10. 2013年7月21日 09:41:38
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これが東條英機の真実の声昭和天皇は戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。 大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。 ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。 だから後年、阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは、海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。 海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったから、天皇としてはどうしても敗戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではないか。 佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。 東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、 「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。 これは当時としては真実である。 しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。 それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。 キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。 みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。 http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2 昭和天皇の身代わりになって処刑された東条英機 1947年の12月、戦時中の首相、東条は自らを弁護して証言台に立った。彼は生贄の羊となることを望んではいたものの、降伏以降、彼への雑言悪態は限度を越えていた。中には、天皇自身が、東条の命令不服従の不実を非難しているとさえ報じられていた。あるいは、日本の新聞は、東条が自決しようとして、刀ではなく拳銃を使ったことを、臆病者と呼んでいた。東条の家族は、近所からライ病患者のごとく扱われ、お金にも不自由した。彼の弟は、二ヶ月前、列車中で一袋の米を盗んだとして逮捕されていた。 要するに、東条は不当な扱いへの不満を抱いており、それを訴えるに違いないと期待されていた。彼は融通が利かないほどに理屈っぽく、ほぼ西洋的な考え方をしていた。彼は受け入れた毒杯を法廷の床に投げつけ、皆に飛び散らかせるかも知れなかった。 だが、アメリカの検事、ジョン・W・フィエリーは、刑務所で東条に尋問し、彼のケースの複雑さの一部始終を知っていた。そこでキーナンは、東条を法廷で審問し彼を正しく導くことは、政治的栄光を獲得することでもあったため、フィエリーを左遷することに決め、東条の反対尋問を自らが行った。正確に言えば、彼は自分が反対尋問を行うことが許されると要求し、フィエリーにその詳細な追及をさせたが、法廷は、ウェッブ判事が異議を述べたものの、各被疑者にはただ一人の反対尋問者が許されることが最も公平であると裁定した。キーナンは自分で全責任を受け入れ、フィエリーはそれに抗議して検事を辞任したのであった。 1947年の大晦日、東条への直接尋問のなかで、〔木戸の〕弁護人ログマンはこう質問した。 「天皇の平和に対してのご希望に反して、木戸侯爵が行動をとったか、あるいは何かを進言したという事実を何か覚えていますか?」 東条 そういう事例はもちろんありません。私が知る限りにおいてはありません。のみならず、日本国の臣民が、陛下のご意思に反して、かれこれすることはあり得ぬことであります。いわんや、日本の高官においておや。 ログマン 以上をもって、木戸卿に代わる私の尋問を終わります。 裁判長(ウェッブ) 今の質問がどのようなことを示唆しているかは、よく理解できるはずである。 まさしく、それは誰もが知っていたことだった。 そこでキーナンは、彼の証人の切り札たる田中隆吉を、富士山麓の山中湖畔の自宅で休暇中のところより呼び戻し、ただちに巣鴨刑務所の東条に会いに行かせた。だが東条はそれに応じようとはしなかったので、田中は皇居に行き、木戸の前秘書で天皇の顧問の後継者、松平康昌に情況を説明した。次いで松平は、同僚の側近たちと相談し、収監中の元内大臣木戸に手紙を送る許可を裕仁よりえた。 東条とは隣同士の房にいる木戸は、さっそく東条との話し合いに入った。彼は東条と護衛の監視下で仕切り越しに長々と話をした。木戸はまた、刑務所中庭で運動の際、直接に東条に話しかけ、東条の家族の状況を改善させることを約束した。小男で近眼の木戸ながら、彼は刑務所の雑務中でも裕仁の代理人であったため、東条は彼の話を無視することはできなかった。 二日にわたって話が交わされた後、ついに東条は折れた。彼は法廷にもどると、キーナンによる反対尋問の中で、自分が天皇を戦争を始めるよう説得し、それによって、裕仁を自身の気持ちに反して動くように強いさせたかも知れないことを認めるに至った。 後になって、1948年1月8日、キーナンは、まさしく東洋の夜への招待を受けた。そこは、海辺のリゾート地、熱海のある金持ちの別荘だった。二人の元首相、元陸軍大臣、そして熱海市長らがキーナンをもてなしていた 宴が終わると、市長は女たちを呼び、日本の政治家だった老人たちはキーナンに最初の選択権を譲った。その夜遅く、キーナンは田中に、「もてなしとはそういう機会をつくるものだ」と話した。 夜の明けかけた道を東京へと戻る際、列車と競いそれに勝ったということで、彼はお付きの運転手に百ドルを与えた。彼は、天皇の顧問、松平より、宮中での晩餐に招かれた。戦犯裁判における彼の二重の役割が、天皇に説明された。だがそれに天皇は、「ああ、それは結構です」と言ったのみだった。 http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm 内閣特別顧問の石原莞爾――退役した満州戦略家――は、敗戦の説明をおこなうため、全国の津々浦々を行脚した。
彼の話す内容は、戦争を始めたのは元首相東条であり、彼以外に責任はない、という単純なものであった。 1930年代初め、石原と東条は、天皇の支持を取り付けるため互いに争っていた。だが東条が勝利していた。今、東条を犠牲者に祭り上げるにあたり、石原ほど詳細を知るものはいなかった。 出身地東京で一年以上の退役生活を送っていた東条は、その中傷を冷徹に受け入れ、戦争の責任を全面的に負うのが自分の意思であると、友人たちには内々に語っていた。 友人たちは彼の意思を尊重したが、以前の部下や下僕たちはそれに反発した。たとえば、官邸に20年間使えてきた給仕は、東条を、もっとも人間的で思慮深い人物であると述べていることが幾度も取り上げられていた。 http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_3a.htm マスコミ報道等では、第二次世界大戦は日本の軍部が独走し、 天皇は仕方なくそれに引きづられた・・という事になっている。
そのため戦争中首相であった東条英機は戦争犯罪者として処刑され、 天皇は「罪を問われなかった」という事に「なっている」。 1944年7月20日、天皇の東条英機あての勅語。
「あなたは(東条は)、朕(天皇)の行う戦争において、朕の指導の下に 十分職務を果たした。」・・()内部、筆者の注。 ここで天皇自身「が」主体となって戦争を行っている事、つまり軍部に引きづられて 戦争が行われているのでは無い事、 東条が「天皇の指導の下」にその命令通りに戦争を行って来た事を、天皇自身が証言している。 天皇は、自分の行った戦争の責任を全て東条に押し付け、東条を処刑させ、 自分だけ生き延びたのである。 戦争中、東条は1日に3回天皇を「御機嫌うかがい」のため訪問し、 政界では「ゴマすり東条」と批判されていた。 東条を始めとした政界軍部が「強引に戦争を行い」、天皇がそれに引きづられる等という事は、 この東条と天皇の「力関係」から見て有り得ない。 天皇は東条に全責任を押し付け、自分だけ生き延びたのである。 http://alternativereport1.seesaa.net/article/49704032.html 昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ 昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、史料としての歴史的価値も高い。 昭和天皇がある時期から靖国神社を参拝されなくなった理由は「A級戦犯」合祀であろう、という推測が以前からあった。この記事内容が事実であるなら、その推測が資料で裏付けられたことになり意義深いと思う。 首相の靖国参拝問題などの諸問題は、このことで一気に解決するとは思えない。 そこで記事の引用(2件) <昭和天皇>靖国合祀不快感に波紋…遺族に戸惑いも 「だからあれ以来参拝していない。それが私の心だ」。 富田朝彦・元宮内庁長官が残していた靖国神社A級戦犯合祀(ごうし)への昭和天皇の不快感。さらに、合祀した靖国神社宮司へ「親の心子知らず」と批判を投げかけた。昭和天皇が亡くなる1年前に記されたメモには強い意思が示され、遺族らは戸惑い、昭和史研究者は驚きを隠さない。A級戦犯分祀論や、小泉純一郎首相の参拝問題にどのような影響を与えるのか。 ■A級戦犯の遺族 「信じられない。陛下(昭和天皇)のお気持ちを信じています」――A級戦犯として処刑され、靖国神社に合祀される板垣征四郎元陸軍大将の二男の正・日本遺族会顧問(82)=元参院議員=は驚きながらも、そう言い切った。 日本近現代史に詳しい小田部雄次・静岡福祉大教授は「昭和天皇の気持ちが分かって面白い」と驚き、「東京裁判を否定することは昭和天皇にとって自己否定につながる。国民との一体感を保つためにも、合祀を批判して戦後社会に適応するスタンスを示す必要もあったのではないか」と冷ややかな見方を示した。その上で「A級戦犯が合祀されると、A級戦犯が国のために戦ったことになり、国家元首だった昭和天皇の責任問題も出てくる。その意味では、天皇の発言は『責任回避だ』という面もあるが、東京裁判を容認する戦後天皇家の基盤を否定することもできなかったのではないか」と話した。
天皇の靖国神社参拝は1975年11月21日に昭和天皇が行って以来、今の天皇陛下も含め行われていない。同神社や遺族側は、その後も「天皇参拝」を求めているが、30年以上途絶えたままだ。これまでいくつかの理由が推測で語られていたが、今回の「富田元長官メモ」は、このうちの一つを大きくクローズアップした。 宮内庁によると昭和天皇は、終戦に際し45年11月に同神社を参拝。その後も数年おきに訪れ、75年までに戦後計8回参拝した。 途絶えた理由に挙げられるのは (1)78年のA級戦犯合祀 (2)対外関係の考慮 (3)公人私人問題――など。 今回のメモは(1)が大きな理由だったと読める。 http://yy32zi.at.webry.info/200607/article_10.html 問題の天皇発言は、富田朝彦元宮内庁長官(故人)の手帳に記されていた(1988年4月28日付)。メモによると、昭和天皇はA級戦犯を合祀した当時の靖国神社宮司を名指しで批判、
「だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」などと語ったという。 天皇メモをスクープした日本経済新聞は「昭和天皇がA級戦犯合祀に強い不快感を示したのは、過去の戦争への痛切な反省と世界平和への思い、米英両国や中国など諸外国との信義を重んじる信念があったためと推察される。そうした昭和天皇の思いを日本人として大事にしたい」(7/21社説)として、小泉首相に靖国神社参拝を自制するよう求めた。「朝日」「読売」なども同様の論調を掲げている。 時代錯誤とはこのことを言う。大手メディアがそろいもそろって首相の行動をいさめるのに天皇の言葉を持ち出すとは、とても主権在民の憲法を持つ国の出来事とは思えない。これは明らかに「天皇の政治利用」にあたる。 そもそも、マスメディアのメモ解釈には無理がありすぎる。 昭和天皇が戦後も続けていた靖国神社への参拝を、A級戦犯の合祀(78年)を理由にとりやめたのは事実であろう。ただしそれは「戦争への痛切な反省と世界平和への思い」からではない。自身の戦争責任追及を昭和天皇が恐れたからだ。 A級戦犯を神と崇める神社に参拝などしたら、苦労して築き上げた「平和主義者・天皇」のイメージが一瞬にして瓦解する。 つまり昭和天皇は天皇家の延命という観点から、靖国神社の勝手な行動に激怒した−−こう考えたほうが自然である。 昭和天皇が松岡洋右元外相らに開戦責任を押しつける発言をしていたことは他の史料でも明らかになっている。戦犯連中にしてみれば、「本来なら最高責任者の陛下こそ戦犯じゃないか」というツッコミをあの世から入れたい気分ではないか。 http://www.mdsweb.jp/doc/947/0947_08a.html
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