01. 2013年4月18日 09:52:03
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http://jbpress.ismedia.jp/articles/print/37593 JBpress>日本再生>国防 [国防]見習うべきはサッチャー元首相、 断固たる態度で尖閣を守れ 2013年04月18日(Thu) 北村 淳 4月8日、“鉄の女”と呼ばれたマーガレット・サッチャー元英国首相が死去した。自らの信ずる経済政策や教育改革を断行し、対外政策では西側陣営のリーダーの1人として冷戦終結に大きく寄与した。その対外政策の中でもとりわけ“鉄の女”の名声をとどろかしたのがフォークランド戦争(1982年4〜6月)であった。 イギリス領フォークランド諸島とサウスジョージア島を、かねて領有権を主張していたアルゼンチンが軍事占領したのに対して、サッチャー政権がイギリス遠征軍を派遣し、それら領土を奪還したのがフォークランド戦争である。この戦争からは、島嶼国家日本の国防にとり有用な軍事的教訓を数多く引き出すことができる。 そしてこの戦争でのサッチャー首相の行動は、現在尖閣諸島をはじめ領土・領海を巡るトラブルに直面している日本にとっては、とりわけ日本の政治指導者たちにとっては、肝に銘じなければならない貴重な政治的教訓を示してくれているのである。 本稿ではそれら数多くの学ぶべき教訓のうち、「断固たる姿勢こそ国家主権を護る」という教訓と「同盟国に多くを期待するな」という教訓を取り上げる。 断固たる姿勢こそ国家主権を守る アルゼンチン軍が行動を起こす8カ月ほど前の1981年6月末、イギリス政府は財政上の理由により軍備の縮小を決定した。その一環として、フォークランド諸島を本拠地としていたイギリス海軍砕氷パトロール船「エンデュランス」の撤収が決定された。 アルゼンチンでは、同年12月に、軍事独裁政権下で政敵支持勢力の弾圧を指揮してきたガルチェリ将軍が大統領に就任すると、国民の不満を緩和するためにフォークランド諸島領有権問題を煽りたて「島嶼奪還運動」を盛り上げた。 翌3月にはフォークランド諸島から1000キロメートルほど東方海上のサウスジョージア島でアルゼンチン側が不穏な動きを見せたため、イギリス海軍は南大西洋に原子力潜水艦を派遣する許可を政府に求めた。しかし、事態がこれ以上深刻化することはないと見なしていた外務大臣キャリントン卿は、この要請を却下した。 しかしながらサウスジョージア島の情勢はますます悪化しただけでなく、イギリス国防当局はアルゼンチン軍によるフォークランド奪還作戦計画の情報までも入手した。3月28日にはアルゼンチン艦隊の出動を確認したため、サッチャー首相とキャリントン卿は原潜の出動に同意した。しかし4月2日には、アルゼンチン軍上陸侵攻部隊がフォークランド諸島の首都ポートスタンレーを急襲し、イギリス総督は降伏した。こうしてフォークランド諸島はアルゼンチンにより占領された。 フォークランド戦争の全体図 拡大画像表示 アルゼンチン政府はイギリス政府との直接外交交渉を拒絶したため、サッチャー政権首脳は軍事力を行使して占領された領土を奪還すべきか否かの意思決定に直面した。イギリス本国から1万3000キロメートルも隔たった南太平洋の彼方にあるイギリス領土、フォークランド諸島とサウスジョージア島を奪還するための軍事作戦は、困難を極めることが予想された。なぜならば、この軍事作戦を実施するためには、イギリス海軍の主力艦隊全部を派遣し、軍事作戦上最も危険な水陸両用戦を、過酷な気象条件が予想される絶海のフォークランド諸島周辺で実施しなければならなかったからである。 サッチャー首相は主要閣僚全員に「軍事力を投入した場合、彼我に多くの死傷者が出る。あなた方は、多くのイギリスの若者の血が流れる戦闘を許可する強固な覚悟をお持ちか? そして、世界中がイギリスを支援せずとも、戦争を遂行する決意がおありか?」と一人ひとりの決意のほどを確認したという。 サッチャー政権は、アルゼンチン軍による占領の翌日には、フォークランド諸島とサウスジョージア島をアルゼンチンから取り戻すためのイギリス海軍艦隊を中心とする奪還部隊の派遣を決定した。 財務担当閣僚を戦時内閣に加えなかったのはなぜか 4月5日には、外務大臣キャリントン卿が、アルゼンチン側の軍事力行使を予見できずに事態を悪化させてしまった責任を一身に背負って辞職すると、サッチャー首相は領土奪還のための戦時内閣を編成した。この戦時内閣は、首相、3人の国務大臣、参謀総長(海軍軍人)それに法務長官の6人で構成された。この少数メンバーにより、戦争に関する最高意思決定が速やかに下されることとなった。 【サッチャー戦時内閣】 首相:マーガレット・サッチャー 副首相・内務大臣:ウィリアム・ウィットロウ子爵 外務・英連邦大臣:フランシス・ピム 国防大臣:ジョン・ノット 参謀総長:テレンス・ルーイン海軍元帥 法務長官:マイケル・ヘバース この種の戦時内閣には外務、国防、そして財務を担当する閣僚が加えられるのが古今東西通例に近いのであるが、サッチャー戦時内閣には財務関係閣僚が加えられることはなかった。サッチャー首相は「安全保障とりわけ軍事力を行使しての防衛努力は、財政的理由によって妥協するような事態を招いてはならない」という理由により、あえて財務担当閣僚を戦時内閣には加えなかったのであった。 自国領土奪還のための戦争を遂行するに際して「国防は軍事の論理が優先すべきであり、国防において財務の論理を優先させると国を危うくする」というサッチャー首相の断固とした意思がこの戦時内閣編成に如実に表れている。 曖昧な態度を許さなかったサッチャー首相 アルゼンチンとの戦闘が開始されると、予想していたこととはいえ実際に軍艦が撃沈されたり多くの戦死傷者も出始めた。サッチャー首相は、百戦錬磨の参謀総長ルーイン海軍元帥の的確なアドバイスに支えられて、厳しい犠牲の現実にも強固な決意がくじけることがなかった(フォークランド戦争でのイギリス軍の損害:公式発表では戦死255名、戦傷775名、喪失艦艇5隻、喪失船1隻、喪失航空機34機。マスコミの発表では戦死258名、戦傷777名)。 戦争と並行して試みられていた外交交渉を担当していた穏健派のピム外務大臣は、時として妥協的条件によって戦争を終結させようという態度を示すことがあった。それに対してサッチャー首相は、領有権を巡っての戦争のようなそれぞれの国家の主観的解釈が入り込む国際紛争解決には、自らが正義と信ずる決断を貫かねばならないとして、次のように諌めたという。 「今ここでわれわれが断固として正義と信ずる戦争遂行の意思を貫かずに曖昧な態度を取ることは、ヒトラーとの戦いの正義も否定することになり、カイザーとの闘いの正義も否定することになり、ナポレオンとの闘いの正義も否定することになり、フェリペ2世との闘いの正義も否定することになり、すべてのイギリスの過去の歴史における正義と自由のための闘いを否定してしまうことになる」 サッチャー首相のような“鉄の意思”が備わっていないような政治指導者たちには、とても尖閣諸島の領有権を護りきることはできないのである。 同盟国に多くを期待するな フォークランド戦争勃発時(開戦以降も)、アメリカは、イギリスとは北大西洋条約機構(NATO)を通して、アルゼンチンとは米州共同防衛条約を通して、それぞれ軍事的には同盟国であった。 ただしヨーロッパあるいは赤道以北のアメリカでの共同防衛を規定するNATO規約にとって、南大西洋のフォークランド諸島は適用外である。同様にアルゼンチンがイギリスの攻撃を受けた事案ではないため、米州共同防衛条約に基づく共同防衛も適用されない事案ということになる。 要するに、アメリカにとってはイギリスに対してもアルゼンチンに対しても同盟上の共同防衛責務は生ぜず、両国とはそれぞれ友好国という立場だった。しかし、アルゼンチンでは軍事独裁政権が続いており、自由民主主義といった価値観を共有するという点では、アメリカとイギリスの方がより自然な同盟国関係にあると見なすのが常識的であった。 ただし、レーガン大統領の対外政策に対しては、国務長官ヘイグだけでなくアメリカ版“鉄の女”カークパトリック国連大使の影響が強かった。強烈な反共主義者であったカークパトリック大使は「確固たる反共」という共通の価値観により、独裁的なアルゼンチン軍事政権を支持しており、イギリスよりもアルゼンチン寄りの立場を取った。このため、基本的にイギリスを支持しようとするヘイグ長官とカークパトリック大使は対立し、レーガン政権の姿勢はイギリス・アルゼンチンに対して一枚岩というわけにはいかなかった。 もっとも、サッチャー政権首脳たちは、アメリカをNATO加盟国というだけでなく緊密な友好国ということから、「イギリスが苦境に陥った場合には、ためらわずに支援に駆けつけてくれる信頼できる同盟国」などとは考えてはいなかった。 なぜならば、第1次世界大戦(1914年7月勃発)の際には、苦境に直面していたイギリスに対して、アメリカが直接軍事的支援を開始したのは開戦後3年近くたって(1917年4月)からであった。同様に、第2次世界大戦(1939年9月勃発)に際しても、ドイツ軍の猛攻を受けて孤立無援になっていたイギリスを直接軍事支援するためにアメリカが公式に参戦したのはやはり開戦後2年近く経過した真珠湾攻撃後(1941年12月11日)であった。 また、1956年のスエズ危機(第2次中東戦争)に際しては、イギリスはフランスと語らってイスラエルと密約してエジプトを攻撃し軍事的には勝利を収めたかに見えたものの、アメリカのアイゼンハワー大統領はイギリス側を支援せず、逆にフルシチョフ率いるソ連と共にイギリス・フランスに圧力をかけて停戦を押し付けた。イギリス国内では反戦運動が勃発し、結局停戦が成立した。その結果、イギリスは巨額な戦費を無駄にしただけでなくスエズ運河の利権を喪失してしまった。 このような苦い経験をサッチャーはじめ英国政治指導者たちは肝に銘じていた。イギリスにとり、アメリカはNATOの同盟国というだけでなく特別な結びつきのある同盟国であることは、確かに疑いの余地がない事実であった。しかし、だからといって、イギリスもアメリカもそれぞれ独立国であり、完全に国益が一致しているはずはないし、対外政策も独自である。もちろんそれぞれの国内事情というものもある。したがって、いくら緊密な同盟関係にあるとはいっても、サッチャー首相率いるイギリス政府が同盟国アメリカを全面的に信用するほど“甘い”考えは持っていなかった。 日米安全保障条約を伝家の宝刀と崇め奉り、同盟国アメリカに頼り切っているような政治指導者たちには、とても尖閣諸島の領有権を護りきることはできないのである。 |