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通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)   日本人皆殺しの地獄絵・其の一(徳島の保守)
http://www.asyura2.com/13/warb11/msg/513.html
投稿者 会員番号4153番 日時 2013 年 8 月 15 日 12:26:56: 8rnauVNerwl2s
 

西早稲田の在日反日キリストビルは中共・北朝鮮のスパイ組織であり、日本消費者連盟、週刊金曜日、ピースボート、部落解放同盟、中核派、朝鮮総連等の反日組織と関わりある模様。

様々な反日活動を行いながら、資金集めを行っている。


徳島の保守から
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1


通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)   日本人皆殺しの地獄絵・其の一
政治blog「徳島の保守」 7月30日日担当 吉川


通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)

日本人皆殺しの地獄絵・其の一


1937年(昭和12年)7月29日。73年前の昨日、北京の西の通州において、数百人の日本人居留民が虐殺されました。

大東亜戦争の一つのきっかけになったとも言われる通州事件です。

通州の日本人居留民は、日本軍守備隊の留守をねらった支那の保安隊、学生により、世界の残虐史上類例を見ないほどの残虐行為を受け、虐殺されました。さらに支那人達は、殺した日本人に対して一片の同情も哀れみの心もなく、その屍体までもいたぶっているのです。

かけつけた日本軍がそこで見たものは、言語に絶する惨状であったそうです。支那人は南京で日本軍が大虐殺を行い、妊婦の腹を裂き、胎児を銃剣で突き殺すなど、悪逆非道の限りをつくしたとデッチあげて日本を非難していますが、通州事件を見ますと、日本軍が行った行為と言っているのは、つまり、支那人自身が行ったことに他ならないことが解ります。

通州事件は、殆どの日本人から忘れ去られようとしていますが、日本人居留民の無情な殺され方を、そして支那人の持つ残虐性を私達日本人は決して忘れてはいけません。

通州における惨劇は、多くの人が証言していますが、実際の体験者であるSさんの話を、拙ブログで採り上げ、一人でも多くの日本人に知ってもらいたいと思っています。大変長い話ですので、何回かに分けて掲載させて頂きます。


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Sさんの体験談

私は大分の山の奥に産まれたんです。すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさんという支那人と出会ったのです。

このTさんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさんが私に『Sさん私のお嫁さんにならないか』と申すのです。私は最初は冗談と思っていたので、『いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。』と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。そのときは全く驚きました。冗談冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。

でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。とYさんは強い言葉で私に迫ります。それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部Tさんが払っているというので、私も覚悟を決めて結婚式場に行きました。支那の人達の結婚式があんなものであるということは初めてのことでしたので、大変戸惑いました。

でも、無事結婚式が終わりますと、すぐに支那に帰るというのです。でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、Tさんはそれを絶対に許しません。自分と結婚したらこれからは自分のものだから自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。それで仕方ありません。私はTさんに従ってその年の三月に支那に渡りました。

長い船旅でしたが、支那に着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。私は支那語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でもTさんが仲を取り持ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになってまいりましたとき、Tさんが通州に行くというのです。通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いて支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私はTさんに従って通州に行くことにしたのです。それは昭和九年の初め頃だったのです。Tさんが言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、支那人も日本人に対して大変親切だったのです。しかしこの支那人の人達の本当の心はなかなかわかりません。今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。

通州では私とTさんは最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。私はTさんと結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、Tさんがあまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、支那人の服装に替えておったのです。すっかり支那の服装が身につき支那の言葉も大分慣れてきていました。それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。私が支那人の服装をしているので支那人と思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。

そして、商売の方もうまく行くようになりました。Tさんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。だから買う人にとってはとても便利なんです。Tに頼んでおけば何でも手に入るということから商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。Tさんも北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。私たちはTさんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。

ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、支那と日本は戦争をする。そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。私は心の中に不満が一杯だったけどTさんに逆らうことは出来ません。それで出来るだけTさんの言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、Tさん近頃は軍の方にこないようになったが何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。Tさんが私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。

只、朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口を支那の人達に言いふらしているのです。私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしていると申すのです。そして日本は今度は支那を領土にして支那人を奴隷にすると申すのです。だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。そこへTさんが帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。そして安重根という人の話を語りました。伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。我々も支那人と一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。なんと怖いことを言う朝鮮人だろう。こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。Tさんは黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。

(次回につづく)

※通州事件の惨劇 −日本人皆殺しの地獄絵−は、財団法人慧燈財団、前理事長であられた、調 寛雅(しらべ かんが)氏著作『天皇さまが泣いてござった』より、氏のご子息様のご許可を頂き、引用掲載させて頂いております。

※参考書籍、「天皇さまが泣いてござった」では、証言者であるSさんのお名前が掲載されていますが、当ブログではイニシャル表記とさせていただきました。

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【参考書籍】

「天皇さまが泣いてござった」

著者:しらべ かんが

教育社発行 定価1800円


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『通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)−日本人皆殺しの地獄絵−』URL一覧

其の一 http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1

其の二 http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100816/p1

其の三 http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100901/p1

其の四 http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100915/p1

其の五 http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100929/p1


<参考リンク>

■反日ネットワークの正体
 http://blog.livedoor.jp/aryasarasvati/archives/24857731.html


■On the Streets After the Fall of Nanjing, China, December, 1937
 http://mamorenihon.wordpress.com/2012/03/24/on-the-streets-after-the-fall-of-nanjing-china-december-1937/


 

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コメント
 
01. 2013年8月15日 12:56:13 : W18zBTaIM6

 「通州事件」とは、日本の傀儡政権であった「冀東防共自治政府」の保安隊が日本側に対して反乱を起こし、約200名の日本人居留民(ただし厳密には、このうち約半数は朝鮮人)を虐殺した、という事件。

中国人には何の責任もないよ


2. 2017年4月03日 15:37:00 : Sq4VsQCLTI : uVBCoI_J0YQ[4]
>>01の中川さんへ

??国民党軍は中国人でしょうが。
これに影響されたの?☛ http://www.geocities.jp/yu77799/tuushuu/tuushuu1.html


どう見ても、こっちの方が筋が通ってるだろ。

>原因は、シナ軍(国民党)が流したデマに寝返った保安隊
 
     ↓

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NAVERまとめ

南京大虐殺にすり替えられた通州事件とは?
盧溝橋事件から三週間たった昭和12(1937)年7月29日、北京の東方に位置する通州で、済南事件を上回る日本人居留民虐殺事件が発生した。これは通州事件と呼ばれている

更新日: 2016年01月07日

イカのクチさん
https://matome.naver.jp/odai/2136085750120640001(抜粋)


中国・韓国 反日歴史教育の暴走 (黄文雄氏の著書画像)


(当時の中国地図)
出典
redfox2667.blog111.fc2.com


出典
ja.wikipedia.org


●冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)


冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)は、1935年から1938年まで中国河北省に存在した政権。地方自治を求める民衆を背景に殷汝耕の指導により成立した。国旗には中華民国が最初に定めた五色旗を使用した

●盧溝橋事件から三週間たった昭和12(1937)年7月29日、北京の東方に位置する通州で、済南事件を上回る日本人居留民虐殺事件が発生した。これは通州事件と呼ばれている。

 ●当時、通州には親日政権の「冀東防共自治政府」が設立され、一万余りの保安隊を擁していた。日本側はこの冀東保安隊を信頼していたため、自身の兵力はほとんど配置していなかった。


出典
redfox2667.blog111.fc2.com

●原因は、シナ軍(国民党)が流したデマに寝返った保安隊


●事件の原因は、盧溝橋事件の直後、国民党ラジオでデマ放送を流したことだった。「日本軍は敗走した。29軍は大挙して冀東を攻撃する。『偽都』通州の敵を屠り、『逆賊』殷汝耕主席を血祭りにあげよ」

 ●この放送を鵜呑みにした通州保安隊千数百名は、すぐさま国民党に寝返り、突如日本軍を襲撃したのである。彼等は日本側の兵力が手薄なことを利用し、小銃や機関銃を乱射しながら日本人居留地に突入し、虐殺、凌辱、掠奪のかぎりを尽したのである。

旅館 近水楼(きんすいろう)

出典
redfox2667.blog111.fc2.com

 (画像)旅館 近水楼(きんすいろう)

地獄絵図の近水楼。 (各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』/反日ワクチン) [C]


●日本人223人が、中国伝統の虐殺の「作法」で惨殺された

●これにより現地の日本人385名のうち、幼児12名を含む223名が虐殺された。多数の女性は強姦された後、陰部を銃剣で突かれえぐり取られた。首に縄をかけられ引き回しにされた上、目玉をえぐられた者もいた。牛のように鼻に針金を通したまま殺された子供や、生きたまま片腕を切断された老婆もいた。

 ●これらは、すべて中国伝統の虐殺の「作法」である。通州事件は中国の抗日戦史のなかでは「反正」(親日政権に対する正義の反乱」や「義挙」などと評価されている。愚昧な保安隊による単なる虐殺事件にすぎないのにだ。

出典
日本人は通州事件 を語ってはいけない? : この国は少し変だ!よーめんのブログ(日本こそ一党単独極右軍事政権でなければならない)
http://youmenipip.exblog.jp/7364102/

(略)


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NEWSポストセブン

中国の日本人虐殺「通州事件」 鼻に針金通し青竜刀で体抉る

2015.04.07 16:00
http://www.news-postseven.com/archives/20150407_314163.html(全文)


●戦後70年、中国は自らが犯した戦争犯罪をひた隠しにしてきた。その一つが、多数の在留邦人が虐殺された「通州事件」だ。残されたわずかな記録からその封印を解く。

 その凄惨な事件は、日中が本格的な軍事衝突を始めた盧溝橋事件(*注1)直後の1937年7月29日、北平(現在の北京)近郊の通州で発生した。

【*注1/1937年7月7日、日本軍と中国の国民党軍の間で起きた武力衝突事件。中国共産党軍が事件を誘発させたとの説が有力となっている】

 当時、満州国と隣接する中国・河北省には、蒋介石の国民党政府から独立し日本人が実質統治していた「冀東(きとう)防共自治政府」が置かれていた。自治政府は九州と同程度の面積で、人口はおよそ700万人。「首都」である通州には400人近い日本人が暮らしていた。自治政府の首班は、日本への留学経験もあり、日本人の妻を持つ親日派の殷汝耕(いんじょこう)。通州には邦人保護を目的とする日本軍守備隊も駐留しており、比較的、治安は良好だった。

 ところが、突如として自治政府の中国人保安隊約3000名が武装蜂起し、首班の殷汝耕を拉致した上で日本軍守備隊と日本人居留民を奇襲したのである。事件当時、通州に滞在していた米国人ジャーナリスト、フレデリック.V.ウィリアムズ氏は、惨劇の様子を自著『Behind the news in China』(1938年)で克明に綴っている。

「それは一九三七年七月二十九日の明け方から始まった。そして一日中続いた。日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追いつめられていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。

 それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別も付かなかった(中略)何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ」(訳書『中国の戦争宣伝の内幕』芙蓉書房出版刊・田中秀雄訳)

 事件の当日、日本軍守備隊の主力は南苑での作戦(*注2)に投入されており、通州に残る守備隊はわずか100名に過ぎなかった。守備隊は30名の兵を失いながらも必死の反撃を続けたが、翌日、日本軍の応援部隊が現地入りするまでに、223名(防衛庁編纂『戦史叢書・支那事変陸軍作戦1』より。260名〜300名とする説もある)の邦人が虐殺された。

【*注2/日中戦争初期の戦闘「平津作戦」のひとつ】


2ページ目  2015.04.07 16:00
http://www.news-postseven.com/archives/20150407_314163.html?PAGE=2 (全文)

 事件の首謀者は、自治政府保安隊幹部で反日派の張慶餘(ちょうけいよ)と張硯田(ちょうけんでん)だった。両者は直前に起きた「盧溝橋事件」で日本軍と武力衝突を起こした国民党軍第29軍と予てから密通し、武装蜂起の機会を窺っていた。背後で糸を引いていたのは中国共産党だ。

 当時、蒋介石率いる国民党は中国共産党との「抗日共闘路線」に舵を切っており、第29軍の主要ポストにも複数の共産党員が充てられていた。

 日本と国民党政府の全面対決を画策する共産党は、冀東防共自治政府とその保安隊にも「抗日分子」を浸透させ、日本人襲撃計画を立てていた。 通州の惨劇は、中国共産党の謀略による“計画的テロ”だった可能性が高い。

 当時の新聞各紙は「比類なき鬼畜行動」(1937年8月4日・東京日日新聞)、「鬼畜 暴虐の限り」(1937年8月4日・読売新聞)といった見出しで冀東保安隊による殺戮の一部始終を報じ、事件直後に現地入りした読売新聞社の松井特派員は、惨状をこう伝えていた。

「崩れおちた仁丹の広告塔の下に二、三歳の子供の右手が飴玉を握ったまま落ちている。ハッとして眼をそむければ、そこには母らしい婦人の全裸の惨殺死体が横たわっているではないか!(中略)池畔にあげられた死体のなかには鼻に針金を通されているものがある(中略)男の鼻には鈎の様に曲げられた十一番線の針金が通され無念の形相をして死んでいる(後略)」(1937年8月4日・読売新聞夕刊)

 ●事件後の現場には、青龍刀で身体を抉られた子供や、首に縄をつけて引き回された形跡のある男性の死体もあった。この事件後、日本国内の対中感情が急速に悪化し、日中戦争の泥沼に向かっていった。

※SAPIO2015年5月号


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残虐目を覆う通州事件
http://www.senyu-ren.jp/MAGO/12.HTM


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通州事件の写真
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6


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産経ニュース

2015.9.13 12:00更新

【満州文化物語(6)】
“反日プロパガンダ”に使われる「平頂山事件」の真実 語られぬ抗日ゲリラの撫順炭鉱襲撃

(1/4ページ〜4/4)【満州文化物語】
http://www.sankei.com/premium/news/150913/prm1509130026-n1.html

http://www.sankei.com/premium/news/150913/prm1509130026-n2.html

http://www.sankei.com/premium/news/150913/prm1509130026-n3.html

http://www.sankei.com/premium/news/150913/prm1509130026-n4.html


3. 2017年4月03日 16:07:37 : Sq4VsQCLTI : uVBCoI_J0YQ[5]
アンサーで紹介されているURLをクリックしても行けないところがある知恵袋。
わけわからん。


https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12170377127?__ysp=5YaA5p2x6Ziy5YWx6Ieq5rK75pS%2F5bqc44Gr44OH44Oe44KS5rWB44GX44Gf44Gu44Gv5Lit5Zu95YWx55Sj5YWa


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キリスト教読み物サイト

自虐史観から
真実の歴史認識へ

日本を悪者とする自虐史観はもうやめよう
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/rekishi01.htm(抜粋)

(略)

中国の内戦の泥沼にひきずり込まれていった日本

 それには複雑なものが、からみ合っています。しかし大きな目で見ると、日本は中国の内戦の泥沼に巻き込まれていったことがわかります。
 中国は、あたかも巨大なブラック・ホールのように、日本をその泥沼にひきずり込んでいったのです。
 当時の中国を、まとまった一つの国家のように考えたら誤りです。当時、中国は内戦によってズタズタに引き裂かれた地であり、国家の体をなしていませんでした。
 さて中国の内部では、欧米や日本のような近代国家になることを目指す維新派と、ロシアのような共産国家になることを目指す共産主義勢力とが対立していました。
 維新派勢力の代表は蒋介石、共産主義勢力の代表は毛沢東です。当初、蒋介石の軍隊は毛沢東の軍隊よりも圧倒的に優勢でした。
 一時、共産軍は全滅に近いところまで行ったほどです。ところが共産軍は劣勢を挽回するために、あることを計画します。
 それはこれ以上、蒋介石軍と真っ向から戦っては、もはや勝ち目はない。だから日本軍をこの中国に引きずり込み、日本軍と蒋介石軍とを戦わせて、どちらか生き残った方と戦う、ということでした。


   (毛沢東主席画像)

   毛沢東の戦略は、日本軍と蒋介石
   軍を戦わせることだった

 
 そうすれば日本軍と蒋介石軍が戦っている間に、自分たちの戦力の回復を計れます。また、日本軍と蒋介石軍のどちらが生き残ったにせよ、その時点では弱体化していますから、それと戦えばよいのです。
 さらにこうすれば、日本国内の力も弱体化し、日本を共産化する道も開けます。こうして共産主義勢力は、日本軍を戦争へと挑発し始めたのです。
 じつは当時日本は、中国側との間に起こり始めていた抗争や、いざこざを、何とか和平に持ち込みたいと願い、様々な努力を続けていました。
 蒋介石の顧問にW・H・ドナルドというオーストラリア人がいました。彼がのちに証言したところによれば、日本は1938年から1941年の間に中国側に対し、12回も和平提案を行なっていたのです。
 しかもその条件は、中国側に有利なものでした。中国に対する領土的要求は含まれていませんでした(ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』メディアファクトリー刊)。
 日本はもともと、中国の領土を支配しようなどと妄想していたわけではないのです。日本が繰り返し和平提案を行なったことからみても、日本は好きこのんで戦争を続けたわけではありませんでした。
 日中戦争の発端と言われる蘆溝橋事件(1937年)にしても、日本軍と、蒋介石の国民党軍との間に起きた、小さな衝突事件にすぎませんでした。
 またこの事件でさえ、じつは犯人は共産軍だったと指摘する人もいます。この事件の翌日、中国共産党は、日本との開戦を主張する激烈な声明を出しました。そして蒋介石に対日開戦を強く迫りました。
 また共産党は、現地の停戦協定が成立し戦争が終わりそうになると、各地で日本人に対するテロを繰り返し、戦争を挑発しました。
 中国共産党の活動は、日本軍と蒋介石軍とを戦わせるという、コミンテルン(国際共産党)の方針に基づいたものだったのです。日本は、その戦略にまんまと乗せられてしまいます。
 そして日本軍と蒋介石軍が戦っている間に、共産軍は勢力を回復、やがて蒋介石軍を打ちのめし、政権を取り、中国を共産化してしまいます。中国が共産化したとき、毛沢東は高らかに笑って言いました。
 「中国が統一され、人民共和国政権が誕生したのは、みな日本の中国侵略のおかげだ。我々は日本に感謝しなければならない」。
 ずいぶん皮肉な言い方をしたわけですが、日本のこの中国「侵略」は、毛沢東率いる共産軍の策略に乗せられたものだった、ということを忘れることはできません。
 共産主義の理念の中では、いかなる策略も、暴力も、共産主義世界実現という大義の前には正当化されます。目的のためには手段を選ばなくてよいとされるのです。
 そして共産主義では、過去の歴史もすべて、共産主義体制に都合のいいように解釈されます。
 今日も中国共産党の指導者は、日本の政治家に会えば、「日本の戦争責任」や「正しい歴史認識」を口にします。それを聞いて、日本の政治家がうろたえる姿がテレビに映ります。
 しかし、うろたえる前に、過去の歴史をよく知っておかなければなりません。
 


「南京大虐殺」はあったか

 今日、中国大陸で日本軍が残虐行為を働いたとして、「南京大虐殺」などが取りざたされることがあります。日本軍が南京の市民30万人を虐殺したというのです。
 この「南京大虐殺はあった」「いや、なかった」など、意見は真っ向から割れています。
 戦後に連合国が日本を裁いた、いわゆる「東京裁判」では、南京攻略時の司令官であった松井石根(まついいわね)陸軍大将が、南京大虐殺の責任者とされ、死刑判決を受けました。
 しかし松井大将とはどういう人物だったかというと、かの孫文とも親交があり、孫文の唱えた「大アジア主義」に深く共感している人でした。
 彼は南京攻略の前にも、日本軍の規律を厳しく定め、決して罪なき人を殺傷したり、中国の人々を軽んじたりすることのないよう事前に強く指示を出していました。
 ですから、東京裁判の時にただひとり日本無罪論を展開したあのインドのパール判事は、この松井の事前指示を根拠に、彼の無罪を主張したほどでした。
 また今日、「南京大虐殺」が中国共産党の広げたデマによるものであることを示す、多くの証拠が出てきています。
 南京攻略時の南京の人口は約20万人でした。しかし占領1ヶ月後には、戦闘の終わった南京に住民が戻ってきて、人口は25万人に増えています。彼らに日本軍が食糧を配布したという記録があるのです。これだけみても、「住民30万人の大虐殺」が大ウソであることがわかります。
 虐殺のあったところに、中国人住民が戻ってくるでしょうか。しかし彼らは何万人も、1ヶ月後には安心して戻ってきて、日本兵に物を売ったり、また農業を始めたり、商売をしたりしているのです。そういう記録写真、記録映画があります。

(略)

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日中戦争の真実 

日本は、内戦に明け暮れる中国を救おうとした
ローマ法王も、日本の行動を支持していた
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/rekishi05.htm


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しばやんの日々

中国兵が綴った「日中戦争」の体験記を読めば、『南京大虐殺』の真実が見えてくる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-252.html


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