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時事通信 8月10日(土)16時21分配信
太平洋戦争で中国や東南アジアなどの戦地に赴いた旧日本軍の元兵士ら。終戦から68年。「多くの仲間が餓死した」「終戦を知った時のことを思い出すと、今でもうれし涙が出る」。市民団体「戦場体験放映保存の会」(東京都北区)が主催したシンポジウムで、高齢となった現在も戦場での過酷な経験を伝えようとする声に、来場者は静かに耳を傾けた。
太平洋戦争末期の中国戦線。「敵との戦闘は一度もなかったが、部隊から遅れると、敵に捕らえられ殺害された。仲間を助けに行くこともできなかった」。19歳の時、赤紙(召集令状)を受け取り、中国内陸部で約150日におよぶ行軍を余儀なくされた黒田千代吉さん(89)=さいたま市大宮区=はそう振り返る。
1945年2月、初年兵1200人などから成る部隊は中国・武漢を出発。本隊に合流すべく広東省北部まで南下したが、粘土質の土壌は多くの兵士が歩くうちにたちまち田んぼ状態に。靴の中に水が入り込み靴擦れなどでできた傷口が化膿(かのう)すると、集団について行けなくなり、大抵敵兵に捕まり、身ぐるみ剥がされた上で殺害されたという。
その後、北上し、同年8月19日に4日遅れで終戦を知った。行程は約3000キロ、仲間は400人前後まで減っていた。黒田さんは「今でも終戦を知らされた時のことを思うとうれし涙が出るが、武漢を出発する際、仲間たちが日本の方角に向かって『お母さん、さようなら』と叫んでいた光景が忘れられない」と唇をかみしめた。
関利雄さん(89)=さいたま市北区=は40年10月、16歳の時、東京陸軍航空学校に入校。43年秋以降、シンガポールやインドネシアといった南方戦線に、戦闘機「隼(はやぶさ)」のパイロットとして赴いた。
「戦闘機は当初、連合軍と同じぐらい配備されていたが、最後は向こうの数が圧倒的に多かった。仲間の戦闘機が戻って来ず、(宿営地の)自分の近くのベッドが次々と空いたままになった。『戦友の死に顔も見られないのか』と何とも言えない気持ちになった」
45年7月末には、タイ・プーケット島で戦闘機もろとも敵艦に体当たりする特攻を命じられた。幸い、シンガポールから移動中に敵艦隊がいなくなり、事なきを得た。
関さんは「7、8年前から頼まれて、人前で戦争の話をするようになった。操縦士以外にも、食料補給がなくなり、多くの仲間がパプアニューギニアなどで餓死した。自分が歩いてきた道のりを伝えることで、何か役に立てれば」と話している。
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