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零戦〜搭乗員たちが見つめた太平洋戦争〜
http://www.asyura2.com/13/warb12/msg/221.html
投稿者 gataro 日時 2013 年 12 月 18 日 19:20:16: KbIx4LOvH6Ccw
 

今夏BSプレミアムで放映されたものを再編集して18、19日の二夜連続で送る。下に貼り付けた動画はBSプレミアムのもの。









零戦〜搭乗員たちが見つめた太平洋戦争〜

12月18日(水)・19日(木)
午後10時〜10時45分
http://www4.nhk.or.jp/P2735/ 

http://www4.nhk.or.jp/P2735/

海軍の主力戦闘機「ゼロ戦」。スピード、格闘性能、航続距離で他を圧倒し、太平洋戦争緒戦の勝利をもたらす。米軍は捕獲したゼロ戦から弱点をつかみ、対戦法を研究。さらに強大な国力を背景とする米軍の物量作戦の前に、やがてゼロ戦は劣勢に立たされていく。ゼロ戦誕生からラバウル航空隊の死闘までを、元搭乗員の証言や日記、ドラマなどで描く。
今年夏にBSプレミアムで放送して話題となり、第30回ATP賞ドキュメンタリー部門で最優秀賞を受賞した「零戦」を、再編集して放送する。
<出演者>
(番組ナビゲーター)染谷将太
(ドラマ出演者)奥田瑛二、小林ユウキチ ほか


(「しんぶん赤旗」 2013年12月18日 日刊紙 14面)

 

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コメント
 
01. 2013年12月18日 21:50:47 : 2D6PkBxKqI
太平洋戦争は八百長だったんだな

それで真面目に戦争やってるという所を見せる為に、昭和天皇が神風特攻を命じたというのが真相

戦艦大和の沖縄特攻も昭和天皇の指示でやむ無くやったものだしね。


02. 2013年12月19日 00:34:27 : LeyjzNB9aw
01>>第一世界大戦も八百長かよ、全部八百長、何もかも八百長??


03. 2013年12月19日 07:22:24 : 2D6PkBxKqI
日中戦争は本気でやったのさ。

それで泥沼に嵌ったから、アメリカに日本を占領して貰ったんだ。

どんな事をしてでもソ連にだけは占領されたくなかったのさ。


04. 2013年12月19日 07:58:43 : SrmPqLSMME

太平洋戦争って呼び名が続くかぎり、戦後は終わらない。

大東亜戦争ってのが正式の、正しい呼び名だ。

  アジア解放、大東亜解放、有色人種解放の戦い、これが本質だ。

 


05. 2013年12月19日 09:05:44 : XREQY6aeHE
有色人種(coloured)てのは伝統的にアフリカ黒人のことです。

インド人は有色に入らないし、東アジア人はasianとかoriental(こちらはやや差別的)です


06. 2013年12月19日 10:43:43 : SrmPqLSMME
>有色人種(coloured)てのは伝統的にアフリカ黒人のことです。

そりゃアメリカ人の見方だろ
そこまでアメリカ人の猿真似するこたあるまぃ

 先の大戦で、アメリカ人の人種意識があったこた間違いないね。
 ルーズベルトなんてのは、自分の部屋には、白人以外には入らせない
 ってのがルーズベルトの自慢だったらしい。


07. 狂人 2013年12月19日 19:42:15 : 3eBU0nj9lpikE : PiLnct7Nis
>>04

将来は、支那人が”アジア解放、大東亜解放、日本人解放”などを叫びながら、日本に殴り込み、日本人を殺しまくる時代も来るだろ?!ウヨ大好きな大東亜戦争を真似するように!

日本人は確かに支那猿人の良師だ!


08. 2013年12月19日 22:10:36 : 7CacKTUh7k
内モンゴル、ウイグル、チベット、ミンダナオ族、イバン族、ロヒンギャ族、ジュマ、パプア人、アチェー人、ハザラ人、パレスチナ、ダルフール、西サハラ、ピグミー、アマゾン先住民・・
世界には己のテリトリーを守る為に今でも戦わざるを得ない人々がいる。
アジア解放はまだ完全に達成されてはいない。殲滅されるか否か、民族存亡の危機に立つ人々はいっぱいいるのである。
彼らとて好き好んでマジョリティを皆殺しにしようとは思わないが、敵と和解する為にも戦わないといけないのは悲しい。
迫害者・入植者も人の子である事は分かっているが、皆殺しを避ける為には止むを得ないのだ。アジアもアフリカもいつか共栄できるだろう。そう思うしかない。

09. ごlf 2013年12月20日 00:10:31 : OXndq.5YwQ9lw : sEI6djD6mA
あべのみくすも軍国主義なのですかね。みずから最前線に出陣されたらどうでしょうか。

10. 2013年12月20日 00:19:49 : bw3ontBUhI
零式艦上戦闘機には、パイロットを防御するものがない、防弾ガラス・防弾甲板・燃料タンクの防御。非力なエンジンで最高の戦闘性能を達成するために、軽量のジュラルミンを使用し、さらに、強度ギリギリまで穴を開けて更なる軽量化を施し、航続距離を伸ばすために主翼に燃料タンクを内臓した。検索すれば、翼の形を量産し易い形に変更したため、12%の空気抵抗が増え、600kmも後続距離も落ちたそうだ。

ゼロ戦の構造は、カーボン素材の採用される前の旅客機の構造と同じである、ゼロ戦は戦闘機なので、もちろん容赦なく機関砲で攻撃されるので被弾すればパイロット死亡や炎上か空中分解して墜落することになる。究極の軽力化のため、降下速度にも問題があったようだ。(空中戦で不利) 米軍は捕獲したゼロ戦の特徴を徹底的に研究し、上部から攻撃する戦法をとったようである。

エンジンも高高度では、性能が落ちて1万メートルで飛ぶB−29には太刀打ち出来なかった、本土防空用に「局地戦闘機」を開発したが、材料不足や各地の軍需工場が空襲で破壊され生産に困難を極めたと言う。

※尚これらは、ゼロ戦が時代遅れになった理由の一部である。


11. 2013年12月20日 12:43:30 : RJiScHTyDs
搭乗員を含め、下の人は本気で戦ったが、最支配層にとっては、八百長芝居の何物でもありません。

金儲け・血脈の異なる大多数の国民の排除、己(おのれ)が(の)一族血脈を守る為に行った、棄民大芝居です。米国や旧ソの公文書や海外の出版物により、どんどん明るみに出てきています。

(満州・戦前の棄民労働者・海外への娼妓売り飛ばし・太平洋戦争での餓死兵、玉砕、特攻、都市無差別攻撃受け入れ、原爆、潜水艦や病院船の轟沈、海外からの強奪資産隠しに伴う日本軍将兵の生き埋め・爆殺・シベリア捕虜、「敗残兵」帰国禁止、等)

東条英機は、戦時作戦について、大本営天皇の計画・承認なくして何事も行えないと、極東軍事裁判法廷で、黙殺された弁明書を提出しています。

今は亡き搭乗員の方達に、お知らせしたい思いでいっぱいです。この不正がこのまま存続しうることはは絶対にないと、信じたい。最近鬼籍に入られた、元搭乗員の方から直接に話を伺ったことがあります。

ニ・二六事件は、成功していたならば、あのような敗戦時の民族的大悲劇は起こらなかった上、今日の世相のごとき惨状はなかったでしょう、とおっしゃっていたのが印象的でした。


12. 2013年12月20日 14:46:23 : RJiScHTyDs
一行目の「最支配層」を

「最上層部」(中枢)の

に訂正します。申しわけありません。


13. 2013年12月20日 16:57:54 : Fs820IFiwU
日本はいま、戦争を目指すタカ派勢力の自民党や翼賛野党が権力を把握し、一挙ニ「ナチズムとフアシズム」体制への回帰路線を驀進しています。「特定秘密保護法」は序の口「戦争に行かぬ奴は死刑か懲役300年だ」という石破幹事長の発言のとうりの世の中になると見ています。敗戦国は一回の敗戦で戦争に懲りることは無いのが歴史の教訓だ。第一次大戦に敗戦後のドイツでナチス、ヒツトラーが『旧連合国への報復戦争」を目指し台頭したのと同じ日本の政治的状況と思う。国民が選挙で「反戦平和政党を全滅」させて『戦争準備体制構築」への極右政党を選択したのだから、栄光も悲惨も、ヒツトラーの焦土作戦と地下壕での自殺でおわつたナチス、ドイツと同じで、戦争責任はすべて国民が負うべきだろう。

14. 2013年12月20日 20:04:54 : lXNq4S0pWE
なんか馬鹿馬鹿しいね。空戦能力が高いゼロ戦だが乗ってるのが馬鹿ばっかりで
前しか見ないからおとりでけつに付かせてその背後から狙えかよ。おとりはやばくなると急行下すると速度差が200キロもあるので簡単に逃げられるか。たった一つの戦術で全滅かよ。なに考えてるんだよ。そうきたらその対策の戦術を考えないとね。南方の陸軍は敵の2倍の戦闘機で対策していい勝負してたけどね。
ゼロ戦は最初はいいが技術力では中島にはかなわないだろうね。
隼とか海外の戦闘機が参考になったんだろうが発想が続かなかったね。
中島の糸川という設計士が終戦まで航空機の中心開発者だな。タケシの教育委員会に生徒で出てたがこいつは菊花という今の感じでは人間ハプーンという特攻兵器を開発したな。カタパルト発射の航続200キロの人間ミサイル。終戦間際までに地下基地に桜花を含め2千機用意してたから驚くね。これには米艦隊迎撃は無理でほぼ100%特攻成功だからね。一式陸攻に吊り下げた航続50キロの初号機は殆ど途中で落とされわずか4機が特攻したが3機は突っ込んで一機は不明。調べると知らない話がいっぱい出てくるけどこの動画は特攻は個人の自由意志で勝手にやったで助かった司令官海軍官僚が沢山いたけど本当のこと言っていいのか?韓国だったら今でも人道に対する戦犯として東条に続いて死刑になるぜ。ごまかしてんだから本当の事はいえねえよ。ま、生き残って戦後日本の役に立ってるんだから良いのかね?糸川は菊花繋がりで日本宇宙開発の中心で頑張ってたね。

15. 2013年12月20日 23:13:47 : A4GQ7o9O02
1920年代には、対日戦争計画を立案していた米国。その名は「オレンジ計画」
大日本帝国は、アメリカのオレンジ計画のシナリオそのまんまのとおりの最後の敗戦を迎えただけ。

「太平洋戦争で死んだ兵士は犬死やないの?」
と近所の神社の宮司に言ったら
宮司さんは「それは、お国のために死んだ兵士達への冒涜や」とえらい怒られてしもうた。
ミクロな目でみれば、戦争の現場や戦場では、何千何万もの悲劇、喜劇、裏切り、絶望、歓喜などの人間劇場が繰り広げられたでしょうが、
マクロな目でみれば「戦争とは、手段を変えたマネーゲーム」にすぎないじゃないかと思ったり。
日本で最大の大株主で大投資家の天皇陛下は、最終的には大損こいたのか?それともスイス銀行の秘密口座に秘密資金を蓄えることができたのか?そのへんはようわからん。

第二次大戦のドイツ空軍は、米国はロックフェラーのスタンダードオイルの特許燃料の使用無しには飛べなかったし、ドイツ機甲師団の戦車は、米ウオーバーグ家にゆかりのスエーデンや米国はフィラデルフィアのボールベアリングの供給なしには動けなかったというし、
あげくの果ては、スイスの国際決裁銀行(BIS)では、同じ部屋で机並べて、戦争の敵味方関係無しに戦時資金の帳簿計算に忙しかったというし、ようわかりませんわ。

でも敢えて「犬死」だと言いたいです。宮司さんにまた叱られるかな?


16. 2013年12月21日 00:07:29 : Wr5cvCffrE
零戦=三菱のやつはドシロウト
エンジンは中島飛行機の「栄」であり、当時世界最高の出力だった
エンジンが高性能だから零戦は活躍できてよかったねという感じ

個人的には2000馬力級エンジン「誉」を搭載した「疾風」が好きだが、これは機体もエンジンも中島だ


17. 2013年12月21日 08:09:32 : RfX2Zql2gc
しつこく貼らせて下さい

【 戦争はいやだ - 戦争証言 1 】

http://m.youtube.com/watch?v=znYfjYF_4cs


18. 2013年12月21日 13:13:36 : oIjRF9fAyw
別に零戦が当初から 各国の戦闘機から見て そんなに飛び抜けて優秀だった訳では無い
戦争後半だって 零戦も多少の性能向上は計られており そんな極端に劣る訳でも無かった
優秀だったのはあくまでも搭乗員、そして劣勢に陥った原因も 熟練搭乗員が居なくなってしまった事

航空機搭乗員の死亡率の高さが 全ての敗因であり元凶である
お国の為に死ぬ事が美徳であり 生き延びる事を考えるのは臆病と言うものである
という ゆがんだ自己陶酔によって 航空機の防御を高める要求をしなかった事が
最大にして最悪の 「間違った考え方」 である

人の命というものを余りにも軽んじすぎた事、そして精神論ばかりに陶酔し
進歩すると言う事を忘れてしまった事が 日本という国の誤りである

本当に国家のためを考えるなら、「生きて戦う事 生きて働く事」 である
死を恐れず勇敢に戦う事が 結果的に生き延びる確率が高くなるから 恐れずに戦えと教えるのであり
始めから死ぬ為に戦うのでは無いのである

”いつでも死ねる覚悟を持って生きよ” と言うべきものが、本末転倒になってしまったのである
生きる事への執念が 火事場の馬鹿力を起こす場合も有るのである

生きる事を諦めてしまった鼠には 猫に噛み付く事は絶対に出来ない事なのである。


19. 2013年12月21日 17:57:44 : WzX8nPCmYM
そもそも零戦などと飛行機を軍事機密にして兵器に利用した昔の軍人が悪い。

今の世は食って糞して人殺しだけが取り柄の人間は必要ならいくらでも調達できるだろう。

今の平時をボケてる平和ぼけの馬鹿ウヨが最も危ない。有事になる前に処分するのがベストの選択だ。

いなくても日本の平和を守れるからである。国家予算もほっかほかになるだろう。


20. 2013年12月21日 22:39:15 : sUpHQ8Q75g
>>11
> ニ・二六事件は、成功していたならば、あのような敗戦時の民族的大悲劇は起こらなかった上、今日の世相のごとき惨状はなかったでしょう、とおっしゃっていたのが印象的でした。

全く同感だが↓の通り当時日本の支配体制は決起した将兵の想定を遥かに超えてた

> 東条英機は、戦時作戦について、大本営天皇の計画・承認なくして何事も行えないと、極東軍事裁判法廷で、黙殺された弁明書を提出しています。


21. 2013年12月21日 22:51:48 : sUpHQ8Q75g
>>15
> 大日本帝国は、アメリカのオレンジ計画のシナリオそのまんまのとおりの最後の敗戦を迎えただけ。

全く同感

> マクロな目でみれば「戦争とは、手段を変えたマネーゲーム」にすぎないじゃないかと思ったり。

もちろん金儲けの側面もあるが
世界支配体制の構築の方が上位の概念だろう

> 第二次大戦のドイツ空軍は、米国はロックフェラーのスタンダードオイルの特許燃料の使用無しには飛べなかったし、

日本もドイツも天然資源の乏しい国で
天然資源の供給無しには3年も4年も戦争を続けられるはずはない
日本も開戦前に3年分のオイルをロックフェラーから買って蓄えてたという
対日禁輸政策を尻目にパナマ船籍のスタンダードオイルのタンカーで運びまくった
華々しくドンパチやる準備をシコシコとやってたわけだ

戦争犠牲者達は天国に逝ってから戦争の裏の仕掛けに気付いたろうか


22. 2013年12月21日 23:07:35 : sUpHQ8Q75g
>>18

全面的に賛同する


23. 2013年12月22日 04:55:02 : NKrQ8o6qHI
「俺たちがやらなければ!」

彼らは皆、寄せ来る仇敵を自らの身体で食い止めようと、至純の愛国心に燃えて敵艦めがけて突っ込んでいったのだった。愛する祖国・日本を、そして愛する人々を守るために。

当時の若者は立派であった。国家が存亡の危機に直面するや、彼らは私情を捨て、自ら進んで敢然と国難に立ち向かっていったのである。

そんな若者達の気持ちは、神風特別攻撃隊員としてフィリピンで戦死した宮澤幸光少佐(23歳)の『私がやらなければ』と題する遺書に表れている。
「父様、母様は日本一の父様母様であることを信じます。幸光の戦死の報を知つても決して泣いてはなりません。靖國で待つています。きつと来て下さるでしょうね。本日恩賜のお酒を戴き感激の極みです。敵がすぐ前に来ました。私がやらなければ父様母様が死んでしまう。否、日本国が大変な事になる。幸光は誰にも負けずきっとやります。十九貫の体軀、今こそ必殺轟沈の機会が飛来しました。幸光は立派に大戦果をあげます」(宮崎県護国神社)

彼らは皆”生き神様”であった。護国の鬼と化した彼らは、ただひたすら祖国の必勝を信じて敵艦隊の真っ只中へ飛び込んでいった。

1機、また1機ー猛烈な対空砲火の弾幕をかいくぐって、特攻機は突っ込んでゆく。敵弾に射抜かれて被弾し、猛煙に包まれながらもなお彼らの恩敵必滅の信念は潰えることはなかった。

フィリピン海域で、
硫黄島海域で、
沖縄方面海域で、
各地で日本民族の存亡をかけた必死の戦いが繰り広げられた。

悠久の大義を胸に、若者達は操縦桿を握り締めて次々と大空に駆け上がっていったのである。

そして国民は戦勢挽回を期して特攻隊に望みを託した。

「どうかお願いします!」

女学生達のかざす桜の小枝に、そして、ちげれんばかりに打ち振る学童らの小さな手に彼らは応えてやりたかった。彼女らのために、この子らのために、そして祖国・日本のために!

1944年(昭和19年)10月25日から1945年(昭和20年)8月15日までのおよそ10カ月間に海軍の特攻機2367機が敵艦隊に突入して2524人が散華した。同じく、陸軍の特攻機は1129機を数え、1386人が散華したのである(特攻機の機数および散華された隊員の人数は資料によって異なることを承知されたい)。

この肉弾攻撃は、航空特攻だけではなかった。

水中からは人間魚雷「回天」が敵艦を狙い撃ちにし、島影からは特攻艇「震洋」が敵艦艇に襲いかかった。

日本民族の負けじ魂と愛国心は、肉弾攻撃という形で炸裂したのである。

一方、我が神鷲3910人をはじめとする日本軍の肉弾攻撃に晒された米英軍は、未曾有の損害を被っていた。

特攻攻撃によって撃沈破された連合運艦艇は実に278隻(300隻を超えるとしたっものもある)を数え、米軍の戦死者は1万2300人、重傷者は3万6000人に上ったとされている。加えて、あまりの恐怖から戦闘神経症の患者が続出した。その戦死傷者の数を比較しただけでも、特攻隊は、3倍の敵と刺し違え、12倍の敵と渡り合っていたことになる。さらに、米軍の被害報告の中には輸送艦や戦車揚陸艦以下の艦艇をその数に含めていなかったため、その実被害はさらに膨れ上がるとみられる。

最も被害の大きかった沖縄戦だけでも、沈没艦艇50隻、空母・戦艦を含む損害艦は300隻以上、損失航空機は700機を超え、戦死者は5000人を数えたとする米軍の戦史記録もあるというから驚きだ。この大戦果は、海軍の特攻機1026機(戦死1997人)、陸軍886機(戦死1021人)の計1912機(戦死3018人)によるものだった。

つまり、日本軍の特攻作戦は大成功だったのである。

特攻隊は、決して”犬死に”などではなかったのだ。特攻隊を犬死にとしたのは、戦後のGHQによる情報操作と左翼思想の捏造である。

特攻作戦によって大損害を被り、日本民族の底力に恐れをなした米軍が、占領後に特攻作戦の真実を封印し、特攻作戦が”無駄死に”だったと情報操作することで、日本人が再び起ち上がらないようにしたかったのだ。


24. 2013年12月22日 11:41:08 : zdXurRDvSE
国民の命なんて何とも思ってないのは今も昔も同じ
こんな国が良く平気に税金なんか取れるな。泥部集団のくせに。

25. 2013年12月22日 12:51:18 : oIjRF9fAyw
>>23
>つまり、日本軍の特攻作戦は大成功だったのである

そんな妄想こいているから、馬鹿ウヨと言われるのだ
大成功なら何故 日本は負けたのだ? しかも完膚なきまでの大惨敗だ

もちろん特攻だって確かに それなりの戦果は挙げた、ただしそれは最初の内だけだ
関行男大尉以下、ある程度熟練した搭乗員を使ったから成功しただけだ

米軍に恐怖を与えたのも最初の内だけ 米海軍が特攻機に対して大幅に迎撃態勢を強化してからは
未熟な搭乗員ばかりが、ただ撃ち落とされる為だけに単調に突っ込んでくるだけの攻撃に
兵士達の覚えた恐怖は 徐々に嘲りに変わっていった事は 残念ながら事実だ

桜花のコードネームなんて 「BAKA BOMB」 と付けられた事ぐらいは知っているはずだ

事実、終戦間近に至って 特攻機の攻撃目標指示は 空母や戦艦などの大型艦から
小型の補給艦や油槽艦や駆逐艦に変更を余儀なくされている
つまりこれは、実際ほとんど効果が上がっていない事を 上層部も認めた結果である

損害艦艇300隻と言っても ほとんど小型艦艇ばかりであり
一万トン以上の大型艦艇は 一隻たりとも沈めてはいないのが現実である。


26. 2013年12月22日 18:09:26 : RGrWJuqDiE
1944年(昭和19年)6月15日、サイパンに押し寄せた米軍は、その圧倒的な物量をもってテニアン、グアムに襲いかかり、マリアナ諸島の日本軍守備隊は次々と玉砕していった。

同年7月18日、東條内閣は「絶対国防圏」を失った責任を取って総辞職。

9月15日には、パラオ諸島で日米両軍の死闘が始まり、10月の声を聞くや、米軍はフィリピン奪還作戦の露払いとして在台湾の日本軍航空戦力を殲滅すべく台湾各地に激しい空爆を開始した。日本海軍は持てる航空戦力を同方面に投入して来寇する米艦隊を迎え撃った。これがフィリピンの戦いに大きな影響を与えた「台湾沖航空戦」である。

そんな最中の10月17日、その数十万の上陸部隊(指揮官ウォルター・クルーガー中将)を載せた400隻の輸送船と、戦闘艦艇、補助艦艇合わせて300隻余を誇るトーマス・キンケード海軍中将の第77機動部隊が暴風雨のレイテ湾に姿を現したのである。

もはや一歩も譲れない日本軍と、対日戦に王手をかけたい米軍、今まさに壮絶な戦いがフィリピンで繰り広げられようとしていた。

日本にとってフィリピンは、南方の資源供給地との中間に位置する要衝であり、アメリカの手に陥ちれば、日本の継戦能力は潰えてしまう。したがって日本軍はどんなことがあってもフィリピンを守り抜かねばならなかった。

まさしくフィリピンの戦いは大東亜戦争の天王山だった。

その結果、日本軍は50万人という膨大な兵力を失って敗退したのである。それは大東亜戦争における戦没者の4分の1に相当する人数であった。

そして歴史にその名を残す”神風特別攻撃隊”が誕生したのもフィリピン決戦だった。

栄光の連合艦隊は、この比島沖海戦で事実上壊滅した。

しかも水上艦艇による戦果は、1944年(昭和19年12月3日)の駆逐艦「竹」による米駆逐艦「クーパー」だけである。

比島沖海戦より後、残存する日本海軍艦艇が、終戦までに敵艦艇を撃沈したのは、私の調べによればわずか5隻でしかない。

その他は全て潜水艦による戦果だった。伊45潜水艦による駆逐艦「エバソール」撃沈1944年(昭和19年)10月28日、呂46潜水艦による米兵員輸送艦撃沈1945年(昭和20年)1月29日、呂50潜水艦による米戦車揚陸艦撃沈1945年(昭和20年)2月11日、そしてかの伊58潜水艦による米重巡「インディアナポリス」撃沈1945年(昭和20年)7月30日は、日本海軍艦艇による最後の撃沈戦果となった。

がしかし戦史によれば、比島沖海戦から終戦までの約10ヵ月間に日本軍によって撃沈破された連合軍艦艇は280隻に上っている。この数には、沿岸砲による被害や、蝕雷、衝突等の事故による損失は含まれず、また艦艇同士の戦闘による先の5隻も含まれていない。

それは世界戦史上、他に類例をみない”特攻攻撃”による戦果だったのである。

1944年(昭和19年)10月25日午前9時23分、栗田艦隊は米空母部隊の追撃を中止した。これで米艦隊は日本艦隊との強力な砲撃の難を逃れることができた。

ところが栗田艦隊の追撃を逃れた米護衛空母部隊に息つく暇はなかった。

午前10時40分、250キロ爆弾を抱えた5基の零戦がが突然襲いかかってきたのである。

それは、同日午前7時25分にフィリピン・ルソン島のマバラカット基地を飛び立った関行男大尉率いる神風特別攻撃隊「敷島隊」だった。

撃ち上げる対空砲火をものともせず、敵空母へ真一文字に突っ込んでゆく零戦。艦上の米軍将兵はその目を疑ったに違いない。日本機は250キロ爆弾を抱いたまま米空母めがけてまっしぐらに突進していった。

”Oh, my God!”

そう叫んだ米兵が、対空射撃の手を止め、十字を切り終わらぬうちに、関行男大尉の乗機が護衛空母「セント・ロー」の飛行甲板に突入したのである。「セント・ロー」は大爆発を起こし、たちまち火焰と猛煙に包まれた。そして午前11時15分、数回の爆発を起こした「セント・ロー」は真っ二つに折れ、大爆発とともに波間に消えていった。

後の世にその名を轟かせる「神風特別攻撃隊」がここに誕生したのである。

さらにこの同じ日、「敷島隊」の攻撃に先立ってダバオ基地を飛び立った「朝日隊」(2機)、「山桜隊」(2機)、「菊水隊」(2機)に加え、セブ島からも「彗星隊」(1機)と「若桜隊」(4機)が米艦隊に突入を敢行し、大東亜戦争における日本海軍の主役が連合艦隊から特攻隊にバトンタッチされたのである。

1944年(昭和19年)10月25日の神風特別攻撃隊は、合計18機(他、直掩機11機)が出撃し、護衛空母「セント・ロー」撃沈のほか、護衛空母「サンチー」「スワニー」「カリニン・ベイ」の3隻を大破させ、護衛空母「サンガモン」「ベトロフ・ベイ」「キトカン・ベイ」などに損害を与えたのである。さらに、この攻撃によって米艦載機128機を損失せしめ、米軍の戦死・行方不明は1500人、戦傷者1200人を数えた。

日本海軍の大勝利だった。

繰り返すが、これはわずか18機による戦果である。

このようなパーフェクト・ゲームは、1942年(昭和17年)11月30日のルンガ沖夜戦以来だった。

にもかかわらず戦後のマスコミは、まるで口裏を合わせたかのようにこの軍事的大勝利を隠蔽し、ただひたすら特攻隊の”悲劇”のみを声高に言う。

しかし考えていただきたい。

絶対国防圏の砦・サイパンが陥落し、各地で日本軍が敗退を続ける中、この神風特攻隊による大戦果は、意気消沈していた陸海軍将兵をはじめ、1億国民にどのように受け止められたであろうか。

ここであらためて行を割くまでもなかろうが、そのニュースが伝播するや、各地に布陣する陸海軍将兵は奮起し、1億の民は日本の勝利を確信したのである。まさしくかつて「元」の大軍を一夜にして壊滅させた”神風”の再来を祈念した。そして誰もが神風特別攻撃隊に起死回生の逆転を期待し、搭乗員もまたそれに応えんと自ら進んで志願していったのだ。

関行男大尉は、第1航空艦隊参謀・猪口力平大佐と201空副長・玉井浅一中佐の打診に応えた。
「自分にやらせてください!」

母1人子1人の家庭に育ち、若い妻を郷里に残した関大尉の心境はいかであったろう。

この時弱冠23歳の関大尉は、母へ宛てた遺書にこう記している。
「今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐることはありません」
http://www.geocities.jp/kamikazes_site/saisho_no_tokko/seki/sekiyukio_taii_isyo.htm

そんな関大尉の出撃は、実際の突入より4日目に遡る。

「敷島隊」は、捷1号作戦が発令された翌日の10月21日から連日のように出撃したが会敵せず、やむなくマバラカット基地に引き返していたのだ。

またこの「敷島隊」の突入が、栗田艦隊が反転を決意し連合艦隊が戦場から姿を消した直後であったことに神がかり的なものを感じざるを得ない。

そして迎えた10月25日午前7時25分、大西瀧冶郎中将の水杯を受けた関行男大尉以下5人(中野磐雄一飛曹・谷暢夫一飛曹・永峯肇飛長・大黒繁男上飛)は、基地隊員らの打ち振る帽子に送られて大地を蹴ったのである。

捷1号作戦の発動により、各地で神風特別攻撃隊が編成される中、セブ島の海軍第201航空隊の分遣隊でも特別攻撃隊の編成が行われていた。
≪私は戦果を新聞やラジオで発表してもらうのが目当てで突入するのではありません。日本軍人として、天皇の為、国家の為、この体がお役に立てば本望であります≫(豊田穣著『海軍特別攻撃隊』集英社文庫)

神風特別攻撃隊「大和隊」の久納好孚中尉(法政大学・13期予備飛行学生出身)だった。

驕敵撃滅の信念に燃えた爆装の零戦2機と直掩機は基地に引き返したのだが久納中尉は出撃を前に、「敵の空母が見つからぬ時は、私はレイテ湾に突入します。レイテにゆけば、戦艦、巡洋艦あるいは輸送船などがたくさんいますから獲物に困ることはないでしょう」と語っていたという。

そこで司令部は、久納中尉が敵艦隊へ突入したものと認定し、2階級特進の申請をしたが、それから4日後に敵空母を撃沈した関行男大尉を”特攻第1号”としたのだった。

その理由として、「指揮官先頭」の精神をモットーとする日本海軍にとって、海軍兵学校出身(第70期)の関大尉に特攻隊の象徴的な存在であって欲しかったからだとも言われている。

戦後の識者の間では、これが「不公平」だとか、軍の「情報操作」だったと批判する意見もあるが、そう言うべきものではない。

確かに久納中尉の方が関大尉よりも早かった。しかし残念ながらその戦果は確認できていない。ところが関大尉は、久納中尉と同じ10月21日から出撃を繰り返しており、25日の出撃で敵空母撃沈という初戦果を上げたのだから、関大尉を「特攻第1号」としてもおかしくはなかろう。

もっとも特攻第1号をさらに追及すれば、久納中尉突入の6日前の10月15日、第26抗戦司令官・有馬正文少将(戦死後中将)が、マバラカット基地から一式陸上攻撃機に乗り込んで飛び立ち、攻撃隊を陣頭指揮して敵艦隊に突っ込んでいる。当時の発表では、この体当たり攻撃によって敵空母1隻を撃沈したとされているのだが、残念ながら米軍側の記録にはそうした被害報告は見当たらない。ただこの有馬少将の突入は、指揮官先頭の範を示したものであり、日本国民に感銘を与えたことは言うまでもなかろう。


27. 2013年12月23日 10:28:53 : WzX8nPCmYM
この世に戦争さえなければ日本のゼロ戦も殺人兵器にならずに済んだろう。

軍人が航空機に目をつけた時から人類は大量殺戮の手段を持つに至った。

そのような時代が一度起これば人類の進化する速度は急激に落ちることになる。

今の日本人がゼロ戦を目にして思うことは半世紀以上も前の航空機であるだけに戦闘機とは信じられないような紙飛行機のようにさえ見えているだろう。

日本は航空機産業を失い奪い去られた過去の誤った歴史を反省し、日本の工業力として航空機産業を復活させて自動車産業の上を行く時代を作らなければならない。

安倍総理よ、それが日本を取り戻すということである。


28. 2013年12月23日 11:04:29 : WzX8nPCmYM
実際に日本のゼロ戦は良く燃えたという証拠記録が豊富にあるだろ。良く見ろ。

何も燃やして海に沈めることはなかっただろ。

あれの燃料には日本国民の血と汗と涙が入っていた。

だから飛ばなくなったんだろ。


29. 2013年12月23日 15:36:24 : oIjRF9fAyw
>>26
>絶対国防圏の砦・サイパンが陥落し、各地で日本軍が敗退を続ける中、この神風特攻隊による大戦果は、
>意気消沈していた陸海軍将兵をはじめ、1億国民にどのように受け止められたであろうか。

おいおい、寝ぼけてんのか 戦果なんて 大本営発表で いくらでも捏造出来たじゃねーか^^;
台湾沖航空戦なんて 空母10隻撃沈とかって発表したんだぞ
でもそれが いったい何をもたらしたと言うのだね?
嘘を憑いてまで国民を鼓舞し続けた結果、原爆を落とされるまで戦い続け
日本国民を塗炭の苦しみに追いやっただけだったではないか。


30. 2013年12月23日 18:20:42 : WzX8nPCmYM
日本の馬鹿ウヨの平和ボケほど恐ろしいものはないよん。

馬鹿ウヨにサバイバル訓練としてカエルやミミズを食わせて思い知らせるのがいいだろ。

無駄に食ってボケてるボケウヨさん! 原発は抑止力だって? 事故ってまで言うか!

hahahahahahabaka


31. 2013年12月23日 22:15:21 : arexRtN4CM
関行男大尉率いる「敷島隊」がフィリピンのマバラカット基地を飛び立ってから56年目に当たる平成12年(2000年)10月25日、フィリピン・ルソン島のパンパンガ州マバラカットで神風特別攻撃隊の戦没者慰霊祭が執り行われた。

慰霊祭を取材していたフィリピン人ジャーナリスト・ジョジョ・P・マリグ氏は語る。

「この式典は日本とフィリピンの関係を知るよい機会です。私自身、カミカゼについて多くの書物を読みましたが、やはりその尊い生命を国家に捧げた関大尉は”英雄”だと思います。またカミカゼ・アッタクを考案した大西(瀧治郎)中将も尊敬すべき”武士”です」

私は大きなショックを受けた。

大西瀧治郎中将や関行男大尉の名前を知っている日本人の若者は果たしてどれほどいるだろうか。にもかかわらずフィリピンの若者が我々の先人を”英雄”と崇め、大西中将を”武士”と称賛してくれていたのだ。

「もはや劣勢を挽回するには”体当たり攻撃”しかない」

第1航空艦隊司令長官・大西瀧治郎はそう考えるに至った。

事実、圧倒的物量をもって押し寄せる米軍にひと泡吹かせ、あるいはこれを殲滅するには、戦闘機に250キロ爆弾を積んで敵艦に体当たりする必殺戦法しか残されていなかったのである。

大西中将は苦悩したに違いない。部下を思い、人一倍面倒見のよかった親分肌の大西中将の心中は察するに余りある。

出撃を前に大西中将は、関大尉ら特攻隊員を前にこう訓示した。
≪日本はまさに危機である。しかもこの危機を救いうるものは大臣でも、大将でも、軍令部総長でもない。もちろん、自分のような長官でもない。それは諸子のごとき純真にして気力に満ちた若い人々のみである。したがって、自分は1億国民にかわって皆にお願いする、どうか成功を祈る≫(安延多計夫著『あゝ神風特攻隊』光人社NF文庫)

250キロ爆弾を抱え、マバラカットの飛行場から飛び立ってゆく可愛い部下を見送った大西中将の心境はいかであったろう。

大西中将はこの作戦を草案した時から、たとえこれで戦争に勝ったとしても自決を覚悟していたという。

多くの部下の壮途に立ち会った大西中将は、それから10カ月後に迎えた終戦の日の夜、次のような遺書を遺して自刀に果てた。
「特攻隊の英霊に日(もう)す。善く戦ひたり、深謝す。最後の勝利を信じつゝ肉弾として散華せり。然(しか)れ共(ども)其(そ)の信念は遂に達成し得ざるに到れり。吾(われ)死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。
次に一般青壮年に告ぐ。
我が死にして、軽挙は利敵行為なるを思ひ聖旨(せいし)に副(そ)い奉り、自重忍苦するの誡(いまし)めともならば幸なり。隠忍するとも日本人たるの矜持(きょうじ)を失ふ勿(なか)れ。諸子は國の宝なり。平時に処し猶克(なおよ)く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を尽せよ」

日頃、大西中将は崇敬する西郷隆盛の言葉を口にしていたという。
「おいも行く、わかとんばら(若殿輩)のあと追いて」

そして西郷隆盛の最期を墨守するように、武人らしく割腹自決を遂げたのだった。

”昭和の西郷”こと大西瀧治郎中将に学ぶべきはあまりにも多い。

若者も立派ならば、その上に立つ大人も立派であった時代がわずか70年前までこの国にもあったという事実を知っておいていただきたい。


32. 2013年12月24日 03:21:47 : oIjRF9fAyw
体当たり特攻が 米軍将兵に衝撃を与えた事は事実である 恐怖の余りノイローゼになった兵士達の話も
本当の話である事も確か だがそれは最初の内だけである
飛ぶのがやっとの促成搭乗員ばかりを突っ込ませるようになってからは
まさしくマリアナの七面鳥撃ちの再現となってしまい 心理的効果は無くなった

特攻隊員たちの死を無駄にしたくないのなら、なぜあそこで戦争を止めなかったのか
特攻をする時点でもう日本には絶対に勝ち目は 断じて無い
なのにそれから10カ月余りも勝ち目の無い戦争を継続した

日本の機動部隊が壊滅した 昭和19年6月のマリアナ沖海戦で 日本の勝ち目は100%無くなった
そして最後の意地を見せるべくの フィリピン攻防戦とレイテ沖海戦では無かったのか?
昭和19年末で終戦を迎えられたら、どれだけ多くの国民の命が救われた事であろうか
それならば特攻隊員たちの死は 決して無駄では無かったと言える事だったろう

アメリカの将兵や上層部に衝撃と恐怖を与えるのなら それで目的は充分に達せられている
その時点で講和に持ち込めれば 同じ敗戦でも 相当に有利な条件での講和が出来たはず
国民にとって地獄のような あの昭和20年は迎えなくて済んだのなら
神風特攻も無駄では無かったと 胸を張って言える事になっただろう

だが現実はそうでは無い 結局は原爆を落とされるまで戦い続けて 日本の国土は焼土と化し
国民を未曾有の飢餓地獄に叩き落した結果となっては 残念ながらやはり
特攻隊員の若者たちの犠牲も 無駄死に犬死と言わざるを得ない

「原爆投下は戦争を早く終結させた」 などと
アメリカ人に いまだにこんな妄言を吐かせる事になったのは
日本の馬鹿な戦争指導者たちの 愚かで稚拙な戦争指導のせいである。


33. 2013年12月24日 07:52:52 : OkviAlRi1w
関行男大尉率いる「敷島隊」がフィリピンのマバラカット基地を飛び立ってから56年目に当たる平成12年(2000年)10月25日、フィリピン・ルソン島のパンパンガ州マバラカットで神風特別攻撃隊の戦没者慰霊祭が執り行われた。

この戦没者慰霊祭に参加した地元の人に話を訊いてみようと、上品な老紳士に声を掛けてみた。その老紳士は、ダニエル・H・ディゾン氏(70歳)という画伯だった。

ディゾン画伯は語る。
「今から35年前に私は神風特攻隊の本を読んで涙が止まらなかったのです。こんな勇気や忠誠心をそれまで聞いたことがなかったからです。同じアジア人としてこのような英雄がマバラカットと私の町アンヘレスで誕生したことを誇りに思っています」

1974年(昭和49年)、特攻隊のその崇高な精神に身を震わせたディゾン画伯は、当時のマバラカット市長に神風特攻隊慰霊碑の建立を進言した。そしてディゾン画伯が感銘を受けた『神風特別攻撃隊』の著者である中島正氏(元201航空隊飛行長)、猪口力平氏(元第1航空艦隊参謀)の協力を仰ぎながら、やっとの思いでマバラカット飛行場跡地に慰霊碑を建立することができたという。この慰霊碑はピナツボ火山の噴火によって喪失したが、近年再建された。

驚きのあまり目を丸くする私を見たディゾン画伯は言った。
「どうぞ私の自宅へお越しください。”カミカゼ博物館”をご覧に入れましょう」

こうしてその日、私はディゾン画伯の言葉に甘えて、画伯の御宅にお邪魔することになった。

何とディゾン画伯は、Kmikaze Memorial Society of The Philippines(フィリピン・カミカゼ記念協会)の会長だったのである。そしてその自宅には、自ら描いた「敷島隊」の5人(関行男大尉・谷暢夫一飛曹・中野磐雄一飛曹・永峯肇飛長・大黒繁男上飛)の肖像画のほか当時の日本海軍の制服から航空爆弾まで、貴重な品々を数多く展示する「カミカゼ・ミュージアム」を設けていたのだ。

私は、衝撃のあまり腰を抜かしそうだった。

そんな私の様子を優しい眼差しで見つめるディゾン画伯は、5人の肖像画の前に立ち、「関行男大尉」を見つめて語り始めた。
「私は、ヨーロッパ・アメリカ・中国・フィリピンの歴史を様々な角度から検証してみました。その結果、なぜ日本が立ち上がり、戦争に打って出たのかがよく分かったのです。そして日本が、欧米列強の植民地支配に甘んじていたアジアを叱責した理由も理解できたのです」

向き直った画伯は右手に拳を作って語気を強めた。
「当時、白人は有色人種を見下していました。これに対して日本は、世界のあらゆる人種が平等であるべきとして戦争に突入していったのです。神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する力による最後の”抵抗”だったと言えましょう」

フィリピンの人々は皆、”白人対有色人種”という視点で近現代史を見つめていたのである。

アジア人でありながらスペイン風の名前を持ち、かつては英語を強要されたフィリピン人なればこそ、こうした地球大の尺度を持てるのだろう。

16世紀初頭、フィリピンに上陸したかの有名なマゼランを倒した英雄・ラプラプ王に始まり、アメリカに抵抗して日本に助けを求めたフィリピン独立運動の父・アギナルド将軍(初代大統領)など、フィリピン人が400年もの間、白人の侵略と戦い続けてきた歴史を忘れてはならない。

こうしたことは、1995年(平成7年)のフィリピン独立記念日(6月12日)において、マニラの街角に張り出されたポスターによく表現されていた。

日本海軍軍人が旭日旗を掲げ、これを見上げるアジアの各民族。
ポスター上部には”East Asia Co-Prosperity”(東亜共栄圏)の文字があるではないか。ポスターの前には日本兵に扮した地元民の姿も見える。

これが”アジア諸国の感情”の真相なのだ。

このことからも、現代の日本社会が、いかに歪んだ歴史観に汚染されているかが分かる。

最後にディゾン画伯は、両手を固く結んで私にこう託すのだった。
「神風特攻隊をはじめ、先の大戦で亡くなった多くの日本軍人をどうか敬っていただきたい。これは私から日本の若者たちへのメッセージです」


34. 2013年12月24日 16:24:10 : 90ZCk8aw4o

「特攻隊は偉かった凄かったて言うんなら、おまえらもアメリカを追い出す努力せんかいっ」って

今の日本の対米隷属ぶりを見て

あの世で悔しさにのたうち回っているんじゃないかと思うと申し訳なくて堪らないですぅ


35. 2013年12月24日 20:40:19 : WzX8nPCmYM
今の時代はね、戦争を美化して国防を論じても、逆に自虐化して既に戦没者となった我々の先祖を怨んでも何も変わらない世の中だ。せめて生きてる者同士は命を継いで犠牲者の分まで生きてみようではないか。

生きて今の世をどう作り、子孫が継ぎたいと思う日本国をつくってみようではないか。こんなはずではなかった日本が本当はどのような国であったのか、どうあるべきだったのか日本史を学べば分かる。

未だ分からぬ日本人が多いのは馬鹿な学者の謬説を正しいと信じて疑わない愚かな日本古来の日本人気質によるものだ。神社を拝んで馬鹿になる日本人を見て放っておけないから言うのである。

慣習などとふざけた気持ちで生きてる馬鹿な日本人ほど早く目覚めてほしいものだ。初詣で馬鹿になる日本人。

志ある者の社参物詣でを禁ずべし。馬鹿でない者は心得ろ。


36. 2013年12月24日 22:20:26 : uUZsBwXlR6

【証言シリーズ】元海軍少佐 戦艦大和副砲長

レイテ沖海戦の真実、大和謎の反転 その時大和艦橋では何が?

   www.youtube.com/watch?v=anDKD9uuj3k


知ってもらいたい戦争の一面。


37. 2013年12月24日 23:41:29 : JAHQwbBGjg
 年端もいかぬ少年たちを洗脳し、殺していった日本軍国主義を許すことができない。負ける戦いに少年たちを駆り出し、殺していった狡猾な上官たちを許すことができない。
 特攻を命じた奴らは終戦になった時点で、自分の罪を悟り「死ぬ」べきであった。誰が、喜んで死んでいくだろうか。誰が、木っ端みじんになって死んでいくことを強いることができるだろうか。

 親戚に元特攻兵がいた。終戦で帰ってみると、「ヒロポン中毒」だった。正気であんなむごい死に方はできない。あんな残酷な死に方はできない。だから麻薬を打たれて半ば正気をなくして出撃していったのである。ヒロポンがなければ生きていけない体にされ、せっかく生きて帰ったのに洗脳が解けた心は荒廃し、体は麻薬でむしばまれ、早くに死んだ。

 戦争をしてはならない。若者を殺してはならない。指揮をする年寄が最前線に出ていったらいい。特攻の、回転の、悲劇は永遠に忘れてはいけない。

 戦争とはあれほど異常なことをあれほど残酷なことを若者に強いるのである。洗脳された頭ではそれがどれほど異常かわからないのである。


38. 2013年12月25日 01:03:13 : Rn9ASwAHog
フィリピンのマバラカットで神風特攻隊の慰霊祭が行われた同じ日「2000年(平成12年)10月25日」、タルラック州バンバン村でも慰霊祭があった。簡素な民家が建つ集落には、子供達が無邪気に走り回る光景があり、どこか懐かしさを感じさせる。

もちろんここでも、地元住民は村を挙げて慰霊団を歓迎してくれた。

慰霊団が到着するや、村人が集落の裏手へと移動し始めたので、我々もその流れに従ってバナナの林を抜けてゆくと、そこには赤い鳥居が建つ慰霊祭場があった。

1999年(平成11年)10月25日に建立された白い慰霊塔には、地元の人の手による不慣れな日本語で、「慰霊塔」「特攻隊戦士之碑」「航空隊魂」の文字が記されていた。

さらにこの慰霊塔には、第26航空戦隊司令官・杉本丑衛少将、第10航空地区司令官・江口清助大佐をはじめ、クラーク西方で米軍と干戈を交えた第1挺進集団長・塚田理喜智少将の写真が張り付けられていた。

ここでも日本人僧侶らによる仏式の慰霊式典が行われたが、何より私を驚かせたのは、授業中にもかかわらず多くの学生が参列していたことである。

私は、式典に参加した地元サン・ロック高校の女子学生達に、神風特攻隊をどう思うかと訊いてみた。すると彼女らは声を揃えた。
「Brave!」(勇敢)

その中の1人が続ける。
「フィリピンにも英雄はたくさんいます。ですから私達も神風特攻隊という日本の英雄を大変尊敬しています」

さらに引率の男性教師は、「こうした歴史教育を通して、子供達に国を守ることの大切さを知ってほしいのです」と語ってくれた。

私は学生達にもう1度訊いた。
「君達は、カミカゼのパイロットを尊敬しているのですね」

屈託のない笑顔で皆は答えた。
「もちろんです!だってあの人達はヒーローですもの」

異民族の侵略を受け続けたフィリピン人の痛覚は、ダイナミックな歴史観と愛国心を育んだ。そしてそんな土壌に”英雄”を敬う気風が育まれた。事実、この国の国歌にも「誉高い英雄達の生まれた国を崇めよ」という一節がある。だからこそフィリピンの人々は、祖国を守るために生命をかけた神風特攻隊を拳って英雄と称えるのだろう。

私は、フィリピンの学校教育が羨ましかった。いっそこの国の教師を日本に招いて、歴史教育を担当してもらってはいかがだろうか。

式典が終了し、慰霊団のバスが村を離れようと動き出したその時、前方から濛々と立ち上がる砂埃と共に「日の丸」の小旗を振る子供達の一団が押し寄せてきた。

我が目を疑った。子供達が、日本とフィリピンの国旗をちぎれんばかりに打ち振るって、我々を見送ってくれているのである。日本人参列者は、このあまりにも衝撃的な光景に胸を詰まらせ、そして頬を濡らした。

手作りの日章旗をその小さな手に握り締めた子供達のはじけるような笑顔と歓声。

私は、この光景を現実として認識するまでにしばらくの時間を要した。

子供達の「日の丸行進」はどこまでも途切れることはなかった。

そして小学生の一団に続いて、中学生や高校生の隊列が神風特攻隊の慰霊祭に参加すべく続々とやって来る。私は、何度も後ろを振り返り、また正面から押し寄せるフィリピンの子供達を目の当たりにして、もはやこみ上げる感動を抑えきれなかったのである。とめどなく涙が頬を伝う。数多の小さな手が振る「日の丸」と歓声ーー私はこの子供達に心から感謝した。

「ありがとう!」

子供達の素晴らしい笑顔と波打つ「日の丸」の光景は、今も私の脳裏に焼き付いて離れない。いや生涯忘れることはないだろう。

外国人の日本人観に多大な影響を与え、大東亜戦争における日本の精神的象徴とも言える神風特攻隊は、今もフィリピンの人々に敬われ、そして賞賛されている。

我々日本人はこうした世界の声を素直に受け止め、この現実を直視する必要があろう。そして、特定イデオロギーによって極度に歪曲された教育と報道姿勢を根本から改めなければならない。日本の将来を担う子供達や、これから世界に出てゆく若者達が国際社会で恥をかかないためにも。


39. 2013年12月25日 01:54:35 : 1BVlp3dpkE

英雄英雄と囃したてるだけで何が解決するのか?


成績の良い子というのは洗脳も良く効くのだ。


十代の純真な若者を使って、特攻をダシにして手柄にした。
戦後もうまく立ち回った連中は一体何なんだね?


こういう売国野郎といっしょにどうして”国家は一家”かい?
放射能をばらまいて補償もせぬどころか、被爆させまくりじゃないか


あの自衛隊員たちも一生懸命やってくれてる上に放射能降りまくり吸わせまくり
警備の警官たちにもマスク一つ支給どころか、放射能散布の危険を知らせ対策を立てさせることさえしんかった!

いま大被害が発生してるじゃないか
これで「愛国心」をもてとか国民に向かって教科書で叩き込むって安倍がやるそうじゃないか

アイコクシンが無いのは誰だ!


40. 2013年12月25日 03:03:56 : oIjRF9fAyw
映画でも公開される 「永遠のゼロ」 の原作を読んでみると良い

特攻隊員たちが本当に喜んで死地に出撃していったのかどうか、その心境について深く掘り下げて語られている
自分の命が明日で終わる こう覚悟を決める事に なんの迷いも恐怖も感じない人間なんていやしない
特攻隊員たちの家族へ向けた手紙には、お国の為に死ねる事への喜びが綴られてはいるが
決してそれは本心などでは断じて無い

自分の命を終える覚悟を決めた時、必ず自分のこれまでの人生を振り返るのが当然だろう
そして誰でも 父母 兄弟 友人 妻や子供 の事を思うであろう事は 皆同じであろう
愛する肉親に感謝の言葉を並べこそすれ、苦痛や恐怖など一辺も書き綴る訳は無いはずだ

あなたの息子は 一片の曇りも無く 楽に死んでいったのですよ と、
せめてこう言ってあげる事だけが 自分に出来る最後の親孝行と言うものだろう
苦しいとか怖いとか助けて下さいとか そんな事 絶対に言える訳など無いのである
(もちろん、軍の検閲が有るのだから 否定的な事など書ける訳も無いが)

特攻隊員たちは決して、「洗脳」 されていた訳では無いのである
自分達が特攻を拒否すれば、故郷に残された家族や友人や両親が白い目で見られるのを恐れたのである
みんな喜んで死んでいったのでは 決して無い。


41. 2013年12月25日 09:06:54 : SStGpqsD02
いずれにせよ、日本国を根底から骨抜きにするGHQの占領政策には、特攻隊の大戦果に対する恐怖心があったことは明白である。

事実、米海軍のベイツ中佐は次のように語っている。
≪日本の空軍が頑強であることは予め知っていたけれども、こんなに頑強だとは思わなかった。日本の奴らに、神風特攻攻撃がこのように多くの艦を撃破していることを寸時も考えさせてはならない。だから、我々は艦が神風機の攻撃を受けても、航行できる限り現場に留まって、日本人にその効果を知らせてはならない≫(『あゝ神風特攻隊』)

さらに安延氏は、「このことは、いかに神風特攻攻撃の効果が大きく、その攻撃が猛烈果敢であったかを物語るものであろう。アメリカ側は国内に対して神風特攻攻撃の影響を恐れて、神風による被害を沖縄戦の中頃まで、秘密にして発表しなかったようである」と同書に記している。

日本軍の肉弾攻撃は、敵の戦意を挫くほどの大戦果を上げていたのだ。

ところが戦後のマスコミは、この軍事的な勝利をひた隠し、ただ戦争の悲劇の代名詞として、あるいは戦争の犠牲者の象徴として特攻隊を位置付け、そしてイデオロギー闘争の手段として彼らを利用してきたのだ。

彼らはうそぶく。
「特攻隊員は、本当は行きたくなかったのだ。皆『お母さん!』と叫んで死んでいった戦争の犠牲者なのだ」と。

しかし特攻隊の教官を務めた田形竹尾元陸軍准尉は、こうした虚構をきっぱり否定する。
「出撃前、特攻隊員は仏様のような綺麗な顔でした。目が澄みきって頬が輝いておりました。彼等は皆、愛する祖国と愛する人々を守るために自ら進んで志願していったのです。戦後言われるような、自分が犠牲者だと思って出撃していった者など1人としておりません。皆、『後を頼む』とだけ遺して堂々と飛び立っていったのです」

そして特攻隊は未曾有の大戦果を上げたーーこれが特攻隊の真実である。

そもそも国を守ろうという意識のない戦後の日本人に、特攻隊員の至純の愛国心など分かるはずがない。理解できるはずがないのだ。一死をもって国に報いんとした当時の立派な青年達の魂を、私利私欲をむさぼる現代人が批判する資格などどこにあろうか。

フィリピンでの慰霊祭に参加した私は、あまりの衝撃に思考回路が麻痺し、呆然となることが多かった。それは、学校で教わらず、またマスコミが一切伝えない驚愕の事実に次から次へと直面したからである。

こうした事実が意図的に封印されたまま、中国・韓国から一方的に歴史認識が押し付けられ、日本の歴史教育が歪められてきたことに怒りを覚えるのは決して私1人ではないだろう。

そんな日本の惨状をよそに、アジア諸国では神風特別攻撃隊が尊敬され、その栄光の歴史は今日も輝き続けている事実を、1人でも多くの日本人に知っていただきたい。

2001年(平成13年)8月16日にフジテレビで放送されたドキュメンタリー番組『特攻・國破れても國は滅びず』(構成・監督 水島総)の中で、フィリピン人のフェルナンド・サントス氏は、頬に伝う涙を拭うことを忘れてこう訴える。
≪このような英雄的資質の武勇伝を現代の日本の若者は知るべきです。私からのメッセージは、もっと神風特別攻撃隊に関する本を読むべきだということです。日独伊枢軸国やアメリカ同盟国の英雄として認められている人でも、神風特別攻撃隊員の勇気、決断、武勇に等しい人はいません。(中略)神風特攻隊員の場合は、離陸した時点で死んで行くことを知っているのです。事実、彼らは祖国のために自分を殺します。比類のない存在ですから、尊敬されるべきであり、記憶されるべきなのです。日本国民は、受け継いだ今の日本人の本質と粘り強さの象徴として、彼らに感謝すべきです≫

そしてディゾン画伯(Kmikaze Memorial Society of The Philippines(フィリピン・カミカゼ記念協会)の会長)も同番組の中でこう述べている。
≪私たちは彼ら(神風特攻隊)の偉業を引き継いでいかなければならないと思います。戦争のためではなく、忠誠心、愛国心、祖国への愛のためです。東洋、いや全世界の人々がこの神風特攻隊の話から何か大きなことを学べると思います。神風特攻隊の隊員は、全世界そして次世代の全人類のために彼らの人生を記録として残してくれたのです
彼らは、自らの命を生きている偉業として捧げ、人はどこまで自国を愛することができるのかを提示してくれました。そして、人はどのように自国の文化や論理へ忠誠でいられるかを実証したのです≫

1944年(昭和19年)10月28日、豊田副武(そえむ)連合艦隊司令長官は、神風特別攻撃隊・敷島隊の突入に対し、全軍に布告した。
”忠烈万世に燦たり”
ただひたすら祖国・日本を護るために自らの尊い生命を捧げた神風特別攻撃隊の愛国心と忠誠心、そしてその武勇は、豊田長官の布告のとおり、その誕生の地フィリピンで今も燦然と輝き続けている。

☆関 行男(海軍中佐=カミカゼ特攻第1号)☆
http://tamutamu2011.kuronowish.com/sekiyukio.htm
戦果では関行男大尉を「世界最初の正式人間爆弾」と称し、陸軍嫌いで知られた豊田副武(とよだそえむ)連合艦隊司令長官(海軍大将)は、「忠烈万世に燦たる」敷島隊の殊勲を全軍に布告、その後「特攻」「カミカゼ」は、体当たり攻撃の代名詞になった。また、関大尉は、特攻による戦死で海軍大尉から中佐に2階級特進した。
海軍省は、1944(昭和19)年10月28日特攻出撃を軍艦マーチとともに特別放送で流した。
翌10月29日付『東京朝日新聞』は、「神鷲の忠烈万世燦たりー神風特別攻撃隊敷島隊員 敵艦隊を捕捉し必中必殺の体当り」との見出しで報じ、アサヒグラフ(44年11月8日号)も「銀翼の神々ー忠魂薫る神風特別攻撃隊」との見出しをもって、「機、人もろとも爆弾となって適機に突進する神鷲。若冠、紅顔の若人は莞爾として続々この壯途にのぼり、敵を侵駭戦慄せしめつゝある……」との解説付で、特攻第1号の海軍大尉関行男攻撃隊長とその妻満里子未亡人(のち再婚)の写真を掲載した。


42. 2013年12月25日 12:21:42 : oIjRF9fAyw
>。一死をもって国に報いんとした当時の立派な青年達の魂を、
>私利私欲をむさぼる現代人が批判する資格などどこにあろうか

>>41
君は何か勘違いをしてないかな? 誰も特攻で死んでいった青年たちを批判などしていないのだよ
特攻が無駄死にであると言う批判は概ね 当時の国家体制や軍上層部への批判であり
特攻で死んでいった個人に向けられたものでは無い
当然だ、彼らはあくまで日本の国を救えると信じて出撃したのだ それは誰も否定などしていない
彼らを騙していたのは上層部の人間である そして批判されるべきは国家体制という”集団”である

国家体制への批判である事は百も承知で、それをいつしか兵士個人への批判と変えようとする
「すり替えの論理」 こそ、典型的なウヨの論理でしかない

君がどんなに大本営発表のような事を並べ立てようとも、普通の人はもう本気になどしないのだよ
ほとんどの日本人は 右翼の扇動などもう懲り懲りなのが当然なのだよ
特攻がそんなに大戦果を挙げたのなら どうして日本はあんな惨敗を喫したのだね?


43. 2013年12月25日 12:29:51 : zIM9OzN90g
42へ

特攻隊は3倍の敵を倒しましたが、元々敵は12倍いましたので、健闘むなしく破れました。上層部は特攻隊員を騙してなどいません。他に手段がないことを特攻隊員たちは理解していました。

あなた相当頭悪いですね(笑)。


44. 2013年12月25日 18:23:50 : oIjRF9fAyw
>>43
自分達に都合の良い事ばかり強調するから馬鹿ウヨと言われるのだ
三倍の敵を倒しただと? 都合の良い事ばかり言ってんじゃねえよ
ならば戦艦大和の水上特攻は どう損得勘定をするのだね?

大和を中心とした第二遊撃部隊全体では5000人もの死者を出した
対して 米機動部隊の攻撃機は未帰還機はたったの10機だったのだぞ
まったくもって釣り合わねえ勘定としか言いようは無いだろう

B29や 米機動部隊艦載機による空襲では ほとんど一方的に日本人は殺されたのだ
対して日本側による撃墜機などほんの僅かでしかなかった、何百倍何千倍もの損得勘定だ

特攻攻撃だって一万トン以上の大型艦船は ただの一隻たりとも沈めてなどいない
小型艦艇ばかりで 肝心の米機動部隊にはかすり傷程度しか与えられなかった
本土決戦への単なる時間稼ぎでしかなかった事は周知の事実
なにが 「大戦果」 だよ、そんなもんはウヨの妄想である。


45. 2013年12月25日 18:33:07 : A4GQ7o9O02
大日本帝国の最高機密である御前会議の内容が、一部の側近を通じて米国に筒抜けやったことは明らかにされてますが、これで戦争に勝とうというのがそもそもおかしなもんでございます。
敗戦末期、終戦工作について、政府高官のひとりがダレスと秘密交渉しようと提案したところが、「ダレスって誰だ?」という大本営首脳幹部のインテリジェンスのレベルではそもそも無理な戦争だったといことですな。
このへんのところは、すべて大森実さんが、「戦後秘史1日本崩壊」「2天皇と原子爆弾」「3祖国革命工作」「4赤旗とGHQ」「5マッカーサーの憲法」「6禁じられた政治」「7謀略と冷戦の十字架」「8朝鮮の戦火」「9講和の代償」「10大宰相の虚像」(講談社文庫)で描かれております。

46. 2013年12月25日 19:31:50 : d2bKVaYgD6
44へ

やっぱりアホですね。

特攻隊は12倍の敵と戦闘し、3倍の敵を撃破した。

特攻攻撃によって撃沈破された連合運艦艇は実に278隻(300隻超説あり)
米軍の戦死者は1万2300人
重傷者は3万6000人
加えて、あまりの恐怖から戦闘神経症の患者が続出
その戦死傷者の数を比較しただけでも、

さらに、米軍の被害報告の中には輸送艦や戦車揚陸艦以下の艦艇をその数に含めていなかったため、その実被害はさらに膨れ上がるとみられる。


47. 2013年12月25日 19:47:48 : I1EC6jd3go
関 行男(海軍中佐=カミカゼ特攻第1号)☆
教え子よ 散れ山桜 此の如くに
http://tamutamu2011.kuronowish.com/sekiyukio.htm

1921〜1944

左;戦死通知書(拡大画像)/右;関中佐の鉢巻き(いずれも自衛隊愛媛県松山市小野駐屯地保存)

1921(大正10)年8月29日愛媛県西条市生まれ。

海軍兵学校(第70期)卒業後、戦艦「扶桑」乗り組み、1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃に参戦。

1944(昭和19)年10月25日、日米海軍が激突したレイテ沖海戦中の零戦による「神風特別攻撃隊」隊長(敷島隊指揮官。そのほか大和隊・朝日隊・桜隊の4隊)として米空母セント・ローに体当たりして戦死した。享年24歳。「特攻第1号」「軍神」。

神風特別攻撃隊が初めて実戦投入された1944(昭和19)年10月21日に大和隊の久能好孚(くのうこうふ)中尉が戦死したが、彼が法政大学出身の学徒出陣(学徒兵)の身であったことから、この日出撃したが、敵艦を発見できずに帰投した海軍兵学校出身のエリート軍人関大尉が特攻第1号とされた。

 連合艦隊の突入は不沈戦艦「武蔵」を失った翌日の1944年10月25日、したがってそれまでにアメリカ空母に体当たりして、撃滅しなければならなかったが、関率いるゼロ戦5機は出撃する度に敵艦隊を発見できず、4度目に目的を達した。

1944(昭和19)年10月25日敷島隊は関大尉指揮のもとに午前7時25分、フィリピン最大の島・ルソン島(中心都市はマニラ)パンパンガ州マバラカットの海軍201航空隊基地を飛び立った。部下隊員は1等飛行兵曹中野磐雄(福島県相馬郡原町南新町出身。1942年4月甲種予科練召生として土涌に入隊、10月1等飛行兵となり累進して1等飛行兵兵曹となる)、1等飛行兵曹谷暢夫(岐阜県掛斐郡西郡村出身。1942年4月甲種予科練習生として土浦に入隊、累進して1等飛行兵曹となる)、飛行兵長永峰肇(宮崎県寓崎郡住西村出身。1942年5月佐世保海兵団に入団、累進して飛行兵長となる)、上等飛行兵大黒繁男(愛媛県宇摩郡川龍村出身、1943年1月佐世保海団に入団、累進して1944年5月飛行兵長となる)の4人であった。

同日(10月25日)午前10時45分レイテ近海にて米海軍空母群を発見、先ず関大尉機が米・護衛空母「セント・ロー」に体当り爆破、20分後に沈没させた。他の隊員は米艦カリニンベイ同キトカンベイ・サンガモン・サンテイ・スワニー・ホワイトプレンズ等を攻撃した。

説明: 説明: 説明: 説明: http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/sekiyukio.files/image023.jpg

右端が関大尉

説明: 説明: 説明: 説明: http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/sekiyukio.files/image024.jpg

炎上する米・護衛空母「セント・ロー」

戦果では関行男大尉を「世界最初の正式人間爆弾」と称し、陸軍嫌いで知られた豊田副武(とよだそえむ)連合艦隊司令長官(海軍大将)は、「忠烈万世に燦たる」敷島隊の殊勲を全軍に布告、その後「特攻」「カミカゼ」は、体当たり攻撃の代名詞になった。また、関大尉は、特攻による戦死で海軍大尉から中佐に2階級特進した。

海軍省は、1944(昭和19)年10月28日特攻出撃を軍艦マーチとともに特別放送で流した。 

翌10月29日付『東京朝日新聞』は、「神鷲の忠烈万世燦たりー神風特別攻撃隊敷島隊員 敵艦隊を捕捉し必中必殺の体当り」との見出しで報じ、アサヒグラフ(44年11月8日号)も「銀翼の神々ー忠魂薫る神風特別攻撃隊」との見出しをもって、「機、人もろとも爆弾となって適機に突進する神鷲。若冠、紅顔の若人は莞爾として続々この壯途にのぼり、敵を侵駭戦慄せしめつゝある……」との解説付で、特攻第1号の海軍大尉関行男攻撃隊長とその妻満里子未亡人(のち再婚)の写真を掲載した。

説明: 説明: 説明: 説明: http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/sekiyukio.files/image025.jpg

1944年10月29日『東京朝日新聞』

機・人諸共敵艦に炸裂

27日大本営より発表されたフイリピソ沖海戦の赫々たる戦果中、25日の戦闘で空母1隻を撃沈し、空母1隻を撃破、巡洋艦1隻を撃沈した戦果は、わが必死必中隊、神風特別攻撃隊敷島隊員関海軍大尉以下五神鷲の命中によつて挙げられたものであることが判明した。この朝艨艟相連ねて比島東方海面に突如出現した。わが海上部隊の奇襲と呼応、指揮官、戦友と最後の訣別をなした神風特別攻撃隊員は征きて再び還らざる○○基地を飛び立つた。生きて二たび相会ふことのない征途に出でたつ海鷲を見送る戦友の言葉もない。崇厳な見送りの裡に基地を進発した、攻撃隊は誘導、護衛機に導かれつ一路、敵艦隊を索めて飛翔、午前○○時頃、スルアソ島東方洋上に中型航空母艦4隻を基幹とする敵を発見した。敵上空には既にグラマソ戦闘機が群れ飛びわが行手を遮り、襲ひかゝつて来たが、この敵機に対し、わが誘導護衛隊が敢然応戦、特別爆装を施したわが特別攻準隊は敵機群を突破さらに敵艦隊の猛烈を極める防禦砲火の真只中を只一途にそれぞれ目標を定めた敵空母に遉進、中型空母1隻に対し、2機命中、機人もろとも敵艦に炸烈、敵艦ば忽ち大火災を起して沈没、更に他の中型空母1隻に対し1機命中これを撃破、空母を直衛する巡洋艦1隻にも1機命中、一瞬にして、轟沈せしめた。

わが誘導護衛機はこの神鷲の最後と、その戦果とを確認し、神と化して再び帰らざる荒鷲の、たゞその殊勲の報のみを待ち焦れたる基地に報告をしたのであつた。

身を捨て国を救ふ崇高極致の戦法

身をもつて神風となり、皇国悠久の大義に生きる神風特別攻撃隊五神鷲の壮挙は戦局の帰趨岐れんとする決戦段階に処して身を捨てて国を救はんとする皇軍の精粋である。愛機に特別爆装し、機、身もろ共、敵艦に爆砕する必死必中の戦法は絶対に帰還を予期せざる捨身の戦法であり、皇軍の燦撚たる伝統の流れを汲み、旅順閉塞隊あるひは今次聖戦劈頭における真珠湾特別攻撃隊に伝はる流れに出でてさらに崇高の極致に達したものである。殊に神風隊はかねて決戦に殉ぜんことを期して隊を編成して護国の神と散る日を覚悟して猛訓練を積んだものである。勢に余つて死するは或は易い、しかし平常死する日を期してひたすら、その日のため訓練を励むがごとき、果して、神ならざるもののなしうるところであらうか。さらに、同隊には必中機隊の他にこれを護衛し、かつ戦果を確認する任務をもつ誘導護衛機隊があり、これが一隊をなす編成を持つてゐる点にまた中外の決死隊の前例に比類を見ないものである。台湾沖海戦以来、今次の決戦で数知れぬ荒鷲が体当りをとげた。1機をもつて1艦を必殺する戦法は敵を震撼せしめてゐる。先には航空機隊司令官有馬少将の体当りがあつた。有馬少将は基地進発に当つて、機に搭乗する際胸間に勲章を飾り、威儀を正し、出発前既に体当り戦死の覚悟を見せてゐたといふ。われわればこれらの事例、殊に今回の神風隊の壮絶な最後を思ふ時、この神鷲達の覚悟はまた前線全将兵の覚悟そのものに外ならないことを知るのである。今次決戦は勝敗の趨勢を決するものである。この重大決戦に臨んで、前線将兵はことごとく生還を期せざる覚悟を固めてゐるのである。戦争の事態はこゝこまで切迫してゐることを、われわれは改めて心にかみしめねばならない。

神風隊の必中隊を指揮し、この壮挙を命令する上官の心事を想到する時、指揮官の胸中にも敵艦に体当りするため還らざる進発をなしてゆく神鷲と同じ心境が流れてゐるのである。指揮官もその部隊を編成し訓練してゐる当時から、一度征途に上つては再び家郷を望まざる、固い決意が潜んでゐるのである。米内海相はかつて、

寡を以て衆を破るは古来日本兵法の妙義である。今後の作戦において尚各種のうつべき妙手の必勝方策あるを確信する

と述べた。まことに皇軍の妙案は、この神風隊の壮挙にその一端を露した。科学と物量とを唯一つの恃みとする敵に対し、科学を超越した必死必中のわが戦法は、わが尊厳なる国体に出づる崇高なる戦ひの妙義であらう。豊田聯合艦隊司令長官は神風特別隊の偉功を表彰して「忠烈万世に燦たり」と賞した。まことにその身は死して、その忠誠は万古に薫り、身をもつて戦勝への道をー唯一つの戦勝への方途をわれわれに示したのである。われわれば聯合艦隊司令長官の布告をもつてたゞ聯合艦隊のみへの布告と見てはならない。この布告は全国民に対する布告であり、わが身への布告であると思ひ、決戦に臨む覚悟を一新すべきである。

廿四歳以下の若桜

比島決戦に初めてこの名を現した神鷲神風隊はその別名を必死必中隊といふ。元寇の役に来襲の元軍を覆滅し神国の危急を救つた、かの神風にわが現身をもつて代へ、敵米英の来寇によつて皇国興廃の重大関頭に立つ現戦局の危急を必中の体当りをもつて救はんとの意気から結成されたものである。神風隊は、この特別攻撃機隊の総称で、その下に敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊及菊水隊の諸隊がある。死所を得れば鮮かに散るわが大和魂、その大和魂を詠じたかの『敷島の大和心を人はゞ朝日に匂ふ山桜花』の一首より、それぞれその隊名を選んだものであり、また菊水隊とは楠公父子の七生報国の精神にちなんで名づけたものである。

今回の神風隊のさきがけとして散つた隊員は関大尉の24歳を始め、すべて20歳、21歳の若桜である『帰らじとかねて思へば梓弓』と詠草を残して悠久の大義に死する征途に出た小楠公の心事、その心事がすべて神風隊の心であり、絶対に生還を期さない必死隊である点に戦史に比類なく、古今に絶する壮烈なものがある。比島沖に戦友を見送つた残る隊員もまた身をもつて神風たらんと固く期しつゝあるといはれる。

 以後関大尉は、軍神として祭り上げられたが、神風(当初「し〈じ〉んぷう」と呼んだ)特別攻撃隊の任務は、戦艦大和をはじめとする連合艦隊がレイテ湾へ突入するのを助けることだった(レイテ沖《湾》海戦【日本側呼称は比島沖海戦−捷1号作戦】)。

没後10年目の1954(昭和29)年10月25日の命日に伊予三島市に墓碑が建てられ、さらに、1973(昭和53)年3月、生まれ故郷の西条市の楢本神社に西条市の旧海軍々人をもって組織する海軍会が「遺族無き軍神、関行男」の慰霊碑を建立、命日の10月25日に、神風特攻隊の『第1号』敷島隊の5軍神を放散する慰霊祭が行われており、当日は呉音楽隊の派遣をはじめ、自衛隊の各航空隊による慰霊飛行のほか、護衛艦隊が西条港に入港したことがある。

「大東亜戦争末期、敵の大機動部隊のレイテ湾進攻を阻止し、大和民族の純潔を守らんとして神風特攻第一号敷島隊は、一機一艦轟沈を目差して世界最初の公式の人間爆弾となり国家悠久の大義に殉ず」…

神風特攻隊の第1号として、新妻を残してレイテ沖に散った関行男大尉と、ポツダム宣言受諾後の1945年8月15日、敗戦を知らされないまま、新妻を残して最後の特攻隊を率いて沖縄へ飛び立った大分県津久見町に生まれの中津留達雄大尉は、軍兵学校の同期生(第70期)であった。

敗戦後、特攻隊に対する世間の目は厳しく、生きて帰れば「特攻帰り」とさげすまれ、“軍神”関大尉の母サカエは生活に困窮し、草餅を作って売り歩いたが、石を投げつけられることもあった。

なお、中津留達雄大尉に焦点を当てたベストセラーが、A級戦犯として処刑された広田弘毅元首相を題材にした『落日燃ゆ』(吉川英治文学賞受賞)『毎日が日曜日』『総会屋錦城』(直木賞受賞)など伝記小説や経済小説の第一人者として知られ、07年3月22日間質性肺炎のため79歳で死去した作家城山三郎著の『指揮官たちの特攻』であるが、同書の中に関大尉に関する記述がある。また、同氏は、関行夫大尉や中津留達雄大尉らに対する無念の思いで17歳の時、海軍特別幹部訓練生に志願した。

関行男大尉の遺書

西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。

今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。

武人の本懐此れにすぐることはありません。

鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。

本日、帝国の為、身を以って母艦に体当たりを行い、君恩に報ずる覚悟です。

皆様御体大切に。父上様、母上様。

説明: 説明: 説明: 説明: http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/sekiyukio.files/image028.jpg

説明: 説明: 説明: 説明: http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/sekiyukio.files/image029.jpg

アサヒグラフ1944(昭和19)年11月8日号

1944(昭和19)11月15日付の『写真週報』

表紙は、1944(昭和19)年10月のレイテ沖海戦で米海軍の空母に突入した神風特別攻撃隊の一隊敷島隊の隊長関行男大尉の肖像画


48. 2013年12月25日 20:33:58 : oIjRF9fAyw
>>46
阿呆はお前さんだ 航空機搭乗員を養成するのにどれ程の労力を要するか判ってんのか?
同じパイロットで3倍の敵なら戦果としての価値は高いが(それでも3倍程度じゃ勝ち目は無いが)
小型艦艇の乗組員などの3倍ぐらいでは 全く持って釣り合わん
せめて正規空母の一隻でも沈められたのなら判るが こんなもんで「大戦果」 などと言う
そのお目出度い頭では、ウヨの自己満足に過ぎん事だ

あくまでも、「それなりの戦果」 だよ、大戦果などとは御世辞にも言えないぞ
”日本の無条件降伏”という動かし難い歴史的現実が 何よりの証しだ。


49. 2013年12月25日 22:39:26 : uUZsBwXlR6
飛行機なんて高価な兵器与えられて華々しく死に行くのは当時としては
贅沢中の贅沢、食糧や武器弾薬も無く戦わずして病気や飢えで死んだ者達の
事考えろよ、当時の状況の中で無駄死に程悔しい事は無かったんだってさ。
そして戦中の死亡内訳では戦闘で死んだ者より飢えや病気で死んだ者の方が
多かったって話だ、それに陸軍兵士を輸送船で送る途中沈められたりとかで
戦わずして死んだ者達は浮かばれないね。

50. 2013年12月26日 02:48:43 : oIjRF9fAyw
>>49
全くもって その通り 一瞬の内に死んだであろう特攻隊員は まだマシな方だ

南方戦線やインパール作戦で、草木をかじり 泥水をすすり 地べたを這いつくばり
挙句の果てに無残な屍を晒した一般兵士達こそ どれほど無念であった事か
彼らこそ 無駄死にの極みと言えるだろう、愚かな軍上層部に殺されたと言って差し支えないでしょう。

こういう話題になると ネトウヨ共は 完全に黙ってしまいますけどね^^;


51. 2013年12月26日 07:45:49 : COPxyZHbws
48は底なしの大馬鹿だ。
フィリピンの人たちを見習うべきだ。
米海軍のベイツ中佐が特攻隊の戦果を認めている。
48は無駄なことをしている。
この意見を撤回・修正することは断じてあり得ない。

52. 2013年12月26日 07:51:00 : erzbtKNXhk
現代では補給なき無謀な作戦として常に批判に晒されてきた「インパール作戦」。

1944年3月から開始されたこの作戦は、日本軍3個師団(第15師団「祭」、第31師団「烈」、第33師団「弓」)の合計78000人とインド国民軍約15000人が、ビルマ(現ミャンマー)からインド東端に位置する英軍の要衝インパールの攻略を目的として戦われた一大作戦であった。

緒戦では日本軍が快進撃し、南から第33師団「弓」がインパールに迫り、これに呼応して東から第15師団「祭」がインパールを圧迫した。そして一番北側に位置していた第31師団「烈」は、インパール北方のコヒマを占領したのである。

勿論インド国民軍もよく戦った。インド国民軍の各部隊は、日本軍と共に各地で勇戦敢闘し、南部のフォーラムやハカの近郊ではでは、インド国民軍だけで英軍と戦闘を繰り広げた。こうしてインド国境を越えて進撃する日本軍とインド国民軍は、インド領内各地で次々とインド国旗を打ち立て、首都デリーへの進撃を誓い合ったのである。

インパール作戦はインドでは「インパール戦争」と呼ばれ、対英独立戦争として位置づけられている。当時の写真を見ると、インドの人々が進撃する日本兵を歓迎しており、つまり日本軍はインド独立を支援した”解放軍”として迎えられているのだ。従ってインド人は、かつて日本が”侵略戦争”をしたなどという歴史観を持っていない。

日英両軍が死闘を繰り広げたインパールの北方18キロのマパオの村では、地元のニイヘイラ女史によって作られた実に美しいメロディーの『日本兵士を讃える歌』が今も歌い継がれている。

父祖(おや)の時代(とき)より
今日の日まで
美しきマパオの村よ
いい知れぬ喜びと平和(やすらぎ)
永遠(とわ)に忘れまじ

美しきマパオの村に
日本兵来り 戦えり

インパールの街目指して
願い果たせず
空しく去れり

日本兵 マパオの丘に来る
それは4日の火曜日
1944年のことなりき
我は忘れじ4月のあの日

罪なき民も散り散りに
西に東に追いやられ
再び神の恵み受け
集まり住まん
この地マパオに

広島の悲報
勇者の胸をつらぬき
涙して去れる

日本の兵士よ
なべて無事なる帰国を
われ祈りてやまず

(DVD『自由アジアの栄光』)

このように日本軍兵士は今でも地元の人々から尊敬され、そして感謝されているのである。

日英両軍の大激戦地の1つ、マニプール州2926高地近くのグルモハン・シン氏はこう語る。
≪日本の兵隊さんは命を張って私たちを戦場から逃がし、戦ってくれました。今こうして私たちが生きていられるのも、みんな日本の兵隊さんのおかげだと思うと感謝の気持ちでいっぱいになります。一生この気持ちは忘れることはできません≫(同前)

そしてこの丘の麓のロトパチン村には、現地の人々によって建てられた日本兵の慰霊塔があり、毎年日本兵の供養が行われているという。そしてこの慰霊塔建立の推進役となったロトパチン村のモヘンドロ・シンハ村長はこう語っている。
≪日本の兵隊さんは飢えの中でも実に勇敢に戦いました。そしてこの村のあちこちで壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動の全ては、みんなインド独立のための戦いだったのです。私たちはいつまでもこの壮絶な記憶を若い世代に残していこうと思っています。そのためここに兵隊さんへのお礼と供養のための慰霊塔を建て、独立インドのシンボルとしたのです≫(同前)

また別の激戦地コヒマでも同じように、日本軍は賞賛されているのだ。

日本軍が去った後にコヒマに群生し始めた紫の花が「日本兵の花」と名付けられ、そして日本軍兵士によって仕留められたイギリス軍のM3グラント戦車が「勇気のシンボル」として保存されているというから驚きだ。

そして日本軍兵士の規律もまたインドの人々から賞賛される対象だったのである。
≪現地の人々は、日本人が軍規粛正で特に婦人暴行が全くなかったことを、常に賞賛します。それは、コヒマでもインパールでも同様です。日本軍を追ってここへ来た英印軍は、略奪と婦人暴行が相当ひどかった(西田将氏談)ため、統制の取れた日本軍の姿が心に残ったのでしょう≫(名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』展転社)

独立インドの理想に燃えるインド国民軍の兵士達と勇敢な日本軍兵士は共に『チェロ・デリー』(征け征けデリーへ)という歌を唄いながらインドを目指したのだった。

この曲は日本語でも歌われており、その歌詞は次のようなものであった。

征け征けデリーへ 母の大地へ
いざや征かん いざ祖国目差して
征け征けデリーへ 母の大地へ
いざや征かん いざ祖国目差して
進軍の歌は 今ぞ高鳴る
我等の勇士よ 眦あげて
見るよ翻るよ 独立の旗

インドの親日感情はこうした歴史から醸成されたものなのだ。

インド最高裁弁護士のP・N・レキ氏は次のような言葉を残している。
≪太陽の光がこの地上を照らす限り、月の光がこの大地を潤す限り、夜空に星が輝く限り、インド国民は日本国民への恩は決して忘れない≫


53. 名無しの石ころくん 2013年12月26日 16:50:29 : A3vtqeK778sUc : S0mKjfYnMA
>>51

あぁ、ベイツが言ってたんだからそうに決まってるよ


54. 2013年12月26日 20:38:17 : FSUufI66oP
これほども様々多くの人々を殺しておきながら、大元の権力者らは誰も責任取らない日本とは一体なんという国なのか。

この状況は今も同じ。例えば福島原発事故下手人らは野放しのままだし。そもそも先般の子孫のそれも大バカのアベゲリゾーなどを首相などに据える国だ、全く話にならぬということか。


55. 2013年12月27日 02:54:40 : oIjRF9fAyw
「生きて虜囚の辱めを受けず」 などと 玉砕を強いられた兵士達

米軍と戦う以前に 飢えとマラリアに 次々と無念の屍を晒した兵士達

レーダーとCICを駆使した防空網の中に 旧式の飛行機で突入させられた未熟な搭乗員達

これほど多くの兵士達を無駄に死なせておきながら、敗戦後ものうのうと生きていた体制側の人間達
こんな卑劣漢どもを讃えて靖国に奉ったりするから 余計な軋轢を生むのである

そしてなによりも無駄死にさせられた兵士達は、特に飢え死にさせられた兵士達は
愚かな軍上層部を どれほど恨んで死んでいった事か 誰にでも想像ぐらいは付くであろう

「冗談じゃねえ! なんでこいつらまで俺たちと同じ所へ来るんだ?」
無駄死にさせられた兵士達は 絶対にこう言うに決まっている筈なのだ
加害者と被害者を同じ墓に入れるようなものである

馬鹿で愚かな 日本の戦争指導者まで靖国に奉ってしまっては
無駄死にさせられた兵士達は未来永劫にに 浮かばれる事など無いのです。



56. 2013年12月27日 04:26:27 : CRQ5g5FKv2
実録 ゼロ戦の勇姿 http://www.youtube.com/watch?v=amOBBNC-1HE

零戦との闘い−アメリカからの証言 1 of 5
http://www.youtube.com/watch?v=XuKNTiLmqPY


57. 2013年12月27日 07:55:52 : A4GQ7o9O02
水木しげるさんの「総員玉砕せよ!」には
ワニに引きずりこまれて死んだ戦友のことも描かれています。
ほとんど、戦う以前の段階での無念の死です。

58. 2013年12月27日 13:31:59 : oIjRF9fAyw
私はラバウルで搭乗員を集めて、「絶対に自爆や体当たりはするな」と言いました。俺たちは死にに来たんじゃないぞ、勝ちにきたんだ、と。ところが、敗戦の前年には硫黄島で最初の特攻命令が出た。途中グラマンの大部隊に遭遇して空中戦となり、私の小隊は幸か不幸か敵機動部隊を発見できずに三機そろって生還を果たしましたが、その三力月後、フィリピンで正式に「神風特攻隊」が始まった。しかし、牡攻なんて、そうそう当たるものじゃないんです。そもそも特攻機一機当たったくらいじゃああいう大きな航空母艦は沈みません。じゃあどうするか。
 沈めなくてもいいから、使いものにならなくすればいい。つまり、甲板の中心に大穴をあければいいんです。そうすれば甲板に上がっている連中は海にドボン、下にいる連中は上がって出られない。戦闘能力を失って、民間の汽船と同じことになります。だから、零戦は二百五十キロ爆弾を積んで突っ込んでいったけれど、五十キロ爆弾でよかった。二百五十キロ爆蝉を積むと、スピードが時速二百キロくらいに落ちるから、目標到達前にほとんど撃ち落とされてしまったんです。五十キロ爆弾で高速で突っ込んでいけば、もっと確率が上がる。そうすれば、アメリカは犠牲が増えるのをいやがるから、勝てないまでも負けない戦争になった可能性はある。
 にもかかわらず、やみくもにどまんなかを狙え、そう教える。貴様らの命と引き換えに一艦をつぶすんだから、当たらなければ無駄死にだ、役に立ちたいだろう、だったら俺の言うことを聞け。そう言われれば誰だって「ハイ」と答えますよ。よし、まず角度だ。あまり深く突っ込むな。深く行くとスピードが出過ぎる。三百ノット(約五五六キロ)以上出すと舵が効かなくなるから、それ以上スピードを出さずに、どまんなかを狙え。最後まで目をつぶるな、目をつぶったら命中しない、目的を果たせず、無駄死にだ。最後まで目を見開いて、目標を失わず犯ったところへ行け。……そう言われたって、当たる寸前にはどうしたって目をつぶってしまうんです。だから外れる。言われたとおり突っ込んでいってもなお当たらない。むごい話しですよ。こんなひどい話がありますか、これが特攻の真相です。
 そういうむごいことを言ったのが大西瀧治郎と、それに付いていた源田実。二人とも山本五十六のイエスマンですよ。調子のいいオッチョコチョイです。こいつらが決めるものだから、まったく実戦にそぐわない。まして特攻なんて誰もやったことがないんですから。(大空のサムライ 坂井三郎インタビュー より抜粋)


撃墜王 坂井三郎氏は特攻についてこう語っている

そして坂井さんのみならず、歴戦の勇士の生き残りは皆 口を揃えたように特攻を否定している
外道の戦法、無駄死に、犬死に、こう批判しているのは 後世の人間などでは無い
あくまでもこの時代を生き残った人間達による批判が元々なのである。



59. 2013年12月27日 14:54:07 : bPVEgNPOGI
日露戦争では艦隊対艦隊の砲撃戦であつたが、さきの大戦では機動部隊(空母を中心にこれを護衛する駆逐艦郡)対機動部隊との闘いであつた。 しかして昭和17年6月、日本海軍が仕掛けたミツドウエー海戦は、偵察ミスと暗号情報を解読された事により大敗し、日本海軍主力の機動部隊は大損害、おまけに名人クラスの熟練パイロツトの大多数は海の藻屑となつた  (荒天でも空母に発着艦できるには、7.8年の年月を要する)
この時点で日米戦争は勝負あつたのである。

それでもゼロ戦は補充されたが、熟練パイロツトの補充はない。空戦能力の未熟なため爆撃隊の援護もできない。とどのつまりは特攻攻撃と云う愚策を採用せざるをえなかつたのである。

蛇足、実戦と戦争ゴツコの区別のつかないアベは日本の害である。


60. 2013年12月27日 23:50:22 : A4GQ7o9O02
以前、水木しげるの『総員玉砕せよ!」の話を喫茶店でしてたら
なんと、20代の友人(わたしは50歳を超えてしまいましたが)が
『総員玉砕せよ!」を読んでいて、その感想をメールで送ってもらったことがありました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
友人からのメール

「総員玉砕せよ!」私も小学校の頃に図書館で借りて読みました。
あの漫画のせいで聖という漢字の読み方を「セント」と思い込んでしまい、少し恥ずかしい思いをした事を思い出しました。
常識的な判断で部隊を撤退させた将校と軍医が、大本営参謀の命令で自決させられる場面がありましたね。
鬼太郎と同じ絵なのに不思議なリアリティーがあって、後々まで印象に残っていました。

冒頭、砂浜を「無血制圧」した場面で、天国みたいなところだと言い合っていて、『そう、ここは全員が天国に行く場所なのだ』とキャプションが入るのが不気味でした。


私の返事

むむむ、小学生時代にすでに「総員玉砕せよ!」をお読みとは。
私が、総員玉砕せよを読んだのは、35過ぎてでした。
すでにお読みかもしれませんが、昨年、講談社文庫で、復刊された水木しげるの「白い旗」は、劇画タッチで渋いです。
この中に「ブーゲンビル上空に涙あり」の話があり、これは山本元帥の話です。他にも、貸本マンガ時代の戦争ものが数編。渋いです。
読んでなかったら、今度貸しますよ。

また、お会いするのを楽しみにしております。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
山本元帥も大変謎の多い人物であります。


61. 2014年1月02日 01:39:41 : 7Onnx32U7Q
>>46. 2013年12月25日 19:31:50 : d2bKVaYgD6
44へ

>>特攻隊は12倍の敵と戦闘し、3倍の敵を撃破した。

>>特攻攻撃によって撃沈破された連合運艦艇は実に278隻(300隻超説あり)
米軍の戦死者は1万2300人
重傷者は3万6000人
加えて、あまりの恐怖から戦闘神経症の患者が続出
その戦死傷者の数を比較しただけでも、

>>さらに、米軍の被害報告の中には輸送艦や戦車揚陸艦以下の艦艇をその数に含めていなかったため、その実被害はさらに膨れ上がるとみられる。


そうですね。日本の特攻隊はアメリカ海軍に壊滅的打撃は与えていたようですよ。

アメリカ軍の側の動画記録がアップされています。youtubeで見ました。
当時日本の連合艦隊の戦闘艦は100隻程度だったと思いますけどもこの記録映画ではアメリカの解説で四百数十隻にも打撃をうけてしまい、沖縄戦当時にアメリカ海軍のニミッツ提督が本国にむけて打電しています。

「わが軍の戦闘力ももう戦闘する力はなく、戦闘員の士気はさがり、これ以上日本と戦うことは無理だ」との内容で。アメリカの側の映像記録のほうにですよ。

結果的にはそれが原爆投下になったかもしれませんが日本が終盤でアメリカを追い詰めていたことは間違いないだろうと思います。

僕のおじは3名出征していましたけども地上から機関銃でなんども空襲のたびに応戦したが飛んでいる飛行機を打ち落とすことは難しく、撃ち落とせたことは一度もなかったといっていました。ましてや、動きの遅い船ですので「特攻は効果がなかった」というほうが嘘だったろうと思います。

よく映像で撃ち落とせたシーンがありますけどもそのほうが珍しい映像であったろうと容易に想像します。



62. 2014年1月04日 03:08:42 : oIjRF9fAyw
なんとまあ、呆れた誇大妄想の輩が居るもんだな^^;
大本営発表と全く同じじゃねーか

「アメリカ海軍に壊滅的打撃」 だと? ならばなぜ日本の各都市が焼野原になったのかな?
B29だけじゃないんだぜ、北海道の室蘭や釧路まで空母艦載機による大空襲を受けたのだぞ
呉や横須賀などの軍港だって 米空母艦載機によって大打撃を被っている
戦艦大和の水上特攻には、18隻もの空母から 延べ1000機以上の攻撃機が殺到して袋叩き
圧倒的な米機動部隊は ほとんど無傷にて 終戦まで全くの健在な事は厳然たる事実

なにがアメリカ海軍に壊滅的打撃だよ、大本営による嘘の戦果がいったい何をもたらしたのかね?
ポツダム宣言受諾による日本の無条件降伏 この事実しか他に無いのだ

日本が東西に分割されなかったのも、皇室が廃されなかったのも
すべてアメリカの”お情け”によるものであり、たとえ日本が分割されようと 天皇が処刑されようと
アメリカの領土とされようと、何をされても文句など言えず なすがまま状態だったではないか。


63. 2014年1月08日 12:25:46 : RhObaNecBo
生活を守るための戦いなのに死んでしまえば全く無意味で犬死です。

64. 2014年2月05日 19:50:36 : WzX8nPCmYM

死ぬために戦争やって国を守れるのかね。

やると止めれなくなる戦争の怖さを知らんのか。

弱虫の臆病者だから優れた兵器など欲しがるんだろ。

責任取って死ぬのは勝手だと思ってるのだろうが誰も残された兵器など要らない。

軍事狂カルトの人間など誰一人いなくても日本は大丈夫だ。


65. 2016年6月05日 05:49:33 : fpt8itpB5Q : zW@YYVl31Kw[712]
太平洋戦争じゃない、大東亜戦争だって言うアホウがいますが
正しくは棄民&略奪戦争です

殺しまくって財宝の略奪をしていたら、それが植民地の支配者を蹴散らすことになって
それで予期せず独立しよったいう話で
まぁ、真面目な日本人は大東亜共栄圏構想なるものを信じて戦ってた人もいるのだろうけど
上の連中はそんなことは誰も考えちゃいなかった

とはいえ、中国を任された松井将軍の頭の中には大東亜共栄圏構想があった
しかし、その松井将軍を差し置いて、皇族の指揮する部隊がドドドッとやってきて
殺戮と略奪を行い去ってゆく
松井将軍は朝鮮人天皇にハメられたのでした
失意のうちにその責任をとらされて処刑されてしまった


66. 2016年6月05日 05:59:39 : fpt8itpB5Q : zW@YYVl31Kw[713]
>>62
分かってないね
天皇とユダヤ@アメリカが共謀した戦争なのだよ
天皇がアメリカを使って自国民を殺していた戦争と見ることもできる

東京大空襲にしたって、皇居の地下(御文庫)から米軍に指示を出したと思うね
でなけりゃルメイに「日本人をたくさん殺してくれて有難うニダ」と言うはずがない
それで黒焦げの江戸っ子をどかして、天皇の同胞である朝鮮人を住まわせた
朝鮮人が勝手に住み着いたわけじゃないんだ


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