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田中派秘書軍団の宴に出席し、あいさつする自民党の石破茂幹事長=平成25年12月18日夜、東京・赤坂の「北海道赤坂見附店」(出席者提供)(写真:産経新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140105-00000507-san-pol
産経新聞 1月5日(日)10時10分配信
いささか旧聞になるが、昨年12月18日夜、故田中角栄元首相が率いた自民党田中派(木曜クラブ)の「秘書軍団」が、国会にほど近い東京・赤坂の居酒屋に集結した。2日前の16日は、田中氏の没後20年の節目にあたった。かつて「鉄の結束」を誇った自民党最大派閥も分裂を経て、その系譜をたどる議員の多くが民主党に流れるなど、秘書軍団もそれぞれの道を歩んでいる。積年の怨念や遺恨を超えて杯を交わした出席者たちは、「あの時代」に思いをはせた。
■あの中村喜四郎氏の姿も
田中派秘書軍団の宴は田中元首相の秘書だった朝賀昭氏、故金丸信元副総裁の秘書を務めた生原正久氏らの呼びかけで開かれた。会場の「北海道赤坂見附店」には、田中派時代の国会議員秘書だった約80人が集った。
その顔ぶれは、いまなお自民党や民主党の国会議員秘書を務めている人、国会議員や首長として活躍する人、はたまた永田町から完全に退いた人…などと様々だ。
2年前の暮れに同様の会合が初めて実現したが、当時の出席者が約60人だったことを考えれば、今回はさらに「盛会」だったようだ。
現職国会議員では、衆院選に初当選する前に田中派事務局に籍を置いた自民党の石破茂幹事長が2年前に続いて参加した。国会議員への転身前に角栄氏の事務所で秘書として机を並べていた鳩山邦夫元法相(自民党)と中村喜四郎元建設相(無所属)もそろって顔を見せた。現職首長では、故小坂徳三郎元運輸相の秘書だった、千葉県浦安市の松崎秀樹市長らの姿があった。
わけても中村氏の参戦には出席者たちも驚いたようで、「過去にゼネコン汚職で有罪となった事情もあるだろうが、ここ数年、中村氏がこうした会合に出てきたのは極めて珍しい」と関係者。とはいえ出席者が2年前より増えたのは、やはり“軍師”の死後20年という節目で、おのおの何か特別な思いがあったに違いないだろう。
出席者たちは約3時間にわたり席を移動しながら、かつての同士と昔話に花を咲かせるなど、一様に田中派時代の郷愁にかられているようだったという。
この宴のもようの一部は早速、当夜のNHKテレビ「ニュースウオッチ9」の特集でも取り上げられた。同番組で秘書軍団の面々は、角栄氏のことを「政治的な大天才だった」「ものすごくあったかい人だった」「政策は寝ないで勉強した」などと最大限に持ち上げていた。
■「数は力なり」
自民党田中派は特にロッキード事件以後、田中氏の「数は力なり」の信念の下で膨張を続け、最盛期には約140人の国会議員が所属する栄華を誇った。自民党派閥政治全盛期の象徴であり、その秘書軍団は総裁選をめぐる党内政局や選挙などの際にフル稼働した。派閥の肥大化や田中氏の権力掌握にあたって機能的に組織されていたのが、まさに「体育会系」の秘書軍団だった。
代表的な例は、昭和53年の第1次大平正芳内閣発足前夜の自民党総裁予備選だ。当初、現役総裁の故福田赳夫元首相は「予備選に負けた側は本選を下りるべきだ」と明言していた。党員票の差で勝てると踏んでいたのだ。
ところが、大平氏を推す田中派は故後藤田正晴氏の指示の下、秘書軍団が東京を中心とする党員を戸別訪問する「ローラー作戦」を徹底して展開して形勢を逆転し、福田氏を本選辞退に追い込んだ。
「ローラー作戦を後藤田氏に進言したのは、当時秘書軍団の司令塔的な役目を担っていた大物秘書だった」(関係者)らしいが、その凄まじさたるや、敵の福田氏の自宅まで訪問したという逸話が語り草になっているほど。戦(いくさ)に敗れた福田氏が吐いた言葉「天の声にもたまには変な声がある」はあまりに有名だ。
■石破氏が「反撃」の狼煙?
18日夜の宴では、「2回連続出場」の石破氏はいつになく饒舌だった。
石破氏は自治相を務めた父・二朗氏の勧めで田中派の事務局に籍を置いたが、同派国会議員の秘書経験はない。衆院選立候補にあたっては同じ選挙区に田中派議員がいたため他派閥からの出馬を余儀なくされた。
「田中派事務局で電話番や掃除、花の水やりなどをさせてもらったことが私の政治のスタートだった」
「角栄先生はお金だけで首相になった人ではない。思いやりや懐の深さがあったからこそ心酔する人がいっぱいいた」
かねてそう振り返っていた石破氏は、同夜の宴のあいさつで「角栄先生に対し抱いているのは尊敬というより崇拝かもしれない」と師匠をしのび、こう力強く締めた。
「角栄先生の教えにならい、自民党をもっともっと選挙に強い党にしたい」
その発言に大きな拍手が巻き起こったという。党務・選挙の責任者として「角栄流選挙」を自民党で実践していくという石破氏なりの決意表明だった。
伏線はあった。石破氏は昨年10月下旬、一昨年末の衆院選で初当選した自民党の1年生議員に対し「事務所体制調査書」なるアンケート用紙を突如配布した。
議員会館や地元事務所の陣容や秘書の配置、宣伝カーの有無など、ありきたりの設問に答える内容だが、これぞ浮かれて地に足をつけた活動をしていない一年生議員に対する石破氏の“圧力”だった。
バックにあるのは「角栄流選挙」の精神であり、それを若手に植え付けようというものだ。自民党関係者はこういう。
「役人にチヤホヤされるだけで満足し、地元で地道な活動をしていない新人議員の尻を叩くことが狙い。首相官邸の方ばかり見ていないで、ちゃんと足元をしっかり固めろという石破氏のメッセージだ」
これぞ、幹事長とは名ばかりで実質的には安倍晋三首相に座敷牢に閉じ込められてきた石破氏の「反撃」の狼煙(のろし)だったということか。
石破氏周辺によると、昨年10月27日投開票の川崎市長選での敗北はことさら石破氏の「官邸不信」を増幅させた。安倍首相が10月2日に消費増税方針を正式表明した後、最初の首都圏での大型選挙であり、自民党としては負けられない選挙だったが、公明、民主両党などと相乗りして擁立した総務省出身の候補者が敗れた。候補者選びから選挙戦に至るまで党神奈川県連会長である菅義偉官房長官の主導で進められ、選挙の司令塔となるべき石破氏はずっと蚊帳の外に置かれていたからだという。
■「政治家が小さくなったから…」
「カネと情」を権力の源泉とした角栄氏の政治手法は金権腐敗の温床として「悪」と見る向きも強い。「金権政治」と指弾され、角栄氏自身がロッキード事件で刑事被告人にもなった。だが首相時代に日本列島改造論をぶちあげ、日中国交回復をなしえた当時の角栄氏のキャッチフレーズ「決断と実行」は今の政治にも求められていることは言うまでもないだろう。
昨年末には角栄氏の没20年を受け「田中政治」「田中イズム」の功罪に改めて焦点があてられた。産経新聞も『角栄の流儀』のタイトルで連載と、角栄氏を「政治の師」と仰ぐ小沢一郎生活の党代表のインタビュー記事を掲載した。前出のNHK「ニュースウオッチ9」での特集も「田中政治が残したものは…」という趣旨によるものだった。
「今の時代、政治家は小さくなり、政治も小さくなった。政治が小さくなればなるほど、田中派秘書軍団のことが大きくクローズアップされる。喜ばしいことだろうが、これでいいことなのかと疑問にも思う。政治は進歩しなければいけないのに、進歩しないから、いまだに田中政治のことが語られているのだ」
田中派所属国会議員の「7奉行」の一人とされ、一昨年の衆院選で政界引退した羽田孜元首相の首相秘書官を務めた北澤英男氏は、18日夜の会合でそうあいさつした。北澤氏といえば、田中派秘書軍団では「若大将」と呼ばれた“大物秘書”だが、多くの同席者はその言葉にうなずかざるを得なかった。
■「7奉行」の“残党”も集結
くしくも翌19日夜には、昨春の叙勲で「桐花大授章」を受章した羽田元首相を祝う会が東京・紀尾井町のホテルニューオータニで催された。
羽田氏とともに田中派から、そして後に自民党からも飛び出した「7奉行」の小沢氏と民主党の渡部恒三最高顧問(政界引退)、そして石井一前副代表(落選中)のほか、同党の鳩山由紀夫(政界引退)、菅直人の両元首相、海江田万里代表らも駆けつけた。自民党への「出戻り組」の石破氏も出席した。
石破氏を除いて彼らは民主党政権の樹立、そして崩壊への“主役”を務めたが、「田中政治」のありようを否定して、政界で進められた政治改革や選挙制度改革の“落とし子”だったといえるだろう。「田中政治」を考えさせらた年の瀬の一連の夜だった。(政治部編集委員 高木桂一)
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