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米CIA沖縄基地 元従業員が詳細語る
2013年4月22日 09時20分
1972年5月の本土復帰時まで、米中央情報局(CIA)の沖縄基地があった「知念補給地区」(旧玉城村、通称・キャンプ知念)内に、外国人捕虜などを拘禁する秘密収容施設が存在するなど、基地内の施設配置やその用途などの詳細が21日までに分かった。同基地で働いていた複数の元従業員が沖縄タイムスの取材で明らかにした。米公文書を研究する専門家は「米軍の占領下、謀略の拠点であり、地図は大変興味深い。同基地は当時、CIAのアジア最大の基地だったと考えられる」と指摘している。(吉田伸)
CIA沖縄基地だったキャンプ知念の配置図は、沖縄タイムスがことし3月に県公文書館で入手した琉球政府時代の地図を基に、元従業員らに聞き取り調査を行って作製した。
複数の元従業員らの証言によると、秘密収容施設は基地南側の森に囲まれた「Zエリア」と呼ばれる地域に3棟あった。さらに基地の東側にはコンセット型の建物があり、従業員の立ち入りは厳しく制限されていたという。
元従業員らは、朝鮮戦争があった50年代から60年代にかけて、アジア系外国人が秘密収容施設に収容される様子も目撃していた。また米国籍とみられる語学専門官の職員が働いており、外国人を収容する際、ともに収容施設で過ごしていたと証言した。
別の従業員らによると、同基地内では軍人の姿はほぼ見られず、勤務していた職員はワシントンから約3年交代で赴任したという。沖縄の別の米軍基地から出入りする米軍関係者はおらず、米国民政府(USCAR)の最高責任者だった高等弁務官ですら訪問時には所定の手続きが必要だったようだ。
50年代、警備職だった山入端常雄さん(80)=南城市=は「銃を持たされ、金網から逃げる者があれば、どこでも撃っていいと命令されていた」と明かした。
キャンプ知念がCIA沖縄基地だったことは復帰前年の71年7月、米紙ニューヨーク・タイムズが米国防総省の秘密文書を基に報じた。だが、詳細については明らかにされておらず、復帰後も秘密のベールに包まれてきた。
[ことば]
知念補給地区 旧玉城村(現南城市)の面積の半分近くを占め、仲村渠はじめ親慶原、垣花、玉城など計8集落179・5ヘクタールに及んだ。朝鮮戦争が勃発した翌年の51年、「混成サービス群(CSG部隊)」が移駐。72年5月14日撤退した。74年に全面返還。77年、跡地に琉球ゴルフ倶楽部が整備された。
http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-04-22_48355
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