05. 2013年7月26日 01:54:59
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鎖国の実態〜実は4つの窓が開いていたシーパワーを持たない徳川幕府の消極外交 2013年7月26日(金) 小谷 哲男 徳川幕府の鎖国は、消極的な外交政策であったと言える。海を通じた異国・異民族との接触を制限することで、幕府の統治を脅かしかねない脅威を取り除こうとした。 だが、これは排外主義とは本質的に異なっていた。オランダ・清を「通商国」(国交を結ばないものの貿易は承認)とした。朝鮮・琉球を「通信国」(国交を結び、貿易も行う)とし、朝鮮からの通信使、琉球からの慶賀使・謝恩使を迎えた。アイヌとも交易を行った。 長崎の出島は当初、ポルトガル人を管理する目的で作ったものだった。鎖国にともない、平戸にあったオランダ東インド会社の商館を出島に移した。徳川幕府はこうして、長崎奉行の厳しい監督の下でオランダとの貿易を行い、これが生み出す利益の独占を図った。オランダ船は年に1回のペースで来航した。幕府は長崎を窓口としてヨーロッパの書物を輸入し、オランダ商館長が提出するオランダ風説書によって海外の事情を知った。他方、アムステルダムでは日本の磁器が人気を集めたという。 幕府は秀吉の朝鮮出兵で途絶えた明との国交を回復させようと努力したが、実現しなかった。だが、明の民間船の往来は途絶えなかった。幕府は中国船との民間貿易の窓口を長崎に限定し、長崎の町では中国人と日本人が雑居するようになった。 清が明を滅ぼした後、幕府は清との国交樹立を積極的に求めなかったが、長崎には清船が現れるようになった。清は海外貿易を禁止しなかったので、幕府は貿易統制を強化し、長崎に唐人屋敷を建て、清国人の居住を限定した。 徳川幕府は朝鮮との講和を実現し、1609年に己酉条約を結んだ。これによって釜山に倭館が設置され、対馬藩主である宗氏が対朝鮮貿易を独占した。耕地に恵まれない対馬では、貿易の利潤が封建的主従関係を支えた。朝鮮からの使節は、当初、秀吉の朝鮮出兵で日本に連行された捕虜の返還を目的とした。その後、1836年以降清が朝鮮を攻めるようになると、「援明抗清」を貫く朝鮮は、南方の日本との友好関係の構築を重視するようになった。 琉球王国は、1609年以降薩摩藩の支配を受けるようになった。薩摩藩は琉球にも検地と刀狩りを実施し、尚氏を王位に就かせた。徳川幕府は、琉球から江戸に来る使節にはみな中国風の服装、中国風の音楽を演奏させた。これによって自らの支配が異国にも及んでいるように江戸市民に対して見せようとしたのだろう。琉球は、1663年から清の冊封も受ける二重の外交関係を持つようになり、北京にも朝貢の使節を派遣した。 蝦夷地(北海道)では、蠣崎(かきざき)氏が松前を本拠地として道南地域の支配者となった。徳川幕府が蠣崎氏にアイヌとの貿易独占権を与えると、蠣崎氏は家康の旧姓の「松平」と前田利家の「前」をとって松前氏と改名し、アイヌとの交易権を家臣に与えることで主従関係を維持した。 アイヌは河川流域に集落を形成し、漁猟中心の生活をしていた。その一方で、千島や樺太、中国の黒竜江流域、さらには明・清とも交易を行っていた。アイヌは1669年、松前藩の不正な交易への不満から一斉蜂起したが(シャクシャインの蜂起)、幕府は津軽藩を援軍として送り、松前藩を助けた。以後、アイヌは松前藩に服従することになった。 権威を高めようとしたもののシーパワーを欠いた このように、鎖国の間も徳川幕府は長崎、対馬、薩摩、松前の4つの窓口を通じて、異国・異民族との交流を維持した。東アジアには、中国を中心とする伝統的な・華夷秩序(冊封体制)とは別に、日本を中心とする国際関係が存在したのである。 1644年、満州族の清が漢民族の王朝、明を滅ぼした。日本では、これが「中華」と「夷狄」の交代・逆転、つまり「華夷変態」とみなされた。そして、従来の中華思想を否定し、日本を「中華」とする考え方が生まれた。このため、幕府は清との国交樹立に積極的ではなかったのである。 1711年に新井白石は、将軍の権威を東アジアにおける中国皇帝を中心とする秩序の下に位置づけようとした。その上で、朝鮮に対する日本の優越性を示すために、朝鮮との外交文書で「日本国大君」の称号に代えて「日本国王」を採用した。日本国大君は将軍を示す。華夷秩序では、「国王」の方が「大君」よりも上だからである。 一方、白石を退位させた8代将軍徳川吉宗は再び「日本国大君」を名乗るようになった。これは、中国とは異なる独自の理念に基づいて日本(将軍)が自らを「中華」とし、周辺地域を支配する――という姿勢を示すためであった。もっとも、「征夷大将軍」にとって、「夷」、つまり清や蝦夷や琉球などは征伐の対象である。しかし、「服従の意思を示す限りは実行を保留する」とした。徳川幕府は、将軍の権威を国内で高めるためにこのようなレトリックを使ったのである。 対外的には、シーパワーを欠く徳川幕府は、周辺諸国との争いを避ける消極的な外交に終始せざるを得なかった。例えば、幕府は薩摩藩に対し、琉球に向かう冊封使を乗せた清船に手出しをせず、清との間で戦争を起こさないように下命している。同様に、明の滅亡後に抗清運動を続けていた鄭成功が援軍と武器の支援を求めてきた時にも、幕府はこれを拒んでいる。幕府はシャクシャインの蜂起の際も、清がアイヌに加担することを恐れた。 1696年に起こった「竹島一件」、つまり鬱陵島の帰属を巡る朝鮮との外交問題でも、徳川幕府の消極的な外交政策がうかがえる。徳川幕府は1618年から、鬱陵島への渡海免許を発行。日本の漁民がアワビやアシカの漁に出るようになった。これにともない、隠岐と鬱陵島の中間点にある竹島が寄港地となった。だが、鬱陵島に朝鮮人が現れるようになったため、徳川幕府は朝鮮との友好関係を重視し、鬱陵島は朝鮮に帰属するとし、日本人の渡航を禁止した。 この時幕府が渡航を禁じたのはあくまで鬱陵島だけで、竹島への渡航は禁止しなかった。しかし、韓国はこの時に日本が現在の竹島への渡航も禁止したため「独島(竹島の韓国名)は韓国領だ」と主張している。当時の徳川幕府の消極姿勢が、今日の竹島を巡る問題で韓国に利用されているのである。 18世紀の後半に始まるロシアの南下により、蝦夷地の防衛が課題となった。幕府はロシアに対しても低姿勢を貫いた。ロシアはラスクマンやレザノフなどを使節として日本に送り、通商を求めた。しかし、徳川幕府はこれをかたくなに拒否。ロシアは、日本に通商を認めさせるには、軍事的な圧力が必要と考えるようになった。その後、ロシアの軍艦が樺太や択捉を襲撃する事件が相次ぐようになった。 1811年、国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ゴローウニンを日本側が捕らえた。ロシアは報復として日本人の商人を捕らえた(ゴローウニン事件)。幕府は一連の蝦夷地襲撃とゴローウニン事件は無関係であるとのロシア政府の説明を受けてゴローウニンを釈放し、ロシアとの緊張関係を緩和した。 ロシアの南下に対処するため、幕府は蝦夷地を段階的に直轄地とし、東北地方の諸大名にその防衛を命じた。ただし、蝦夷地の防衛に当たったのは3000人規模の陸上部隊だった。海上戦力でロシア船を撃退するのではなく、沿岸防備に終始した。それでも、蝦夷地の防衛義務は東北諸藩に重い負担となった。1821年に幕府は蝦夷地を松前藩に返還した。 日本初の海軍を設置 徳川幕府が消極的な外交姿勢を取ったのは、海軍力の不足が大きな理由だった。幕府は、1635年の武家諸法度で、諸大名が50石籍以上の軍船を建造・保有することを禁じた。それは、諸大名の水軍力を制限して、幕府に抵抗できなくするためであった。 一方の幕府も「安宅丸」という大船1隻と小型船からなる水軍を保有したにすぎなかった。「安宅丸」は江戸湾の防備に当たったが、実戦を経験することもなく老朽化し、解体に至った。とはいえ、幕府水軍は「中央政権が常備する戦力」という意味で、それまでの私的な水軍とは性格が異なっていた。海軍を「国家が保有・維持する常備軍」と定義するなら、日本に初めて海軍が生まれたのである。 幕府は、外国が攻めてくるとすれば長崎に侵攻してくると考えていた。このため、九州の諸大名に命じて長崎の防衛態勢を強化した。1647年にポルトガル船2隻が長崎に現れた時は、1000隻の船で長崎港を封鎖するとともに、ポルトガル船を包囲し、退散させることができた。しかし、1808年にイギリス軍艦「フェートン号」がオランダ船に偽装して長崎港に侵入した時には、小型船のみからなる幕府の海軍は全く対処できなかった。 19世紀に入ると、イギリス船が頻繁に浦賀に来港するようになった。幕府は長らく、来航した外国船に対して薪水や食糧を与えて帰国させる方針を維持していたが、1825年に異国船打払令を出し、外国船の撃退を命じた。武力で威嚇することで、外国船の来航を阻止しようとしたのである。幕府は実際、1837年に浦賀に来航した外国船に砲撃し、退去させた。翌年には、日本人漂流民の送還を兼ねて来航したアメリカのモリソン号も退去させた。 19世紀、日本の周辺も「世界史の海」に 17世紀に鎖国が可能だったのは、西洋列強のシーパワーが未熟で、西洋とアジアを結ぶコミュニケーション(交通)線が細かったからである。だが、19世紀になると西ヨーロッパの海洋国家がしのぎを削る中でイギリスが海洋の覇権を握り、インドや中国へとその範囲を広げた。一方、シベリア開発に取り組むロシアや、西部の開拓を終えたアメリカも東アジアへの接近を図るようになった。こうして、東アジアに至るコミュニケーション線が拡大され、日本周辺の海は「世界史の海」になったのである。 シーパワーを伴った西洋列強の出現は、「夷」の上に君臨する征夷大将軍の存在を揺るがす事態であった。江戸時代の将軍権威を高めていた肩書きによって、幕府は「征夷」「攘夷」というかつてない外交上の責任を負うことになった。しかし、幕府にそのような責任を遂行する実力はなかった。 内憂外患の19世紀前半、幕府が全力を挙げて取り組んだ天保の改革も挫折し、幕府の統制力は失われつつあった。そのような中、薩摩や長州など西南雄藩は、抜け荷、つまり長崎を経ない密貿易によって財政難を克服。洋式砲術を導入して藩の実力強化を図った。鎖国の狙いの1つは、外様諸藩が密貿易を通じて力を付けることを防ぐことにあったが、幕府には抜け荷を取り締まる海軍力がなかったのである。 幕府の統治は、封建制度を肯定する朱子学に支えられていた。このため幕府は、洋学の導入に当たって、科学技術などの実学に限定した。幕府批判を助長するかもしれない西洋の政治思想の研究は抑圧した。 だが、幕藩体制が行き詰まる中で、新たな政治思想が生まれてきた。佐藤信淵らが広めた経世論は、諸外国との交易の重要性を説き、鎖国政策を批判した。そして、林子平らが唱えた海防論は、海軍力を強化することで対外的危機に対応する政策を求めるものだった。 このように、200年近く続いた幕府の鎖国政策は、国外及び国内からの圧力にさらされるようになった。そこに、ペリー提督率いる黒船が来航した。これに続く開国を機に、鎖国によって抑えられてきた海外進出のエネルギーが一気に解放され、明治維新を引き起こす原動力となっていくのである。 このように、鎖国の間も、4つの窓を通じて徳川幕府は限定的にではあるものの外部と接触していた。幕府は海軍力を増強するのに十分な財源と造船技術を持つことができなかった。ただし、曽村保信氏が指摘するように、江戸を政治の中心に移したことは、その後の日本が海洋国家に向かう上で重要な決断だった。長らく日本の海洋活動は西日本に偏っていた。しかし、江戸湾は豊かな関東平野を後背地に持つ天然の良港である。ここを拠点とすることで、蝦夷地を含む日本全体が海で結ばれることになったのである。 このコラムについて 海の国際政治学 国際政治の中で海が果たす役割に注目するとともに、国際政治の本質を海から理解することを目指します。 具体的には、海洋国家とは何かを考えるとともに、海洋国家の歴史をさかのぼります。 テーマは、次の通り。「アテナイとペロポネソス戦争」「ポエニ戦争とローマの台頭」「ローマの衰退からベネチアの台頭」「レパントの海戦と地中海時代の終焉」「スペインとポルトガルの海洋進出」「英仏の覇権争いとイギリス海洋帝国の完成」「なぜイギリスが覇権国となったのか」「軍艦の発展」。著者、小谷哲男氏が法政大学で開講している講義をベースに解説します。 乞う、ご期待。 |