまたそれに応えんと自ら進んで志願していったのだ。 関行男大尉は、第1航空艦隊参謀・猪口力平大佐と201空副長・玉井浅一中佐の打診に応えた。 「自分にやらせてください!」 母1人子1人の家庭に育ち、若い妻を郷里に残した関大尉の心境はいかであったろう。 この時弱冠23歳の関大尉は、母へ宛てた遺書にこう記している。 「今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐることはありません」 http://www.geocities.jp/kamikazes_site/saisho_no_tokko/seki/sekiyukio_taii_isyo.htm そんな関大尉の出撃は、実際の突入より4日目に遡る。 「敷島隊」は、捷1号作戦が発令された翌日の10月21日から連日のように出撃したが会敵せず、やむなくマバラカット基地に引き返していたのだ。 またこの「敷島隊」の突入が、栗田艦隊が反転を決意し連合艦隊が戦場から姿を消した直後であったことに神がかり的なものを感じざるを得ない。 そして迎えた10月25日午前7時25分、大西瀧冶郎中将の水杯を受けた関行男大尉以下5人(中野磐雄一飛曹・谷暢夫一飛曹・永峯肇飛長・大黒繁男上飛)は、基地隊員らの打ち振る帽子に送られて大地を蹴ったのである。 捷1号作戦の発動により、各地で神風特別攻撃隊が編成される中、セブ島の海軍第201航空隊の分遣隊でも特別攻撃隊の編成が行われていた。 ≪私は戦果を新聞やラジオで発表してもらうのが目当てで突入するのではありません。日本軍人として、天皇の為、国家の為、この体がお役に立てば本望であります≫(豊田穣著『海軍特別攻撃隊』集英社文庫) 神風特別攻撃隊「大和隊」の久納好孚中尉(法政大学・13期予備飛行学生出身)だった。 驕敵撃滅の信念に燃えた爆装の零戦2機と直掩機は基地に引き返したのだが久納中尉は出撃を前に、「敵の空母が見つからぬ時は、私はレイテ湾に突入します。レイテにゆけば、戦艦、巡洋艦あるいは輸送船などがたくさんいますから獲物に困ることはないでしょう」と語っていたという。 そこで司令部は、久納中尉が敵艦隊へ突入したものと認定し、2階級特進の申請をしたが、それから4日後に敵空母を撃沈した関行男大尉を”特攻第1号”としたのだった。 その理由として、「指揮官先頭」の精神をモットーとする日本海軍にとって、海軍兵学校出身(第70期)の関大尉に特攻隊の象徴的な存在であって欲しかったからだとも言われている。 戦後の識者の間では、これが「不公平」だとか、軍の「情報操作」だったと批判する意見もあるが、そう言うべきものではない。 確かに久納中尉の方が関大尉よりも早かった。しかし残念ながらその戦果は確認できていない。ところが関大尉は、久納中尉と同じ10月21日から出撃を繰り返しており、25日の出撃で敵空母撃沈という初戦果を上げたのだから、関大尉を「特攻第1号」としてもおかしくはなかろう。 もっとも特攻第1号をさらに追及すれば、久納中尉突入の6日前の10月15日、第26抗戦司令官・有馬正文少将(戦死後中将)が、マバラカット基地から一式陸上攻撃機に乗り込んで飛び立ち、攻撃隊を陣頭指揮して敵艦隊に突っ込んでいる。当時の発表では、この体当たり攻撃によって敵空母1隻を撃沈したとされているのだが、残念ながら米軍側の記録にはそうした被害報告は見当たらない。ただこの有馬少将の突入は、指揮官先頭の範を示したものであり、日本国民に感銘を与えたことは言うまでもなかろう。
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