06. 2013年7月16日 01:05:23
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JBpress>海外>The Economist [The Economist] アラブの春は失敗に終わったのか? 2013年07月16日(Tue) The Economist (英エコノミスト誌 2013年7月13日号)混乱と流血、民主主義の後退はある。しかし民主化のプロセスは時間がかかるものだ。希望を捨ててはならない。 アラブ世界で革命が起き始めてからおよそ2年半が経ったが、安定した平和な民主主義への道をまっすぐに歩んでいる国は、まだ1つもない。チュニジア、リビア、イエメンといった見通しの明るかった国も、苦闘を続けている。人口が最も多いエジプトでは、混沌とした民主主義の実験が、選挙で選ばれた大統領が拘束される事態に行き着いた。シリアは内戦の血にまみれている。 アラブの春は失敗に終わったと考えるに至った人がいても、無理はない。そうした人たちは、中東はまだ変化の準備ができていないと主張する。その理由の1つが、民主的な制度がないという点だ。そのために、民衆のパワーが歪んで政治的混乱に陥ったり、独裁の復活を招いたりすることになる。 もう1つの理由が、中東を団結させる力の1つがイスラム教だということだ。イスラム教は民主主義に順応できず、したがって、アラブの春が起きていなかった方が、中東の状況はいまよりもましだったはず、というのが彼らの結論だ。 だが、その見方は良くても早計で、悪ければ間違っている。民主主義への移行には、しばしば暴力が伴い、時間もかかる。アラブの春が生んだ最悪の結果――最初はリビア、現在はシリア――は、確かにひどいものだ。だが、本誌(英エコノミスト)の特集記事でも訴えているように、中東のほとんどの人々は、時計の針を戻したいとは思っていない。 本筋を見誤ってはならない アラブの春は失敗だったと主張する人たちは、それ以前の長い冬と、それが人々の生活に与えていた影響を無視している。 1960年時点では、エジプトと韓国の平均寿命と国民1人当たりの国内総生産(GDP)は同程度だった。だが今では、大きくかけ離れている。現在のエジプトでは、都市住民が大幅に増え、読み書きのできる人が人口の4分の3にのぼるにもかかわらず、1人当たりのGDPは韓国の5分の1にすぎない。貧困と栄養失調による発育不良が、あまりに蔓延している。 ムスリム同胞団の信仰と無能な政府は、その解消には全く役に立たなかった。だが、エジプトの根深い問題は、それ以前に国を治めていた独裁者たちが悪化させたものだ。他のアラブ諸国の多くも似たり寄ったりだった。 この点は重要だ。というのも、アラブの春の不安定な進展を考えれば、独裁者による近代化こそ解決策だとする声が多いからだ――秩序を保ち、経済を成長させるためには、アウグスト・ピノチェトやリー・クアンユー、ケ小平のような人物が必要だというわけだ。 東南アジア諸国とは違って、自国の経済発展に伴って積極的に民主主義を育てようとした哲学的指導者は、中東には存在しない。それどころか、独裁者の兄弟やファーストレディの親類が、有利なビジネスをすべて独占している。 そして、大衆の蜂起を常に警戒している独裁者は、改革という大きな挑戦には逃げ腰になる傾向がある。例えば、燃料補助金の段階的廃止といった改革だ。エジプトでは、燃料補助金だけでGDPの8%を占める。産油国の専制君主たちは、今でもカネで平和を買おうとしている。 だが、主権を奪われている高学歴の若者たちが自由の気配に感づいている今、シリアのように、独裁者が大量の血を流してでも権力の座に居座ろうとするのでないかぎり、昔ながらの方法はますます通用しなくなっている。先進的なアラブの君主国の中には、モロッコやヨルダン、クウェートのように、国民の発言権を拡大する立憲制度を模索している国もある。 アラブの民主主義はイスラム主義者が支配しているのか? それは結構な話だが、アラブの民主主義は結局のところ、イスラム主義者たちに支配されているではないか、と応じる人もいるだろう。イスラム主義者は、改革ができないという点では独裁者とたいして変わらないし、政治的イスラムの不寛容さゆえに非民主的だと、彼らは言う。 ムスリム同胞団のムハンマド・モルシ氏は、7月初めに、街にあふれる数百万のエジプト国民の意を汲む形をとった軍により、大統領権限を剥奪された。モルシ氏は民主的選挙で選ばれた大統領だったが、その短い在任期間中に民主主義の規範をことごとく軽視してきた。 今や、アラブの世俗主義者やその欧米の支援者の多くは、イスラム主義者は権力を神に与えられたものと見なす傾向があるため、民主主義国には本来、独立した司法機関や自由な報道、権力の分離、マイノリティを保護する多元的な憲法といったチェックシステムが必要だという考え方を、決して受け入れないだろうと主張している。 だが、そうした見方も間違っている。アラブ世界の外、例えばマレーシアやインドネシアでは、イスラム主義者でも民主主義の慣習を身につけられることが証明されている。トルコでも、独裁的とはいえ選挙で選ばれたレジェップ・タイイップ・エルドアン首相に対する抗議行動は、アラブの春よりはむしろブラジルのそれに近い。数々の失敗はあるものの、現在のトルコは、黒幕に軍が控えていた時代よりもずっと民主的になっている。 つまり、問題はアラブ世界のイスラム主義者にある。それも当然だろう。彼らは何十年にもわたる抑圧により学んできたのだ。抑圧のもとで活動を続けるには、陰謀的になるか組織化するしかなかった。ほとんどのアラブ諸国では、こうした運動の中心的な支持者は、相当な数のマイノリティだ。彼らを無視することはできない。むしろ、このような人々を主流の中に取り込まなければならない。 エジプトのクーデターを悲しむべき理由は、そこにある。ムスリム同胞団が権力の座にとどまっていれば、国の運営に必要な寛容さと現実主義を習得していたかもしれない。だが現実には、彼らは民主主義政治に対する疑念をいっそう強めてしまった。 アラブのイスラム主義者に国をきちんと運営するだけの能力があると証明できるかどうかは、いまや最初に独裁支配を脱したチュニジアにかかっている。 それを証明できる見込みはある。チュニジアは現在、憲法制定のさなかにあるが、新憲法が排他的ではないまっとうな民主主義の基盤として機能するかもしれない。だが、他のアラブ諸国がチュニジアと同じ方向に進むとしても、それには長い年月がかかるだろう。 それも驚くことではない。政治的変化とは、長い時間がかかるものだ。過去を振り返って見るときは、歴史の細かい混乱を見落としがちだ。例えば、共産主義からの移行は、今にして思えば、容易な道だったように見える。 だが、ベルリンの壁崩壊から3年後の欧州は、犯罪組織に蹂躙されていた。ポーランドやスロバキア、バルト諸国では、過激な政治家が台頭していた。バルカン諸国は戦争に陥る寸前で、グルジアでは紛争が起きていた。いまでさえ、旧ソ連諸国の人々の多くは、抑圧的な政権のもとで暮らしている――それでも、ほとんどの人は、過去に戻りたいとは思っていない。 流れを止めるな アラブの春はそもそも、「覚醒」と表現するべきものだった。真の革命は、街頭ではなく、むしろ人々の精神のなかで起きる。インターネット、ソーシャルメディア、衛星テレビ、教育――男性だけではなく女性も――への渇望は、滅びつつある古い独裁政治とは共存しえない。 とりわけエジプト国民は、民主主義というものが単に選挙の問題でも、数百万のデモ隊を集める力だけでもないことを学び始めている。民主主義への道には、昔から混乱がつきもので、ときには流血の事態が生じることもある。その旅路は、何十年もかかるかもしれない。それでも、歓迎すべきものであることに変わりはない。
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