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週刊FLASH 8月20日・27日号
零戦の生みの親を描いた『風立ちぬ』が大ヒット公開中だ。その設計者・堀越二郎に脚光が集まっている。その零戦と並んで日本人の心のよりどころとされるのが、「戦艦大和」だ。
‘45年4月7日、大和は何波にも分かれた米軍機編隊の攻撃により沈没した。その大和の基本デザインを生み出したのが、松本喜太郎(1903〜83)。世界最大最強といわれながら、ほとんど成果なく沈んだ大艦と、彼はどのように向き合って生きたのか――。
松本喜太郎は明治36年5月8日、三重県生まれ。’28年に東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業し海軍に。松本が海軍を目指したのは経済的理由だった。帝大時代「卒業したら海軍に行く」という誓約書を提出。それによって海軍が奨学金を出したのだった。以来、終戦まで技術者として造艦に従事した。息子の松本正毅氏によれば、松本は「松本が大和を造った」と言われることを嫌がったという。「自分は基本設計はたしかにやった。しかし“日本を守る”という思いで、みんなでやったんだ」と。
正毅氏が「なぜ大和を造ったの?」と尋ねると、父から逆に「お前、どう思う?」と返された。正毅氏は正直に「わからない。なぜこんな世界一のでかいものを造ったの?」と今一度訊いた。すると松本はこう説明したという。
仮想敵国であるアメリカとは、国力に差がある。どうシュミレーションしてみても勝てそうにない。でもどこかに穴があるはずだ――。そして日本海軍は、アメリカの唯一の弱点を見つけた。大正時代の末期のことだった。太平洋、大西洋両方に艦隊を持つと、さすがのアメリカでも金がかかりすぎる。必ずパナマ運河を通過しなければならないが、運河は狭く、全幅110フィート(33メートル)以上の艦は通れない。日本はそれよりも大きな艦で大きな大砲を積めば、まあなんとか五分の戦いはできるんじゃないか……。
しかし、その構想が実現へと動きはじめるのは’34年(昭和9年)10月、軍令部が新艦設計の要求を海軍省に出すまで待たねばならない。
大きな艦に大きな大砲。アメリカの新戦艦の主砲が40センチと予想された時代に、松本は、大和に46センチ砲の搭載を課した。機密保持のため、大和の設計研究は、ふだん各種艦艇の設計作業をしている場所とは離れた海軍省内の16畳ほどの一室で、当初は6人の少人数で始められた。設計された艦は20以上。大和の最終案が決定したのは、’37年3月。就役は、太平洋戦争が勃発した8日後の、’41年12月16日だった。
最後まで機密は漏れなかった。ただし、それが不幸を招いたと、大和に関する著作も多い戦史研究家の原勝洋氏は語る。
「巨大戦艦を造っていることを秘密にしすぎたため、抑止力としての効果がなかった。情報戦を仕掛け、アメリカに大和の建造が伝わるようにしておけば、それが抑止力となって、もしかしたら太平洋戦争は起きなかったかもしれません」
就役したとき、すでに巨大戦艦が主砲を撃ち合う時代は終焉を迎えていた。大和は艦隊決戦で撃ち合うこともなく、沖縄に向かう途中で米軍機の波状攻撃を受けた。最初の魚雷直撃から沈没まで、2時間足らずだった。艦橋にいて、敵機までの距離を砲塔に伝える役割だった八杉康夫氏(85・当時上等水兵)は、「一発も主砲を撃てなかったのが悔しくてならなかった」と語る。
あるとき松本は、こう正毅氏に尋ねたという。「大和の主砲だけど、お前、どこまで飛ぶかわかるか?」。わからないと正毅氏が答えると、松本は得意げにこう返した。「なら、東京駅から飛ばせばどこまで飛ぶと思う? 大船まで(約42キロ)だよ」
松本は戦後、機械商社を興した。名前は大和産業だった――。大和引き揚げ計画が話題になったとき、正毅氏は松本に「親父、どう思う?」と尋ねた。返ってきたのはたったひと言。
「墓場は荒らすもんじゃない」
戦艦大和・その栄光と終焉
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