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2013/5/27 晴耕雨読
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1922年(大正11年)生まれの私はアジア太平洋戦争で戦った元兵士です。
1945年8月18日、敗戦3日後、当時の日本領土最東端「北千島占守島で島を占領しようと上陸してきた旧ソ連軍と戦い生き残った陸軍航空隊通信兵でした。
戦後平和運動に係わった出発点は、アジア太平洋戦争敗戦後3日過ぎて何のため戦ったのか知らずに命を落とした戦友たちへの鎮魂でした。
第二次世界大戦で、日本が参戦する数ヶ月前英米両首脳は世界に向け「この戦いは日本・ドイツが仕掛ける侵略戦争に対する正義の戦いである。戦争終結に当たり領土その他の拡大は求めない」と宣言『戦争で勝てば領土を増やし、膨大な賠償金が入ってくる、戦争は大儲けできる』との悪しき歴史を転換しようとする崇高な宣言だった。
この宣言が第二次世界大戦の収束に100パーセント生かせたなら世界の歴史は書き換えられたと私は思う。
戦争すれば国は大儲けだが多くの兵士が戦死する。
国は富多くの兵がすぬ。
私が子供の頃は十年ごとに大きな戦争があった。
大西洋憲章は領土不拡大の原則を決め「戦争は儲からない」ことにした。
だが歴史は一直線には進まない。
旧ソ連スターリン首相の野望による密約「ヤルタ協定」ができた。
太平洋戦争は日本の敗北は誰の名にも明らかとなったが、『天皇制』を残そうとする日本の戦争指導者の思惑で『日本の本土決戦作戦』が声高に叫ばれていた。
本土決戦出に本が息を吹き返すことは不可能。
だが日米兵士 の犠牲は100万人を超すと予測された。
日本の敗戦必須、にも係わらず多くのアメリカ兵が戦死する。
「勝ち戦疑いなし、だが多くのアメリカ兵が犠牲とならざるを得ない。」これではアメリカの世論が納得しないだろう。
日本に戦争継続を諦めさせるにはソ連の参戦しかない。
そこで米国のソ連への対日参戦要請となった。
英・米jjから対日参戦を要請された狡猾で強欲なスターリンソ連首相は、日本領土千島列島のソ連への引渡しを条件として日本へ宣戦布告、天皇が降伏宣言した3日後の8月18日北千島の占守島へ攻め込み占領した。
第二次世界大戦は『領土不拡大』を原則とした、密約ヤルタ協定は国際法に違反する。
千島列島同様ソ連が手に入れたバルト三国他は、関係国からの申し入れによってどれぞれへんかんしたことは前述した。
日本政府はアメリカとの単独講和でサンフランシスコ条約による千島列島を放棄したこともあり、返還交渉してない。
以上占守島で旧ソ連軍と戦った兵士の主張は、歴史の事実として後世に伝えられなければならないと念願する。
92歳の私は生ある限りこのことを主張し続ける。
第二次世界大戦収束に当たって旧ソ連が国際条約に違反したのは領土問題だけではなかった。
十万人以上の病死者を出した議部リア捕虜問題があった。
「戦場の兵士は、戦犯を除き兵士は戦場整理終了後速やかに祖国に帰り平和的な産業に就くことが保障されていた。
ところがスターリンの率いる旧ソ連は、60万人以上の日本兵を捕虜とし、強制労働に追い立てたのである。
多くのドイツ兵も捕虜として連行された、だが当時のドイツ首相は、協定に従ってドイツ兵の即時帰還を要求した。
ソ連フルシチョフ書記が顔を真っ赤にして「二千万人ものソ連人を殺した敗戦国の分際で何を抜かす」と怒鳴った。
だが当時のドイツ大統領は一歩も引かなかった。
「戦場の兵士は直ちに帰還」の協定を楯に「速やかな兵士の帰還を同道」を主張し続けた。
その結果「一人のソ連住民も殺さなかった私達を尻目に、ドイツ軍捕虜は早々と引き揚げた。」
この事実も領土問題と共に訴え続ける。
第二次世界大戦で連合軍に降伏した日本は民主国家になることを約束し日本国憲法ができた。
憲法が最高法規であり憲法の意に反する法律・条約は効果を失う。
99条には「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」とある。
『再確認』憲法に従って政治を行う最高の責任者、天皇摂政、国務大臣、国会議員、裁判官、他の公務員。
それを監視し、憲法を守る政治を行うな国会議員を選挙で選部のが国民である。
憲法を守るはずの国会議員その他公務員が憲法を逸脱する政治を行ったら『違う』と、国民は大きな声を上げねばならない。
安倍晋三首相の改憲発言がアジア諸国・アメリカ政府筋からの懸念表明で下火となっている。
だが『改憲は自民党立党の精神』と公言する自民党のことだから油断できない。
「死んだ振りをしてるだけ」と云う人もいる。
軍歴と旧ソ連軍による強制抑留歴をA5用紙にまとめ、挨拶状を読んで貰えながら『改憲ストップ』署名陽性活動を始めた。
手始めに水曜・土曜と週2回のリハビリ施設の職員に署名を頼んだら「明治42年生まれの父親は病身のため戦争には行けなかった、『戦争がもう少し長引けば自殺に追い込まれただろう』と云ってました。
男はみんな戦場へゆくのに病身のため兵役が勤まらず肩身の狭い毎日を送っていたのだと思います。
と云う。
軍国主義一色の世間体からの重圧に耐えられなかった当時の日本を改め思い起こし、こんな身近に戦争犠牲者がいた! 署名活動を急がねばと決意した。
赤紙のコピーが以下にあります。これ一枚で出頭させられたんですからね。
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