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イランの次期大統領は「改革派」のロハニになったようだが、ラフサンジャニが推進した新自由主義経済路線には反発が強く、・・・
http://www.asyura2.com/13/warb11/msg/299.html
投稿者 アフターバーナー 日時 2013 年 6 月 18 日 00:13:30: jrkxmEf6yaSpQ
 

イランの次期大統領は「改革派」のロハニになったようだが、ラフサンジャニが推進した新自由主義経済路線には反発が強く、イスラエルやその仲間は体制転覆に執着 【櫻井ジャーナル】

http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201306170000/

欧米の言う「改革派」というのは「ネオリベ」のこと。
欧米の持ち上げる連中にろくなやつはいないということです。

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 イランの大統領選挙でハサン・ロハニ元最高安全保障委員会事務局長が得票率50.7%で当選した。ロハニはハシェミ・ラフサンジャニ元大統領の側近と言われ、欧米では「改革派」、あるいは「穏健派」と呼ばれている。

 イラン支配層の内部にはアメリカの好戦派とつながっている勢力が存在している。両者を強く結びつける出来事が起こったのは1980年、アメリカ大統領選挙の最中のことだ。

 当時、イランはイスラム革命が成功した直後で、テヘランのアメリカ大使館では館員など52名が人質になっていた。この人質がいつ解放されるか、つまり選挙前に実現するのか、選挙後にずれ込むのかで選挙結果に影響が出ると考えられていた。

 結局、選挙ではロナルド・レーガンが当選するのだが、その背後では共和党による人質解放遅延工作があった可能性が高い。レーガンやジョージ・H・W・ブッシュの周辺がイスラエルのリクードと手を組み、イランと交渉していたのだ。人質が解放されたのはレーガンが大統領に就任した1981年1月20日だった。(詳しくは拙著『テロ帝国アメリカは21世紀に耐えられない』を)

 人質解放を遅らせる見返りとして、共和党側はイランへの武器供与を提示していた。後にイランへの武器密輸とニカラグアの反革命ゲリラ支援が明らかにされ、「イラン・コントラ事件」と呼ばれるようになるが、その発端は人質解放遅延工作にあったわけだ。

 この工作が行われている最中、イラクがイランを攻撃する。イラクに君臨していたサダム・フセインはCIAの手駒として権力を握った人物だ。このイラン・イラク戦争は1988年まで続き、イランとしては、アメリカやイスラエルからの武器提供を受け入れざるをえない状況だったとも言える。

 停戦後、イランでは新自由主義的、つまり強者総取りの経済が広がっていく。私有化や貿易の自由化が推進され、少数の大金持ちと多くの貧困層を生み出すことになったのだ。そして1989年に大統領となったハシェミ・ラフサンジャニは「経済改革」を実施、新たな経済エリートを生み出し、庶民は貧困化していった。

 こうしてできあがった利権集団は欧米の巨大資本と結びつき、現在に至るまで大きな力を持ち続けている。2005年の大統領選で勝利したマフムード・アフマディネジャドはこうした強者総取り経済を変えようと試み、まずパールシヤーン銀行にメスを入れようとしたのだが、成功しなかった。そうした中、イランでは不動産バブルが膨らみ、2008年に破裂している。

 欧米の政府やメディアがイランの「改革派」を支持する理由はここにある。欧米の巨大
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資本がイランでカネを儲ける環境が良くなる、つまりイランから富を吸い上げることが容
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易になるからだ。イランの新興経済エリートにしても、自分たちが豊かになれば問題はな
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い。TPPを推進したがっている日本の「エリート」と基本的に同じだ。
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 ただ、前回の大統領選挙でアフマディネジャドが勝利したことでも明らかなように、ラフサンジャニ流の「改革」を推進しようとすれば、強い反発が予想される。ラフサンジャニの側近だったとはいえ、露骨な資本主義化は難しいということだ。ロハニという「改革派」の当選で欧米支配層の内部に、イランに対する経済攻撃を弱めようとする動きが出てくる可能性もあるが、それを対イラン強硬派は懸念している。

 イギリスの外務省は「核開発問題」に言及したようだが、核開発はイランを攻撃するために掲げた看板にすぎない。イランでは2004年に最高指導者のアリー・ホセイニー・ハメネイが核兵器の保有を禁じるファトワ(イスラムにおける勧告で、政治的にも影響力を持つ)を出し、その後も核兵器の開発を目指していないと一貫して主張している。ロハニが核問題で方針を変えるとしたら、核開発自体を放棄すると宣言する以外にない。

 イランを先制攻撃する前に流した「大量破壊兵器」、あるいはシリアの「化学兵器」と同じで、イランの「核開発」は単なる攻撃の口実。アメリカの親イスラエル派、つまりネオコンの中心的な存在であるポール・ウォルフォウィッツは1991年、ジョージ・H・W・ブッシュ政権の国防次官だったときにイランをシリアやイラクと一緒に殲滅するというビジョンを持っていたという。これはウェズリー・クラーク元欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)最高司令官の話。

 また、2007年に調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュが書いたレポートによると、アメリカ(ネオコン)、イスラエル、サウジアラビアは手を組み、シリアやイランをターゲットにした秘密工作を開始している。イランにもアメリカの特殊部隊JSOCが潜入して活動中だとされている。

 イランと欧米との対立が激しくなった理由は欧米側にある。イランの「強硬姿勢」が問題なのではなく、イランを攻撃するために「強硬姿勢」を宣伝しているだけだ。ただ、ここにきて欧米支配層の中には、イスラエルと手を組んだ好戦派に危機感を持つ人たちも増えている。好戦派の足下にも火がついている。例えば、トルコでは政府への反発が強まってデモ隊と警官隊の衝突に発展、サウジアラビアではクーデター計画があったとも言われている。
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コメント
 
01. 2013年6月18日 07:10:35 : e9xeV93vFQ
社説:イラン大統領選、穏健派圧勝のサプライズ
2013年06月18日(Tue) Financial Times
(2013年6月17日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)


保守強硬派に対して予想外の地滑り的勝利を収めたハサン・ロウハニ師〔AFPBB News〕

 イラン国民は6月14日の大統領選挙で唯一の穏健派候補に票を投じ、強硬派の指導部に劇的な敗北をもたらした。

 有権者は、非妥協的な核問題の交渉責任者で、イランの最高指導者のお気に入りと目されていたサイード・ジャリリ氏ではなく、中道派の聖職者で、2000年代初頭に核外交の責任者を務めた時に核濃縮を中断したことでよく記憶されているハサン・ロウハニ師を選出した。

 ロウハニ師が今回、最高指導者のアヤトラ・アリ・ハメネイ師の反対にもかかわらず勝ったのか、それとも土壇場で承認を得て勝利を収めたのかは、永遠に分からないかもしれない。

 だが、ロウハニ師の勝利は、経済運営であれ、諸外国との関係であれ、イラン国民が過激主義的な政策にうんざりしているという強力なメッセージを送る。

過激主義にうんざりしたイラン国民

 ハメネイ師が改革派大統領候補に投じられた票を無視し、扇動的なマフムード・アフマディネジャド大統領に2期目の任期を与えてから4年。今回の選挙は、イラン国民が抑圧に屈しないことを裏付けた。ロウハニ師が強硬派の大統領候補5人を相手に第1回投票で圧勝したのは、2009年に盗まれた改革派の票のおかげだ。

 ロウハニ師の選出は、折しもイランの核開発計画やシリアのバシャル・アル・アサド政権に対する政治的、軍事的支援を巡って緊張が高まっている時に、国際外交に新たなチャンスをもたらす。イラン政府は濃縮度20%のウランの貯蔵量を減らしたものの、引き続き高度な遠心分離機の能力を高めており、これにより、早期に核爆弾を手に入れる可能性もある。

 イランで再び勢いを増す穏健派を強くする一方、精鋭集団の革命防衛隊をはじめ、強力な組織機構を今後も支配し続ける強硬派をさらに弱めるためには、西側外交を慎重に調整する必要があるだろう。

 ロウハニ師を支持する票は、イラン国民が核開発計画を拒んだことを意味するわけではない。大統領に選ばれたロウハニ師自身、核開発の忠実な支持者だ。だが、今回の選挙結果は、イラン国民がさらなる抵抗のために制裁の代償を払う気はないことを物語っている。

 イランの核政策については、ロウハニ師に意思決定権はないが、以前より穏健な外交のトーンは、イランとの関与を容易にする可能性がある。ロウハニ師の影響力は、今年再開する核問題の交渉に柔軟性をもたらすかもしれない。

 とりわけイランの好戦性を和らげるうえで、ロウハニ師はその力を試されることになる。だが、ロウハニ師の大統領就任は、イランの国際関係に新たな1ページを加えるチャンスをもたらす。


02. 2013年6月19日 01:48:10 : 3PJAqRzx3M
「イラン国民がさらなる抵抗のために制裁の代償を払う気はないことを物語っている。」

語るに落ちたとはこのこと。西側の制裁という「抑圧」が原因であろう。



03. 2013年7月18日 02:51:37 : niiL5nr8dQ
イランの揺れる出生政策と募る将来への不安 産め、産むな、産め…もう子供なんか欲しくない!
2013年7月18日(木)  エッテハディー・サイードレザ


将来が不安で子供どころではない
 現在15%のイラン人は将来に不安を抱いており、子供は欲しくないといわれています。イラン国内でこうなのですから、海外に滞在している私などは不安がいっそう募り、子供をつくろうという気など起こりません。
 子供は日本で生まれると政府の援助を受けられたり、病院の診察費用の心配をしなくてもいいといわれます。しかし、国籍はどうでしょうか。私の妻もイラン人ですから、パスポートに書かれる国籍は「イラン」です。そうすると空港では別の列に並ばされ、銀行や郵便局では何より最初に「ブラックリスト」に載っているかどうかチェックされます。
 いかがですか。子供にこんな運命を背負わせるべきでしょうか。
 イラン国内に住む人も同じ状態だと思います。毎年経済制裁が悪化し、発展の見通しが立ちません。さらに、アメリカの大統領が“よく口にする言葉”を聞く若者は、国や自分の将来を心配せずにはいられません。「イランに対するすべての選択肢は机の上にある」と、オバマ大統領が偉そうに演説で話すたびに、イランの人たちの将来は明るさを失っていくのです。
 「子供は欲しくない」――。1人のイラン人として、この決断を下した理由はちゃんとあります。
 私と同じく、1980年代生まれのイラン人は数多くの苦労を味わってきたはずです。77年から97年にかけて、世界の人口が42%増えたのに対し、イランの人口は78%も増えました。その結果、学校や病院などの環境整備が追いつかず、80年代生まれのイラン人は本当に大変な思いをしたのです。
40年でイランの人口は4倍の7700万人に
 わずか40年でイランの人口は4倍も増加し、2012年には7700万人に達しました。特に77年から87年の出生率は約4%と、イランも他の発展途上国と同じぐらいの出生スピードを見せました。小さい町や村の家族は4人から10人の子供に恵まれ、農家にとっては望ましい状況でした。
 子供が増加した理由としては、医学の進歩や結婚年齢の若年化、結婚率の増加などが挙げられます。さらに79年のイラン革命によって、当時の政治家が石油の利益を公正に分配するとを宣言したことも、出生率の上昇に拍車をかけた理由の1つだといえます。そのため、農村や小さい町でも電気や水道のインフラ整備が加速し、下層階級の出生率は5%を上回るところもありました。
 イラン・イラク戦争も大家族が増えるきっかけとなったと考えられます。80年に国境をめぐってイラクがイランに攻撃を仕掛け、その後、8年にもわたって戦争が続きました。この戦争で、イランは20万人以上の死者を出しました。
 そこで、政府は日用品を買うための助成金だけでなく、家族の人数に応じて無料の土地や格安の建築資材を提供する方針を決めました。家族の人数が多いほどより広い土地を手に入れることができるので、どんどん子供を作った家族もいたでしょう。戦争での死者のことも考慮し、イランの広さにふさわしい人口になることも政府は狙っていました。だからこそ、早く人口が増えるように出生を促進したのです。
コンドームの無料配布や避妊手術も無償化
 イラクとの停戦が88年に決まった後、イランは新たな脅威に直面しました。人口の爆発的な増加です。これを抑制しないと、2008年には人口は1億人を突破する見込みでした。
 戦争が終わると、国の再建は一番大きな課題でした。イラクのミサイルや空襲により、各都市のインフラが破壊されました。そうなると人口増加の速度を落とさないことには、イランは経済的に大きなダメージを受けてしまいます。特に日用品を買うための助成金は、家族の人数に基づいて支払われたので、毎年、政府の負担は大きく増していきました。さらに失業者の増加や各種インフラの整備不足といった将来の問題も重くのしかかってきました
 そこで今度は、国は出生制限を実施するようになりました。各家族の子供の数を最大3人として、それまで実施していた「出生奨励政策」を停止したのです。88年には、政府はコンドームを無料で配るだけでなく、精管切除といった男性の避妊手術の無償化まで行いました。そして、3人以上子供を生むと、女性の産休などを認めないようにしました。これらによって、出生率はわずか10年で半減しましました。
 性に対してとても保守的なイラン社会では、コンドームの使用を呼びかけたり、手軽に薬局で売ったりするのは珍しいことなのです。いまだに公の場ではもちろんのこと、恋人同士でも「コンドーム」という言葉を口にすること自体、とても恥ずかしがります。しかし、病院や医学院などではタブーを少しずつ無くし、出生の抑制につなげました。
 もちろん、こうした「出生抑制政策」に反対するグループもありました。彼らは、この政策はイランの将来を危機に陥らせ、逆にイランの敵(アメリカやイスラエル)にとっては望ましい政策になると考えているグループでした。また、子供の出生を妨げるのは、神の意志に反する行為であると訴えるグループもありました。神様は命を与え、その運命の定めに人間が手を出すのは良くないことだというのが、このグループの主張です。しかし、政府は人口増加の脅威をよく理解していたので、出生抑制政策の実施を貫きました。
親、兄弟の誕生日も知らない
 80年代生まれの1人として、政府の決断はありがたいです。出生率が一番高い私の世代は、子供のころ大変な日々を過ごしました。私には6人の兄弟がいるので、大家族の厳しさはよく分かっています。
 兄弟同士で親の注目を引くための競争が始まり、年齢差が大きいので互いに親しく過ごすことはありません。また、誕生日のパーティーのように、家族が一緒に楽しめるような機会もないのです。親が子供の誕生日はおろか、正確な年齢を知らないことも珍しくありません。恥ずかしながら、私も親や兄弟の誕生日を知らないし、今までパーティーを開いてあげたこともありません。だからといって、だれもこんなことで嫌ったり、嫌われたりはしません。イランでは当たり前のことなのです。
 学校でも同様に、生徒の人数は増える一方で、教師は常に足りない状況でした。小学校の時、1人の先生が全科目を教えるだけでなく、異なる学年の生徒が同じ教室に座ることもよくありました。恐らく日本でも小さな村の学校などは同じ状況かもしれませんが、首都であるテヘランでこの有様なのです。
 テヘランでは生徒の数が多すぎるため、授業時間を短縮し、その代わりに週6日制になっていました。授業を受ける生徒は午前と午後に分けられ、場合によって午前が男子、午後は女子生徒という学校もありました。
 さらに、高校を卒業しても大学入試の合格率は30〜40%しかなく、優秀な高校生でも2浪、3浪というケースも少なくありませんでした。私の場合、40人の同級生の中で現役で大学に入学できたのは9人ぐらいでした。2度、3度と受験に失敗し、最終的に勉強を諦めた生徒もいました。
 大学卒業後の就職問題を含め、当時の出生抑制政策が実施されなかったら、人口爆発が次世代の子供の将来を破壊しかねなかったでしょう。だからこそ、私はこの政策をありがたいと思っているのです。今年の大学入試の合格率は63%だといいますから、今の高校生は幸せだなあと、私のような80年生まれの人たちは思うに違いありません。
意味のないバラマキの出生促進政策
 人口増加の危険性を理解し、出生率を抑制してきたイランですが、わずか30年で今度は別の脅威に直面しました。それは、少子化と高齢化社会の脅威です。統計によれば、2050年にはイランは今日の日本と同じ問題に直面します。

 将来の高齢化社会を恐れ、イランでは2年前から「出生促進政策」が実施されるようになりました。しかし、あれほど厳しく抑制した出生を、そう簡単に促進できるはずがありません。政府は避妊薬やコンドームの無料配布を停止し、女性の産休を1年に延ばしました。
 さらに子供が生まれたら1人当たり1000万リアル(当時約10万円)を銀行口座に振り込み、その子が成人になるまで毎年100万リアル(当時約1万円)を振り込むと発表しました。この政策は実施されたばかりですが、出生率の増加にはつながらないだろうと見られています。
 その理由ですが、まず、イランの既婚女性の在職率が6分の1と低いことが挙げられます。いかに産休や育児休暇を伸ばしたとしても、それは既婚女性のわずか16%を対象にしているに過ぎません。さらに、政府が発表した助成金ですが、銀行口座の名義は両親ではなく産まれてきた子供となっています。そうなると、その子が成人になるまで口座からお金を引き出されることはありません。つまり、政府の助成金は子育てでお金のかかる親にしてみれば、ほとんど「意味がない」のです。
本当に描くべきはイランの明るい未来
 そもそも、人口構成比の高い80年代生まれの若者が結婚し、1人か2人の子供をつくればそれほど将来に問題があるわけでもないのに、なぜイランは高齢化社会に不安を抱くようになったのでしょう。そこにあるのは、若者の経済的な不安や結婚率の減少に加え、先行きが不透明なイランの将来です。
 イランは天然ガスや石油資源に恵まれていますが、現在、経済成長は厳しい状態です。この状況を生んだ理由は色々ありますが、一番大きな影響を与えたのは、8年に及ぶイラクとの戦争と、79年革命後のアメリカによる制裁だと思います。その結果、イランの失業率は17%を上回るといわれています。
 明らかに80年代生まれの若者は、この17%の多くを占めています。政府は80年代の人口増加に伴って、経済を発展させることができませんでした。前記の通り、大学への進学率が低かった時期もありました。そこでイランではたくさんの大学が設立されましたが、大学卒業後の就職先までは十分用意できず、若者の失業者があふれました。
 さらにアメリカによる新たな制裁のため、不況がどんどん深刻化しています。これでは、結婚しても子供をつくれない夫婦が増えるのも無理はありません。
 毎年上がりつつあるイランの平均結婚年齢は、既に男性27歳、女性24歳になっています。そして2012年の離婚率は前年より6%も増えて、16%に達しました。離婚する夫婦の85%は、結婚から5年以内に別れるため、子供をつくるまでの時間が少ないのも、少子化が加速する一因といえるでしょう。
 結婚していながらも子供は欲しくないと思っている夫婦は9%で、子供は1人で十分だと考える夫婦も34%くらいだといわれています。
 昔は町を歩くとよく「子供は少数、幸せな家庭」や「子供は2人で結構です」といった看板が目につきました。2人の子供で家族は幸せになったかどうかは分かりませんが、国は少子高齢化という不安に陥りました。時代の流れでイラン人の考え方や価値観は変化し、今は子供など欲しくないという人が増えています。
 政府がどのように将来に光を当てるかによって、若者が子供をつくるかどうかの判断は変わってきます。何より先にオバマ大統領の“机の上にある選択肢”の中から、「戦争」を取り除くべきではないでしょうか。



100%イラン視点
イラン人コラムニスとのエッテハディー・サイードレザ氏が、日本ではほとんど知られていない「イラン・イスラム共和国」を生きる人々の暮らしや、日本に住むイラン人の視点で見た“日本”について、楽しく、分かりやすく紹介する。世界のメディアは「イランの脅威」を報道するばかりで、イランのユニークな自然や、世界に誇れる由緒ある文化や遺跡などをほとんど伝えていない。たとえイランに興味があっても、「イランは危ない」というイメージが渡航をためらわせる。そこでサイードレザ氏がビジネスやレジャーの対象国として再認識してもらえるよう、母国で実際に起きていることの真実を明らかにする。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130716/251113/?ST=print


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