http://www.asyura2.com/13/test29/msg/578.html
Tweet |
東京新聞記事
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014031802000238.html
理不尽な避難生活を伝え続けたい−。福島県浪江町出身で、宇都宮大国際学部四年の田中えりさん(22)がこの春、栃木県で新聞記者として歩み始める。卒業研究で東京電力福島第一原発事故の避難者を取り上げ、つらい胸の内に触れる中で、伝える仕事を志すようになった。自らもまた被害者。「故郷を奪った事故と向き合うには勇気が要った。記者の仕事にも生かしたい」と前を見据える。 (大野暢子、写真も)
事故が起きたのは、大学一年生が終わろうとしていたころ。両親と姉二人を宇都宮市の下宿先に避難させるなど、生活は一変した。
二年生になり、大学の呼び掛けで県内避難者への支援活動が始まったと聞き、子育て中の女性避難者が集まる交流会の運営に加わった。浪江出身と明かすと、多くの避難者が心を開いてくれた。活動にやりがいを感じた。
半面、自分が故郷に帰れない現実とはなかなか向き合えなかった。実家は今も帰還困難区域内にある。両親が一時帰宅時に撮った家の写真も「このまま荒れ果てていくのか」と思うと、ろくに見られなかった。
周囲には落ち込んだ様子を悟られないように努めた。同情はされたくなかったが、先の見通せない不安はつきまとった。
三年生のとき「悩み続けるより、避難の実態を知りたい」と決心。卒論のテーマに原発事故の避難者の生活を選び、二〇一二年と一三年の夏、自主避難者も強制避難者も多い福島県会津若松市へ。ボランティア団体の施設に間借りしながら計一カ月半、避難者の交流会などを回った。四十五人から話を聞き、故郷への思いや避難生活の苦労を丹念に拾った。
南相馬市から来た七十代女性とは、浪江町出身同士ということもあり、毎週一度は自宅で語らう間柄に。ある時、「修学旅行生に道を教えてあげた」と話す彼女に「すっかり会津の人みたいですね」と応じると、笑顔が消えた。
「同じ浪江出身なのに傷つけてしまった」。元気に暮らしているように見えても、内には悲しみを抱えている。理不尽な避難生活を強いられている人々の姿を伝え続けたいと、記者という進路を意識し始めた。就職試験では、思いを率直に伝えた。三月四日、完成した論文を持って会津若松市に向かった。女性は「しっかりまとめたね。さすが記者になる人ね」とほほ笑んでくれた。別の避難者からは「思っていたのと違う。がっかりした」と言われた。どちらの声も、心に刻もうと決めた。
論文は宇都宮大の被災者支援組織「福島乳幼児・妊産婦支援プロジェクト」が、貴重な資料として公表を検討している。
卒業式は二十四日。「論文を書いたからといって、自分の気持ちと完全に向き合えたわけではない。福島はこれからも、私のテーマです」
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。