05. 2013年7月21日 11:02:18
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福沢諭吉先生はアジア人が大嫌い 福沢諭吉は朝鮮や台湾の人びとのことをどう述べているか:
「朝鮮……野蛮国にして、……我属国と為るも……」、
「台湾蛮人……は禽獣……人の二人や三人を喰い殺すは通常…… 朝鮮人は唯頑固の固まり」(本書121頁) 朝鮮は、野蛮な国であり、朝鮮人はただ頑固なだけであり、台湾人も野蛮で獣と同じなのだから、日本人が支配してあげるのが正しいことなのだ、という理屈であろうか。
「チャンチャン……皆殺しにするは造作もなきこと」……
「朝鮮……人民は牛馬豚犬に異ならず。」…… 「土人を銃殺……狐と思ふて打殺したり」 「島民が反抗……一人も余さず誅戮(ちゅうりく)して醜類を殲(つく)す可し。」…… 「支那兵……恰も半死の病人……之と戦う……豚狩の積りにて」 (本書160−161頁) なんという人種差別か。 このような読むに耐えないようなアジア蔑視を披露している。……甲申政変の際にさえ
「京城の支那兵を鏖(みなごろし)に」
と発言した諭吉は、……日清戦争では中国兵や台湾住民の「皆殺し」「殲滅」「誅戮」をくり返し呼号するようになる。したがって、日本の兵士が平然と「殲滅」作戦を担えるようにするためには、中国人・兵は「チャンチャン」「孑孑(ぼうふら)」「豚犬」「乞食」「烏合の草賊」の類であると教え、殲滅への抵抗感・抵抗意識を解除するマインド・コントロールを用意することも必要であった。(159頁)
中国人は人間以下の動物だから、皆殺しにしてしまえ、というのだ。
なんという怖ろしい「啓蒙思想家」だろう。戦争にあたって、相手国の人間を、人間以下に描き出すことは、侵略する側のひとびとが決まって行なってきたことである。かつてアメリカも、日本と戦争をするにあたって、日本人がいかに「人間以下」であるかをさまざまな方法でアメリカ国民に対して啓蒙した。
それにしても、これらの発言は、福沢に対するイメージを一変させるのではないか。 「目に付くものは分捕品の外なし。
何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚へて、彼の官民の別なく、余さず漏らさず嵩張らぬものなればチャンチャンの着替までも引つ剥で持帰ることこそ願はしけれ。 其中には有名なる古書画、骨董、珠玉、珍器等も多からんなれば、凱陣の上は参謀本部に御払下を出願して一儲け……」 という私有物の強奪の勧めを書いた。さらに
「生擒(いけどり)」にした捕虜の「老将」軍を「浅草公園に持出して木戸を張り……木戸銭」をとり、
老将軍に「阿片煙を一服させると忽ち元気を吹返しましてにこにこ笑ひ出します」 という慰み物にして金儲けをする提案までした。」(163頁)
目についたものは、すべて分捕ってくるといい、などと言っている。 しかも、捕虜にした中国の老将軍を、浅草公園に連れてきて、見世物にしてしまおう、と言っている。 ここに見られるのは、「啓蒙思想家」としての姿ではなく、強盗・殺人を奨励する単なる「極悪人」の姿である。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
こんな言葉で知られる福沢の思想は、決して日本の民主主義の立役者でも何でもなかった。 「天」に代わって日本「人の上に」天皇制と「帝室の藩屏(はんぺい)」としての華族制度をつくりだした福沢諭吉は、
その日本「人の下に」被差別部落民の存在する事実になんらこだわることなく、 『東洋政略論』で日本「人の下に」アジア諸国民を置き、 百篇をこす論稿で男性「の下に」女性をおく家父長制的女性論を体系化し、 金持ち「の下に」貧乏人を位置づけた教育論を構築した。 たとえば、「今の世」で「最も恐るべきは貧にして智ある者なり」という考えに基づき、
“貧智者”の出現阻止のために官立大学を廃止して私学に改変することを主張したり、 学問・教育も一種の商品だから 金持ちが「子の為に上等の教育を買ひ」中等は中等の教育、貧民は下等の教育を購入する
という貧富に応じた複線型学校論を主張し、それを合理化するために、
豪農・豪商・旧藩士族の「良家の子弟(男子)は「先天遺伝の能力」をもつ
という遺伝絶対論も主張した。こうした貧民無視の罪滅ぼしに、
「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取合せならん」
と言って、貧民を宥(なだ)め眠らせるために、自らは信じない宗教の振興論を百篇以上書いた。(235頁)
筆者は、福沢諭吉を、「近代日本のアジア侵略思想とアジア蔑視観形成の最大の立役者の一人」と結論づけている。福沢諭吉を1万円札の肖像に使うことは、どのような意味を持つのか。日本人が、いまだに、侵略戦争・植民地支配を真に反省していない証拠である。 福沢諭吉は、いまも、アジア蔑視の差別意識を、金銭の欲望とともに、日本全国に流通させている。
http://jiyuu-gennsou.at.webry.info/200804/article_14.html 福沢諭吉の国際関係認識−侵略路線への逸脱 福沢の幕末維新期の国際関係認識は「国家平等観」に立脚していたというのが定説ですが、これは丸山さんらが、福沢が建て前論として言った部分のみを取り上げて導いた結論です。
福沢は国際関係を「傍若無人」、「切り捨て御免」、「無情残酷」、「パワーイズライト」と認識していました。 また同じ時期の、「台湾出兵」について 「こんなにお祝いすべきことはない」、
「そもそも戦争は国の栄辱の関する所、国権の由て盛衰の致す所」 と述べ、「江華島事件」では
「小野蛮国」の朝鮮が「来朝し、我が属国になるも我の悦ぶに足らず」
と述べました。先行の研究者たちは、こういった不都合な記述を全く取り上げることなく「国家平等論者」だと結論したのです。
福沢は国際帝国主義の時代状況を「弱肉強食」の関係だと認識すると、『文明論之概略』の中で、自国の独立確保を至上最優先の課題に設定し、『学問のすすめ』の中では
「一国独立」は「国の為には財を失うのみならず、一命を擲ても惜しむに足ら」ない「報国の大義」だ
と書きました。上述したように丸山さんらは「一身独立して一国独立する」を読み間違えたのです。
さらに国の独立確保を最優先するためには 「…、君臣の義、先祖の由緒、上下の名分、本末の差別のごとき…文明の方便」 であるから積極的に活用しなければならないと、日本の近代が封建的なさまざまなものを取り組んでいく道を提示したことも極めて重要です。 中期以降、先進資本主義国が社会主義や労働運動に直面し、「狼狽して方向に迷う」という現実認識が加わると、「富国強兵」ではだめで「強兵富国」でなければならないと唱え、「軍備拡大」、「対外侵略」路線へと踏み出して行きました。そして歴史的現実主義という名の「清濁併呑」路線、すなわち
「世の中そんなに急に変わらないから、民衆があほなら民衆のあほに依拠してやっていく」、
また「権謀術数」的な「内危外競」路線へと傾斜していきました。何よりも見事なのは、天皇制を「愚民を籠絡する詐術」、馬鹿な国民をたぶらかす政治装置だ、と見抜いたことです。その一方で、軽率にも日本人は「完全な文明開化人」になったという宣言をし、「文明史観」の下での対外侵略の合理化を行い、同時代人から
「法螺を福沢、嘘を諭吉」
と非難されました。元外交官の吉岡弘毅からは、「我が日本をして強盗国に変ぜしめんと謀る」道のりは「不可救の災禍を将来に遺せん事必せり」と厳しくも適切な批判を受けたのです。
3.日清戦争と福沢諭吉 この時期、朝鮮の背後には中国がいるという理由で、一気に北京攻略まで要求し、あまりに激烈な開戦論のために、『時事新報』の福沢の社説は2度検閲で削除され、さらに『時事』は発行停止処分まで受けました。
リベラルなイメージから良識派と考えられがちですが、実像は明治政府を戦争へと誘導、先導する立場だったのです。 「日本は日清戦争を経ずに近代化の路線を歩むことはできなかったか?」というのは大変に重要なテーマです。実は、当時の権力中枢、山縣有朋や井上毀らは、直接朝鮮半島を支配する野望は持っていたけれども、国際関係等からいきなりは無理であろうから、暴力的にではあってもスイスのように「永世中立国」にすれば、朝鮮を中国の支配からは離脱させられるという考え方をもっていました。日清戦争開戦1ヶ月前の閣議まで、日本が選びうる3つの選択肢の中には「朝鮮の中立化」は存在していたのです。ところが 福沢は日中両国が違いに連携することなど「空想」だと切り捨て、終始一貫、対支強硬論と軍備拡大要求を続けていました。
明治政府よりも右よりで開戦へと誘導・先導する立場だったのです。 4.丸ごとのアジア蔑視と『暴虐のすすめ』 福沢は侵略合理化のために「文明」という言葉を論説で乱舞させました。すなわち
他国の「国事を改革」したり「国務の実権」を握ることは内政干渉ではない、
「あいつらはばかだから、がつんとやらないとわからないのだ」
という厚顔無恥そのものの論理です。同時にアジアへの蔑視・侮蔑・マイナスの評価はこの時期から悪化の一途をたどりました。初期にもアジア蔑視観は出ていますが、たとえば中国の民族的英雄林則除を「アヘンを焼き捨てた、思慮のない短気者」と侮辱したように、個々の政策を批判するだけだったのです。ところがこの時期になると、中国は、朝鮮はと、丸ごと総体的に侮蔑する言葉を垂れ流すようになりました。
「朝鮮人…上流は腐儒の巣窟、下流は奴隷の群衆」、
「朝鮮は国にして国に非ず」、 「朝鮮…人民は牛馬豚犬に異ならず」、 「朝鮮人 南洋の土人に譲らず」、 朝鮮人は豚や犬だというのです。
「支那兵…豚狩りのつもりにて」、
「チャンチャン…皆殺しにするは造作もなきこと」、 中国人をやっつけることなど簡単なことだとはっきり書いています。後に日本軍はその通りのことをやったわけです。
中国人を「チャンコロ」呼ばわりすることを、彼は4回書いています。
このような聞くに堪えない侮蔑の言葉を垂れ流すさまは痛々しいとすらいえます。 『時事』の『漫言』では兵士に向けて
「…目につくものは分取り品の田無、なにとぞ今度は北京中の金銀財宝を書き更え…一儲け」
と戦時国際法が禁止する私有物略奪を呼びかけました。 「三光作戦」の勧めです。
この時期、広島にあった大本営で90回におよぶ御前会議に立った明治天皇を賞賛し、福沢は海外出陣の可能性を提言しました。史実はその4ヶ月後に陸軍内で大本営を旅順に移す案が出て、明治天皇も了解したのですが、知恵者の伊藤博文の反対で流産しました。また「靖国」の思想も先駈けて打ち出していました。
「死を鴻毛より軽しと覚悟」する「軍人勅諭」の「大精神」が勝利の「本源」 であり、
「…益々この精神を養うことこそ護国の要務にして、これを養うには及ぶ限りの栄光を戦死者並びにその遺族に与えて、もって戦場に倒るるの幸福なるを感じせしめるべからず」 と書きました。
「朝鮮王宮占領事件」、「旅順虐殺事件」、「閔后殺害事件」、「台湾征服戦争」など日清戦争の不義・暴虐を象徴する事件について、ジャーナリストとしての福沢は終始隠蔽・擁護・合理化・激励する最悪の戦争報道を行いました。
私たち「南京大虐殺」を追求する者にとって重大な意味をもつ「旅順虐殺事件」はアメリカやイギリスの新聞に大きく報道され、何よりも『時事』の特派員報告でも出たのでした。しかし、日本が「文明の戦争」ということで世界に登場しようとしていた時期に、市民を含む2万人近い無抵抗の中国人を殺害したことは、伊藤首相と陸奥外相の判断で不問に付すことになったのです、 福沢は虐殺を「実に跡形も無き誤報・虚言」と切り捨て事実隠蔽のお先棒を担いだのです。 その「結果、日本軍の軍紀には覆うべからざる汚点を生じ、残虐行為に対する罪悪感は失われ、その後この種の事件を続発させることに」なったと『日清戦争』の藤村道夫は述べています。すなわち「南京大虐殺」にいたる道が敷かれたわけです。 5.「日本の近代化=アジア侵略」の「お師匠様」 福沢は有名な『自伝』の中で、「明治政府のお師匠様」を自負していましたが、彼は「明治政府」に止まらず、アジア太平洋戦に至る日本の近代化の道の総体にわたる「お師匠様」と位置づけるのが正しいと思います。アジア太平洋戦争の有名なキャッチフレーズ「満蒙は我生命線」は後の外相松岡洋右の演説ですが、その先駈けになったのは福沢の「今、日本島を守るに当たりて最近の防御線は朝鮮地方たるや疑いを入れず」です。これは山縣有朋が同じことを主張するよりも3年早くなされたものでした。日本が大東亜共栄圏の盟主だということも福沢は明確に主張しています。
家永三郎は名著『太平洋戦争』の中で、「日本の民衆が15年戦争を何故阻止できなかったのか」の重要な要素として「隣接アジア諸民族への謂われのない区別意識」を挙げていますが、この蔑視感の形成の先頭に立ってきたのが福沢だったわけです。そしてこの蔑視感は今の日本の有り様にも繋がっております。自分では「偽りにあらずして何ぞや」と冷静に認識しながら、天皇制を「愚民を籠絡するの詐術」と見抜くと、 天皇崇拝は「日本人固有の性」、
「一般の臣民…雖も帝室の為とあらば生命を惜しむ者なし」
とうそぶくしたたかさを持っていました。その福沢諭吉の力もあって「愚民を籠絡する」天皇制は日の丸・君が代とともに今なお健在です。このしたたかな福沢諭吉にどう対抗し乗り越えるのか、それが私たちの課題として問われています。 http://www.jca.apc.org/nmnankin/news10-3.html
英国もフランスも、人の土地を奪っている! (対中侵略15年戦争の諭吉の布石)
「今は英国もフランスも、競争して人の土地を奪っている」
「今は競争世界で、英国なり、仏国なり、・・・ 皆吾れ負けじと、人の隙に付け入らんとするの時節なれば、理非にも何も構ふことはない、 少しでも土地を奪へば、暖まりこそすれ・・・遠慮に及ばぬ、「さっさ」ととりて暖まるがよい」 (1881年「宗教の説」福沢諭吉全集第19巻711頁 「福沢諭吉のアジア認識」299頁) 「支那と戦に及ぶこともあらば、・・・真一文字に進て其喉笛に喰付くこと緊要・・・北京、是なり」 (1882年 「喉笛に喰付け」全集第8巻260頁) 「支那国果たして自立を得ずして諸外国人の手に落ちることならば、我日本人にして袖手傍観するの理なし. 我も亦奮起して共に中原に鹿を逐わんのみ」
(1882年 全集第5巻313頁) 「朝鮮は固より論ずるに足らず、我目ざす当の敵は支那なるが故に、先ず一隊の兵を派して朝鮮京城の支那兵を塵(みなごろし)にし、・・・. ・・・両国の戦争となることあらば、・・・日本の勝利必然なり」
(1884年 「戦争となれば必勝の算あり」(全集第10巻159〜) 「目につくものは分捕品の外なし.
何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚えて、彼の官民の別なく、余さず漏らさず嵩張らぬものなればチャンチャンの着替えまでも引つ剥で持帰ることこそ願はしけれ. 其中には有名なる古書画、骨董、珠玉、珍器等も多からんなれば、・・・ 一儲け ・・・. ・・・其老将等が、生擒の仲間で幸にまだ存命にてあらんには、・・・
之を浅草公園に持出して木戸を張り、・・・之に阿片煙を一服させると忽ち元気を吹返しましてにこにこ笑ひ出します、・・・御慰み」 (1894年 「漫言」全集第14巻570頁) この諭吉の教えにしたがって、日露戦争(1904〜1905)年の後、旧日本軍が「対中継続的侵略の決意」として、大連近郊より持ち帰った唐時代の文化遺産「鴻臚井(こうろせい)の碑」があります. それは、1300年ほど前に作られた石碑で、その時代のその地方の唐の統治を示す歴史的な記念碑です(朝日新聞 2006年5月28日). おそらく、旧日本軍は、中国の統治を日本が奪うという意思の確認のために、略奪して日本に持ち帰ったものと考えられます.
この碑は、明治天皇に献上され、21世紀の現在でもひそかに他の略奪物と共に、宮中に保管されています. 日本政府あるいは天皇家は、これらの文化財を含む略奪品を中国へ返還する意思を表明していません. まさか、永久に返還する意思はないということではないとは思いますが. http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/1881711299.html 福沢諭吉: 「金と兵は有る道理を保護するの物に非ずして、無き道理を造るの器械なり ・・・ 本編(1881年「時事小言」)立論の主義はもっぱら武備を盛んにして国権を皇張するの一点にあり。 事情切迫におよぶときは、無遠慮にその地面(アジア諸国)を押領して、わが手をもって新築するも可なり」 (福沢諭吉全集第5巻108ページ〜) http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post.html 私(福沢諭吉)は、「暗に政府のお師匠様」であった 1897年8月22日「時事新報」(社主・福沢諭吉)から 「王政維新の前後に日本国中の人が専ら老生の著訳書ばかり読んで文明の新知識を得たるは紛れもなき事実にして、或いは維新政府の新施設も拙著の書を根拠にして発表したるもの多く、暗に政府のお師匠様たりしことは、故老の忘れざるところなり」 (福沢諭吉全集第20巻)
その諭吉は、天皇制について「愚民を篭絡するの一欺術」といっています.(全集第5巻)
また、「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合わせ」といっています.(全集題20巻) 東京招魂社が、靖国神社になったころです. 「日本は天皇を中心に歴史が作られてきた. 国が強くなることが大切、近隣諸国の領土・資源・労働力・文化遺産を奪いとれ.
天皇のため、国のためには、『カネ』も出せ、命も出せ! 死んだ後には靖国神社がある」 諭吉は、国民を馬鹿と見て、これをだまして税金と命を取る、そのダマシのシステムが天皇制と靖国神社だと考えていたのでしょう.
真に賢い師匠でした.今の日本も、その師匠を一万円札の肖像として、毎日拝ませています. ダマス者が賢く、国民は愚民! それが、日本の伝統と文化でした. ___________
「天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための一つの手段だ」 ─ 福沢諭吉の理解!
「立君の政治」は、「人主が愚民を篭絡するの一欺術」 (福沢諭吉全集 第5巻271ページ) 諭吉は、こう書いています.
「天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための一つの手段だ」という意味です.(「そういわれたら、『それは、政治を知らない』と答えよ」といっています)
なぜ、彼はそう書いたのか? それは、次の理由によります.
◆自分は金持ちになりたい.(「日本一の大金持ちになりたい」 これが、彼の少年時代の夢だった(岩波文庫「福翁自伝」)
◆金持ちは、多数の者の生命と財産の犠牲の上に可能となる ◆支配者が国民の生活を犠牲にして、初めて金持ちが可能となる
◆自分は、支配者の側に立ちたい. 門閥制度で一生下級武士はいやだ!
◆一方国民は、だまって生活を犠牲にはしてくれない.
◆だから、国民をだまさなければならない.
◆国民をだますためには、天皇制をもってくるのが一番よい.
◆天皇のために、命も財産も投げ出す.「お国のため、大義のために死ぬ」ということができる. (若くして殺された特攻隊員がそうだった)
◆彼らと遺族が、がっかりしないように靖国神社(1879年)をつくっておこう.
◆自分は表向き、教育(慶応義塾)と新聞(時事新報)の責任者ということで行こう.
◆実際には「暗に政府のお師匠さま」(全集第20巻頁)として、侵略戦争を推し進め、そこで上前をはねよう.(実際に戦争報道で大もうけをした)
これが、福沢諭吉の真実です.
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