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映画「風立ちぬ」と私たちの現在[一国労労組員からの視点より:映画内容のネタバレ含む]
http://www.asyura2.com/13/warb11/msg/630.html
投稿者 傍観者A 日時 2013 年 9 月 04 日 04:47:37: 9eOOEDmWHxEqI
 

転載者注:某ML経由で目にした文章で、必ずしも同意できない箇所も幾つもあるが、それでも個人的に示唆されるところが大きい趣旨・内容であると感じ(特に後半の内容は到底他人ごとと見過ごせない視点がある)、転載し拡散する価値はあると判断したため、あえてこの阿修羅にも載せる。ちなみに表題映画について、転載者自身は既に視聴済み(映画館にてパンフも購入)である。

なお、筆者は長年国労労組員として活動経験のある人とのことである。

−−−−−−−−−−−−−−(以下転載)−−−−−−−−−−−−−−−−
http://aoisora.org/hansen/2013/201309kazetatinu.html
映画「風立ちぬ」と私たちの現在
2013/09/03

(いわゆる「ネタばれ」の記述があります。映画をごらんになる予定の方は、後回しにした方がいいかも…。)
「風立ちぬ、いざ生きめやも」

「風立ちぬ、いざ生きめやも」
 難しい言葉ですね。堀辰雄が代表作「風立ちぬ」の中でポール・ヴァレリーというフランス人の詩の一節を訳した言葉です。「風が吹いてきた。そうだ、生きよう。」とでも言い換えられるのでしょうか?
 風が吹くことと、人が「生きよう」とすることに関係はありませんね。けれども人は、たとえば不意に背後から風が吹いて頬をなでていく感覚を覚えた後に、「生きていこう」という気持ちがふっと沸いてきたりする、そういう生き物でしょう。風が頬をなでることは「生きる」ことの根拠にはならない。そもそも生きることに根拠などないけれど、ただ「生きていこう」という気持ちが沸いてくる。「生きる」ことはそういうことだと。「風立ちぬ、いざ生きめやも」という言葉はそう言っているのだと私は思います。

 宮崎駿監督の新作映画「風立ちぬ」は、戦争に向かって日本がひた走っていた時代。生きることが、誰にとっても戦争に向かう社会の趨勢とは無関係ではいられない、そうした時代が舞台です。「美しい飛行機を作りたい」という二郎少年の夢はひたすら美しい夢でしたが、成人した二郎が夢を実現しようとしたとき、それは、敵国米英を打ち負かすことのできる最新鋭の戦闘機を作ること以外にはなり得ませんでした。世の中全体が不況に沈んだ暗い世相の中で、二郎たちは自分たちの作る戦闘機にかかる金で、たくさんの子供たちが飢えを満たすことができるというような会話もします。軍人たちの、無意味でひたすら威張り散らすばかりの演説を、ただただ聞き流す、そうしたシーンも描かれています。「機関銃さえ外せば、要求された性能を達成できるんだが」と言って、若い同僚たちと笑い合うシーンも出てきます。しかし、基本的に、二郎は社会全体が戦争に向かう趨勢に抗うことなく、ただひたすら「美しい飛行機を作りたい」という夢を追い続けます。そして、それは、大日本帝国海軍の主力艦上戦闘機、ゼロ戦として結実します。
 映画の最後のシーン。二郎が夢の中で友情を結ぶイタリア人の航空機制作者カプローニとともに、無惨に焼けこげた無数のゼロ戦の残骸の折り重なった草原を歩くシーンがあります。「飛行機は美しい夢であり、また、殺戮と破壊の道具にもなる呪われた夢だ」と告げたカプローニの予言は的中していました。延々と続くゼロ戦の残骸。その中を行くカプローニと二郎。背景にはとてつもなく美しい音楽が流れて(ベートーベン? どなたか教えてください)、それが美しい夢のなれの果てだということを強調しています。
 残骸の山を指して、カプローニは「我々の夢の王国だ」と言い、二郎は「地獄かと思いました」と答えます。君の夢は実現したのかと問うカプローニに、「終わりはズタズタでした」「一機も戻ってきませんでした」と答えます。そこに、結核で死んだ二郎の妻、菜穂子がどこからともなく現れて「あなた、…生きて」と呼びかけ、そしてまた、どこかに消えてしまいます。

 美しい夢を持って生きたことが地獄のような結末を生むこともある。「生きる」ということはそういうことではないか。それでも「生きよう」、「生きていこう」というのが宮崎監督のメッセージでしょう。映画「風立ちぬ」のポスターには「生きねば!」というキャッチコピーが黒々と書かれています。
戦争を賛美しているという批判

 「風立ちぬ」は戦争を賛美する映画だという批判があることを、最近になって知りました。

 堀越が三菱に属し、海軍のために造りだした戦闘機がこのようなこと(重慶への無差別爆撃 ※引用者注)を担ったことについて、映画「風立ちぬ」では何か捉え返しがあるだろうか。
 無い、といわざるをえない。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20130818/1376755046

 夢の飛行機をつくる人生もいいですが、戦闘機の美しさは戦場の現実と裏表の関係にある。宮崎駿が戦争を賛美しているとは思いませんが、戦争の現実を切り離して飛行機の美しさだけに惑溺(わくでき)する姿には、還暦を迎えてもプラ模型を手放せない男のように子どもっぽい印象が残ります。
http://mainichi.jp/opinion/news/20130722org00m200999000c.html

 私の母は、東京大空襲の被災者である。戦闘機に追われ、機銃掃射を受け、あと30センチ横にずれていたら母は死んでいた。そして、母と一緒に逃げ惑った母の友人は機銃掃射の弾丸に打ち抜かれ亡くなった。もし母が死んでいたら、私は生まれてこなかったのだ。
どう妥協しても、私は戦闘機を設計した人間を、たとえ国が違えども許すわけにはいかない。
http://www.labornetjp.org/news/2013/0727eiga

 上映が予定されている韓国でも批判する声が上がっています。

「(『風立ちぬ』を公開するのなら)米国の原爆開発者ロバート・オッペンハイマーを主役に、『爆弾裂けぬ』なんてアニメを作って封切りすればいい。それなら見ものだ」
「徹底的に自分たちを被害者として描く、戦争の惨禍は描いてもその原因には言及しない、典型的な日本国民用の自慰的映画だ」
「そもそもゼロ戦を開発した三菱重工業は、朝鮮人を徴用して働かせていた会社ではないか」
http://www.j-cast.com/2013/08/12181362.html?p=1

 批判には誤解もありますが、それぞれ根拠があり、起きるべくして起きた批判だと思います。堀越二郎は三菱重工でゼロ戦を設計した実在の人物であり、とりわけ侵略された諸国の人々から見れば、絶対に許せない人間の一人に数えられるかもしれません。そんな人物をなぜ宮崎駿監督は映画化したのでしょう。それは、宮崎監督自身が、少年のころからずっと、「美しい飛行機」へのあこがれを持ち続けてきたからでしょう。映画の中の堀越二郎は、実在の堀越と「風立ちぬ」を書いた堀辰雄の二人を下敷きにして創作されていますが、そこには宮崎駿監督自身も色濃く投影されています。
 宮崎作品には空を飛ぶシーンと美しい飛行物体がたくさん出てきます。宮崎監督は、たとえば目の前で「あなたは還暦を迎えてもプラ模型を手放せない男だ」と指摘されたら、嬉しそうに「そのとおりです」と言うと思います。宮崎駿監督にとって、実在の堀越二郎は客観的に批評できる他人ではなく、否応なく自分を投影してしまう存在だった。「美しい飛行機」にあこがれ、「美しい飛行機」を作る夢に存在全体を捉えられていた堀越がもしも自分だったら、社会全体が戦争に巻き込まれていくあの暗い時代をどう生きただろうか?
 人殺しの道具をつくることを決然と拒否して夢を投げ捨て、戦争に反対して生き抜く人物を描くことも可能だったと思います。もちろんそれは宮崎作品ではなく、別人の作った別の映画になりますが…。宮崎監督はあえて、社会の趨勢に抗わず、与えられた社会状況のなかで「美しい飛行機」という夢を追い続けた人物を描いた。そして、美しい夢はおびただしい人々の死の折り重なる残骸の山となりはてたのです。
 堀越は所詮エリートであり、戦場で死んだ下層の人々とは違うという批判も当然あると思います。美しいものに魂を奪われ、美しい飛行機を作ることだけに心奪われた夫から、看病されることもなく一人で死んだ妻に「生きて」と言われる。そんな都合のいい話はないという批判も当然あると思います。
堀越二郎と私たち

 しかし、私は、映画の中の堀越二郎は、宮崎駿監督にとってそうであったように、私たちにとっても、決して他人ではあり得ないと思うのです。

 「戦争放棄」を定めた憲法9条を改定しようとする動きが加速しています。衆議院選挙と参議院選挙をへて、憲法9条の改定は現実の問題となりつつあります。軍服を着て戦車に乗って見せた男が首相となり、自民党の改憲案は自衛隊の国防軍化を打ち出しています。コリアンタウンでは「朝鮮人を殺せ」と公然と言い放つ人々のデモ行進が行われています。沖縄では米軍基地の縮小を求めて島ぐるみの闘いが起きていますが、墜落事故の原因も明らかにならない中でヘリコプターの飛行を再開したアメリカに、日本政府はなすすべもなく同調し、新型輸送機オスプレイの配備強行に対して、沖縄の人々の怒りは頂点に達しているのに、それに連帯する本土の闘いは遅々として拡大しないように思えます。
 私たちは、こうした社会状況の外で生きることはできません。そして人は生きるとき、夢を抱えずに生ていくことはできないのです。それが、どんなにささやかであっても、「美しい飛行機をつくる」という大きな夢ではないとしても。
 「戦争放棄」を国是としてきたはずの国で、「戦争のできる国」をめざす動きが加速している。私たちは否応なくその国の中で、それぞれがそれぞれの夢を抱えながら生きることを余儀なくされているのです。

 宮崎駿監督は時代の状況を常に考え抜き、その時代の状況の中から作品を生み出してきました。自分の意見を一方的に主張するのではなく、時代の趨勢、時代を動かしている様々な要素のベクトルの中に分け入り、時代の趨勢の中に希望へのベクトルを見いだし、その希望を励ますようなやり方で作品を作ってきました。初期の代表作「風の谷のナウシカ」がそうです。月刊誌アニメージュで「風の谷のナウシカ」の連載が始まった1982年、世界中で巻き起こったベトナム反戦闘争の記憶はまだ風化していませんでした。高橋源一郎氏の解説を聞くまでもなく、風の谷を襲う凶暴な帝国トルメキアはアメリカの隠喩であり、戦争と核のない世界への希望が、今よりずっとたくさんの人々の心を捉えていた時代背景の中から、平和への希望を象徴するかたちでナウシカの闘いが描かれました。原作をもとに作られた映画「風の谷のナウシカ」は今思い返しても美しい作品です。
 「風の谷のナウシカ」を世に問うた宮崎駿監督が、30年たって「風立ちぬ」を作ったことの意味を考えねばならないと思います。少なくとも宮崎監督の脳裏に浮かぶ時代の趨勢の中では、平和を希求する人々の希望の声はずっとずっと小さくなってしまった。そんな中で、時代状況の中に沈潜しながら希望を作品にすることは「ナウシカ」の時代に比べてずいぶん困難だったと思います。そして、宮崎監督はどんな状況の中でも「生きろ」ということを主題とする物語をつくった。ただ頬をなでていく風に励まされるように、「生きねば!」

 二郎が生きた時代もいろんな出来事があったが、それでも人は生きてきた。地震はあるし、原発もなくならないし、その中でどうやって生きるかが、今自分たちに問われていることだ。だが、がっかりすることはないと僕は思う。人を好きになって、しっかりご飯を食べて、子供を大事にして生きていけばいい。
http://www.sankeibiz.jp/express/news/130715/exf13071500300000-n3.htm
「生きようとする力」は信頼に足るか?

 どん詰まりの世相の中で、明るい未来を希求する人々の声は聞こえず、悪化する状況の中で、方向も歩調も、何の限定もなく、ただ「生きよう」とする人々の営みに依拠しよう。たとえいかなる根拠すらないとしても、生きようとする人々の夢、人々の人生が消えてしまわないかぎり、どん詰まりに見える状況もやがて克服されていくだろう。「風立ちぬ」はそう言っているように思います。
 宮崎駿監督はアジテーターではありませんから、「こう生きよう」「こちらに向かえ」とは言いません。ただ、「生きようとする力」を肯定するだけです。人間の生きようとする力の中には、根元的に「平和に生きる」、「連帯して生きる」という力が内包されているという考え方、人間の生を肯定的に捉える考え方は、すべての宮崎作品に一貫しています。「風立ちぬ」もそうだと思います。

 私達の主人公二郎が飛行機設計にたずさわった時代は、日本帝国が破滅にむかってつき進み、ついに崩壊する過程であった。しかし、この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。
http://kazetachinu.jp/message.html

 しかし、こうした「捨て身」の描写の中から戦争に抗う力が生まれてくると、宮崎監督は信じているのではないでしょうか。戦争の善悪を指摘する描写を封印した「風立ちぬ」は、「戦争のできる国」に向かってひた走る現在の日本社会に対応しています。そして、「戦争のできる国」に抗う人々の闘いのベクトルが、たとえ今は失われてしまったように見えるとしても、人々の「生きよう」とする営みが続く限り、それはいつか、平和と平安をもとめる人々の声となって復活するのだと、宮崎監督は信じている、または「信じたい」からこそ、「風立ちぬ」を作ったのだと思います。私は、「風立ちぬ」は、そういう意味で、ぎりぎりのところで戦争を批判する映画たり得ていると思います。そしてそれは、ぎりぎりのところで憲法9条の改定を阻止している、日本民衆の現在に対応していると思うのです。  

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コメント
 
01. 2013年9月04日 05:35:46 : qdoaLkUT3Y
こんなつまらない教養のひけらかしは雑談板でどーぞ。w
ここは軍事情報板で映画や文学の教養自慢板(「どんなもんだー、おれはこんなにすごいんだぞ。まいったか」)ではございません。

02. 2013年9月04日 09:42:51 : nJF6kGWndY

陳腐な言いかただが、戦争というものの、多様な価値感や動機を持ったプレイヤーが奏でる死の協奏曲ということだな



03. 2013年9月04日 12:03:26 : oSrMprFwsw
延々と宮崎駿を擁護している文章。

この人はジブリから金を貰っているんじゃないのか、と思わせるほどだ。

宮崎駿は平和主義者、ヒューマニストであり、「風立ちぬ」は戦争を賛美しているわけではありません、と弁明しているわけだが、どう考えても宮崎駿も富野由悠季と同じで戦争というものに魅了されているように感じる。


04. 2013年9月04日 14:24:10 : 7CacKTUh7k
はだしのゲンほど悲惨さは書かれていないが、「日本は破滅する」「国を滅した」という台詞が出てくる。
主人公自身が特高に狙われ、身に覚えのない事で仲間が連行されたという話が出る。
「美しい所だけ見せたかったんだね」ゼロ戦なのに戦争そのものを描かないからそういう批判があるのは仕方ない。

05. 2013年9月04日 21:36:30 : LitcVm4Jh2
一人も帰ってこなかったじゃなくて、一機も帰ってこなかったってのが、軍事お宅の本領発揮だ。でも東京で0戦の飛べるやつの展覧会があったそうだ。

06. 2013年9月04日 23:35:46 : pbGtlhns2o
当方も飛行機がすきだし、あちこちの博物館に行ったものだが、ゼロ戦については傑作機どころか悲劇の飛行機だと思っている。日本人なのにゼロ戦を批判するとは非国民だが、ニュージーランドやオーストラリアで暮らしていて、日本に戻ってくると、何だか帰国の感じじゃなくなってきているけどね。あっちがホームみたいな感じ。

堀越先生はゼロ戦の前には九六式艦上戦闘機を設計しているが、これが運動性に優れていた。航続距離が短くて、中国大陸の重慶に亡命した国民党政府に対して戦略爆撃を行なう九六式陸上攻撃機に随伴することができず、九六陸攻は甚大な被害を出した。これを護衛する戦闘機として、航続距離の長いゼロ戦が開発されたのである。

ゼロ戦も九六陸攻も共通点と言えば、極限まで軽くして航続距離を稼ぐ設計にあり、九六陸攻はインテグラルタンクそのものが主翼を形成している。ゴム防弾すらなかった。これが被害を大きくした。ゼロ戦も防弾装備がないに等しく、パイロットは腕前で敵の弾を避けるしかなかった。

日本海軍の軍用機を操縦するためには、月月火水木金金と呼ばれた過酷な訓練で操縦の腕を上げるしかなかった。操縦者の技量に頼りすぎの軍用機であり、一流パイロットを防弾設備のない軍用機で多数失ってしまってからは、アメリカ側に押し捲られる原因となるのである。マリアナ海戦で悲劇の七面鳥撃ちとなったのである。

アメリカの軍用機は防弾設備をとにかく充実させていたため機体が重く、これを無理やり飛ばすため高出力エンジンを採用していた。ゼロ戦が試作機のテストを繰り返していた1939年の時点で、アメリカは2000馬力級のエンジンをモノにしていたのである。ゼロ戦はその時、930馬力しかなかった。

日本側も1942年の段階でゼロ戦に未来がないことを知っていた。このため雷電を開発することとなり、ゼロ戦の設計者である堀越先生が担当することになった。ところが、この雷電で彼は大失敗したのである。爆撃機用のエンジンを搭載して、空気抵抗を減らすためにプロペラ位置を前に伸ばして防錘型の機体にした。ところが延長したプロペラ軸の振動の問題が解決せず、実用化が大幅に遅れた。それと言うのも、当時の日本は機体設計をする能力はあったものの、プロペラの技術を全て外国の技術に頼っていた。戦争で新技術が入ってこなくなり、解決できなくなったのである。このへんが当時の日本の技術の限界であったのである。

1944年秋になると本格的なB29による空襲が始まり、航空機エンジンの一大生産拠点であった名古屋市の三菱重工大幸工場が猛爆撃で壊滅。今のナゴヤドームのあるところだ。この時点で日本はアメリカに負けたのである。当方のお世話になった人も、かつてここで働いていた。多くの同僚を失い、途方にくれた。戦後、もう軍需産業に関わりたくないと、農業を志し、原野を開墾して農地にしていったのである。彼は集団農家の指導的立場を長く努めたそうだ。

堀越先生は戦後、GHQによって日本が航空機研究を禁じられても飛行機をやろうと心に決めて、通産省主導の国家プロジェクトであったYS-11計画にも参加する。しかしYS-11は商業的に成功したとは言えず、生産した日本航空機製造も解散した。エンジンがイギリスのロールス・ロイスだったし、英語圏の人々からはホーカー・シドレーHS748のコピーと言われたものだ。

アブロ 748
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%AD_748

日本航空機製造 YS-11
http://ja.wikipedia.org/wiki/YS-11

ホーカーシドレーHS748はニュージーランドで何度も乗りましたが、YS-11より少し小さいくらいで、乗っていても同じようなフィーリングでした。何しろエンジンが同じですから、同じ音を出していました。戦前は自国でつくっていたのに。

youtube動画から、他の人が撮影した動画を紹介します。

HS-748 Mount Cook Airline Christchurch to Queenstown New Zealand 1988
http://www.youtube.com/watch?v=l52yUx6aR00

こちらはカナダの空港です。

Air North HS-748 - Engine Start-up & Departure Rwy Rwy 31L from Whitehorse Int'l (YXY), Canada
http://www.youtube.com/watch?v=qlbmUxMSpWo

北海道、中標津空港でのYS-11です。
http://www.youtube.com/watch?v=8qldockQozM

あちらで結婚した金髪美女に、「あら、ホーカーシドレー748、日本でもつくっていたんですか。」と言われてしまっては、堀越先生、立つ瀬がないよ。


07. 2013年9月05日 19:01:47 : LitcVm4Jh2
ニュージーはいいよな。田舎の飛行場じゃ学生でも飛行機が飛ばせるようだしな。

堀越ってなぜか、昔から気に入らなかった。坂井三郎は大好きだ。この二人は戦後、ゼロ戦伝説で飯を食った共犯者でもある。

でも、永遠のファイター三郎は海軍に批判的で戦後の海軍閥でも源田等を完全に敵に回していた。

この映画は政治的思想的にとうに敗北した個人的言い訳映画だ。これは繰り返し言っておいてもいい。思想的に立っているのもやっとのへろへろ状態での免罪符映画だ。

だから、坂井じゃなくて堀越や堀なんだ。でも主役は死んだ堀じゃなくて防衛大学校教授の堀越だ。ようするに時流に逆らわないテクノクラートの言い訳だ。

お宅であること腰抜けであること時流に流されたことを開き直るぐらいでしか正当化できない腰抜け振りは、見る人が見ればそれは違うんじゃないというだろう。

しかし、ずるいのはそれでも時代に乗ることが優先で、ようするに現実社会で勝ち組になればいいと言うスタンスだ。あのエバ何とかとか言う監督を使ったのも世間的に勝った王子様だからだ。お宅で腰抜けでもそこまでして支配層の頂点に立ちたいか。

恐らく空飛長坂井三郎は無責任な将校やインテリ側視点のものとして気に入らないだろうし、敬礼もしないだろう。なにしろ未来が殆ど見えないしな。


08. 2013年9月05日 19:16:06 : 6YIJI1KwZk
アニメ「風立ちぬ」を見ていないので、気ままな感想です。

「筆者は長年国労労組員として活動経験のある人」とのことですが、本当でしょうか?

筆者は、戦争をもう一度しなければ、「平和と平安をもとめる人々の声」は「復活」しないことを、「与えられた社会状況」として肯定しているように見えます。

戦争の犠牲者は、それを始めた支配者たちの子息ではなく、筆者の子供や孫である一般庶民です。

庶民が、「社会の趨勢に抗わず、与えられた社会状況のなかで」、「美しい」と信じ込まされた、自分の「夢」だけを「追い続け」ることは、戦争を始めようとしている支配者たちには、好都合です。世論操作を容易にする土壌なのです。

支配者たちは、正に「平和と平安」のために戦争が必要だと囁くでしょう。

戦争が一旦、始まったならば、それは沢山の犠牲と莫大な損害を生み出します。

その時になって、本当に「平和と平安」を願っても、失われたものは、二度と戻って来ません。

アニメのタイトルは、フランスの詩人、ポール・ヴァレリーの詩から、取られました。

ヴァレリーは、パリがナチに占領された時に、徹底的に抵抗し、不服従の姿勢を取ります。

ヴァレリーは、ユダヤ人であった哲学者アンリ・ベルグソンが亡くなった時に、アカデミー・フランセーズの幹事として、弔辞を読んで、ベルグソンの業績を讃えます。

この行為は、ナチに目をつけられて、ヴァレリーは、アカデミー・フランセーズ会員資格はもちろん、大学理事の地位も失う弾圧を受けます。

ポール・ヴァレリーは、ヨーロッパの終戦から日を置かずに、1945年7月20日に亡くなります。

レジスタンスを指揮したドゴール将軍は、ヴァレリーの死に対して、国葬を以って
報います。

ヴァレリーの遺体は、「風立ちね」の詩の題名である「海の墓地(Le Cimetière Marin)」に埋葬されました。

願わくば、堀越二郎ではなく、ポール・ヴァレリーの生き方を!


09. 2013年9月06日 15:46:09 : oSrMprFwsw
「ちょっと待て、おかしいぞ!」と思うことも多々あるが、今回は日本の左派リベラルを代表するアルファブロガー『世に倦む日日』の考察が的を射ているかな…

世に倦む日日

映画「風立ちぬ」と宮崎駿の欺瞞 - NHKとの蜜月の不信
critic5.exblog.jp/20950946/‎

欺瞞は誠実である - 宮崎駿の二重思考(ダブルシンク)
critic5.exblog.jp/20958009/


10. 2013年9月07日 11:05:31 : pbGtlhns2o
06です。コメントいただき、ありがとうございます。ゼロ戦の設計者、堀越先生については戦後、神話に祭り上げられたようですね。昭和30年代、少年向けの戦記もの(漫画や小説)が流行り、ああすれば勝てたとか当時の少年たちは机上の空論を戦わせたものです。その過程で堀越神話が醸成されました。当方の実家は陸軍の飛行場の近くでしたが、陸軍の飛行機は知っていても海軍の飛行機は誰も知りませんでした。ゼロ戦の存在を知ったのは戦後になってからです。

戦後、日本が航空機の研究を禁じられてしまい、さて次に何をやるかの問題に直面しましたが、同じ三菱重工で軍用機を設計していた久保富夫先生は、頭を切り替えて自動車に挑戦しました。久保先生は陸軍の偵察機を開発しておられました。いずれも日本最速の飛行機でした。

九七式司令部偵察機
最大速度: 510 km/h
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E4%B8%83%E5%BC%8F%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8%E5%81%B5%E5%AF%9F%E6%A9%9F

一〇〇式司令部偵察機
最高速度: 630km/h
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E3%80%87%E3%80%87%E5%BC%8F%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8%E5%81%B5%E5%AF%9F%E6%A9%9F

キ83 (航空機)
最大速度 : 762km/h
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD83_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)

久保先生はGHQから航空機を禁止されても腐らずに頭を切り替え、自動車に全力投球されたのです。ここが航空機から離れなかった堀越先生と違うところでした。しかし世界有数の高速を誇る偵察機を設計したのに、自動車に転換して手がけたのは三輪トラック。普通だったら、ふてくされますよ。しかし、ふてくされなかったのが久保先生の偉大なところ。心の中で、いつしかアメリカに追いつき、追い越す製品を自動車でつくると決めておられたのです。飛行機でできなかった、アメリカを凌駕する夢を実現することを。

三菱・みずしま
●魚屋さんが、みずしま号で市場から仕入れる魚を運んでいたのを見ました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8F%B1%E3%83%BB%E3%81%BF%E3%81%9A%E3%81%97%E3%81%BE

久保先生は三菱重工の自動車部門の責任者になり、1970年に自動車部門が事業分離で独立した後に社長に就任。ミラージュやギャラン・シグマなど美しくて性能がいい新型車を登場させます。モータースポーツにも力を入れ、かつてイギリス車が伝統的に強かった旧イギリス領東アフリカで開催されるイースト・アフリカン・サファリラリーに挑戦。見事に優勝を成し遂げました。

24th safari_rally_1976
http://www.youtube.com/watch?v=eBnTfPjtCpU

ゼロ戦や百式司偵を生産していた三菱がつくりあげたランサーは、飛行機を禁じられた日本が放った快挙だったのです。日本車はこれでイギリス車に勝った。すると次はアメリカですが、当時、経営不振に陥っていた提携先のクライスラーに三菱ギャラン・ラムダが供給されることになりました。当時のテレビCMです。

Dodge Challenger Hemi Colt Mitsubishi Galant Lambda Wink Martindale Voiceover
http://www.youtube.com/watch?v=1CD5cZrBXoE

製造元の三菱は、かつてゼロ戦をつくっていたのですが、大戦中にこれと交戦して撃墜され、命拾いをしたアメリカやオーストラリアの退役軍人の息子が買って来たことから大喧嘩になった話がちらほらありました。

経営危機のクライスラーは世界各国の拠点を次々と売却しましたが、オーストラリアの子会社は1980年に三菱自動車に売却されました。これに関連して興味深い動画があります。1981年型のオーストラリア製クライスラーですが、1:00あたりに出てくる画面に注目。三菱自動車の製造銘板が取り付けられています。
http://www.youtube.com/watch?v=p74ZmEd1MFs

●アニメにするなら、航空機研究を禁じられても挫折せずに未知の分野である自動車に挑戦して、ついにアメリカに勝った久保富夫先生を取り上げたほうがよいと思うのですが、これだとまるで三菱グループの広報映画になってしまいますね。でも、「くじけない日本」の象徴として作品にする価値はあると思います。


11. 2013年9月07日 20:50:18 : LitcVm4Jh2
本庄季郎が堀越が病欠のうちに零戦の翼端をカットして飛行性能をたかめたとか、土井武夫がYS11の翼を切断して取り付け角度をあげて安定性を高めたとかいう話を聞くと、堀越の軍用機設計に何よりも必要な臨機応変の才には疑問を抱かざるを得ない。

ようするにあるもので戦うのが戦争なんだが、準備万端の緒戦以降、何ら軍事的に貢献していない。西澤や岩本のような超達人以外、零戦で生き残れず、結局、南部自殺銃並みのライター機化して多くの搭乗員を死に追いやった。そしてどうせ若年は1,2回の出撃で戦死するなら特攻をという考えが出てきた要因となったんじゃないか。

個人的には性能はよくなくても隼やP40のような安定した機体のほうがトータルで軍事的価値が高かったと思うんだが、どうだろうか。

堀越は何か高尚なエリートでどこか日本軍の一芸必殺主義にマッチしたんじゃないかと思うんだが、詳しい人はどう思うんだろう。


12. 2013年9月16日 01:20:35 : pbGtlhns2o
10です。ニュージーランドの南島のワナカ(有名なクインズタウンに近い)は観光都市ですが、ここで2年に1回、開催されるのが「The Warbirds over Wanaka(ワナカ戦闘機ショー)」です。公式ホームページを紹介します。2014年4月に開催されるそうです。

Warbirds Over Wanaka International Airshow
http://www.warbirdsoverwanaka.com/

youtube動画もあります。

First World War Fighters at Warbirds Over Wanaka
http://www.youtube.com/watch?v=RvAnMqBo8Cw

WW2 Fighters: Heavy Metal Thunder at Warbirds Over Wanaka
http://www.youtube.com/watch?v=SLv_GUJcDTU

●飛行機が大好きなのですが、こういうイベントに行くと日本機がないのが惜しいというか、悔しいというか、複雑な気持ちになります。戦争に負けて武装解除で殆ど潰されましたからね。いつだったか、ニューギニアに遺骨収集に行った人が、オーストラリア爆撃に使用した陸軍の百式重爆「呑龍」が残っていたと言っていました。写真を見せてもらいましたが、確かに呑龍でした。1回の出撃で大破して使用不可能となり、現地に遺棄されたそうです。

百式重爆撃機
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%BC%8F%E9%87%8D%E7%88%86%E6%92%83%E6%A9%9F

●2010年のワナカのイベントに、海軍零式艦上戦闘機が登場しました。どうぞ、ご覧ください。

零戦、ニュージーランドで飛ぶ。Warbirds over Wanaka 2010 Mitsubishi Zero
http://www.youtube.com/watch?v=t7VibMRCq7I

●この手のイベントでも事故は起こります。オークランドで墜落したスピツトファイアです。これ、修復できたのかな ?
http://www.youtube.com/watch?v=2i_oKRMCt3Q

11さん、遅くなって申し訳ありません。隼とかカーチスP-40の方が軍事的価値が高いと言う意見に当方も賛成です。日本人はどうもスペック至上主義で、最高速度やらエンジン出力の方を重視しますが、兵器として大切なものは信頼性であり、故障しないことです。前線では充分な整備をする時間がありませんから、これが肝心かと。絶対的な性能を引き出せと、メーカーの設計にあれこれ介入した海軍と違い、陸軍はあまり口を挟まなかったと言います。そのためか、大戦の後半に全機種に信頼性の低い誉エンジンを採用して失敗した海軍と違い、陸軍は同エンジンを採用したのは疾風だけでした。

中島飛行機の「隼」が芝生の上を走って、簡単に浮かび上がったシーンを実際に見た人は、もう数えるほどしかいないでしょう。うちの父は見たそうです。前線で使いやすい戦闘機だったそうですが、機銃が2丁しか装備できなかった。戦闘機じゃないけど、稼働率の高い軍用機は九九式軍偵察機ですね。固定脚ですが、引き込み装置がないから軽くつくれて運動性もよかったそうです。こちらは三菱製でした。

堀越先生が親しかった川崎航空機の土井武夫先生。話によると、九九式双発軽爆撃機、二式複座戦闘機「屠龍」、三式戦闘機「飛燕」、五式戦闘機。どれも主翼は同じだそうです。(拡大したか縮小したかの違いしかない。)それで四種類の飛行機を完成した。臨機応変な対応は第一人者でしょう。川崎航空機がドイツから技術者を招聘して技術を学びましたが、このあたりに生かされているのかも。

堀越先生、やはり戦後の「ゼロ戦」神話で持ち上げられた気がしますね。


13. 2013年9月19日 10:30:09 : LitcVm4Jh2
11です。15年以上前、ワナカの飛行場に自転車行ったなあ。欧米の飛行機ボーイがうらやましかった。何か飛行機クラブって感じでね。
でもさ、映画の主人公は戦前の一般的村人から見たら、地主の宇宙人みたいな息子だろうね。そんなのとそれと同じ作り手がドンピシャで受けるってのは、悲しい状況さね。それだけ、ねじ曲がっちまったのが今のジャパン人なのさ。あんな主人公は英米じゃぴんと来ないだろうね。まあ、こういうのが、ジャパンの特殊性論の系譜を形成してきたんだろうね。

14. 2013年9月23日 17:05:07 : pbGtlhns2o
13さん、こんにちは。12です。ワナカに行かれたのですか。すごいなぁ。当方あちらに滞在していた頃はクインズタウンが注目されていた時代で、今はワナカが人気上昇しているんですよね。書いていて思い出したけど、1965年のイギリス映画「素晴らしきヒコーキ野郎」の日本語版が1970年代に放映されたな。今はなき淀川さんの解説つきで。テーマ曲をお送りします。

Those Magnificent Men in their Flying Machines - Original theme song
http://www.youtube.com/watch?v=UPgS26ZhqZs

この物語、1910年に設定されています。ゼロ戦が制式採用になったのは1940年ですから、ここから僅か30年後。欧米に追いつけ、追い越せで国力を投入して日本は航空大国になったのですが、他国と違うのは軍用機集中度が世界一高かったこと。これは野沢茂氏の本に書かれていました。この本には、このようにも書かれていました。原本がないので、要約です。

★スピットファイアはイギリスをナチスドイツの侵略から守った飛行機として、イギリス国民の胸に刻まれている。これに対し、日本の軍用機は日本軍国主義者による対外侵略の手段として育成されてきた。★

このような社会的背景があります。日本の軍用機は最後は特攻に使われましたが、戦闘機ばかりでなく爆撃機から練習機まで敵艦に突入していった事実は異常でした。この思想は欧米人には理解できない。一式陸攻にぶらさげられて特攻したロケット機まであった。「桜花」と言いますが、これを設計した三木忠直先生は、もう絶対いやだとばかり、戦後は飛行機に全く関わることなく国鉄に就職して新幹線電車を開発したのでした。

三木忠直
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%BF%A0%E7%9B%B4

彼の言葉を転載します。

★「とにかくもう、戦争はこりごりだった。だけど、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんですよ」★

●最後に、飛行機が「空飛ぶ機械」だった頃のレプリカを紹介します。

Avro Triplane 1911
http://www.youtube.com/watch?v=m_dxW9q0RkM

Blackburn monoplane Type D 1912
http://www.youtube.com/watch?v=vICLdoWFopw

Bleriot XI 1909-2009
http://www.youtube.com/watch?v=ATbV2i9cfQE

Bristol Boxkite
http://www.youtube.com/watch?v=Ib7UT0NMlUc

●このブリストル・ボックスカイトはフランスのヴォワザンの国産化です。ガブリエル・ヴォワザン氏は飛行機のパイオニアとして知られ、第一次世界大戦後は自動車に転向。大恐慌で倒産すると、弟子のアンドレ・ルフェーブル氏はシトロエン社に入り、前輪駆動11CVや2CV、DS19など革命的先進自動車を開発。一人で世界の自動車の歴史の半分を作った男として尊敬されています。当方もシトロエンを愛好しています。彼の伝記をオランダのサイトから紹介します。
http://www.switchimage.org/Lefebvre_1_E.html
http://www.switchimage.org/Lefebvre-2_E.html
http://www.switchimage.org/Lefebvre-3_E.html

André Lefebvre,
and the cars he created
at Voisin and Citroën
http://www.switchimage.org/Lefebvre_The_Book.html


15. 2013年9月28日 14:36:36 : LitcVm4Jh2
素晴らしき飛行機野郎は昔大晦日になると夜中に放送していたね。監督のケン・アナキンは最高だ。たしか、イギリス軍(空軍)で記憶喪失になって除隊したんだよな。

70年代の吹き替えもすばらしかった。フランスのプレーボーイを演じたら右に出るものはいない広河太一郎とかね。飛行機野郎で一番すきなのが、後にプロペラをつけて反対方向へ飛んでいっちゃったやつ。そいうや裕次郎も自ら吹き替えてたな。もう、吹き替えしなおさず、差別用語も含めて放送してくれよ。東北新社さん。

この映画は大脱走や戦場にかける橋と同様にS40年代じゃ視聴率の稼げるビッグプログラムだったんだな。

英連邦のちょっと、大きい町には軍事博物館とか飛行機博物館があっていいね。

桜花はどこか、新幹線にデザインが似ているな。しかし、ゼロ戦は外人にとっちゃ、やはり「自殺機」として、記憶に残っていくんだろうね。ちなみに岩本や西澤は東部戦線で戦っていたら、400機は落とせたんじゃないかな。

でも小生にとって、今夏は「風立ちぬ」のような後ろ向きなものじゃなくて、「あまちゃん」だったね。じぇじぇ。


16. 2013年10月05日 20:05:26 : pbGtlhns2o
15さん、こんにちは。14です。「素晴らしきヒコーキ野郎」の、後ろにプロペラをつけていた飛行機ですが、明らかにヴォワザン機ですね。彼はプレイボーイでした。彼の伝記がウィキペディアにあります。

日本語版
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%82%A2%E3%82%B6%E3%83%B3

英語版
http://en.wikipedia.org/wiki/Gabriel_Voisin

フランス語版
http://fr.wikipedia.org/wiki/Gabriel_Voisin

航空機のパイオニア、ヴォワザン兄弟のページ
Les Frères Voisin
Gabriel (1880 - 1973) et Charles (1882 - 1912)
http://www.ctie.monash.edu.au/hargrave/voisin.html

●フランス・パリ南西のイッシ・レ・ムリノーで1908年、初飛行した時の写真です。「やったぞ!」の歓声が聞こえてきそうな感じです。
http://www.ctie.monash.edu.au/hargrave/images/farman_trophy_500.jpg

第一次世界大戦で活躍したヴォワザンVの側面図です。
http://www.greatwarflyingmuseum.com/aircraft/france/voisin_iii.html

ガブリエル・ヴォワザン氏は、弟のシャルルと共に飛行機の先駆者として知られていますが、シャルルは1912年に墜落死しており、第一次世界大戦中に入社したアンドレ・ルフェーブル氏が側近となりました。後に彼はシトロエンに行って自動車史上、重要なモデルを開発して「世界の自動車の歴史の半分をつくった男」と言われていますが、本人は至って謙虚で、1964年に亡くなるまで「ガブリエル・ヴォワザンの弟子」だと自ら名乗っていました。師匠のガブリエル・ヴォワザン氏は1973年に亡くなっていますので、弟子の方が先に旅立ったことになります。

「素晴らしきヒコーキ野郎」が制作された1965年の時点で彼は85歳。存命中であったため、映画では実名として取り上げなかったものと思われます。そのプレイボーイ振りについては、伝説と化しています。現在、絶版になっている二玄社の「オートモビル・デザイン」下巻で取り上げられています。かつてのカーグラフィック発行元でしたね。原本がないので記憶で書きますが、あるイギリスの自動車ジャーナリストが1964年に彼の邸宅を訪問するのですな。すると若い女性がおりました。老人になったガブリエル・ヴォワザン氏の妻だそうです。彼は結婚、離婚を繰り返していたとか。70歳を超えてから、「あまちゃん」と結婚したようなものです。

ここで彼が見せてくれたのが、弟子のアンドレ・ルフェーブル氏が、病床で亡くなる少し前に書いたとされる手紙。世界大恐慌でヴォワザン社が倒産し、失業した彼を親友のアンドレ・シトロエン氏(自動車メーカー、シトロエン社の創業者。)に紹介してくれたことを生涯、感謝していたそうです。ルフェーブル氏は、世界の歴史上でも屈指の自動車技術者ですが、当時でも有能な技術者は有利な給与を求めて会社を渡り歩くのが普通だった中、彼はシトロエン社に一生、勤務し続けました。

話をヴォワザンの飛行機に戻すと、この飛行機は第一次世界大戦の前半で活躍したと書かれています。しかし現実には空中戦に向かない飛行機でした。爆撃機や偵察機として使われましたが、戦闘機ではなかったのです。推進式プロペラ配置を崩さなかったのも彼らしいところで、どうも飛行機を戦争に使って欲しくなかったみたいね。

復元機の動画がありますので、ご覧ください。

Voisin35 First Flights
http://www.youtube.com/watch?v=_vJp4nmLUlo

第一次世界大戦が終わってから彼は自動車に転向しますが、飛行機は戦争に使えることが判明したのがいやだったみたいね。同じ飛行機のパイオニアだった、サントス・デュモン氏も、飛行機が戦争に使われるのがひどくいやで、第一次世界大戦の時にフランスから出身国ブラジルに帰ったそうです。飛行機を戦争に使わない運動をしましたが、叶えられずに自殺してしまいました。

アルベルト・サントス・デュモン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%A2%E3%83%B3

面白いことに、ヴォワザン氏は自動車を作るようになっても、社名はヴォワザン航空機会社のままでした。弟子のルフェーブル氏のつくった自動車もそうですが、彼らの作品は何となく飛行機を思わせる自動車でしたね。

ヴォワザン航空機会社の解説です。

Avions Voisin
http://en.wikipedia.org/wiki/Avions_Voisin
http://www.avions-voisin.org/


17. 暴論有理 2013年11月04日 03:43:11 : Lhw6YrhSkkinE : d6ykD1mLTI
16さん、おら15だけど、ありがとういろいろ面白い情報。

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