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「あなたには孫の顔さえ、見せたくない」――消えた小沢一郎夫人からの『伝言』
http://kodansha.cplaza.ne.jp/wgendai/article/131224/top_03_01.html
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週刊現代 2014年1月4・11日号 :俺用メモ.exe
この男が消えるということは、平成政治の大転換を意味する。数十年にわたって政界で剛腕を振るう一方、私生活では家族を足蹴にしてきた、政治家・小沢一郎の「終焉」――その物語を辿る。 (ジャーナリスト・松田賢弥)
まだ新しい1枚のスナップ写真。そこには、とても愛くるしい赤ん坊の姿が写っていた。小沢一郎・生活の党代表(71)の地元、岩手県を歩いていた時のことだ。小沢の支援者の一人が、私に小声でこう打ち明けた。「これ、小沢先生のお孫さんの写真なんですよ。先生の三男のところで赤ちゃんが生まれたんです。先生にとっては初孫ですが、先生の妻・和子さんからは、出産のすぐ後に連絡をもらいました。『とっても可愛い女の子なのよ』って言って。いつになくほがらかで、嬉しそうでねえ」。初孫に恵まれる。人生の秋に差し掛かった男にとって、それは自らと家族の幸せを、存分に噛みしめる至福の時であるはずだ――その家族の間に、確かな「絆」があるのならば。
だが、小沢一郎には、その人生の果実を味わう機会は、おそらくない。孫の誕生をともに分かち合うべき相手、妻の和子(69)からも、子供たちからも、「絶縁」を言い渡されているからだ。別の支援者は、首を捻りながら私に話した。「小沢先生本人からは、孫娘ができたなんて聞いたことがないなあ。普通、初孫が生まれて目尻が下がらん男はおらんでしょうに。今がいちばん、可愛い頃でしょうにねえ」
私は小沢一郎という政治家を、長く見つめ続けてきた。1993年の自民党分裂からおよそ20年。非自民勢力が結集した細川護熙政権の樹立と崩壊、その後の混乱、21世紀に入っての民主党の台頭と政権交代。その一角に、小沢一郎の影は常に見え隠れしてきた。だがその小沢も、ついに政治生命の終焉に差し掛かろうとしている。特定秘密保護法案、原発再稼働と、小沢が安倍自民の批判を繰り返しても、メディアはその発言をまともに取り合わなくなった。「小沢はまだ、何かやるつもりだ」。混沌とする永田町にはそんな見方もある。ただ、仮にそうだとしても、それは線香花火が燃え尽きる最後に一瞬、輝く程度のものに過ぎない。
小沢一郎は終わった。そして、時代は移り変わっていくのである。その「終わり」のきっかけを作ったのは誰だろう。皮肉にもそれは、小沢が20年にわたって戦い続けた手ごわい政敵や、検察など捜査当局ではなかった。40年近く連れ添い、政治家人生を支え続けてきたはずの妻、和子の反乱。彼女が書き綴った『離縁状』と言うべき手紙が、小沢が国民の前では隠し続けた本性を露にし、「政治家失格」との烙印が押されるきっかけとなったのだ。
和子は新潟の中堅ゼネコン・福田組社長の長女として生まれ育った。小沢の師、田中角栄元首相の仲立ちで小沢のもとへ嫁いだのが、40年前の1973年10月のこと。小沢31歳、和子29歳の時だった。それから和子は小沢との間に3人の男の子をなし、その傍ら、小沢の地元である岩手では、文字通り夫の「名代」として選挙を仕切ってきた。そんな和子が地元の支援者に宛てた手紙のコピーを私が入手し、公開したのは2012年6月のことだ。《(小沢が)岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました》。衝撃的な言葉で綴られたこの手紙は、2011年11月に、和子が地元の長年の支援者10名近くに宛てて出したものだった。
手紙の中で和子が最も多くの言葉を割いているのは、東日本大震災で小沢が取った信じ難い言動についてだ。彼女はあの大震災直後、小沢が地元の被災地に足を運ぶどころか、内々に放射能汚染の情報を得て、真っ先に東京から逃げ出そうとしたことをこう糾弾している。《国民の生命を守る筈の国会議員が国民を見捨てて放射能怖さに逃げるというのです。何十年もお世話になっている地元を見捨てて逃げるというのです》《お世話になった方々のご不幸を悼む気も、郷土の復興を手助けする気もなく、自分の保身の為に国政を動かそうとするこんな男を国政に送る手伝いをしてきたことを深く恥じています》。糟糠の妻から、「保身しか考えない恥ずべき人間」とまで言われる政治家に、天下国家の運営などできるはずもない。この手紙は和子の私信である。公開することには、私にもいささかの逡巡があった。一方で、これは長い間権力闘争の中心に居続けた小沢一郎という政治家の資質を問う上でも、また平成政治を振り返る上でも、極めて重要な第一級の資料であると思う。それが、手紙の公開に踏み切った最大の理由だ。
実は、地元の支援者から入手した和子の手紙には、以前公開したものとは別のものが、もう一通存在する。内容に鑑みて、これら2通はほぼ同時期に書かれたものであると思われる。今回その全文を2ページにわたって写真で公開した。注目すべきは、以前公開した手紙では「(小沢が)岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました」とだけ書かれている部分が、この手紙では「……十月に離婚いたしました」(2枚目)となっており、離婚の時期が具体的に示されている点である。和子の綴ったこの一文を見る限り、二人はすでに事実上の離婚に至っていると考えるのが自然だろう。
この手紙を和子が支援者に送ってから、およそ2年あまり。和子は今どうしているのだろうか。以前私が手紙を公開するまで、和子は東京・深沢にある小沢邸宅の裏門から緩やかな坂道を5分ほど歩いたところにある、秘書寮の一棟にひっそりと暮らしていた。この秘書寮は土地・建物ともに和子名義だった。小沢と和子がもうけた3人の息子は、2013年末時点で39歳の長男を筆頭に、次男が36歳、三男が35歳になる。和子と一緒に秘書寮に住んでいたのは次男だ。ところが、私が手紙を公開した直後、二人は深沢の秘書寮から忽然と姿を消した。それから、私は和子の身を案じる岩手の支援者や後援会関係者らに接触し、彼女の行方を探した。ある支援者は2013年7月、和子と久しぶりに電話で話している。「『私は大丈夫ですよ、いたって元気です』と笑ってしゃべっていました。声にも張りがあったから、安心しました。『マスコミに追われていて、あちこち転々としているの。だから、岩手がどうなっているのか、情報が入りにくいんです。小沢は最近、ようやく被災地に入るようになったみたいですね』と小沢先生のことも少し気にかけているようだった」
とはいえ、和子が小沢とよりを戻すかと言えば、その可能性は考えられない。和子が小沢に愛想を尽かした直接的な原因が東日本大震災だったとするならば、いわば遠因になったのは、今回の手紙(2枚目)によると、2002年頃に和子の知るところとなった、小沢の「隠し子」の存在だった。小沢の隠し子・健太郎(仮名)が生まれたのは1990年の夏のことだ。母親は、テレビ・ラジオ番組にレポーターを派遣する小さな芸能プロダクションに所属していた、20代の直美(仮名)である。当時を知る芸能関係者が語った。「小沢さんが、自民党の幹事長に就任するかしないかという時期だったでしょうか。都内のホテルでごく内輪のパーティを開いた時、業界の人づてに呼んだ女性の中に彼女がいたんですよ」
小沢と知り合って間もなく身籠ったとみられる直美は、周囲にこう語っていた。「子どもを産んだ後に『男の子が生まれたんです』と『相手の人』に報告したら、すごく喜んでくれて『それはよかった。でも申し訳ないが、自分の籍には入れられない』と言って、その子に名前をつけてくれたの」。だが、「父親の名前だけは絶対に言えない。非常に力のある人よ」とも言い、その父親が小沢一郎であることだけは、決して誰にも明かそうとしなかった。小沢はその健太郎を、かねてより小沢の愛人として夙に知られていた料亭の若女将・裕子(仮名)に預け、養子にさせた。1992年のクリスマスの頃だった。つまり、小沢は愛人の産んだ子をわずか2歳半で母親から引き離し、別の愛人に引き取らせたのである。
取材の過程で私の脳裏には、田中角栄に寄り添い、彼に生涯を捧げた「越山会の女王」佐藤昭子のことが浮かんだ。角栄と昭子、小沢と愛人たち。その関係性は、あまりに対照的だ。認知こそしなかったが、角栄には昭子との間に佐藤あつ子という娘がいる。角栄は昭子母娘の存在を隠すことはなく、あつ子とも時に真正面から向き合った。翻って、角栄の直弟子である小沢はどうか。愛人との間にもうけた子の養育を、さらに別の愛人に任せ、ひた隠しにしてきた。産みの母親を知らない健太郎はどんな思いで生きてきたのか。小沢が、角栄があつ子に示したような愛情を健太郎に注いだことが、果たしてあっただろうか。前掲した手紙(3枚目)によれば、愛人や隠し子のことで和子から問い詰められた小沢は、《どうせお前も地位が欲しかっただけだろう》《あいつ(裕子)とは別れられないが、お前となら別れられる。いつでも離婚してやる》などと屈辱的な言葉を和子に浴びせたという。それは、誰よりも小沢の人間性を知り、長年じっと耐えてきた和子の堪忍袋の緒が切れるのに、十分な仕打ちだったろう。
いまや23歳になる健太郎は、和子との間に生まれた3人の息子にとっては歳の離れた異母弟である。一方、和子と小沢の長男は、早稲田大学理工学部を卒業すると、広島県江田島にある海上自衛隊幹部候補生学校に入学。海上自衛官生活に入るも2001年7月に突然辞めてしまい、その後はロンドンに留学したとされる。次男は東大文科三類、三男は桐蔭横浜大学に進んだ。ある後援会関係者は「息子は、父親が小沢一郎であることを恥じ、隠して暮らしているのではないか」と呟いた。小沢は息子たちにとっても、すでに遠い存在になっているのだ。
和子が支援者らに手紙を出した当時のことだ。「離婚しました」という手紙の内容に驚いたある支援者が、「一郎じゃない。和子さんがいるからこそ、(小沢の支援を)やってきたんだ」と泣きながら和子に吐露すると、彼女はこう語ったという。「私は大丈夫。息子たちも『(小沢と)別居しろ』と言ってくれるから」。別の支援者に対しても、和子はこう語っていた。「息子たちが『母さんのことは俺たちで面倒を見る』と言ってくれているの」「私は(小沢と)別居したんじゃない。もう別れたんですから。みんなにも、そう伝えてほしい」。妻からも息子からも、完全に絆を断ち切られた小沢。前述した通り、三男に生まれた女の子は、小沢にとっては初孫である。ところが地元の岩手では、前出の支援者以外にも「孫がどんな顔で、誰に似ているかという話を、小沢先生から聞いたことはない」と多くの人が口を揃える。その理由は、どうやら小沢が、まだ一度もその手で孫娘を抱き上げたことがないからのようだ。
冒頭の支援者はこう話す。「小沢先生はもうお孫さんに会われたんですか? と聞いたとき、和子さんは強い口調で、『小沢には孫のことは知らせていません。会わせたくないし、触らせたくもないんです。孫娘は、普通の人に育ってほしい。息子たちも、小沢家のゴタゴタには、この子を巻き込まないようにしたいと言っています』と言った。今思えば、小沢先生は初孫の誕生すら、風の便りで知ったのかもしれません……」。今回公開した手紙の中で、前述のように、和子は時期まで明記して小沢と「離婚した」と断言している。一方、小沢は和子からの三行半を無視し、離婚を未だに拒んでいるのではないか、と推測する地元の人々も少なくない。離婚を巡る裁判になれば、愛人と隠し子の存在を10年あまりにわたって隠し、和子と3人の息子たちを騙し続けた小沢が圧倒的に不利であることは明らかだからだ。離婚調停が泥沼にはまれば、小沢と愛人たちの関係も、必然的に白日の下にさらされることになる。当然、政治家として大ダメージを負うことは間違いない。
小沢一郎という男は終わった。小沢には、和子や息子たちに背負わせた苦悩とまともに向き合い、自らを責めたことがあったか。「父親失格」の烙印を押されても、政治家としての体面だけにこだわろうとしている――家族という最も身近な存在をこれほどないがしろにする小沢に、政治家としての徳を見出そうとするのは無意味なことだろう。衆参合わせてたった9人という零細政党の党首に落ちぶれ、それでも再起の機を窺っている小沢は今、地元に足繁く通っている。2015年9月に任期満了を迎える岩手県知事選・県議選に向けた地盤固めだが、小沢自らが、これほど早くから陣頭指揮に乗り出すのは異例だ。かつて地元の支援者の間を回り、頭を下げ、その不満を汲み取り、中心となって票を取りまとめていたのは、和子だった。そんな妻を、小沢は、《お前に選挙を手伝ってもらった覚えはない。何もしていないのにうぬぼれるな》と、罵倒したという。今になって小沢は焦り、そして噛みしめているのではないか。中央政界で意のままに権力を操り、剛腕を振るっていた自分の陰で、その背後を黙ってひたすら守り続けた和子の存在の大きさというものを。
震災から丸3年を迎えようという今でも、津波の被害を受けた岩手県沿岸部まで、小沢が足を伸ばすことはほとんどない。一方で小沢は、沖縄県宜野座村に別荘を新築した。2012年1月の陸山会事件の公判で、この土地の購入目的を問われた小沢は「老後に住みたいと思って購入した」とも証言している。最後には岩手の人々と離れ、悠々自適の老後を過ごそうというのだ。2014年5月で72歳になる小沢の政界引退は、もはや目の前に迫っている。その時、彼には迎えてくれる妻も、息子も、そして孫もいない――。今更のように里帰りに励み、たったひとりの『王国』を再建しようとする小沢の老後は、政治家としても父親としても、あまりに淋しく、孤独だと言うしかない。 【文中敬称略】
まつだ・けんや 1954年、岩手県生まれ。雑誌を中心に活躍するジャーナリスト。2012年には生活の党代表・小沢一郎氏の妻の「離縁状」をスクープ。著書に『闇将軍』『無情の宰相 小泉純一郎』など。近著に『小沢一郎 淋しき家族の肖像』がある。
関連記事
「新年ご挨拶/2014.1.1」
http://electronic-journal.seesaa.net/article/384067953.html
2014年01月01日 Electronic Journal
EJ読者の皆様、明けましておめでとうございます。EJをい
つもご愛読いただき心より御礼申し上げます。本年もよろしくお
願いいたします。
2013年のEJは、1月4日の第3459号から12月27
日の第3702号までの244本をウィークディの毎日、一日も
欠かさず、お届けしました。その間、同じ内容のコンテンツをブ
ログに投稿しております。
2013年は次の3つのテーマについて書きましたが、「日本
の領土」については、2012年10月1日からの続きですので
実質的にはテーマは2つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
1.日本の領土(続き) ・・・・・・・・・・・ 44回
2.新中国論 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 76回
3.自民党でよいのか ・・・・・・・・・・・ 124回
―――――――――――――――――――――――――――
244本
―――――――――――――――――――――――――――――
EJは毎日どのくらいの人に読まれているのでしょうか。EJ
と同じコンテンツを掲載しているブログの毎日の来訪者数の月平
均数値の推移をとってみると次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
≪日本の領土(続き)≫
UU PV
1月 ・・ 1782人 5535人
2月 ・・ 1633人 5272人
≪新中国論≫
3月 ・・ 1444人 4538人
4月 ・・ 1786人 5135人
5月 ・・ 1917人 5504人
6月 ・・ 2146人 6060人
≪自民党でいいのか≫
7月 ・・ 2338人 7071人
8月 ・・ 2180人 6357人
9月 ・・ 2038人 6061人
10月 ・・ 1988人 6077人
11月 ・・ 1802人 5800人
12月 ・・ 1928人 6039人
―――――――――――――――――――――――――――――
今回は「PV」(ページビュー)の数値を示しておきます。毎
日のPVの月平均数値です。「PV」の数字は、実際にブログを
訪れた人(1日単位)の総数を表しています。ある人がブログに
訪れて、最新の記事だけでなく、他のページの記事をクリックし
て読んだとすると、「2」とカウントされます。ブログには過去
のたくさんの記事があります。
これに対して「UU」(ユニークユーザー)とは、最新の記事
を読むためにブログを訪れた正味の数であり、毎日のUUの月平
均数値です。同じ人がもう一度ブログに訪れても「1」としかカ
ウントしないのです。つまり、重複はカウント(1日単位)しな
い数字です。
2013年の数字をみると、1日平均UUで2000を超えた
月が、2012年度は1回しかなかったのに、4回もクリアして
います。UUで見ると、ほぼ毎日6000人が定着しつつありま
す。2013年度に対しては、1日平均数値が6000人を超え
る月は6回あり、EJのブログは「1日6000人以上が訪れる
ブログ」に成長しつつあります。これもEJの読者の皆様のお陰
であると思っています。
2013年のEJのメインのテーマは、7月1日から124回
にわたって書き続けた「小沢一郎謀殺事件」です。こういう記事
を書くと、小沢信者であるとか小沢擁護者だとかいわれ、ブログ
には、批判の書き込みは多くなりますが、124回の連載中励ま
しはありましたが、批判的なコメントはほんとんどなかったと思
います。EJとしては、事実に基づき、できる限り客観的に書い
ているつもりです。
政権交代を決める選挙前からの検察主導の露骨な妨害に始まり
次の年の秘書全員逮捕、メディアのリーク、検察審査会による小
沢氏への2回にわたる「起訴相当」議決による強制起訴。少して
いねいに調べただけなのに作為性が濃厚です。そして裁判、控訴
審ともに無罪で、完全無罪になっても、マスコミは小沢氏にとっ
て不利な情報は大きく、有利な情報は小さくしか報道しません。
その挙句に選挙不正の疑惑。これには私は愕然としたのです。
もし、これが本当だとすると、日本の民主主義の危機です。その
結果、小沢代表率いる生活の党はたった9人の小政党になってし
まいましたが、それでもマスコミのパッシングは依然としてやま
ないのです。
『週刊現代』年越し合併特大号では、次の大特集を組んでいま
す。いわゆる支援者に送った小沢夫人の手紙の蒸し返しです。こ
のような記事を特集する『週刊現代』の品性を疑います。
―――――――――――――――――――――――――――――
「消えた小沢一郎夫人からの『伝言』/あなたには孫の顔さ
え見せたくない」 ──松田賢弥著
──『週刊現代』年越し合併特大号より
―――――――――――――――――――――――――――――
松田賢弥氏は同趣旨の単行本を出しており、小沢氏の足を引っ
張る記事をいくつも書いているライターです。私はこう考えてい
ます。こういう企画を持ち込まれた講談社がそれを取り上げると
いうことは、まだ小沢一郎の復活をその筋の人たちが何よりも恐
れている証拠です。私は3年後に小沢氏は必ず復活すると考えて
います。タイミングを見てこの問題はもう一度取り上げて、今回
書き切れなかった部分を書くつもりでおります。そうでないと、
日本国はもたないと考えています。
2014年のEJは1月6日からお送りします。今年も営業日
の毎日お届けしますので、よろしくお願いします。
≪画像および関連情報≫
●小沢一郎はついに終わった──松田賢弥氏
―――――――――――――――――――――――――――
小沢一郎が、ついに政治生命の終焉に差し掛かろうとして
いる。特定秘密保護法案、原発再稼働と、小沢が安倍自民の
批判を繰り返しても、メディアはその発言をまともに取り合
わなくなった。「小沢はまだ、何かやるつもりだ」混沌とす
る永田町にはそんな見方もある。ただ、仮にそうだとしても
それは線香花火が燃え尽きる最後に一瞬、輝く程度のものに
過ぎない。小沢一郎は終わった。そして、時代は移り変わっ
ていくのである。(中略)
小沢一郎という男は終わった。(中略)衆参合わせてたっ
た9人という零細政党の党首に落ちぶれ、それでも再起の機
を窺っている小沢は今、地元に足繁く通っている。15年9
月に任期満了を迎える岩手県知事選・県議選に向けた地盤固
めだが、小沢自らが、これほど早くから陣頭指揮に乗り出す
のは異例だ。(中略)
14年5月で72歳になる小沢の政界引退はもはや目の前
に迫っている。その時、彼には迎えてくれる妻も、息子も、
そして孫もいない──。今更のように里帰りに励み、たった
ひとりの王国を再建しようとする小沢の老後は、あまりにも
淋しく、孤独だと言うしかない。
──『週刊現代』年越し合併特大号/松田賢弥氏より
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