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元自衛官が「内部文書」元に証言、「私は自衛隊で毒ガスサリンの製造に関わっていた」(1/5)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130531-00010002-kinyobi-soci
週刊金曜日 5月31日(金)19時19分配信
世界を揺るがした地下鉄サリン事件より数十年も前から、陸上自衛隊がサリンの製造をしていたことが複数の資料と証言で明らかになった。サリンだけではない。VX、タブンといった猛毒の殺人ガスも……。非核三原則と同様、日本政府は毒ガスについても「持たず、作らず、持ち込ませず」などと表明していたが、自衛隊によるサリン製造が事実なら、毒ガスをめぐる戦後の歴史が塗り替えられる可能性がある。陸自・化学学校に所属していたという元自衛官の証言から連載を始める。(本誌編集部/片岡伸行、5月17日号)
※連載「自衛隊とサリン」の第1回を特別に配信します※
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「私は埼玉県にある陸上自衛隊化学学校でサリンなどの毒ガスの製造に関わっていました。一九七〇年代のことです」
東京都内のある喫茶店の一角で、「元自衛官」と名乗る六〇代の男性はそう切り出した。白髪交じりの短髪。口調は柔らかだ。
サリンと言えば、一九三八年にナチス・ドイツが開発した有機リン化合物の神経ガスである。九四年六月の松本サリン事件、翌九五年三月の地下鉄サリン事件でその名が広く知られることになる。いずれもオウム真理教が起こした、世界で初めての神経ガスによる無差別殺人事件で使用された。青酸カリの五〇〇倍とも言われる猛毒で、体内に取り込むと筋肉が麻痺・痙攣し、呼吸停止を引き起こす。
そのサリンを、地下鉄サリン事件より二〇年以上も前に陸上自衛隊で製造していたという。にわかには信じがたい話だが、そもそも陸上自衛隊化学学校とはどのような組織なのか。(つづく)
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元自衛官が「内部文書」元に証言、「私は自衛隊で毒ガスサリンの製造に関わっていた」(2/5)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130531-00010003-kinyobi-soci
NBC兵器の防護研究
かつて国会で次のような質問主意書が出たことがあった。質問者は参議院の井上美代、緒方靖夫、阿部幸代、畑野君枝の各議員(当時)。質問主意書は第一五〇回国会中の二〇〇〇年一一月九日付で出された。
〈政府、防衛庁の進める核・生物・化学兵器対処研究が、大都市部で公然と行われることに対し、基地や研究施設などの周辺地域住民を始め、多くの国民は不安を持っている。生物・化学兵器の禁止が世界の流れとなっている中で、なぜ今、生物・化学兵器対処研究が必要なのか〉
〈埼玉県大宮市にある陸上自衛隊化学学校は、これまで、核・生物・化学兵器対処研究とのかかわりで、どのようなことを行ってきたのか。(略)明らかにされたい〉(抜粋。地名は当時)
これに対し、同年一二月一日付の答弁書で森喜朗総理大臣(当時)は、化学学校について次のように答えている(その部分のみ抜粋)。
〈陸上自衛隊化学学校においては、これまで、NBC兵器が使用された場合の偵察、防護及び除染を行うため、化学防護、化学技術等に関する研究を行ってきた。今後、同学校においては、(略〉引き続き、かかる研究を行っていく予定である〉
きわめて具体性を欠いた答弁であるが、「核・生物・化学兵器対処関連事業」として一九九九年度は二億九〇〇〇万円余、二〇〇〇年度には二四億三六〇〇万円余とゼロが一つ増え、一三年度はさらにその約三倍の七一億八二〇〇万円余の予算が付いている。通算すれば巨額な税金が投入されているものの、「防護」のための活動内容は以上のとおり抽象的な域を出ない。
陸自・化学学校はNBC兵器(下の記事参照)の防護要員であり、「防護」研究のために化学兵器と放射性物質を扱うことのできる日本で唯一の機関である。前身である化学教育隊が化学学校に昇格(一九五七年)してから半世紀余り。現在の学校長は二〇一一年八月に就任した川上幸則陸将補である。(つづく)
◆◆毒ガスとは◆◆
核兵器(Nuclear=ニュークリア)生物兵器(Bio=バイオ)化学兵器(Chemical=ケミカル)の頭文字をとって「NBC兵器」というが、このうち毒ガスC(ケミカル)兵器に属する。生物兵器=B(バイオ)兵器が天然痘ウイルスやコレラ菌、炭疽菌、ボツリヌス菌などの生物剤を用い、自然発生の疾病との区別が困難なのに対して、化学兵器は人の手で開発された毒性の化学剤を用い、弾薬などを爆発させることで一度に多くの人を殺傷する大量殺人兵器である。
外務省総合外交政策局が公表している資料によると、化学兵器として開発された毒性化学物質は大まかにわけ、【1】血液剤(塩化シアンなど血液中の酸素摂取を阻害し身体機能を喪失させるもの)、【2】窒息剤(ホスゲンなど気管支や肺に影響を与えて窒息させるもの)、【3】糜爛剤(マスタードなど皮膚や呼吸器系統に深刻な炎症を引き起こすもの)、【4】神経剤(サリンなど神経伝達を阻害し筋肉痙攣や呼吸障害を引き起こすもの)――などの種類がある。
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元自衛官が「内部文書」元に証言、「私は自衛隊で毒ガスサリンの製造に関わっていた」(3/5)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130531-00010004-kinyobi-soci
第一〇一化学防護隊サリン事件で出動
JR大宮駅から直線距離で二キロメートル近く。中山道(国道17号線)を越えてしばらく行くと、信号の向こうに白い建物が建ち並ぶ。さいたま市北区日進町にある陸上自衛隊大宮駐屯地の官舎である。
信号を左に曲り、広い道路を行くと、やがて駐屯地入口。そこに「化学学校」「第三十二普通科連隊」「中央特殊武器防護隊」の三つの看板が並ぶ。
地下鉄サリン事件発生時、大宮駐屯地からは化学学校とその配下にある第一〇一化学防護隊(中央特殊武器防護隊の前身)が初めて実働派遣された。同じく首都防衛の要とされる第三二普通科連隊を中心にサリン除染部隊が編成され地下鉄駅構内や車両内で「除染」を実施。これは当時のニュースでも報じられ、その活動が評価・称賛された。
一方で事件当時、オウム教団の中に現役の自衛隊員や警察官などの信者がいたことから、オウム真理教と自衛隊の関係に疑惑の目が向けられた。しかし、陸上自衛隊もこのサリンを開発・製造していた(いる)と報じたメディアは当時なかった。当時のみならず現在もなお、自衛隊がサリンなどの毒ガスを製造していることは知られていない。化学学校の活動自体が闇に包まれている。
ところで、その化学学校の法的な位置づけは次のようになる。
地下鉄サリン事件の起きた翌月(九五年四月)に施行された「化学兵器禁止法」(化学兵器の禁止及び特定物質の規制等に関する法律)では、「何人も、化学兵器を製造してはならない」(第三条)とされるが、第三四条によって「特定施設についての特例」が定められている。
特定施設とは、「特定物質の毒性から人の身体を守る方法に関する研究のために特定物質の製造をする施設」を言う。その特定施設に指定されているのが「陸上自衛隊化学学校」であり、そこで製造される「特定物質」の量は「年間十キログラムとする」と定められている(同法施行令第六条)。
下の〈年表〉にあるように、この年(九五年)の九月に日本は化学兵器禁止条約を批准しており、その国際条約に対応するために作られたのが化学兵器禁止法だ。
しかし、男性の証言によれば、その法律ができる二〇年以上も前から、化学学校でサリンが製造されていたことになる。(つづく)
◆◆化学兵器をめぐる条約と日本国内の動き◆◆
1899年 ハーグ陸戦条約発効。戦争における毒物の使用を禁止。
1911年 日本がハーグ陸戦条約を批准。
1914年 日本陸軍が毒ガス調査研究を開始。
1923年 日本海軍が東京・築地に化学兵器研究室を開設。
1925年 ジュネーブ議定書で、戦争時における窒息性ガス、毒性ガス等の使用を禁止。開発、生産、貯蔵は禁止されず。日本政府は署名のみ。
1929年 日本陸軍が広島県大久野島で毒ガスの製造開始。
1937年 陸軍関東軍技術部化学兵器班(のちの化学部)が創設。通称「満州第516部隊」。満州に駐留しマスタードガス、ルイサイトなど製造。
1943年 日本海軍が神奈川県寒川村で毒ガスの生産を本格化。
1945年 第二次世界大戦終結。
1969年 沖縄の米軍・知花弾薬庫で毒ガス漏洩事故。
1970年 日本政府がジュネーブ議定書を締約。
1993年 化学兵器禁止条約、パリで署名式(1月)。同月、日本政府も署名。サリンなどの化学兵器の開発、生産、保有など包括的に禁止。米国とロシアなど保有の化学兵器を原則10年以内に全廃と定める。
1994年6月 松本サリン事件発生。
1995年3月 地下鉄サリン事件発生。
1995年4月 化学兵器禁止法制定。
1995年9月 日本政府が化学兵器禁止条約を批准。北海道の屈斜路湖で旧日本軍の遺棄毒ガス弾発見。
1997年4月 化学兵器禁止条約発効。
1999年7月 日中両政府が「中国における日本の遺棄化学兵器の廃棄に関する覚書」締結。翌年から処理作業を開始。
2002〜03年 神奈川県寒川町、平塚市の旧相模海軍工廠化学実験部跡地から旧日本軍の毒ガス入り容器発見。
2003年 中国黒竜江省チチハル市で旧日本軍が遺棄した化学兵器からの毒ガス流出で1人死亡、43人負傷。
茨城県神栖町の井戸水から旧日本軍の化学兵器に使用された有機ヒ素化合物(ジフェニルアルシン酸)検出。
環境省が「旧日本軍毒ガス等全国調査」結果発表。
2007年 千葉市稲毛区で旧日本軍の毒ガス弾計175発見つかる(2010年まで)。
2012年12月 化学兵器禁止条約締約国は188カ国。
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元自衛官が「内部文書」元に証言、「私は自衛隊で毒ガスサリンの製造に関わっていた」(4/5)
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毒ガス製造を示す手書き文書
男性(仮に「Aさん」という)は一九七〇年代初めに大宮駐屯地に配属され、七〇年代半ばから八〇年にかけて化学学校の研究部装備研究課に所属。Aさんはそこでサリンなどの毒ガス製造に関わったという。「これが当時の内部文書です」。Aさんは数枚の紙をバッグから取り出した。
ワードプロセッサー(ワープロ)さえ普及していなかった七〇年代。手書きで記された文書には、「サリン」や「VX」の文字が並ぶ。
「秘」と大書きされた文書には「サリン」とあり、数枚にわたり段階別の製造法が記されている。
「VX」と書かれた文書は「昭和五二年つまり一九七七年の文書です」とAさんは言う。文書には「5月23日(月)」から「27日(金)」までの五日間で、「準備」から始まり、いくつか製造工程を経て、「除染」までの工程表が記されている。その年の曜日を調べると、確かに一九七七年五月二三日は月曜日だった。
「毒ガスの性状」と題する一覧表になった資料文書もある。左欄には、窒息ガス(ホスゲンなど)から始まり、神経ガス(タブン、サリンなど)、血液中毒ガス(青酸、塩化シアンなど)の順に計二五の毒ガスの化学式・記号が列記され、上の欄にそれらの分子量や凝固点、沸騰点、揮発度、分解温度、解毒の速度、安定度などが記されている。きわめて専門的な記述内容だ。
「これは発行元も日付もありませんが、米軍の資料ではないかと思います」と、Aさんは推測する。
自衛隊専用用紙に複雑な化学式
前記したように、日付の入った文書もあるが、作成部署・作成者名など発行元はなく、これらがAさんの言うように「陸上自衛隊化学学校」で作成、使用されたことを示す表記もない。
いつ、どこで、誰が作成したのかが不明である文書は通常「怪文書」とされる。
しかも、化学式や構造式が並べられ、専門的な記述による工程などが記されていても、それを判読するだけの知識と経験のある人はごく少数だろうし、「どこかの研究所から出た文書」だと言われても判定のしようがない。
その旨を話すと、Aさんは別の文書を提示した。横罫の入ったレポート用紙風の紙に、手書きで「タブン合成」と書かれ、なにやら複雑な方程式のような化学式が並ぶ。
「ここを見てください」とAさんが指で示した欄外を見ると、左端に〈起案用紙2号〉、中央部に〈陸上自衛隊〉、そして右端に〈(財)防衛弘済会納〉と印字されている。
Aさんは説明する。
「これは当時、陸上自衛隊で使用されていた専用の用紙です。ここに書かれているのは、タブンの合成法です」
しかし、これもまた発行元や作成年月日などが特定されていないため、その内容はともかく、どの程度の信憑性を担保できるのか、依然として疑問符がつく。かりに陸上自衛隊の専用用紙だとしても、これが化学学校発出の文書だと明記された記載もない。
さらにAさんは数枚の文書を取り出した。いわゆる青焼きコピー文書をさらにコピーしたもので、紙全体が黒ずんでいるが、文字ははっきり読み取れる。
73年に最新毒ガスBZ合成に成功?
Aさんは言う。
「これは、研究員が化学学校長に提出した命題研究の報告書の一部です」
命題研究? Aさんが続ける。
「化学学校の研究には命題研究と自主研究の二つがあって、予算の付く命題研究が九九%で、残りが自主研究です。この文書はBZ(ビーズィー)の合成法が書かれていますが、この中に合成した年度がはっきりと書かれています」
BZガスとは米陸軍が開発した無能力化ガスで、当時としては最新の毒ガスだという。
「これを吸い込むと一時的に身体機能が奪われ、瞳孔が拡大し、錯乱し、銃さえ持てなくなるということです。死ぬことはなく、数時間で元に戻るそうです」
(Aさん)。
文書にはこうある。
〈S47年度において、No.2の物質を合成し動物実験によって性状抗力を検討した結果、期待された効果が得られなかった。〉
〈S48年度以降、残されたNo.1の物資及びその同系列物質を合成し、各種実験を行なった結果、極めて良い成果が得られた。この結果、無能力化剤BZは次の化学構造であると推定した。〉
ここでは「No.2」および「No.1」の化学物質が何かを明示しないが、「S47年度」=一九七二年度から「S48年度」=一九七三年度にかけての実験によってBZの合成に成功し、化学構造を明らかにしたことが報告されている。
また、そのBZを「紫外線吸収スペクトル」という分析機械で特定した記述や、「半数致死量試験」に「マウス♂」が使われたことも記されている。他の文書には「犬を用いた実験」を実施した記録もある。
Aさんは言う。
「当時最新と言われたBZの製造を一九七三年に成功したとすれば、サリンやタブン、VXなどはそれ以前に合成に成功していた可能性があります」
しかしこの文書もまた、作者名も発出先もなく、誰が誰(どこ)に出した文書なのか、明示されていないのである。(つづく)
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元自衛官が「内部文書」元に証言、「私は自衛隊で毒ガスサリンの製造に関わっていた」(5/5)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130531-00010006-kinyobi-soci
毒ガス製造の「編成組織」図
Aさんの提示した一連の文書の中に、「編成組織」との表題のついた組織図があった。そこには、班や係の名称とともに研究員と思われる者や技官、医官らの姓と階級が記されている。
この中に、今も付き合いのある人か連絡がつく人はいるのかと、Aさんに訊いた。Aさん以外の当事者の裏付けをとるためである。
「なにせ四半世紀以上前のことですからね。誰ともお付き合いはありませんし、彼らが今も健在かどうか、連絡先も、どこに住んでいるのかもまったくわかりません」とAさんは言う。「それに」と、Aさんはつけ加えた。
「研究員はみな退官後も待遇がよく、恵まれていますからね。かりに所在がわかり、会ってくれたとしても、本当のことは言わないでしょう」
それももっともだとは思ったが、そうなると、Aさんの証言を裏付けることができない。
私はこの組織図を手がかりに、当時の研究班メンバーの足どりを追った。すると、一人の重要人物に突き当たった。(この続きは『週刊金曜日』の連載でお読み下さい)
◆◆毒ガスと法規制◆◆
〈3/5の年表〉にあるように、1899年に「毒物使用禁止」が宣言されたものの、その後も毒ガスの生産・開発は続けられ、第一次世界大戦(1914年〜18年)によって近代的な化学兵器として本格使用されていく。
化学の発展とともに残酷な大量殺戮が可能となり、時の権力者たちは毒ガスの開発・生産に何度も歯止めをかけようとしてきた。しかし結論から言えば、現在に至るも大量殺戮の手段である化学兵器は存在する。四月末には内戦中のシリアでのサリン使用疑惑が報じられた。人間は理性や良心を授けられている(世界人権宣言第一条)のと同時に、同類を殺す本性も併せ持つようだ。
20世紀以降の流れを見ると、1925年に採択されたジュネーブ議定書で戦争時の使用は禁止されたが、開発・生産・貯蔵は禁止されず、米国、ソ連、日本などが毒ガスの生産、使用を続けた。
日本がこのジュネーブ議定書(条約)を締約したのは、敗戦後四半世紀を経ての1970年。Aさんが化学学校でサリンなど毒ガスの製造に関わっていたと証言した時期は、その数年後である。つまり条約上は開発、貯蔵は禁止されていなかった。
日本が95年9月に批准した現行の化学兵器禁止条約では、サリンなどの化学兵器の開発、生産、保有が包括的に禁止されているが、ここにも抜け道がある。
同条約によれば、「生産量が年間一トン以下なら製造施設に当たらない」(第二条8)し、「防護目的」の生産・保有なら「この条約が禁止していない目的」(第二条9)に入る。国際機関である化学兵器禁止機関(OPCW)に申告し(第三条)、OPCWの査察を受け入れればその生産、保有・廃棄などが可能だ。
防衛省によれば、同条約に基づき、1997年から2012年6月までに計8回、OPCWの査察を受け、申告内容に問題がないことが確認されている、という。
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