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9条護憲は、精神的な自由の保障とセットである
『靖国問題』や『教育と国家』の著書でお馴染みの高橋哲哉さんの登場です。まさに今、国会で教育基本法改定の審議がはじまろうとしていますが、この「教育改革」を国家が急ぐ先にあるのは、何なのか? 明快に分析しています。安倍首相は、小泉首相よりもさらに踏み込んだ形でやってくる
編集部2005年の10月に自民党から「新憲法草案」が発表され、いよいよ安倍政権は憲法改定を政権公約に入れてきました。9条改定だけでなく、新しい憲法を私たちの手で作り直すということを、全面に出して言っています。
高橋
私は、憲法9条は二項も含めて護憲という立場ですが、9条だけ独立させて守ろうと考えるのではなく、9条を支える民主的な権利の保障について、声を大にして言いたいのです。特に哲学を専門に研究してきたせいもあるでしょうが、思想良心の自由や信教の自由、学問の自由、こういう精神的な自由の保障について、日本国憲法は徹底しています。これをぜひ大事にしたいと思っていますし、これが9条を守る大きな要素でもあると考えています。
自民党は、新憲法草案を見れば明らかなように、9条を変え自衛軍を作って、国際貢献とか、様々な口実のもとに軍事力の行使を認めていこうとしている。そうなったときに、やはりその軍事力を行使する国家、戦争をする国家の国策を支えられるような、国民の意識というものが必要となってくるわけです。国民の意識作りのために、かつての大日本帝国が行ったように二つの柱を考えています。ひとつは、靖国。もうひとつは教育です。靖国神社の天皇参拝を含む国営化論まで出てくるし、他方では教育基本法の改正を急いでいる。国家が教育を左右できるように、教育の主人公を、国民から国家に、もう一回戻すようなことをやろうとしているんです。
確かに、社会における学校教育の役割とか、靖国神社がもつ重みとか、かつてと較べれば違うかもしれない。しかし、9条を変えて軍事力を行使できる国にしようとなったときに、為政者が考えること、というのはいつの時代もあまり変わらないものです。戦争を支えるものへと国民の意識を変えていかなければ、と。彼らは、国民は今「平和ボケ」だと思っているわけですから、
そのための手段として、自民党の新憲法草案では、憲法前文で愛国心が謳われていると同時に、憲法9条で自衛軍にし、憲法20条では、政教分離原則の改定案が入っています。これは彼らが何を目指そうとしているのかを、象徴的に表す「改定」だと思うんですね。ここは必然的な関係になっている。
編集部
そういう意味でいえば、筋が通っているというか。相手方は完全なカタチに持ってこようとしているわけですね。
高橋
そのとおりです。
編集部
新総理になり、その傾向はより強まっていくのではとの懸念があります。
高橋
安倍晋三氏は、保守本流というよりは、自民党の中でもライトウィングの伝統を継承しています。愛国心教育をするべきだという、そういう伝統を背負っているわけです。靖国神社についても、彼は小泉首相よりも、もっと踏み込んだ発言をしています。すなわち、「国に殉じた人たちに政治の最高指導者が“尊崇の念”を表すのは“当然の義務”である」と語っていましたし、「だから首相は参拝する責務がある」というようなことを、言ってきたわけです。
小泉首相はそこまでは述べていませんでした。個人の心の問題だ、ということにしていたし、歴史観や戦争観についても、都合が悪くなると村山談話を出して来たり、いわゆるA級戦犯については戦争犯罪人と認識していると認めたり、一応これまでの政府のスタンスで来ていました。しかし、安倍氏のこれまでの言動、それから書かれたものを見ると、明らかに靖国史観というものに近い歴史観になっていますね。東京裁判は否定したいし、戦争犯罪人というのはいないと考えたいし、それもそのはず彼は、「つくる会」教科書を支持する自民党の中でも、歴史教育を考える議員の会の中心メンバーで活動してきましたから。首相になってからは、「参拝するともしないとも言わない」方針でやっていますが、彼が靖国参拝すると、これは小泉首相の場合よりもはるかに深刻な問題になるでしょう。
小泉政権では、首相が靖国参拝を繰り返しながら、自民党新憲法草案を出し、教育基本法改正案を国会に上程しました。3点セット揃えて準備したわけですが、そのいずれについても安倍氏は、いわば小泉首相よりももっと踏み込んだ推進のための政治をやっていく、そういう位置にあると思います。
A級戦犯合祀問題は、靖国問題を矮小化している
編集部その安倍晋三氏が首相になり、はじめての訪問先が、中国と韓国でした。小泉首相の靖国参拝で途絶えていた訪中・訪韓が再開され、その間に北朝鮮の核実験が行われ、「靖国問題」が大きな問題にならずに、今があるという感じです。しかし今年の夏、2006年8月15日の小泉首相の参拝をめぐって、さまざまな議論がありました。私たち日本人は忘れっぽいので、これについて一度ここで検証しておきたいと思います。
高橋さんは、2005年の4月に著書『靖国問題』(ちくま新書)で、靖国の問題を世間に提示されましたが、今回、事態はさらに進んだのではないでしょうか?
高橋
そうですね。では、3点セットのうちの「靖国問題」からいきましょう。
小泉首相が5年間参拝を繰り返すことによって、広い意味で靖国派と反靖国派に分けた場合、どちらの側もこのままではまずいということで、問題をより掘り下げて考えてみようということになってきました。
まず反靖国派の側は、とくにA級戦犯の分祀と、合祀の取り下げを求めている人たちが靖国神社ともめていることを、問題だと考えています。 合祀取り下げの要求は、1968年に日本人の角田さんという人が最初にやって、78年から台湾と韓国の人たちにも広がってきました。韓国については、朝鮮半島出身者が2万人以上合祀されているわけですが、全部まとめて取り下げを求めるべきだという議論まで出て来ています。これはやはりA級戦犯だけで議論していたときに較べると、はるかに議論が深まってきたということです。
しかし、問題はいわゆる靖国側の方で、あきらかに新しい動きが出てきたことにあります。これまで議論は、常に首相が参拝すると中国・韓国が批判する、だからそれをかわすために、つまり外交問題を解決するためにどうするかというので、A級戦犯を分けられないかとか、別の国立施設を作れないか、そういう議論になっていたわけです。ところが、2006年になって出てきたのは、靖国神社国営化論です。6月に古賀誠議員が日本遺族会会長として、それを「国家護持」という言葉で言い出します。
(今ある問題を解決するために)A級戦犯の分祀をしたいが、宗教法人である靖国神社には、政府はそれを強制できない。そこでまず靖国を国営化し国家護持した上で、国の判断として外すと。同じようなことを中川秀直元自民党政調会長(現幹事長)、中馬元行革担当大臣も明言しています。麻生外相は国営化の私案を提出しています。
私はもともと本の中でも、A級戦犯分祀論というのは靖国問題の矮小化である、と指摘してきました。今の日本では、A級戦犯を外すべきだという人ですら、政治家だと少ないから、それが「良識的」議論のように見えていますが、「A級戦犯を外せば、中国・韓国との関係も改善されるし、なんといっても首相や天皇陛下に堂々と参拝してもらえる」というもの。こういう議論の中には決定的に欠けているものがいくつもあります。
編集部
その欠けているものとは、何でしょう?
高橋
靖国問題は、まず日本人の問題として、なんといっても憲法の政教分離原則というのを最初に立てて考えるべきです。つまり私は、憲法20条が保障する「政教分離原則」が大事であるとする立場から、日本の首相はこの原則に従って参拝するべきでないと考えます。
政教分離原則にのっとって国と靖国神社が完全に分離すれば、A級戦犯を靖国が祀っているのは、民間の宗教法人が勝手にやっていることに過ぎず、無理に分祀させなくてもいいわけです。靖国が右翼的な歴史観や戦争観をとるのも、それは国と関係があれば大問題ですが、民間人でも世の中には右翼の人もいるわけで、自由社会ですから、それもやむをえないでしょう。
戦後、靖国神社は、名前の上では国から切り離されましたが、実際は厚生省が合祀の名簿を提供していたとか、首相が参拝するとかいうことがあり、国家とずっと切れていませんでしたし、今もそうですね。
編集部
国民の中にも、靖国は国の神社であると漠然と思っている人が多いのもまた事実です。
高橋
政教分離というのは、日本ではまだまだ理解されていませんが、近代国家の原則なんですよ。民主主義を標榜する国家であれば、どこでもそれはあります。もちろんそれぞれの国の宗教事情によって導入のされ方は違いますが。日本の場合は戦後、神社を国家から切り離すとともに、国家神道全体を解体するということが行われました。中でも神社の中で一番強力で危険な装置である靖国神社を、国家と切り離すことが焦点でした。
大日本帝国憲法、明治憲法の28条にも信教の自由が入っていますが、「日本臣民は安寧秩序を妨げず、かつ臣民たるの義務に背かざる限りにおいて、信教の自由を有する」という文言になっています。これは、要するに国家神道の枠内だったら、仏教徒であってもいいし、キリスト教徒であってもいいでしょうと言っているわけです。矛盾をおぼえながらもそういう国家神道の枠があったために、最終的にはみんな天皇教の下に組み込まれてしまったという歴史があります。国家神道解体の目的は、もちろんそういう意味で、本来の信教の自由を確保するということです。
主権在民を確保するための政教分離
高橋政教分離のもう一つの目的は主権在民にあります。つまり日本国憲法では、主権者は国民です。国民は日本国籍を有する者という縛りがありますが、主権在民の憲法にするためには、政教分離が必要だったのです。
なぜかというと帝国憲法では、主権者は天皇ですが、この天皇の主権というのは、国家神道によって説明されていたからです。明治憲法の第1条は、「大日本帝国は、万世一系の天皇これを統治す」ということになっています。万世一系というのは、これは神話なんですね。神武天皇から何代かは、歴史学的には存在が証明できないというので、当時でも学問的には神話としていました。その万世一系神話を根拠にして、この国を建国した神武天皇の血を今の天皇が受け継いでいる。だからこの国は天皇の国ですと、こういうことだったわけです。
第1条の前には、大日本帝国憲法の告文というのがあるのですが、これ見たことありますか? いわゆる前文みたいなものですが、ここには「朕は、神霊に告げて言う」という文言が何回も出てきます。つまり朕、すなわち明治天皇が、自分の先祖である神武天皇、さらにその祖先であるアマテラスオオミカミなどの神霊に、告げているんですよ。
編集部
天皇が自分の祖先である神霊に告げている? 近代憲法のイメージとはほど遠いですね。
高橋
もう宗教の文章そのものですよ。第3条では、「天皇は神聖にして侵すべからず」とありまして、天皇は現人神であるという観念につながっていく。
つまり明治憲法下では、国家神道の教義に基づいて天皇が統治権者、主権者であると宣言しているわけです。だから万世一系神話がなければ、天皇が主権者であると必ずしも言えないわけです。
それを日本国憲法で、主権在民、主権者は民である、国民であるというためには、国家神道をまず否定しなければいけないわけです。だから政教分離が必要になるのです。近代国家として、明治憲法下での天皇教プラス神社の、天皇制を含んだ神道から切り離される必要があったわけです。ここが今もって多くの人に理解されていないところではないかと思います。
どうして私がここを重視したいかと言いますと、それは「信教の自由」と言うと、どうしてもそれはキリスト教徒の人とか、お寺の住職さんとか、特別に宗教をやっている人、信仰を持っている人のための権利だと思われているからです。自分は宗教にはあまりこだわらないから、関係ないと普通の人は思っているわけでしょう。しかし主権在民の根拠が、国家神道の否定である、政教分離であるといえば、主権者である国民である限りは、みんな関わること。つまりマジョリティに関わる問題なのです。そこを是非理解して、自分たち一人ひとりの問題だと認識してもらいたいのです。
編集部
なるほど。明治憲法から現憲法に変えるにあたっての、民主的な近代憲法制定の根幹につながる話なのですね。
高橋
にもかかわらず、日経新聞がスクープした例の富田メモをめぐる政治家の発言やメディアの論調は、朝日新聞も含めてみんな「昭和天皇ですらこうだったのだから、首相は参拝を控えるべきだ」という議論になりましたよね。私は日本のジャーナリズムであれば、まず憲法原則を立てるのが当然なのに、まるで憲法よりも天皇の方に権威があるかのような論調に、雪崩を打ってなる。民主主義社会のメディアとして、また政治家として失格ではないかと思います。
編集部
名実共に政教分離を実行することで、外交問題も決着することができるはずだったのに、残念ながらそういう議論にはなりませんでした。
高橋
もう一つ問題があります。靖国の問題を人権から見た場合、合祀取り下げを求めている人たちの要求に、靖国神社が自ら応じるということも、緊急に必要なことです。なぜならば、韓国の人も、台湾の人も、それから日本人でも合祀取り下げを求めている遺族は、とにかく靖国に合祀されていることが耐えられないと言っているわけですから。一人ひとりが持つ、思想良心や宗教、民族的なもの、そういったことに基づいて追悼したいという権利を無視して一方的に合祀されているわけです。取り下げを拒否しつづけるというのは、靖国神社が宗教法人として、今の民主主義社会の中で存続していく必要条件にも関わることです。つまりこれがなされない限り、仮に首相の参拝がなくなっても、靖国神社は韓国からも台湾からも日本の中からも、批判され続けるわけです。これはもうひとつの靖国における憲法問題です。
21世紀の靖国が準備されようとしている
靖国問題の根本は、A級戦犯合祀ではない
編集部前回は、靖国神社における憲法上の問題、政権分離と人権保障についての指摘、解説をいただきましたが、高橋さんは靖国について、さらに別の問題も指摘されていますね。
高橋
A級戦犯分祀論では、ほとんど論じられていない、歴史認識の問題があります。A級戦犯の範疇に入るのは、東京裁判で裁かれた人です。東京裁判は満州事変からの中国侵略戦争と太平洋戦争における日本の戦争責任の問題ですから、それ以前の靖国の歴史は、A級戦犯の問題では問われないということになるわけです。
しかし靖国神社は、明治2年、1869年に東京招魂社として発足して、79年に靖国神社になる前に既に台湾出兵の日本軍戦死者を祀っていますし、朝鮮侵略の過程での多くの日本軍戦死者も合祀されている。台湾、朝鮮半島を植民地化して独立運動などを弾圧するために、日本軍が投入されたわけですが、そのときの戦いで死んだ日本兵たちを、靖国はずっと祀って来ているのです。そうしてすでに満州事変以前に、日本は一大植民地帝国になっていたのです。
そういった満州事変以前の靖国の歴史があるわけですが、A級戦犯に関わるのは、満州事変の計画以後の話です。そこ以降だけを見ると、その前からあった植民地主義の問題は、まったく問われなくなってしまう。そういう意味でも、A級戦犯の問題だけで考えるのは、時代的な限界があります。
歴史認識問題についてもう一つ言うと、天皇の戦争責任ということが忘れ去られてしまいます。先に述べた富田メモについての論調のように、「昭和天皇がこう言っていたのだからA級戦犯を外して」となれば、ますます昭和天皇はイノセントで何も責任がなく、A級戦犯だけが問題だった、というようになってしまう。
これは東京裁判の構図そのものでもあるわけです。天皇の責任問題、それと国民の中でもいくつかの層があったわけで、その人たちの戦争責任の問題を忘れさせてしまう。そういう意味で都合のいい考え方なんですけど、しかしそれでは、歴史認識としても戦争責任としてもまったく不十分です。
編集部
8・5をはさみ、靖国問題はかつてないほど、テレビや新聞でも取り上げられましたが、A級戦犯の合祀か分祀か、に議論が集中していましたね。
高橋
そういった議論がなぜ危険かというと、戦時中、靖国がフル廻転して戦争を支えていたときには、A級戦犯はいませんよね。敗戦後も78年に合祀されるまで、靖国にはいなかったんですよ。ところがそういう歴史がまったく忘れられちゃって、A級戦犯さえ外せば、靖国が平和的で健全な神社になるかのように思わされている。
しかし、A級戦犯を外す、そして首相や天皇が堂々と参拝するようになる、まして国営化するということになれば、まさに戦前のシステムの根幹部分が復活するわけです。それこそが靖国だったのですから。
編集部
靖国派が天皇の参拝を望んでいるといるのは、そういったことなのですか?
高橋
逆に靖国側から言うと、天皇の参拝がない靖国神社というものは、非常に不正常な靖国です。なぜなら靖国は、明治天皇の精神によって創建されて、天皇の神社として存在してきたからです。
靖国神社に新たな死者が合祀されるときに、臨時大祭を行い、その際には天皇が参拝する。これが非常に大きな意味を持っていたのです。夫や息子を戦死させたばかりの妻や母親、あるいは遺族たちが、靖国に招かれて息子や夫の魂が合祀される場面に立ち会う。そこに天皇が参拝する。それを見て「なんとありがたいこと」と、それまで哀しいと思っていたその気持ちは、身内が名誉の戦死を遂げた誇らしさにすっかり変わっていく。『靖国問題』で述べた「感情の錬金術」というものです。天皇参拝に比べれば、総理大臣の参拝は、戦前ははるかに価値が低い。「天皇陛下が、お天子様が、うちの息子に感謝してくださった」、これですよ、決定的なのは。
9条改定とワンセットの靖国復活
高橋これは昔の、過去の話ではなく、9条改定と関係する現在の問題です。前回お話しした靖国の国営化についての麻生外相の私案は、かつての国家護持法案の焼き直しに過ぎない。それなのに、みんな知らないから、どこか新鮮味があるように受けとっていますが、とんでもない話です。
1969年に自民党が、国家護持法案を国会に提出した当時は、軍国主義復活につながるというので、野党に批判されて廃案になったわけですが、また新たに靖国神社の国営化論が続々と出てきたというのは、やはり単に過去の問題でなくて、21世紀の靖国神社を睨んでいるわけですよ。
憲法9条を変えて自衛隊改め自衛軍、つまり新しい日本軍ができれば、例えば中東、あるいは台湾海峡、あるいは朝鮮半島で米軍と一緒に武力行使をするなどということが想定される。その時、こちら側に死者が出たときにどうするのか? 当然ここで国営の靖国神社が出来ていれば、自衛軍ですから靖国に合祀しようということになってくるわけです。
実際、陸上自衛隊がイラクに行く前の2003年の8月に、イラクで例えば襲撃されて死んだら、これは戦死とみなすことが出来るのか? そしたら靖国神社に合祀すべきではないか? という議論が出て検討しているのです。結局その時は、現憲法下では組織的に無理だという結論になったということですが、検討しているということは、自衛隊の中でもそういう要求があるというわけですね。
前線で戦死した自衛軍兵士が祀られた靖国に首相が行き、なによりも天皇が行けば、日本社会では遺族を含め異論が封殺されるでしょう。
編集部
ということは、9条改定と靖国護持というのは、ある意味ワンセットと考えるべきでしょうか。
高橋
ワンセットだと思います。首相の参拝、小泉首相が参拝を繰り返し、さらに安倍晋三氏が首相の責務だと言って、この間靖国がずっとクローズアップされて来た。これはイラク派兵と関係があったからだと思うし、9条の改定を睨んでいるからでしょう。国営化論まで出てきて、これがつながった時が本当に危ないのです。
編集部
靖国派のいわゆる有識者といった人の発言で、国営化する、すなわち国が責任をもって全ての面倒をみる。それはとてもいいことではないのか? と問われれば、そんなものかと、すんなり納得してしまいそうなイメージがありますね。
高橋
戦後61年も経っているわけで、戦争の記憶はますます薄らいでいるし、別の形で若い世代の愛国心、ナショナリズムみたいなのものがまた出て来ているということとも関係していますが、要するに国家というものに対する警戒感がない。つまり、国家というのは場合によっては国民をだますこともあるし、間違いを犯すこともある。国家のいうことをそのまま受け入れていたら大変なことになりかねない、敗戦直後、日本人はそれくらいの認識は持ったと思うのです。多くの人が国家にだまされたと思ったでしょう。
国家とか権力者に対して警戒心が無くなっているというのは、小泉首相をアイドル的に持ち上げた空気が典型で、それをよく表しています。
現代にかつてのシステムが復活するとき
高橋「国家護持法案」は、1969年から5年連続で自民党が国会に出したのですが、74年、最終的に廃案になったのです。しかし麻生外相が今回出して来た時、「国家護持法案と同じではないか」という記者の質問に対して「今は状況が違う」と言ったんですね。状況が違うというのはどういう意味なのか? かつてみたいには簡単にはつぶれない、つまり今だったら通せる、という見通しなんじゃないか。
つまりそれだけ護憲派が後退しているということですね。僕はそういうふうに甘く見られているおそれがあると思います。実際野党の護憲派はマイナー化されていますし、宗教界もかなり保守化しています。当時は創価学会の中にも反対の声がありましたが、いま公明党は、与党ですからね。どうなるかわかりません。そういうふうに考えると、ひじょうに警戒感が弱いし、靖国が国営化されるということの意味が理解されていないですね。
靖国神社がどのような論理で国民を戦争に動員していったのか、植民地の人まで巻き込んでいったのか。そのメカニズムに対する認識もなければ、警戒心もないということは、非常に深刻な事態だと思っています。
編集部
しかし戦前や戦時中であるならば、お国のために尽くした人は死ぬと神様になるというのが受け入れられ、天皇の参拝で遺族たちは癒されるといったことも、ある程度想像や理解することはできるのですが…。この現代において「国のために命を捧げる」といったシステムが、神社や天皇を持ち出すことで、果たして機能するのでしょうか?
高橋
難しい話になりますが、日本の「カミ」は、英語の GODという意味ではないですね。なんでも神様にしちゃうのが神道です。だから人間も神様にしてきたわけで、天皇を神様にしたというのは最たる例ですけれど、明治天皇が死ねば明治神宮を作るし、他にも天皇を祀った神社があるし、菅原道真や西郷隆盛を祀った神社など、人を祀ったいろいろな神社があります。だから「カミ」になることはGODになるという意味ではありませんが、それでも神聖なるものにされるわけです。
そういう日本的な「カミ」の観念は、今の若い人にもあります。そこがやはり靖国を支える精神風土をつくっているわけで…。たしかに宗教界では、今後、神社(の運営)は難しいんじゃないか、お寺も難しいんじゃないか、そう言われています。けれども例えば初詣だとか、ああいうのを見ていると、なにか願をかけるときに神社に行こうという感覚は薄れていないでしょう。若い人でも、受験の合格祈願に湯島天神にいくとか、縁結びの神社に願をかけにいくとかいうことはありますね。
最近ある学生からこんな話を聞きました。靖国神社は、政治的な臭いがして嫌だったけれども、話題になっているので行ったみた。ああ、これが靖国かと思って境内を歩き、拝殿の前に来たら思わず手を合わせて拝んでしまったと。やっぱり、国のために死んだ人がここに祀られているんだと思ったら、なんか厳粛な気持ちになってそうしてしまった。あれはなんだったんだろうと後から言っているんですよ。
そういう精神的な感覚は若い人にも残っていると思います。すると神道とはなにか? という問題になるけれど、それをやるとあまり立ち入ることになるから、ここではおきます。
感情や異論を封殺していくやり方
高橋それともう一つは、天皇の参拝で癒されるということですが、僕が著書で書いた「感情の錬金術」に対して、「息子が死んだばかりなのに、天皇がお参りしただけで癒されるわけがない」という反論はけっこうありました。
それは当時でも、遺族にはそれぞれの感情があったと思います。割り切れないし、若い息子を失った喪失感は、どこまでも残ったでしょう。しかし、そこで間違っても怒りとか憤りが政策担当者に向けられないように、功績を讃えることによって戦死を納得させる、そういう役割を靖国は持っていたわけです。個人的には裏で何を言っても、公には悲しいとか辛いとかいっちゃいけないということがあったわけです。
実はこれと似たようなことは、この間ありましたね。例えばイラクでの日本人人質事件時に、人質になった人の家族たち、今にも殺されるかもしれないという人質の家族たちが、国策に反するような発言をすると、一斉に攻撃がかかったじゃないですか。つまり何も言えなくなるわけですよ。殺された香田証生さんの時もそうでした。
一方、イラクで狙撃されて亡くなった外務省の人が2人いましたね。2人が遺体で戻って来て葬儀をしたときに、小泉首相が参加して「この2人は国の誇りです、家族の誇りであるとともに国の誇りです」と既にあの時言っています。
あれはまだ、イラクにおいて武力行使が止んでいない時でしたから、国としてイラク戦争に参戦してしまったようなものです。しかし「国の誇り」と首相が言うことで、異論が出なくなるわけです。
編集部
危ない時期、場所に外務省の職員を派遣したにもかかわらず、国の責任を追及する声は、あまりありませんでした。
高橋
ここで想像してみてください。もし9条を変えて創設された新しい日本軍が、海外で武力行使をやってそして戦死者が出たとします。こうなった時に、日本国内はどういう空気になるか?
イラク戦争の時のそういう状況を考えると、少なくとも戦死者が靖国に祀られる、それを厳粛な式としてテレビ中継なんかするでしょう。異論なんかとても出せない雰囲気になると思いますよ。まして天皇がそこに参拝したら、異論を封殺するものすごい機能を果たすと思います。
民主主義の世の中で、誰も異論を唱えないということがあるだろうか? とも思うのですが、例えば1975年に天皇が、戦争責任というのは言葉のあやだから、文学の研究者じゃないから何も言えないといったときに、何の異論もメディアは出せなかった。88〜89年に昭和天皇が最期を迎えたときにも、いっせいに自粛でしたよね。
私は残念ながら今度も、そういうふうになるのではと想像しているんです。だから遺族が完全に癒されるかどうかという問題では必ずしもなくて、遺族を納得させていく、そして国民から異論を出せなくしていく、そういう役割を充分果たすんじゃないかと思うのです。
編集部
戦前の靖国のシステムが、今でも機能するということですね。
高橋
昔と全く同じというわけではありません。戦争のやり方も変わってくるでしょうし、国民精神総動員で靖国へというようにはならないかもしれない。しかし、国民や遺族に対して、靖国が戦死や戦争を納得させる役割を果たしていくということは、十分にあると考えています。
メッキが剥がれかけた日本の民主主義、平和主義
自らの手で勝ち取った民主主義ではないことの弱さ
編集部前回までのお話にあった、21世紀の靖国が準備されようとしているという指摘は重要ですね。小泉前首相の靖国参拝については、違憲判決が出ています。にもかかわらず、小泉氏は司法の判断が理解できないと首をふり、内心の自由は憲法で保障されているなどと言い、参拝を続けました。この態度にはびっくりしたのですが、なぜ立憲主義がここまで弱まってしまっているのでしょうか。
高橋
違憲だと疑いをかけられるだけでも首相としては失格だ、と私は言いたいですね。なぜ政教分離が重要であるのか。その意味を日本の中で、歴史的な背景を踏まえてちゃんと理解する人が残念ながら少ないと思います。これは信教の自由、もっと広く言うと思想良心の自由ともつながっているわけです。しかしこの重要性の認識の希薄さや、立憲主義が根付いていないことの理由については…これを言っちゃうとおしまいよ、となってもいけないんですが…。
編集部
何でしょうか?
高橋
国民の側から、国家の原則を憲法に書き、権力者に守らせようという経験をこれまでしたことがあったのか? というふうに考えると、非常に疑問なわけです。
編集部
国民が勝ち取った憲法ではないので、意識が希薄だということでしょうか?
高橋
そういう面は否定できないでしょう。1945年の敗戦で帝国憲法が事実上失効し、それで日本国憲法が作られ、そこに政教分離が入った。思想良心の自由も入った。信教の自由は帝国憲法では制限付きであったものが、制限が無くなった。しかしこれはあくまで敗戦の結果です。
精神の自由を意味する学問の自由、表現の自由、そういう自由権を保障する憲法を、自分たち国民の側から権力者に守らせなければいけないんだという、そんな経験を、いつ、どこで日本国民の多数派(マジョリティ)はしたことがあるでしょうか? そう考えると、残念ながらないのです。
そういう意味では、韓国の方が意識は高いかもしれない。韓国の市民に聞くと、いやいやこちらにもいろいろ問題がありますよ、と言いますが。それでもやはり、民衆の力で軍事政権から民主化を勝ち取ったというのは、大きな経験です。日本の場合は、それがないわけですから。
編集部
例えば、日本では今、教育基本法改定の審議が山場を迎えていますが、これと同じことが韓国で起こったとしたら、何十万人もの国民が、国会議事堂のまわりを取り囲んでいるだろう、と韓国人の知人は言っていました。
高橋
1980年に起こった光州民主化運動では、市民も学生も弾圧され、たくさんの犠牲者が出ました。本当はそういう血を流すことはなかった方がよかったけれども、ともかくそうした犠牲を経て軍事政権から民主化したわけで、韓国と日本とでは、権力に対する警戒心はまったく違いますね。もちろん韓国の保守勢力が根強いということもありますが。
編集部
日本人は民主化を自分たちで勝ち取った経験はないにしても、戦後、民主主義と平和主義の憲法のもと、その利益は享受してきたのではないでしょうか。しかしながら、利益を得ているという意識が低く、それが奪われてしまうかもしれない、奪われたらどうなるか、という想像力がまったく働かないようです。
高橋
ええ。それと民主化されたことによる「利益」ですが、基本的に憲法には少数派(マイノリティ)の利益を守るという側面があるわけです。ところが多数派が享受してきた利益というものを基本に考えると、その少数派の権利というところに感性が働かなくなってしまう。
多くの人が自分たちの利益を、この憲法で享受してきたはずだから、ということになってくると、少数派の権利というところに想像力が及ばなくなります。そうなると、自分たちが実害を受けることがなければ、憲法が変わってもいいと考えてしまう。
あるいは逆に多数派が不満をもてば、それは憲法のせいだとなりかねない。そしてどんなに優れた民主主義と平和主義の憲法を持っていても、自分たちで作ったという経験や意識がないと、それを捨てることにもあまり危機感を感じないのではないか。そういうことが、やっぱりあると思います。
編集部
日本人にとってのこの憲法は、「猫に小判」ということでしょうか?
高橋
まあ、そう言うと語弊がありますけれど。私は「メッキと地金」の関係を例に、日本の民主主義と平和主義は、だんだんメッキが剥がれて地金が出てきたのではないか、と言っています。そういう意味では、今の日本社会で少数派は貴重な存在です。
編集部
立憲主義が理解されていないということは、つまり国家というのは、あたかも超歴史的に存在しているものであるかのようにみんな思っているということになります。近代国家は、契約で作り上げたものという意識がないということでしょうか。
高橋
国民の多数にそういう経験がないから意識もないのです。明治に入って作られた大日本帝国憲法は、自由民権運動が負け国権派が勝って、プロイセン王国の憲法をモデルにして、天皇の名で臣民に下賜(かし)したわけです。だから、この国は天皇の国であり、お前たちは臣民であると。で、臣民にも一応これだけの権利を認めてやる。しかし臣民としてはいざとなったら私のために命を指し出せ、そういう体制です。
明治になって近代化されたと言うけれども、要するに薩長を中心とする連合軍が江戸幕府を倒して、武士階級の間でクーデターが起こって、勝ったほうの武士階級が身分制度を廃止して近代国家にしたという形になっているわけです。あくまでも支配階級の間での政権交代ですよね。それがずうっと続き、最後の太平洋戦争の敗戦までいってしまう。そして今度は、日本国家より強大な連合軍によって敗北をする。
ですから、国民の多数がこんな体制ではもう嫌だと言って、当時の体制を倒したわけではないのです。敗戦直後にその辺を意識していた人は、やっぱりそういうことを書いていますよね。作家の高見順は、民主主義者ではなかったと思いますが、『敗戦日記』という本の中で、言論の自由について連合国から指令が出たとき、「これでなんでも書けるようになった。これは良い」と。一方で「それにしても、本来自国の政府によって国民に認められるべき言論の自由が、占領軍の手によって認められるというのは、恥ずかしい事である」ということを言っています。この感覚は非常に重要なんですよ。ただ、高見順ですら「自国の政府によって国民に認められるべき言論の自由」と言っているので、自国の政府に国民が認めさせるべきというふうには言っていない。これはやっぱり帝国憲法下で育った人の感覚だと思います。
編集部
それが今も続いている感じですね。
高橋
そういうことになりますね。
自らに被害が及ばなくても戦争を批判する目を持つこと
編集部しかし安倍首相は以前から、国家主義的な発言をわりとストレートに出してきたわけですが、それでも支持率は大きくは下がらない。自民党についてもそうです。なんだかんだといって、やっぱりこの体制を国民が支持している、否定していない、というのが今の状況を作り出す上でも一番大きいと思うのですが。
高橋
そこが問題ですよね。人間だからどうしても自分が痛みを感じないと想像しにくいということはあるでしょう。例えば、かつての戦争の時も、もちろん今の状況とスケールは違いますが、戦争は、大多数の国民にとって、軍が外でやっているものだったんですよ、1944年から45年以前、要するに太平洋戦争の最終局面になるまでは。
東京大空襲は45年の3月です。その前に本土に焼夷弾攻撃がありました。当時のジャーナリスト、清沢洌が書いた『暗黒日記』の45年1月1日の記述を、私はよく引用するのですが、彼は、「日本国民は今、初めて戦争を経験している」と書いているんです。それは焼夷弾が落ちてきて、逃げ惑っているこの時、自分もはじめて戦場に巻き込まれたと言っているのです。要するに、それまでは戦争は軍が外に行ってやるものだったわけですよ。
清沢は、「これまで、戦争は文化の母だとか、そういう勇ましい議論ばっかりあった。そして自分は反戦主義者だという事で迫害されてきた。しかし今ようやく日本国民は、戦争というのはそんな勇ましいものではなくて、惨めな逃げ惑うばかりのものだ。それを今、初めて経験している」と書いているのです。満州事変から15年経った太平洋戦争最後の年ですよ。しかしその間、中国の人や朝鮮半島の人は、日本軍に攻め込まれていて国土が戦場になっているわけです。
戦後日本人が語ってきた、戦争の記憶って全部1945年の話ですよね。そしてやられてひどい目に遭った人が、だんだんと少なくなってきたら、戦争は勇ましいものではない、と言う人もいなくなってきた。
編集部
痛みを感じた経験がないということには、やはり限界があるのでしょうか。
高橋
自衛隊が軍になり、国外で戦争をやってくるようになった時に、自分が国内にいる限りは、日本が戦争に荷担したところで別にいいですよというふうになると、先の戦争の時と同じになりますね。あの戦争が間違いだった、それと同じ認識を今持つためには、自分自身が直接やられなくても、戦争を批判的に見る視点が必要なんです。そうでない限りは、「私に実害はないし、うちの息子は自衛隊員じゃないし」で終わってしまう。
市民が被害を受けることになったら、悲惨です。イラク戦争の一つの教訓は、イギリスやスペインなど参戦した国で「テロ」が起こって、ロンドンの地下鉄、スペインの列車爆破で大勢の市民の犠牲者が出たことでしょう。戦争に参加したら、ああいうことが日本でも起こるようになってくるかもしれない。そうやって犠牲者が出てからでは、遅いですよ。
教育現場における思想良心の自由はどうなる
編集部ここ数年の傾向として、9条を支える国民の思想良心の自由も、すでに侵され始めているのかもしれません。戦争は嫌だけど、式典の壇上に日の丸が貼られ、みんなで君が代を歌うぐらいはいいんじゃない、と考える人は多いと思います。しかしそのへんから容認していくうちに、やがて全体が何か大きなものに飲み込まれていく、その流れの一歩になってしまうような危機感もあります。
高橋
とにかく異論を許さない、意見の多様性を認めない、上から指示されたものには、みんな従わなければいけない、従わないものは処分する。日の丸・君が代の強制というのは、こういうことです。
教育現場でそのような流れが強まると、平和教育というものができなくなっていきます。平和とか、人権とかいう言葉を発する教員が、どこか偏った人だというふうにしてだんだんと抑圧されていくのです。すでに現場では、そういうことがもう、明らかに出てきていますよね。
編集部
誰が抑圧するんでしょうか?
高橋
日本の場合、「空気」そのものが抑圧します。同調圧力というものが抑圧するのです。今、大学にもそういう圧力はひたひたと押し寄せていますよ。国立大学が法人化してから、逆に政治的な発言が出しにくくなってきています。むしろこれは自己規制ですけどね。つまりあまり突出したことをすると、自分の利益に関わるというので、自己規制してしまうわけです。
かつても大学が攻撃され、それが愚かな戦争に突き進んでいくきっかけになりました。京大の滝川事件、東大の美濃部達吉の天皇機関説の事件。河合栄治郎とか、矢内原忠雄も思想弾圧を受けました。そういうリベラル派の人までが大学から追われるようになって、教育の場に異論が完全になくなってしまった。
そういう意味では残念ですが、今は戦争体制が着々と進んでいるという感じがしますね。
編集部
そういう流れの中にある「教育基本法」の改定だと思います。高橋さんは改定の反対を、ことあるごとに訴えてこられたわけですが。改定することにより、何が一番問題になるのでしょうか? どういった事態が進むでしょうか?
高橋
今回の政府法案は、一言でいえば、敗戦後にそれまでの「国家の教育」から「主権者である国民の教育」に変えたものを、またぞろ「国家の教育」に変えようとするものです。その枠の中に、「愛国心」教育もある。為政者が教育の目標に「愛国心」を法律によって入れようとするときは、狙いはただ一つです。国策としての戦争を支えてくれる国民意識を作ろうとしているんです。私は今回の教育基本法「改正」は、あまりに無責任なものだから、歴史的に大きな汚点になるのではないかと恐れています。
編集部
それにしても高橋さんから見て、こういう流れが顕著になってきたのはいつ頃からですか?
高橋
戦後の日本が、ずっと問題だったと言えばそうなんですけど、自分が嫌な感じだな、と思い始めたのは、1995年ぐらいからです。
編集部
95年は、オウムの事件や阪神大震災のあった年ですね。
高橋
あれらも一つのきっかけですが。私が一番嫌だなと思ったのは、朝日新聞に出ていた小さな記事、藤岡信勝・東大教授が出てきて、自由主義史観というのが広まっているという記述を見つけた時です。その自由主義史観のキャンペーンから「新しい歴史教科書をつくる会」への運動の展開、フジ・サンケイ・グループなどメディアを巻き込んだ展開が、90年代後半に起こってくるわけですが、このことがある意味で今を作っていると私は見ています。
あれは、世論とかマスメディアの雰囲気を徐々に変えていったんですよ。それまでは、本当に一部の右翼の考え方であり、自民党の中でも右翼、社会の中で言えば非常に変わった人たちの歴史認識だったものを公然と語れるようにしていくわけです。自虐史観なんていうことを、誰もが言うようになっていき、やがてそれが本流になっちゃいましたね。
ここで世論がガラッと変えられて、朝日新聞などは徹底的に攻撃された。しかし、朝日側は腰が引けてそれに対抗しませんでした。防戦一方ですよ。それで99年の小渕国会で、「周辺事態法」「盗聴法」「国旗・国歌法」が、どっと成立するわけです。あれは90年代の流れの果てにあることです。それで今度はもう21世紀で小泉政権の時代になります。
90年代前半は、私はまだ甘かったんだけど希望を持っていました。冷戦が終わったし、何かいいことがあるんじゃないかと。南北朝鮮も遅からず統一に向かうんじゃないか、朝鮮半島が一つの国になれば、国としての発言力も強まるし、日本もおかしなことはもう言い出せなくなるだろうとかね(笑)。戦後補償裁判も行われ始め、もうこれで日本の政治家が戦争責任を曖昧にできなくなるんじゃないか、というふうに思ったんですよね。現に自民党政権が倒れて、細川政権ができ、彼が「あの戦争は侵略戦争だった」と言って一面では評価されて、だけどまた反発がものすごくて。細川氏は、首相としてソウルに行って、一応お詫びしているんですよね。戦後補償までは繋がりませんでしたが、もう少し長く政権を取っていれば、どうなったかわからないですよ。
だから95年はやはり分岐点だったと思います。しかしおかしな雲行きを感じてから、もう10年経っています。
9条を形骸化している現憲法の問題点
編集部今の憲法を国民がきちんと理解して、それをひとつひとつ守っていくようにすれば、全部の問題が解決していくのでしょうか?
高橋
私は100%今の憲法を支持しているわけではありませんよ。象徴天皇制にも反対の立場なので、憲法第1章1条は支持していません。そこは9条を支持する人の中でも分かれるところでしょう。
編集部
第1章第1条は「天皇は、日本国の象徴であり、国民統合の象徴である」と定めていますが、ここについてはおっしゃるように意見は分かれますね。
高橋
私は戦後、9条を守るとか生かすとか、実現しようとしてきた時に、その障害になり、9条を形骸化させてきたのは、やっぱり第1条だったと思いますよ。
なぜかというと、1条というのは、つまり昭和天皇には戦争責任がないということ。だから象徴天皇として留まることを可能にしたわけです。そのおかげで、かつての天皇制権力を支えていた人たちが、戦後復権できたのです。まさに安倍晋三氏の祖父、岸信介がそうですね。自衛隊にも旧軍の人が入りました。そのように、日本の戦後の民主化というのは、ドイツと違ってひじょうに中途半端になってしまった。そして東西冷戦の展開とともに、かつての権力構造が復権し、かつての権力者が復権してきた。それはやっぱり昭和天皇が象徴として、中心にいたからなんです。
戦後日本は、天皇の戦争責任も言えないような国でしたからね。そこに民主主義があったのか、といっても難しかったわけです。
編集部
そうして今、現憲法を形骸化するだけでなく、本当に変えてしまおうとしています。教育基本法の改定も山場を迎えています。この2006年の事態をどうご覧になりますか? 私たち市民は、何ができるでしょうか?
高橋
安倍晋三氏が首相の座にいること自体、日本が来るところまで来たことを示していると思います。彼は、一見どう見えるにせよ、思想信条は真性右翼ですからね。憲法9条と教育基本法を「占領の残滓」だなどと言って攻撃し、実際に後者を改悪寸前に追い込み、任期中の憲法改定を公言している。その危険さを市民がどこまで早く見抜いて、その野望にストップをかけられるか。自由や平等や平和といったものを本当に大切にしたいなら、一人ひとりが声をあげ、行動しなければなりません。
高橋哲哉(たかはし・てつや)
東京大学大学院総合文化研究科教授。20世紀西欧哲学を研究、哲学者として政治、社会、歴史の諸問題を論究している。憲法、教育基本法、靖国問題、戦後補償問題などで市民運動にもコミット。NPO「前夜」共同代表として雑誌『前夜』を創刊。著書に『デリダ 脱構築』『戦後責任論』(講談社)、『教育と国家』(講談社現代新書)、『靖国問題』(ちくま新書)など多数。
http://www.magazine9.jp/article/konohito/10045/
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この記事は第一次安倍内閣が誕生した2006年に書かれたものです。
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