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投稿者 スットン教 日時 2014 年 4 月 20 日 15:59:11: CmuKS.2SNuq/E
 

(回答先: Re: 練習 投稿者 スットン教 日時 2014 年 4 月 20 日 15:57:53)




「英国国教会“スピリチュアリズム調査委員会”多数意見報告書」


(注) 一九三七年に時の大主教ウィリアム・ラングの諮問機関として設立された委員会が複数の霊媒を使用して行なった二年に亙る心霊実験会の結果をまとめた多数意見(十名中七名)の報告書で、当のラング大主教によって発禁処分にされたものをモーリス・バーバネルを中心とするサイキック・ニューズ社のスタッフが極秘に入手して公表、一大センセーションを巻き起こした。委員会の性格上その内容がキリスト教的観察に偏っている嫌いはあるが、否定派の最右翼であった国教会が霊媒を通じその現象と通信の実在を認めている点に大いに意義がある。
 


 『われわれが入手した証拠を解釈していく上で、霊媒を介して送られてきたいわゆる霊界通信《メッセージ》の本質と価値に関しては、経験の豊富さと用意周到さにおいてわれわれに優るスピリチュアリストの間で一般的になっている説を考慮に入れることが肝要である。


 その“通信霊”みずから述べていることに基づいて判断するに、通信霊や指導霊《ガイド》にもおのずから霊的発達程度に差があり、従って知識の範囲も限られ、さらに、その指導霊の監督のもとに霊媒現象の演出に従事する支配霊《コントロ−ル》に至っては、往々にして人間的に非常に未熟である場合がある。にもかかわらずそうした特殊な作業に従事できるのは、一時的に分離した霊媒の人格の一部と密接につながっているからである。


 さて霊界通信、とくに霊的ないし哲学的に程度の高い通信がとかく議論の対象となり、また一般常識の範囲を超えた内容の通信を伝達する上において通信霊がどのみち遭遇する困難----大方のスピリチュアリストも認める困難の生じる要因は少なくとも三つはある。


 しかしながら、そうした通信が明かす霊界事情には本質的な矛盾撞着はいささかも見当たらないし、必ずしも絶対あり得るはずがないといったものでもない。ただ、今のところ科学的証明のできない単なる仮説にすぎず、また、矛盾もなく有り得ぬことでもないということが、通信そのものを正真正銘と断定する要因となるわけでもない。


 その立証は、出来ることなら、通常の科学的実験によるべきである。と言うことは、しかし、霊界通信というものが時として科学的根拠が無くとも十分な説得力を持つことがあるという事実を否定するものではない。


 ともかく、他界した友人や“指導霊”から通信を受けた時に感じる他界との接触感と、霊媒という特殊な通路を通して得られたというだけでその通信が何やら価値があるように思い込むこととは、截然《せつぜん》と区別して考える必要がありそうである。


 霊界通信に共通した一つの要素として、死後の世界における時間に厳密な“連続性”がないということは、注目すべき重要なことであろう。理由は他に求めることも可能であるが、とにかく通信霊たちがしばしば正確な時間について混乱したり、間違ったりするその有力な原因を示唆していて興味ぶかい。


 これは通信霊がある出来事の真の意味を理解していないからではなくて、むしろその理解している内容を、霊媒の受信能力とその通信を受け取る人間の理解力にマッチした形式で伝達することができないことから来るのかも知れない。


 極めて重要なこととしてよく指摘されるのは、スピリチュアリズムが多くの点において、信心深い人々が抱いている最も高度な信仰の数々を再確認していること、さらには、そうした信心深い人々にとってもすでに意義を失ってしまった教義の真実性に新たな確認を与えていることである。


 これにも問題点はある。というのは、確認と言っても、それが必ずしも同じ根拠(スピリットの証言)に由来するものではなく、時には根拠が相反することさえあるからである。たとえば有力なスピリチュアリストの団体のうちの少なくとも一つは反キリスト教的性格を帯びている。スピリチュアリストに言わせれば、このように証言が食い違うのはスピリットが死後少なくとも短期間は地上で抱いていた信仰形式を維持し続けるからだと説明する。


 つまり人間全体としては、一段また一段と段階的に向上していくのであるが、真理とか善とかについての姿勢は、地上で身につけたものが死後に持ち越されるので、従って右に述べたキリスト教に対するスピリットの証言の食い違いは、その観点から説明されなければならないと言うのである。


 ここで付け加えておくべきことは、一応霊界通信が宗教の真実性を確認しているとした場合のその価値がどうであれ、スピリチュアリズムがわれわれにもたらしてくれたのは、宗教的真理についてわれわれが理解していることを事実に基づいて改めて強調してくれた、ということ以外に何も無さそうに思えることである。


 事実、スピリットからの通信と言われているものの中には、理解と霊的洞察力においてキリスト教の最高の水準に比してはるかに低いもの、しかも驚くことに、その通信霊の在世中の霊的洞察力と知的才能の水準よりむしろ低いものすら数多く見受けられるのである。


 愛の崇高さについても、新約聖書の「神は愛なり」という主張に匹敵するものが見られることは事実だが、キリストの持つ贖罪性についての叙述などは、人間の罪の重荷を背負ってくれるという根本的な(キリスト者の)受容の信仰ならびに十字架上での勝利ではなく、どうやら(復活における)物質化現象という奇跡を生じさせるある種のエネルギーのことであるらしく、キリスト教的福音の教えには遠く及ばないことがしばしばである。


 しかしながら、他界した友人がすぐ近くにいて霊界でも成長し続けており、その後も自分たちに関心を抱き続けているという認識は、それを実際に体験した者にとっては、“聖霊との交わり”(聖体拝領)の信仰に新たな即時性と新たな価値を加えてくれる以外の何ものでもないことは、確かに真実である。


 国教会の中心的教義の一つである、この“聖霊との交わり”をスピリチュアリズムが強烈に、そして身近なものとして価値を増してくれている事実は、信仰次第でいずれの日にか主イエス・キリストの御前に侍ることが出来るのだというキリスト者の基本的なよろこびを傷つけることもなく、また自分たちは常にキリストと共にあるのだという気持ちを減じるものでない以上は、国教会もこれを否定すべき理由はまったく見当たらないように思える。


 スピリチュアリストの主張によると、福音書に見られるキリスト教的啓示の諸現象は本質的には心霊現象そのものであり、スピリチュアリズムがその証拠としている超常現象も、聖書中の出来事が歴史的事実であることの強烈な確証である----たとえば、(ナタニエルの物語に出てくる)霊視現象や、(わずかな魚で五千人分をこしらえたとか、なかんずくキリストの復活といった話に出てくる)物質化現象などは、超常現象の記録にほかならないと言うのである。


 イエスの病気治癒の奇跡もまた心霊治療家による治癒と同種のものであるという。もしもわれわれが現代の心霊現象を認めないとすれば、福音書の記録もまた、言い伝えとしてはともかくも、事実として認めては筋が通らないという認識を強く迫られているわけである。


 確かに、福音書に記されている奇跡的諸現象と、スピリチュアリストによる実験によって確かめられた現代の心霊現象との間に、実に明瞭な類似点があることは事実である。従ってもしもわれわれが後者を科学的論述と証明が出来ないという理由で疑問視しなければならないと主張するのであれば、聖書の奇跡も、キリストの復活そのものも、同じく科学的証明が出来ないものであることを付記しなければならなくなる。


 そこでわれわれとしては、こうしたキリスト教の中心的事象を信じる根拠は一体何なのかを自ら問わねばならない。


 その問いに対する回答は明確である。われわれはその根拠を信仰という基盤の上に置いているのであり、証明可能な科学的知識ではないということである。


 ではその信仰の根拠は何かといえば、それは、われわれが理解しているナザレのイエスはまさにわれわれに対する神の言葉そのものであるという、あくまでも神秘的な信仰上の確信、もしくは、もっと平たく言えば、その倫理的ないし霊的価値の理解、このいずれかに求められるべきである。


 われわれが福音書を受け入れるのは、その中に奇跡の事象が記されているからではなくして、われわれの心の奥に潜む霊的感性に強く訴えるものをもっているからである。


 しかし、そうなると、スピリチュアリストの主張に対しても同じ判断の基準を適用しなければならないことになる。すなわち、その主張の中には科学的研究の対象として相応しいものもあるが、一方、科学的証明や論議の対象になり得なくても、別の観点からすればキリスト教信者にも一考に値するものがあるという見方である。


 当委員会に具申された証拠報告をみるに、その膨大な量の異常現象の中で、厳格な科学的テストの点で事実として確かに立証は出来るが説明がつかない、といったものは殆ど見当たらないようである。


 現代心理学の知識が人間のもつ広範囲な能力と同時に、潜在意識とか無意識層とかの問題における誤解の源を明らかにしてくれている。それらと思想伝達、いわゆるテレパシーの可能性とを考え合わせれば、霊媒を通じて伝えられる通信の多くが説明できるように思われる。


 もっとも、テレパシーそのものについて、納得のいく説明が為されていないということを忘れてはならない。が、多分、大部分の科学者はその説明は出来なくても、事実としては存在を認めるであろう。もしもテレパシーの存在が否定されれば、霊媒を通じての通信がやはり死者の霊から送られているのだという説が科学的に大いに勢いをもつことになる。


 が、テストと称して科学者が行なっているものは本質的には即物的であり客観的であり非人間的なものである。従って果たしてそうした性質のテストで、本来人間的かつ霊的である価値の追求をそのテスト自体が台無しにしてしまいはしないか、ということも一考を要するであろう。


 というのも、多くの人々を得心させている体験は純粋の科学的研究の雰囲気の中ではまず起こり得ない性質のものなのである。偶発的であり、時たましか起きず、そして極めて独自性が強い。つまり全く同じものをもう一度というわけに行かないし、従って統計的分析も出来ない。


 このことに関連して留意すべきことは、人間というものは普段の人間関係や信仰においては、別にそうした厳格な科学的証明などは求めていないということである。大ていは直感的洞察力で正しいと判断しているのである。


 たとえばわれわれが自分の友だちを認識するとき、そのことと、その友人についての知識に関して科学的で立証性に富む説明が出来るというのとは全く意味が違う。にもかかわらず、その知識に自信がないわけでは決してない。同じことが神秘的体験についても言えるのである。


 どうやら人間個性の死後存続の問題においても、われわれはまさしくこの種の洞察力を拠りどころとしていて、科学的証明は、むろん出来るに越したことはないが、あくまで二次的重要性しかなく、絶対的な意義をもつものではないということなのであろう。


 それは同時に「われらは信仰をもって歩む。視力をもって歩むにあらず」というキリスト教の信念についてもそのまま当てはまることである。


 かくしてスピリチュアリズムが科学的立証性を根拠としてきたことは、むしろ一つの弱点というべきであり、強みではないことになる。厳格な科学的方法で臨むかぎり、いつになっても確証は得られそうにない。


 われわれは科学的観点から次のような結論を下してもよいであろう。すなわち----


 (物質化現象、物品引寄《アポーツ》、念動現象《テレキネシス》等の)物理的超常現象を支持する一点の疑惑の余地もない科学的証拠はないということ。入手し得たかぎりの科学的証拠はみなそうした現象の発生を否定するものばかりである。


 さらに、精神的霊媒現象については、それを死者の霊の働きとする仮説よりも、霊媒ないし霊感者の精神内での無意識の働きとみる仮説の方が有力である。


 かくして人間個性の死後存続に関する厳格な意味での科学的評決は“未だ証拠不十分”としか言いようがない。また超感覚的知覚(ESP)の問題も科学的に検討中の課題である。


 ところが一方、顕著な個人的心霊体験の中には、霊媒を通じてのものを含めて、よほどの反証でもないかぎり、死後の存続と霊的交信の事実を認めざるを得ないものがあり、同時に、哲学、倫理、宗教の各面からの考察も同様の判定を強力に支持しているとみて差し支えない。


 そうした霊的交信について考えうるかぎりの説明を施し、疑わしい証拠をすべて排除してみても、そこになおかつ、どうしても説明のつかないある要素が残ることは全員が認めるところである。


 われわれとしては、それが死者の霊から送られてくるという仮説が正解である場合もあり得ると考える。


 慎重な表現ながらも、これだけのことが言えるということは、それなりの重大な結果が伴うことを予想させ、従って幾つかの警告を述べておく必要を生じる。


 まずスピリチュアリストみずから認めていることであるが、こうした現象において何でもすぐに信じてしまう態度が自己欺瞞につながり、ひいては各種の詐術を生むことになるのは明々白々たる事実である。


 入手した詐術の証拠を見てわれわれは大いにその点を痛感し、単なる好奇心からスピリチュアリズムに興味を抱きそうな人、あるいはクリスチャンとして聖霊の導きのもとにみずから判断を下すべき責務から逃れるために、安易にスピリチュアリズムに入っていく人々に、声を大にして警告しておきたい。


 もちろん科学的資質を具えたクリスチャンがこの種の問題を一つの科学的研究課題とすることは結構なことである。もっとも、すでに述べたように、そうした研究にはおのずから限界がある。


 しかし低俗なレベルでの関心が、人間の魂と神との正しい関係に基づいた深い宗教心と取って代わるようなことは許さるべきではないし、同時にそれは間違いなく危険なことと言わねばならない。


 われわれクリスチャンが死者の霊との交信の可能性を認めたからといって、クリスチャンとしての道徳的義務や倫理的価値がいささかも変化を来すものでないことを、しかと銘記しておく必要がある。


 そのクリスチャンとしての必須の義務と価値を見失うことさえなければ、他界した友人と霊的交わりをもったと確信する者が、その体験によって心の広がりと不滅の友情を感じても問題はないであろう。


 但しその霊的接触を確信することと、受け取った通信の正確さと信頼性とはまた別のものであることを知ることが大切である。われわれが確認し、スピリチュアリストの多くが認めるように、信頼に値するとされている霊界通信でもとかく歪曲されている可能性は十分にあるからである。


 従ってそうした通信が、祈りを通じての聖霊の導きのもとに、われわれ自身が人間的理性によってチェックすることなしに受け入れられるとしたら、そこには大きな過ちの危険がある。


 とはいえ、この世で親しくしていた人々と今なお緊密な接触をもつことが可能であること、そして又、彼らがわれわれと同じく神の意志の理解と成就のために絶え間ない歩みを続けているという確信をよろこんで受け入れていけないという理由はない。


 スピリチュアリズムから受ける拭い切れない印象は、組織化されたスピリチュアリズム活動の大部分がその中心を神ではなく人間に置いているということで、その意味では物質的性格を帯びているということである。この限りにおいてはスピリチュアリズムは宗教の代用物にすぎず、それ自体はおよそ宗教性をもっていない。


 さらにわれわれにとって印象的なのは、「あなたの祈りの生活、つまり神の認識は、スピリチュアリズム的体験によって強化されましたか」という質間に対し、第一線で活躍しているスピリチュアリストから得心のいく回答が得られなかったことである。この辺りに多くのクリスチャンがスピリチュアリズムに関わり合うのを躊躇する大きな理由がある。


 しかしスピリチュアリズムがある人たちにとって強烈に訴えるものが実際にあるとすれば、それは少なくとも一つには、国教会がその信仰の公言と実践において十分なる信念の裏づけが欠けていたからだとも言えるのである。


 確かに往々にして生者同士の間にすら真実の交友精神が欠けているし、“聖霊との交わり”が真の、そして肌身に感じる現実性を失って、しばしば死語と化してしまっている。


 実際スピリチュアリズムは国教会が公言しながら現実には単なるまぼろしでしかなかったように思える実在に触れることが出来ると主張しているのである。もちろんそれがスピリチュアリズムの全てというわけではないが。


 多くの人にとってスピリチュアリズムへの関心はそれよりはるかに低級な動機から来ている。怪奇趣味をかきたてられる場合もあろうし、至って安易な条件下で慰安が得られるという場合もあろう。


 また一たん信仰を宣言すれば、それが絶対履行しなければならない責務を生活上に課すことになる。それを避けたい気持ちから安易な道を求めてスピリチュアリズムに走る者もいるかも知れない。


 スピリチュアリズムの交霊会や実験会はその参加者の霊的状態だけでなく、精神状態にとっても危険性があることがよく指摘されるが、現に異常といえるほど霊的なことに憑かれてしまっているケースがいくつかあることは事実である。


 が、そうしたケースを見るに、果たしてそうした一種の中毒者の見せる無批判的で無分別な気質が、その中毒の結果なのか原因なのかは判断がきわめて難しい。


 心理学的に見れば、多分そうした精神的異常ないしアンバランスの状態にある人間がスピリチュアリズムの催す交霊会や実験会を、その病的状態の原因である抑圧された感情の自然な捌け口として利用しているのであろう。


 このことは実はキリスト教についても言えることで、往々にして偏執狂や、明らかに情緒不安定な人間の感情的捌け口となっていることがある。


 注目すべきことは、スピリチュアリストの間でも、情緒的に不安定な者はもちろん、たとえ正常な人間でも動機が間違っていたり、誠実さに問題がある場合には、危険があるとして、それなりの配慮をしていることである。


 そのほかにも明確なことが多々あるにしても、確実に言えることは、証拠の解釈が困難な問題においては、スピリチュアリズムにもキリスト教の高度な倫理的規範が絶対必要であること、また信仰による神に身をゆだねた生活、及びそうすることによって得られるところの、信仰なき生活がとかく陥りがちな欲望と目的の矛盾衝突の無い生活への確かな証が必要だということである。


 心霊現象は確かに存在するがそれは悪霊の仕業である、という意見が国教会内部に根強くある。確かに低級な霊が心霊現象を通じてわれわれに悪影響を及ぼすという可能性を頭から不合理またはこっけいな説として片付けるわけにはいかないが、立派な霊との接触の可能性はないとは到底考えられないであろう。


 キリスト教においても天使の存在の信仰は古来きわめて一般的である。


 が、いずれにせよキリスト者の生活は神に基づくものであり、その基本的活動は祈りと礼拝であり、それは詰まるところ人類への愛に帰着する。そうした基盤をもつ生活に悪魔の影響も、その他いかなる力も、何一つ恐れることはない。


 英国国教会は、かつての論争の所為で、死者への言及にあまりに慎重すぎる。国教会の死者への祈りでは人は満足しない。言いまわしがあまりに慎重すぎて、生者に対する祈りに比して、本当に死者のことを祈っているのかどうかが、必ずしも明瞭でないからである。


 一般的に言って、われわれは国教会全体のしっかりとした意見の統一----この世の問題だけでなく、死後の問題の認識の仕方にも、もっともっと自由であってしかるべきである。もっともその具体的な点については、議論によって決めるべきことであり、それをここで提案するのは、このレポートの本来の目的から逸脱する。


 スピリチュアリズムが全ての認識上の誤りを排除し、謙虚にそして正確にその真相を明らかにした暁に、やはり確固たる真実を有することが判明したとしても、それは新しい宗教としてではなく、われわれの知識の足らざる部分を補うものであることを認識し、従ってこれまで信仰によって歩んで来たのを、これからはある程度この目で確かめながら歩めることになったと観ることが大切である。


 われわれの考えでは、これからは国教会の代表がスピリチュアリズムを信じる優れた知識人と常に接触を保つことが大切である。その点に関する具体的な指導については国教会当局にゆだねなければならない。』


 


署名者


フランシス・アンダーヒル博士(Dr. Francis Underhill) カンタベリ主教・神学博士。
W・R・マシューズ博士(Dr. W. R. Matthews) セントポール大聖堂参事会員・神学博士。
ハロルド・アンソン(Canon Harold Anson) 大聖堂院長・参事会員。
L・W・グレンステッド(Canon L. W. Grensted) オックスフォード大学教授・参事会員。
ウィリアム・ブラウン博士(Dr. William Brown) 心理学者・博士。
P・E・サンドランズ(Mr. P. E. Sandlands) 勅選バリスター。
(グウェンドリン・)スティーブンスン夫人(Lady [Gwendolen] Stephenson) 侯爵夫人。





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