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「続 福沢諭吉の対外政策に関する論説群は、ありのまま読めば、ネトウヨと変わらない:岩上安身氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/13054.html
2014/1/4 晴耕雨読
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福沢諭吉は、民権論者である、というのは大きな誤解である。
85年2月、自身の経営する「時事新報」の社説は、「求むるところはただ国権拡張の一点のみ」。
タイトルだけで十分に中身がわかる。
福沢はまた、開設された国会にも明治憲法にも批判的だった。
ひたすら政府寄りである。
92年7月、「一大英断を要す」では、かの民党なるものは、従来、政府に反対の運動を試みたるもののうち、最も恐るべきもの」と書き出す。
福沢は「学問のすゝめ」等では「啓蒙的」な言説によって民権論者を目覚めさせたが、現実の運動には敵愾心を隠さないと、杉田聡氏は述べる。
「しかるに22年の憲法発布に引き続き、23年の国会開設以来、民党の気炎、にわかに増長して党派の形をなし、公然、政府に反対することとなりたるは、すなわち今日の現状なり。…」
「……政府が国会を開設したるは、あたかも憲法と名づくる城郭を二分して、その一半を敵に与え、己れ自ら他の一半を守りて、同じ城内にあい争うものなりと言うも、あるいは当るがごとし」。
民権論者、議会政党は、福沢の目からは「敵」でしかない。
新聞の社説で堂々、そう書く。
政府に楯突く野党がうるさい。
されば、と福沢は続ける。
「されば今のはかりごとをなすに、ただ英断をもって対外の大計を定め、社会の耳目をこの一点に集めて、もって国内の小紛争をとどむるの一法あるのみと、我輩のひそかに信ずるところなり」。
次からの一節は長いが重要。
「奥羽・函館の戦争もすでに平定し、諸藩の兵隊はいずれも東京に集まりたるに(中略)、互いにあい争わんとするの勢いあり。(中略)時の参議・木戸準一郎(孝允)氏はここに一策を案じ、『(中略)兵隊の矛を外に向けてその思想を一に集むるのほかに、策あるべからず。…』」
「『…外に向けるとあれば、その方向はとりあえず朝鮮なり。朝鮮、罪なしといえども、内の治安のためには換えがたし。ただ熟考すべきは費用の一点なり』」。
罪のない朝鮮に対して、とりあえず、侵略戦争を始めようと、維新の三傑の一人、木戸孝允は考えた、というのだ。
とりあえずの侵略!
木戸孝允は、問題は費用だけだとして、大村益次郎に相談した。
木戸も大村も長州。
大村益次郎は、靖国神社の銅像で知られる。
「勝てば官軍」の官軍を率いた軍事リーダーで、日本陸軍の創始者。
ちなみに福沢と大村は緒方洪庵の適塾で同窓。
福沢は大村を攘夷の狂人扱いしていた。
死してのち靖国のシンボルとなった大村も、とりあえずの朝鮮侵略に賛成した。
「…大村もこれに賛成し、試みに計算するに、『その費用は一年三0万にして可能なり(中略)』」。
何度も言うがこれは公刊された新聞の社説である。
侵略の計画もその費用の試算も、公然たるものだった。
木戸孝允がこの侵略計画を持ち出したのは、「西郷翁等の征韓論に先立つこと数年なりしという」。
維新の志士たちに朝鮮侵略はシェアされていた。
幕末、その思想的バックボーンとなった水戸学には、すでに朝鮮侵略の思惑は胚胎していた。
維新とワンセットだったとみていい。
福沢はこう続けて書く。
「…内の人心を一致せしむるために外に対して事端を開くは、政治家の時に行うところの政略にして、(中略)現に明治七年の台湾征討のごときは、すなわちこの意味の政略にほかならずして、しかもその目的を達したるものと言うべし」。
台湾出兵も内政の転嫁だった。
「…人心を外に転じせしめるの方便としては、南洋諸島に植民地を開くの策もなきにあらず」と、あっけらかんと書きつつ、それではあまりに尋常だ、平凡だ、と続ける。
「…植民の事業はあまりに尋常の計画にして、一時に人心を転じて内の紛争忘れしむるの効果少なかるべきがゆえに…」
「…我輩はやはり木戸氏のひそみにならうて、朝鮮攻略を主張せざるを得ず」。
福沢の狙いが戦争によって内政面で政府の権限を強化する、ある種のショック・ドクトリンである事がよくわかる。
侵略や戦争の行く末など、微塵も気にかけていない。
「とりあえず」ショックであればいいのだ。
日清戦争の大義は、朝鮮を属国扱いしている清国から朝鮮の独立を勝ちとるため、とされてきた。
しかし福沢は「朝鮮侵略戦争のすすめ」とも言うべきこの論説の中で、「ひっきょう独立といい所属というは名義上の問題のみ」と本音を明らかにしている。
戦争を起こすだけでなく、その後の植民地化の計画についても、あれこれ書き並べているのだが、一つだけ引用する。
朝鮮北東部では政府の圧制で人民が苦しんでいるらしい、と聞いた福沢は「シベリアへ逃げ出す者もいて、幾十万里の土地、ほとんど人煙を見ざるありさまなりという」と書く。
そこで、福沢はまた無茶苦茶なことを言い出す。
「思うにこの地方たる、幾千百年来、開拓の国土にして、南洋未明の島嶼などの比にあらざれば、同国政府と約束の上、わが国にあふるる無数の貧民を、その地に移して耕作に従事せしむるは、彼我の便利にして、…」
「……ことにわが国のためには、未開・不案内の地に植民するよりも、その利益大なるものあるべし」。
貧しき者を救え、ではなく、他国の土地に侵略し、そこに貧乏人を追い払え、というのである。
石原慎太郎すら可愛ものだと思えてくる。
> 日朝中連合海軍を構想した勝海舟を毛嫌いしたのも道理です。じつは福澤こそ、近代主義の皮をかぶった通俗儒者の筆頭だったのではないかと考えます。発想は華夷秩序そのものですし。
勝海舟の「氷川清話」読み返さないと。
福沢論説だけだと胸くそ悪くて眠れない。
> 『#福沢諭吉の教育論と女性論』 #安川寿之輔 著 #高文研 によると徹底した差別主義者だったようです。差別はかなりなもの。
> 福沢諭吉というと、天は人の上に人をつくらず…が有名のようですが、脱亜入欧論者だと思います。
その有名な言葉のあと、実は、「…と言えり」と続いているんですよ。
と言われているが、という程度のこと。
> 明治維新の人達が「西欧に列する」と考えたのは、植民地を保有する、西欧諸国の真似をする事だったんだ
> 吉田松陰/ 「疏球を収め、朝鮮を取り、満洲を攻め、支那を圧し、印度に臨み、以て進取の勢を張り、以て退守の基を固くし、神功の未だ遂げざりし所を遂げ、豊国の未だ果たさざりし所を果たすにしかず」 (一八五六年『幽室文稿』)
> 吉田松陰/ 「ロシアやアメリカのような強国に対しては、信義を篤くして友好関係を結ぶことで国力を養ったしかる後にたやすく手に入れられる朝鮮と満州、そして中国の領土を占領し、強国との交易で失ったものを、弱者からの搾取で償うべきである」獄是帳より
福沢諭吉が創刊し、社主として経営していた「時事新報」に掲載された一コマ漫画。
野蛮を文明化する戦争としての日清戦争の肯定。
昨日ツイートしたこの写真は724回も見られました!from ついっぷる http://p.twipple.jp/jD3aQ
> 福澤にしろ吉田松陰にしろ、結局は、欧米からの侵略を恐れて、彼等に倣って植民地を増やすべき、と言っているようにしか思えません。こんな恐怖心が、グローバリズムにとりつかれた日本的精神を構築したことをよく反省するべきでしょうね。
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