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SAPIO 2013年9月号
先の大戦が終結して68年が過ぎた。戦後生まれが1億人を超え、総人口の8割近くに達している。戦争を直接知る者は年々減り、当時の実態を証言できる者は限られてきた。今こそ元日本軍兵士たちの肉声を聞いてみよう。ここでは元南方諸島海軍航空隊司令官付だった大越晴則氏(85)の証言を紹介する。
* * *
〈大越氏は 昭和2年生まれ。14歳で海軍に志願し「特別年少兵」となる。昭和19年、17歳で搭乗整備兵として香取航空基地(現在の千葉県匝瑳市)に勤務。硫黄島まで週2回、物資などを運ぶ任務に就いた。その後、硫黄島の戦いに参加した。〉
昭和20年2月16日、米軍が硫黄島上陸に向けた作戦を開始。日本軍は圧倒的な戦力差に追い詰められ後退していった。
海軍では米軍に奪われた(硫黄島南部の)摺鉢山奪回のため、3月8日に総攻撃の命令が出た。しかし、摺鉢山に突撃しようとしても、凄まじい爆撃で1日に数百メートルも進めない。この突撃で500人ぐらいが戦死したはずです。
生き残った私たちは死体の山の中に身を潜めて、敵を待ち伏せした。水も食糧もない状態で4日間潜んだが敵が通らない。仕方なく部下と2人で司令部に戻ろうとしたら、部下が足を滑らせて地下壕に落ちた。そこには武器を持たない主計兵、衛生兵らが100人ぐらいいたので合流しました。
それからは米軍との戦闘というより、食糧を調達する戦いでした。夜になると米兵は船に戻るので、地下壕を出て敵陣地に残された食糧を奪いに行くのです。しかし、陣地にはピアノ線が張られ、それに触れると地雷が爆発するようになっていた。4人で行けば2人死ぬような状況です。喉の渇きを癒すために、仲間とお互いの汗をなめた。小便を飲む人もいました。
その後も米軍は地下壕に潜む我々に対して催涙弾や窒素ガス、黄リン弾などで攻撃してきたが、捕虜になるのは生き恥をさらすことと信じていたので決して投降しなかった。栗林忠道中将らは3月17日の通信後に玉砕したが、我々は5月半ばまで抵抗を続けました。その頃には地下壕の日本兵も30人ぐらいに減っていた。
ある日、我々のいた地下壕に大量の水が入ってきた。「水だ、水だ」と皆で駆け寄ったが、それは米軍が海水にガソリンを混ぜたものだった。火炎放射器で火をつけられ、10人ぐらいが火だるまとなり即死。もう10人ぐらいは全身焼けただれて息も絶え絶えになり、どう見ても助からない。無念の思いで手榴弾や銃を渡すと、彼らは自決しました。
残ったのが自分を含む9人。皆で「太陽を見てから死のう」と決め、5月17日に地下壕から這い出た。そこで私は銃弾2発を右足に受けて倒れ、捕虜になった。
この硫黄島の戦闘で日本兵は約2万人が犠牲になり、捕虜となって生き残ったのは約1000人だった。捕虜になってからグアム、ハワイを経て、アメリカ本土の収容所を転々とした。伐採作業や綿摘みなどのほか、カービン銃の製造もやった。作業中に銃の台座で米兵を殴ったことが2回ある(笑)。
私は米兵から「日本は戦争に負けた」といくら言われても信じなかったが、負けたと信じて自決した人が10数人いた。日本に帰る復員船から富士山が見えたときに初めて「負けたんだ」と実感した。浦賀に着いた時は生きて帰ったことが恥ずかしく、3日間、上陸を拒否しました。
●取材・構成/清水典之(ジャーナリスト)
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