http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/586.html
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八路軍に入隊し、共産党に協力し、日中友好協会の会長で、通貨事件では日本人を虐殺。帰国後は日本軍の非道を講演する前田光繁氏。
こんな前田光繁氏を礼賛するちきゅう座や朝日新聞は何なんだろう。
結局、反日が大好きなんだね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%85%89%E7%B9%81
■前田光繁
前田 光繁(まえだ みつしげ、1916年 - )は、日本の海軍軍人。八路軍の日本人兵士第1号。別名杉本一夫。
経歴[編集]
京都府出身。京都市立商工専修学校を卒業後、1936年(昭和11年)に海軍へ志願。呉海兵団に所属するが病気のため除隊。1年間の療養生活を経て、1937年(昭和12年)南満州鉄道関連企業に就職。1938年(昭和13年)、河北省で鉄道用砂利採取場の現場監督時に八路軍に連行される。八路軍野戦政治部に送られ、1939年(昭和14年)1月2日、八路軍へ入隊を表明し、野坂参三に次ぐ日本人民解放連盟の2番手となる。同年11月には八路軍内において「日本兵士覚醒連盟」を組織した[1]。朱徳と行動を共にして戦闘に参加した後、1942年(昭和17年)に反戦活動のため延安に移動し、終戦まで同地にとどまった。
終戦後満州に赴き、中国共産党および八路軍の活動に協力しながら、通化事件にも関与した。その後も八路軍のために活動を続け、1958年(昭和33年)に日本へ帰国した。帰国後は日中友好協会の理事を務めている[1]。
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通貨事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%8C%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6
■当時の中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍[編集]
当時、先に進駐していた朝鮮人民義勇軍と延安からの正規の中国共産党軍を中共軍または八路軍と包括的に呼称した。ただし、中ソ友好同盟条約によって満州で中国共産党が活動することは許されていなかったため、東北民主連軍などと称していた。元朝鮮人日本兵や現地の朝鮮人などで構成されていた朝鮮人民義勇軍は新八路軍や朝鮮八路とも呼称され、「(日帝支配)36年の恨」を口にしながら暴行・略奪・強姦などを繰り返した[2]。
背景[編集]
当時の通化の状況[編集]
通化は終戦時に中華民国政府の統治下に置かれ、満洲国通化省王道院院長を務めた孫耕暁が国民党通化支部書記長に就任し、満州国軍や満州国警察が転籍した中華民国政府軍によって統治されていた。交通の要所である通化には大勢の避難民が集まっており、1945年8月18日には通化国民学校に避難民収容所が設置された。また1945年8月13日に発生した小山克事件(武装した暴民に襲われ、日本人避難民が強姦・虐殺され約100名が集団自決した)に巻き込まれた避難民も到着しており、通化にもともと居住していた17000人[3]の日本人居留民と、10万人以上の他の地域からの避難民が滞在していた[4]。武装解除された元日本兵は次々とシベリアへ送られ、残留した居留民の多くが女性や老人で、略奪や強姦に遭い麻袋に穴を空けたものをわずかに身に着けただけの姿もあった。通化の在留邦人が衣服や住居を提供するなどしていたが、多くの日本人家屋は強制的に接取されるなどして、在留邦人・難民ともに困窮していた。
ソビエト軍・中国共産党軍の進駐と暴行[編集]
1945年8月20日、通化高等女学校に短機関銃を持ったソビエト兵2名がジープで乗り付けると校内に乱入し、女生徒の腕を掴んで引きずり出そうとした。古荘康光校長と村田研次教師が止めに入ると銃を乱射し始めたため、20代の女性教師が自ら身代わりとなって連行された。連絡を受けた通化守備隊の中村一夫大尉は直ちに兵士40名を乗せたトラック2台とともに駆けつけ、男性教師たちと共同でソビエト兵のジープを捜索したが発見できなかった。女性教師は深夜に解放されたが、その晩自殺した。翌日、ソビエト兵は再び女学校に乱入すると女生徒か昨日の女性と金品を出すよう要求した。村田教師が「女性は自殺した」と述べると、他の女性を出すよう要求されたため、隠し持っていた拳銃で2人を射殺した。教師たちはソビエト兵を埋葬すると寄宿生を連れて通化を脱出した。
中国共産党軍の単独進駐以降[編集]
ソビエト軍の撤退後、通化の支配を委譲された中国共産党軍は、楊万字通化省長、超通化市長、菅原達郎通化省次長、川内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長などの通化省行政の幹部を連行し、拷問や人民裁判の後、中国人幹部を全員処刑した[6]。また、中国共産党軍は「清算運動」と称して民族を問わず通化市民から金品を掠奪した。9月22日には、中国共産党軍が中華民国政府軍を攻撃し、通化から駆逐した。10月23日、正規の中国共産党軍の一個師団が新たに通化に進駐。11月2日[7]、中国共産党軍劉東元司令が着任する。11月2日、中国共産党軍は17000名を超える遺留民に対して、収容能力5000名以下の旧関東軍司令部への移動命令を出した。遺留民1人につき毛布1枚と500円の携行以外は認めないとした。通化は氷点下30度になる極寒の地であり、無理な要求であった。
11月初旬[8]、中国共産党軍は、遼東日本人民解放連盟通化支部(日解連)を設立し、日本人に対して中共軍の命令下達や、中国共産党で活動していた野坂参三の著作などを使用した共産主義教育を行った。日本人民解放連盟は中共軍の指令に従い、日本人遺留民に対し財産を全て供出し再配分するよう命じた。日本人遺留民たちが嘆願を続けると、中共軍は先に命じていた移動を見合わせる条件として、日本人全員が共産主義者になることへの誓約、全財産の供出と中国共産党および日本人民解放連盟への再分配を要求した。
11月17日、中国共産党軍は大村卓一を満鉄総裁であったことを罪状として逮捕した。また、中国共産党軍は武器捜索を名目に日本人家屋に押し入り、(後の蜂起当日まで)連日略奪をおこなったほか、男女を問わず日本人を強制的に従軍・徴用(無償の強制労働)した。
・・・
虐殺[編集]
拘束から5日後に部屋から引き出されると、朝鮮人民義勇軍の兵士たちに棍棒で殴りつけられ、多くが撲殺された。撲殺を免れた者の多くは手足を折られるなどした。その後、中国共産党軍による拷問と尋問が行われ、凍結した渾江(鴨緑江の支流)の上に引き出されて虐殺が行われた。川岸に一人ずつ並べられた日本人が銃殺されて行く姿は皇弟妃浩によっても目撃されている[25]。渾江の下流の桓仁では、中国共産党軍の兵器工場で働いていた中村良一が連日に渡って上流から流れてくる遺体を目撃している[26]。 女性にも処刑されるものがあった。川の上には服をはぎ取られた裸の遺体が転がっていた。男性たちが拘束されている間、中国共産党軍の兵士には日本人住居に押し入り、家族の前で女性を強姦する者もあり、凌辱された女性からは自殺者も出ている。
また事件後に蜂起の負傷者に手当を施した者は女性・子供であっても容赦なく銃殺された。
林少佐には銃殺命令が3度出されたが、そのたびに政治委員黄乃一の嘆願によって助命された。
人民裁判[編集]
処刑の決定には、「人民裁判」と称する手続きがとられることもあったが、法的な手続きとはいえないものであった。次のような証言がある。「中国共産党の本拠地である延安から派遣された若い裁判官の前で、台の上に日本人が立たされる。満州時代の罪状を民衆に問う。黒山の野次馬の中から「俺達を酷使した、俺達を殴った」という声が上がる。裁判長が「どうする」と問うと、「打死!打死!(殺せ殺せ)」と民衆が叫び、これで裁判は終わり。その日本人は背中に「南無阿弥陀仏」と書かれ、馬に乗せられて市内引き回しの上、河原に連れて行かれて次々と銃殺された」[27]。
<参考リンク>
■<崔勝久さんも登場>斎藤芳夫さん 上溝九条の会運営委員、元八路軍衛生兵<中共のスパイが正体を明かして講演??>
http://www.asyura2.com/13/senkyo152/msg/613.html
■八路軍に参加した元日本兵らの講演 「日中戦争の体験」(朝日新聞)
2011年1月13日15時58分
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201101130375.html
講演会「日中戦争の体験」が22日13時から東京・神田駿河台の明治大リバティタワー1001号教室で開かれる。捕虜となったのを契機に八路軍に参加し、反戦運動を行った前田光繁さん(94)が体験を語る。姫田光義中央大名誉教授らが解説。会費千円。現代史研究会など主催。問い合わせは由井格さん(03・3480・1392)
※主催・現代史研究会・社会運動史研究会・ちきゅう座
■米国が異例の批判、安倍首相の靖国参拝に米メディアは「自分で自分の首を絞める名人」―中国紙
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131228-00000007-xinhua-cn
■通化事件 (通化大虐殺)亡国の現実から学ぶべきこと
http://www.youtube.com/watch?v=PbvzgzdLxa4
■アグネス・スメドレー(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B0%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%BC
チャットパディアと分かれたスメドレーは次なる興味の目標を中国大陸へと定め中華民国の上海へ向かった。上海ではソビエト連邦のスパイであったゾルゲと親密に親交し、後に彼の協力者となる尾崎秀実を紹介した[2]。尾崎はスメドレーの著作を日本語に翻訳している。このような経緯から、マッカーサーの部下であったチャールズ・ウィロビーはスメドレーをソビエトのスパイであると主張していた。スメドレーはこの主張に対し戦後告訴を試みている。
スメドレーは1930年代に始まった国共内戦と日中戦争の取材を行い、記事をフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥングやマンチェスター・ガーディアン紙などへ投稿した。中国共産党傘下の八路軍へ密着した取材などで詳細なレポートを表している。1937年には戦場の第一線の取材を離れ、医薬品の供給や総括記事の執筆などを、1938年から1941年にかけては国民党と共産党双方の上層部の取材を行っている。このような精力的な活動は中国大陸での戦争を取材する外国人記者としては飛び抜けたものであった。
その後アメリカに戻り、第二次世界大戦及び国共内戦における中国共産党への援助に関する活動に従事している。この間数冊の著作を執筆した。印税ほ全て社会のために使い、友人の家に間借りするような質素な生活を送っていた。戦後1947年になり、東西両陣営の間の冷戦が深まる中で、彼女はスパイの容疑をかけられた。
スメドレーの活動も影響してか、アメリカからの支援が減った国民党軍は敗北し台湾島に遷都し、1949年には国共内戦に勝利した中国共産党によって、中華人民共和国が設立された。その翌年の1950年に、米下院下院非米活動委員会からスメドレーに召喚状が発せられたが、彼女はその日にロンドンに飛び、その晩急死した[3]。スメドレーの死の2年後、1952年にFBIは彼女に関する捜査を打ち切っている。遺骨は北京の墓地へ埋葬された。
コミンテルン文書の公開によって、スメドレーがコミンテルンから資金援助を受けて欧米向けの対外宣伝活動に従事していたことが判明した。
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