<■5701行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可> ここからコピペ http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/edo-end02.htm から http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/edo-end06.htm第2章 堀田正睦と日米通商条約 1. 堀田正睦の登場 (1) 堀田正睦の世界観 阿部正弘の死去を受けて、揺れだした幕府の屋台骨を支えることになったのは、その時、筆頭老中の地位にあった堀田正睦(まさよし)です。彼は今の成田空港にほど近い、千葉県佐倉11万石の領主でした。 堀田家で有名人物というと、綱吉の治世初期に、大老として活躍し、天和の治といわれる一時代を築いた堀田正俊に、まず指を折るべきでしょう。彼の業績については江戸財政改革史の中で詳しく紹介しましたから、前から読んでくださっている方はご記憶と思います。 堀田家はその後、阿部家同様、譜代中の名門として何人かの老中を出しつつ幕末を迎えます。たとえば田沼意次の生涯を紹介した際に、その最初の重要な出来事として、老中本多正珍等、幕閣の有力人物が大量に処罰された美濃郡上藩の百姓一揆について紹介しましたが、そのとき、直接処罰を担当した老中は堀田正亮(まさすけ)です。堀田正睦は、この名門から出た最後の老中です。 彼は2回老中になり、2回とも失脚して終わっているという変わった履歴の持ち主です。最初に老中になったのは天保の改革の時で、天保12(1841)年に就任し、天保14(1843)年に忠邦の失脚に連座して、彼と一緒に罷免されています。そこで、その後しばらくの間は藩政に専念しました。彼は、水戸斉昭から蘭癖(らんぺき)があると悪口を言われたほどのオランダ好きで、蘭法医佐藤泰然(たいぜん)を招いて藩校と病院をかねた施設を建設し、順天堂と名付けています。これが後に今日の順天堂大学に発展します。 当然、根っからの積極的開国論者です。「国運を振張するの道は開国にあり、国力を増強するの策は通商にあり」との信念を持っていました。 (2) 老中筆頭への就任 阿部正弘は、一連の和親条約を結んだ際、水戸斉昭を幕政に参加させ、彼を通じて有力諸侯、特に島津斉彬(なりあきら)等との連携を深めていました。これに対して幕閣内からの反発が激しかったため、八方美人の正弘にしては珍しく強権を発動して松平乗全(のりよし)、松平忠固(ただもと)の二人の老中を安政2(1855)年8月に罷免しています。 しかし、それで批判がやむどころか、阿部正弘は、逆に譜代大名の中で完全な孤立状態に陥りました。当時、大名は江戸城中に、それぞれの格式に応じた控え室を有していましたが、中でも最も重要なのが、溜まりの間です。ここに詰めることができるのは、会津松平家、高松松平家など徳川一門の一部と、井伊家、酒井家、堀田家など譜代中の最有力の家柄に限られていました。溜まりの間詰めの諸侯は、通常の意味での行政権は有していませんでしたが、重大事には諮問を受けて答申する権利を有していました。したがって、ここを敵に回してしまうと、老中といえども自由に活動することが困難になるのです。 そこで、強権を発動したわずか2ヶ月後の安政2(1855)年10月に、阿部正弘は、堀田正睦を再び老中に就任させるとともに、老中首座の地位までも彼に譲ることにしたのです。これにより、溜まりの間との融和を計ろうとしたわけです。このあたり、八方美人の阿部正弘が、一人で右往左往している様が見えるようで、その性格上やむを得ないとは言いながら、気の毒になります。 とにかく、こうして阿部正弘が一人芝居を演じている間に、彼の幕閣内での影響力は着実に低下していきました。前章に述べたように、彼は非常にあっけない死を迎えるのですが、この経緯から見れば、死ななければ失脚していただけのことであったろうと思われます。 (3) 堀田正睦時代の始まり 安政4(1857)年6月に阿部正弘が死去するとともに、堀田正睦は名実ともに幕閣の最高責任者となります。彼の履歴や信念からみて当然の事ながら、この政権交代により、幕府の対外方針は一変しました。 阿部正弘は、基本的には攘夷論者で、可能でありさえすれば家斉の異国船打払令を再び実施したいと願っていたほどの外国嫌いです。ペリーが来航した際にも、彼我の武力の圧倒的な落差を前に、薪水の供給などはやむを得ないとして承認したにしても、通商は絶対に拒否という方針で交渉に臨んだ事は前章で紹介しました。 これに対し、先に述べたように、堀田正睦は根っからの開国論者です。そこで、この前年、まだ阿部正弘が実質的には幕府政策を動かしていた安政3(1856)年10月の時点で既に、川路聖謨や大久保忠寛、水野忠徳、岩瀬忠震(ただなり)などのブレーンサークルに対して、「近来、外国の事情もこれあり、この上貿易の儀御差し許し相成るべき儀もこれあるべきにつき、右取り調べ致すべし」と命じて調査・検討させています。 したがって、堀田正睦が名実ともに幕閣の筆頭にのし上がった時点では、当然、幕閣全体をその新年の方向に引っ張っていこうとする意欲に燃えていたことでしょう。 2. 日米通商条約交渉 (1) ハリスの出府要求 ハリスは、着任後、ねばり強く対幕交渉を行っています。ハリスは、確かに下田駐在の総領事に違いありません。が、それと同時に、米国大統領から通商を求める国書を携帯してきている特命大使でもあります。今日の国際慣行においても、一国の元首からの国書は、当然相手国の元首に大使自身が奉呈すべき性格のものです。そこでハリスは、国書は下田奉行に提出すればよいとする幕府側の提案を跳ね返し、江戸に自ら出府して、将軍に対して国書を奉呈し、老中と直接交渉することを主張してやみません。 彼の交渉手法は、文字通り、脅したりすかしたりの両面作戦です。 脅し文句は、交渉に応じないと、米国艦隊が来て、火力により条約を取り付ける、というものです。ペリー艦隊の端倪すべからざる偉容をみている幕府にとっては、これは大変効き目があります。 すかし文句は二つあります。 その一つ目は、米国は日本に好意的なのでこの程度の要求で済んでいるが、イギリスが来たらこんなものでは済まないので、今のうちに米国との間で有利な条約を取り交わし、それをたたき台にする方式で対英交渉に臨めば有利な立場に立てるというものです。これも、アヘン戦争における清国の厳しい状況を承知している幕府にとっては、非常に効果のある文句です。 今ひとつは、幕府は貿易を独占することにより、諸侯に対して財政的に圧倒的に有利な立場に立てる、というものです。幕府の悲惨な財政状況をどの程度ハリスが承知していたのかは、よくわかりません。しかし、鎖国とは、長崎貿易を幕府が独占することにより莫大な利益を上げるという形態の通商形態をいう、ということは、ハリスはよく知っていたはずです。したがって、これもまた非常に説得力のあった論理でした。 この時、ハリスに追い風が吹きました。故国から手紙を運んで蒸気フリゲート艦ポーツマス号がやってきたのです。そこで、ハリスはこの機を捉えて、有名無実の全権である下田奉行と話をしても埒があかないのであれば、ポーツマス号に乗って直接江戸に行き、老中と会談すると井上清直を恫喝しました。 先に述べたとおり、堀田正睦は元々開国貿易派です。この機を捉えて閣議を統一することに成功し、幕府としてハリスの出府を許可する決定を下すことに成功します。 もちろん根っからの攘夷派である水戸斉昭が、このような決定に賛同するわけがありません。彼は怒って海防参与の辞表をたたきつけます。また、尊皇論者として自分の行動を天皇に対して説明する必要を感じたのでしょう、「亜国官吏の外夷出府登城を許し、夷情切迫につき存じ寄り申上げ候」と題する建白書を朝廷に提出しています。 譜代の名門の一人として、堀田正睦は水戸家が幕政に参画するという前例を無視した処置を苦々しく思っていたでしょう。だから、本音のところは喜々としてその辞表を受け取りたかったことでしょう。しかし、彼も政治家で、斉昭が下野することの持つ政治的危険性は十分承知していますから、将軍家を通じて一応慰留しようというポーズは見せています。 (2) 通商条約交渉の要求 こうして閣内の邪魔者一掃に成功した堀田正睦は、ようやく正式にハリスに対して出府を許可することができました。ハリスは10月7日に下田を出発し、14日に江戸について、宿舎と定められた蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に入ります。 蕃書とはすさまじい言い方ですが、オランダの書物を中心とする外国書籍を意味する当時の言葉です。もと幕府天文方に設置されていた蕃書和解御用(ばんしょわけごよう)を安政2(1855)年に独立の機関に発展させて洋学所と名付けましたが、翌安政3年にさらに蕃書調所と改名したもので、洋学研究所兼外交文書翻訳局というべきものです。さらに、このハリスが泊まった安政4(1857)年からは外国語教育も行うようになっています。要するに、外国人に対する接遇能力を持つ唯一の機関であったため、ここがハリスの宿舎とされたわけです。 ハリスは19日に堀田正睦と面会して国書の写しとそのオランダ語訳を提出します。21日に江戸城に登城して国書を奉呈しました。これで、一応出府の目的は達成されました。 しかし、これだけでは通商条約調印に向けて前進したことには、ほとんどなりません。そこでハリスは26日に再度堀田正睦を訪れ、延々6時間にわたって日本の開国の必要性を演説したといいます。もっとも、彼の英語をヒュースケンがオランダ語に訳し、それをさらに幕府オランダ語通事の森山多吉郎と名村常之介が日本語に訳するわけですから、実質的に話した時間は2時間という計算になります。それでも大演説には違いありません。堀田正睦だけでなく、川路聖謨、井上清直、岩瀬忠震、永井尚志、水野忠徳など堀田正睦のブレーンサークルは全員が参加してこの演説を聞いたようです。 演説の内容は、上述した脅し文句とすかし文句を集約したものでした。特に英国を、日本にも阿片を輸出しようとしていると非難して、米国の友好政策の宣伝に務めていることが注目されます。さらに、経済学の初歩や西欧における商業規則の初歩を講義しました。 (3) 日米通商条約交渉 堀田正睦は、先に述べたように、この時点では幕府主導による開国・貿易を実施することに腹を固めていましたから、別にハリスの演説によって考えを変えたりしたわけではありません。既定の方針に従い、この後、直ちに通商条約の細部検討にはいることを決意します。しかし、幕閣の中では筆頭老中といえども同等者中の第一人者であるに過ぎません。他の老中の説得には時間が掛かりました。 上記の演説後、1ヶ月経ってもなお国書に対する回答に接することができなかったハリスは、11月25日に来訪した井上清直にきわめて脅迫的な言辞を用いて回答を督促しました。そこで、12月2日になって、堀田自身が直接ハリスに会い、交渉に入ることを告げました。 A 日本側の担当者 堀田正睦には、井上清直のような下僚に交渉の全責任を押しつけた阿部正弘のやり方が不当なことは判っていました。しかし、もちろん交渉の途中から担当者を全面的に変更することは好ましくありません。そこで、井上清直は引き続き交渉に当たることにしましたが、このほかに、当時目付の地位にいた岩瀬忠震(ただなり)を新たに全権に任命して交渉に当たらせることにしました。 結果的に見ると、この岩瀬忠震を主席する人事は失敗だったといわざるを得ません。岩瀬忠震は有能という評判の高い人ですが、通商というものの本質を把握しておらず、下田条約よりさらにわが国に不利な条約を、自ら求めるようにしてまとめてしまうからです。 B 米国のスタンス 交渉は12月4日から始まりました。岩瀬忠震等は、当初、オランダと締結したのと同様の、従来の会所貿易を拡大した形で通商条約を締結しようとしました。しかし、ハリスは、それはペリーの結んだ神奈川条約第9条の最恵国待遇規定から、既に米国も享受できることになっている、と一蹴しました。その結果、交渉形式は、ハリスの用意した条約案の文言に対して岩瀬忠震が質問し、これにハリスが答えるという形で行われました。 ここで我々が注意しておかねばならないことは、この当時は、欧米にとり、アヘン戦争に象徴されるように、むき出しの力による帝国主義的進出の時代だったということです。 米国も、この直前の時期に、対メキシコ戦争によりカリフォルニアを奪い取っていることに示されるとおり、決してその例外ではなく、アジアにおける帝国主義的進出のチャンスをうかがっていたのです。少し後の1898年には、スペイン領だったキューバが独立しようとしたのを支援するという名目でスペインと戦争をして、フィリピン及びグアム島を奪い取り、その際、独立を求めるフィリピン人の大虐殺をやっています。同じ年には、ハワイ王家を陰惨な手段で滅ぼし、ハワイ諸島も併合しています。 したがって、その米国の利益を代表するハリスもまた、堀田正睦に対する大演説で幕閣に思わせようとしたほどの博愛主義的な人物ではありませんでした。彼の用意した条約案は、天津条約ほどにはわが国に屈辱的な内容でないまでも、一方的に米国に有利な内容のものでした。すなわち、ハリスは、自由貿易の名の下に、日本側の無知につけ込んで列強がアジア諸国に強いたのと同じ不平等条約へと誘導したのでした。 (4) 条約の内容 岩瀬忠震と井上清直は、決してハリスの条約案を丸飲みにしたのではありません。条約内容の重要性に鑑み、下田条約にもまして粘り強く交渉を進めました。ハリスも二人の粘り強さに閉口し、当初案に比べるとかなりの後退を余儀なくされたということです。その結果、アメリカ人の日本国内自由旅行権を否定したことこと等、その交渉において、一定の成果を収めたことは事実です。 この条約交渉に当たって、最大の問題は、下田条約において既にハリスに承認済みの権利、すなわち金銀の等価交換や領事裁判権については、一議に及ばず承認している点にあります。 A 通貨に関する規定 岩瀬は、通貨交渉に当たってとんでもない失敗をしています。下田条約の締結に当たって井上が苦労して獲得した6%の改鋳手数料について「冗雑之手数」を省く目的から放棄するといいだしたのです。これには、相手方のハリスさえも唖然とさせ、説得に努めたほどです。 そもそも岩瀬は、なぜか銀の含有量という概念が理解できず、洋銀1個と一分銀3個を等価交換するのは、1対3の割合でわが国に不利だという素朴きわまる発想から、内外貨の交換を回避しようとしたのです。しかし、自由貿易体制の下で、内外貨の交換をしようとしなければ、いやでも外国通貨の国内流通を認め、かつ、日本通貨の輸出を認める必要があります。そうでなければ、貿易は不可能です。 そこで、ハリスの説得に対して、さらに日本の通貨の自由輸出を許可し、また外貨はすべて日本国内で自由に通用されるべき事を宣言してハリスを驚かせることになります。ここにわが国幕末期の経済を大混乱に陥れる馬鹿馬鹿しい規定が誕生することになるのです。 B 領事裁判権 この条約が不平等条約とされる最大のポイントは第6条にあります。すなわちアメリカ人のおかした刑事事件については米国領事に裁判権があり、また、民事事件についても領事に裁判権がある、というのです。これについては、典型的な治外法権とは規定の仕方が違っているため、治外法権を認めたわけではない、と岩瀬忠震を擁護する説もあります。が、ハリス自身が「第6条は日本にあるすべてのアメリカ人に治外法権を設定したものである」と述べていますから、その説は妥当しません。これは下田条約にあったものですから、岩瀬忠震・井上清直両人とも全く問題にせず、承認しています。 C 関税自主権 今ひとつの不平等条約の柱が関税率の自主決定権の否定です。第4条は、輸出入品は所定の関税を日本政府に納めると定めているだけです。が、条約付属の「貿易章程Trade Regulation」では、輸出税はすべて5%とされました。ハリスは密貿易を助長するとして輸出については無税を主張したのですが、幕府の持つ歳入確保の強い要求から、一律課税という線で妥結したのです。 輸入税については、日本側が一律12.5%を主張したのに対して、ハリスは無税も含めて4段階に区分することを主張し、彼の主張が通りました。すなわち、日本に居住するアメリカ人に欠かすことのできない家具や書籍については無税としました。5%の税率の対象品は、日本にとり必需品と認識されたものです。すなわち船舶、捕鯨用品、米国、石炭、蒸気機械等がこれに当たります。最高税率の35%の対象品は、なくとも良い贅沢品と認識されたものです。これに当たるのは酒類だけです。必需品と贅沢品のどちらにも属さないものが、20%関税の対象品とされたのです。 このように、この税率の違いは日本の利益を考えて決められたような印象を与えます。しかし、ハリスの本音によれば、「米国の貿易は5%の関税にとどまるのに対して、日本政府に多額の関税収入を提供するため、英国の製品については20%に、フランスの葡萄酒については35%」にするという形で決めた、というものであるようです。 要するに、ハリスは、日本から米国への輸出を重視し、日本への米国からの輸入は、念頭に置いていなかったということです。当時、米国の極東貿易は、茶を中心とする米国への輸出にあったので、その輸出関税率を低く押さえようとしたのです。それに対して、米国の国内製造業は未だ国内需要を満たすほどにもなっておらず、従って日本の国内市場を販路として欲していなかったということが判ります。そこで、日本を販路として希望しそうな英仏の邪魔をすることだけを狙って、一般輸入品については、かなりの高率関税率を定めておいたというわけです。 D 開港・開市場 交渉に当たり、もっとも問題になったのは第3条でした。すなわち、開港場及び開市場を定めた規定です。日本側としては現状にとどめたかったのに対して、ハリスとしてはこれこそが自由貿易の眼目ですから、大幅に拡大したかったのです。ハリス自身の表現によれば、条約のセバストポリSebastopol of Treatyと呼ぶほどにハリスはこれを重視していました。セバストポリというのはクリミヤ半島の要衝の地にある要塞で、クリミヤ戦争の激戦地となったところです。 激論の末、結局、開港場として、日米和親条約で承認済みの下田、函館のほかに、神奈川、長崎、新潟、兵庫の4港を追加し、開市場として江戸及び大阪を承認するという形で決着が付きました。 このうち、長崎は昔からの開港場で問題がないので、神奈川とともに、最初に開港されることとされました。すなわち、西暦1859年7月4日です。これは日本歴では安政6年6月5日に相当します。条約正文では西暦で定めており、日本の年号は入っていません。ハリスがいかに優位的に条約交渉をしたのかが良く判ります。なお、下田は、神奈川の最寄りにあるということから、神奈川の開港後半年で閉鎖されることになりました。 又、新潟も、実質的には外国との密貿易拠点として栄えていたため幕府の直轄地とされた町だったのであまり問題はないことから、神奈川・長崎開港の約半年後の西暦1860年1月1日から、開港することとしました。江戸の開市場は、1862年1月1日からとされました。 これに対して、兵庫及び大阪は、京都に対して至近距離にあるため、朝廷に対する説得の時間を確保するため、いずれも1863年1月1日からとされました。実際、朝廷が大変な拒絶反応を示した事で、後に大問題になりました。 E 輸出入品価格決定権 このように、ほとんどの条項で、岩瀬達は不利な条文を飲まされています。これに対して、岩瀬達が勝ち得た最大の勝利は、輸出入品の価格決定権は日本側にあるとされた点です。すなわち、日本の税官吏が荷主の付けた価格に同意しないときは、税官吏自らそれに値を付け、その品物の買い入れを申し込むことができ、もし荷主がこれを拒むときは、荷主は税官吏の付けた価格に従って関税を納付することと決められたのです。 * * * ハリスと、岩瀬忠震=井上清直の交渉は合計14回に及びました。年も押し詰まった12月25日になってようやく条約案が完成しました。 (5) 条約勅許問題 日米修好通商条約案の完成に先行して、12月15日付で、堀田正睦は次のような台命(たいめい=将軍の命令)を発しました。 「今日世界の形成は戦国七雄の姿なり、古来の制度に拘泥しては御国勢挽回の期なきを以て、非常の功を非常の時に望み、国威を拡張するの機会を得んと欲し、鎖国の制度を一変せしめんとの思し召しなれども、御国内人心の折り合い方もこれあり、今日のご処置の当否は国家治乱の境なれば、心づき候儀は早速に申し上ぐるべし」 前半は、要するにこの際鎖国を廃止するという単純明快な決断を示しています。ところが、後半に来て、腰砕けになり、諸侯に意見の具申を求めています。このあたり、阿部正弘と同じく、八方美人路線が依然として健在のようです。というより、阿部正弘の八方美人路線がこの時期においては既成事実化し、その後継者としては、いやでもその路線を踏襲せねばならないところがあったようです。 しかし、このように従来の方針を一変し、しかもその本音は、貿易利潤は諸侯には与えず、幕府が独占することにより、幕府だけが財政回復をしようというものなのですから、諸侯の賛同を得られるわけがありません。このようなものは、後の井伊大老のように、頭ごなしに申し渡し、抵抗するものは弾圧する外はないものなのです。 案の定、条約締結に対する批難が囂々と巻き起こりました。もっとも、例によって本質を捉えた反対意見ではなく、攘夷思想に基づくものや、外国人は切支丹の魔法を使うと考えるもの、和議を是といえば、怯懦と嗤われるのではないかという怯懦からのものなど様々ですが、とにかく賛成論は諸侯からほとんどでてきませんでした。わずかな例外は、松平慶永や島津斉彬など、四賢公といわれる人たちだけでした。 さらに、水戸家がお家芸の朝廷工作を猛然と展開して、京都の公家達を扇動しているというので、堀田正睦達幕閣の首脳部はすっかり頭を抱えてしまいました。このまま放置しておいたならば、先に行って京都からあれこれ口を入れられるかもしれない、それよりはこちらから先に上奏して同意を求めるのが一番、という結論になり、軽率にも調印伺いを行おうということになりました。 そこでまず林大学頭などを派遣して報告しようとします。ところが、「条約は日本の安危に関わる大事なるに、幕府が林の如き小吏を以て勅許を請わしめたるは、朝廷を軽んじ奉るの所為なり」と逆に大変な反発を受けてしまいます。 そこで、翌年2月、堀田正睦は、川路聖謨や岩瀬忠震を伴って上京し、9日に参内して日米通商条約草案を示し、また、将軍家定より孝明天皇宛に黄金50枚を奉呈し、これで勅許が得られると考えていました。 これは決して甘い考えではありません。幕府が、原則として将軍が表にでて政治をすることはなく、老中に任されているのと同じように、朝廷では天皇が表に立って意思表示をすることはなく、五摂家(近衛家、鷹司(たかつかさ)家、九条家、二条家、一条家)が摂政なり関白なりの地位にあって、朝廷の意思を決定していたのです。朝廷の方が伝統が古いだけに、この原則はより強く遵守されていました。そして太閤鷹司正通(まさみち)も関白九条尚忠(ひさただ)も、世界の情勢が一変している以上、通商条約の調印はやむを得ない、と考えていました。ですから、普通ならすんなりと勅許は降りたはずなのです。 ところが、ここで大変な逆転劇が起こりました。孝明天皇自身が、数百年の伝統を破って口を開き、条約への反対を唱えたのです。 なぜ孝明天皇が反対したのか、その理由は今日に至るも判っていません。一説によると、孝明天皇の血筋は天皇家の中でも傍流に属し、歴代天皇に比して弱い立場にあったことから、発言権確保の機会を狙っていたのだといわれます。理由はともあれ、天皇は猛然と条約反対を唱えます。 しかし、実力者である九条関白は、天皇の反対を黙殺して、規定方針通り勅許を下そうとしました。これに対し、天皇は五摂家を飛び越えて直接下級公家と結びつき、反対運動を展開しました。天皇の意思がこのように外部に漏れ出てしまっては五摂家といえども打つ手はありません。この結果、23日になってでた勅は、御三家以下の諸侯の意見を得てから改めて勅許を請えという内容のものとなりました。 御三家の一つ、水戸家が開国に大反対であることは判り切っており、また、先に述べたとおり、諸侯に賛成意見がないこともまた既に判っています。したがって、これは不許可というのに等しいわけです。そうした状況に対する起死回生の一手として勅許を得ようとしたのに、それが完全に裏目とでたわけです。 川路聖謨は、以前に奈良奉行をしていましたし、また、勘定奉行として、嘉永6(1854)年4月に皇居が焼けた際の修復工事を手がけていましたから、それらの時に培った人脈を生かして奔走を始めました。わずか20日ほどの間に数万両の小判をばらまいたといいます。しかし、3月11日になって天皇と結びついた88名の下級公家が、条約反対のデモ行進をするに及び、断念して、江戸に帰らざるを得なくなりました。なお、この88名の下級公家の一人に岩倉具視がいます。彼が歴史の上に登場してきた最初の機会でした。 3. 養君擁立問題 (1) 養君擁立の必要性 話が少々過去に遡ります。ペリー来航の直後に将軍家慶が死去し、それに伴い家定が将軍位についたことは前章に述べました。問題は、この家定が、およそ暗愚で、ものの役に立たないことです。普通の時代であれば、暗愚で何もしない将軍はよい将軍とされます。老中が補佐すると称して自在に政治を司ることができるからです。 しかしながら、なにぶん非常事態です。老中が処理するにも限度があります。誰が考えても、強力な将軍が出現して、リーダーシップを取ってもらわなくては幕府が崩壊しかねないことは判り切っています。幸い?家定は暗愚なだけでなく、病弱で、しかも、男性機能そのものに問題があるので、将来ともに子供ができないことは、当時既に広く知れ渡っていました。つまり、普通であれば廃嫡されて不思議ではなかった人物なのです。 それが廃嫡されなかったのは、ひとえに彼の他に家慶の血を引く男子がいなかったからでした。家慶には実に14男13女があったのですが、皆早くに病死し、男子で成人するまで生き延びたのは、この家定一人だけだったのです。 A 養君の候補者達 家定の将軍就任直後から、以上のような事情から、養君、つまり養子を早く家定に取らねばならない、という議論が巻き起こります。幕府の法律によれば、養君なりうるのは御三卿及び御三家の当主だけです。この当時清水家は当主がいませんでしたから、候補は5人でした。 日米通商条約に対する勅許が得られなかった安政5(1858)年時点で年齢順に見ると、尾張慶恕(よしくみ)35歳、田安慶頼(よしより)31歳、水戸慶篤(よしあつ)27歳、一橋慶喜(よしのぶ)22歳、紀伊慶福(よしとみ)13歳です。皆「慶」の字がついているのは、将軍家慶のいみなを一字拝領しているためです。 このうち、尾張慶恕は、養父となるべき家定と同い年ですから、養君とするのには少々無理があります。田安慶頼は、実の兄の松平慶永が「俗中のもっとも俗人というべきなり」と酷評するような人物ですから、およそ支持者がありません。同じく、水戸慶篤は、実の父の斉昭が暗愚扱いしているのですから、やはり支持者がいません。 したがって、養君候補と目されたのは、水戸斉昭の息子、一橋慶喜(よしのぶ)と、紀州家の当主徳川慶福(よしとみ)の二人だけ、ということになります。 B 一橋慶喜と徳川慶福の優劣 一橋家には、かつて、田沼意次を失脚させ、ついで松平定信を辞任に追い込んだ一橋治済(はるさだ)という怪物がいました。彼は、将軍家斉を筆頭に、各方面に自分の子供を送り込み、徳川一門を事実上自分の子供や孫だけで支配するほどの勢いを示していたことは、江戸財政改革史でも紹介しました。 しかし、一橋宗家そのものは、その孫の代で絶えます。そこで、そこで田安家から治済の傍系の孫を養子を迎えますが、やはり継嗣に恵まれません。そこで将軍家慶の五男初之丞が跡を継ぎます。家慶自身が治済の孫ですから、これは治済の曾孫ということになります。 なお、この初之丞に、幼き日の勝義邦(海舟)が小姓として仕えました。しかし、初之丞もまたわずか14歳で早世します。このことについて勝海舟は、晩年、俺は青雲の階梯を踏み外した、と言ったそうです。 そこで、一橋家では、さらに再び田安家や、さらに紀州家から治済に血のつながる子供を養子に取りますが、いずれも皆早世し、明け御屋形(あけおやかた=当主不在の意味)となってしまいました。 将軍家慶は、自分の嫡男の家定が暗愚で将軍職がつとまる器ではなく、したがって自分が死ねば、早晩養君の問題が起こることは、十分に承知していました。その場合、治済以来、事実上御三卿の筆頭の地位にある一橋家は重大ですから、明け御屋形となっているのは好ましくないと考えました。 そこで、治済の血統にこだわらずに徳川一門を見回した場合、その時点では、養子に出せるほどの子福者は水戸斉昭しかいませんでした。そして、その子供の中でもっとも器量が大きいと評判なのが、七男の慶喜でした。斉昭としては、暗愚な当主慶篤に何かあった場合の世継ぎ候補として慶喜を考えていましたから、降るようにあった養子の話を断って水戸家に残しておいたのです。 そこで、家慶は将軍家尊慮という形で斉昭の抵抗を排除し、一橋家を継がせたのです。弘化4(1847)年8月のことです。つまり、斉昭は部分復権はしたものの、本格復権は認められていなかった時点のことです。慶喜は、家慶に非常にかわいがられ、彼の存命中は事実上将軍後嗣扱いされていました。 今一人の候補者である紀州家当主徳川慶福(よしとみ)は将軍家斉の実の孫であり、したがって家慶からみれば血の繋がった従兄弟です。すなわち家斉の子斉順(なりより)は、いったん清水家を継ぎ、その後紀州家に養子に入っていますが、慶福は、その斉順の子供なのです。 将軍家の後継者は、建前としては、まず御三卿から出し、御三卿に人がいない場合には御三家から出すということになっています。したがって、このルールに従えば一橋慶喜が一番有利です。 他方、徳川宗家との血の近さという点からいえば家康まで10数代も遡らなければ、将軍家と血縁が繋がらない一橋慶喜よりも、実の従兄弟である紀伊慶福の方が、はるかに有利ということになります。つまり、家格対血筋の争いです。 (2) 養君擁立を巡る派閥抗争 不幸なことに、養君問題は、単なる後継者争いの域を超えた政治問題になってしまい、二派に分かれての激しい争いを引き起こしてしまいました。その派閥は、慶喜を支持するのが一橋派、慶福を支持するのが紀州派と呼ばれました。 A 一橋派 養君問題について、最初に動き出したのは松平慶永です。彼は一橋慶喜が人物と見て、1856年の時点で既に、その擁立に向けて運動を開始します。彼の盟友島津斉彬もこれに賛同し、慶喜の父斉昭も異存のあるはずはありません。すなわち、従来、阿部正弘を支援してきた有力諸侯が、今回は慶喜を支持するという形で運動が展開されることになります。尾張家も、御三家や有力諸侯に政治的発言権が認められる方が、自家にとってもよいと考えて、これに同調しました。つまり、御三家が、紀州家と水戸・尾張連合に分かれて対立することになったわけです。 有力諸侯達が慶喜を押す場合のキャッチフレーズは、「英明、年長、人望」の三点です。すなわち、非常の場合であるので、幼年の養君は好ましくない、十分な判断力があり人望のある成長した養君が好ましい、というものです。つまり、この派の場合、家定の養君というのは名ばかりで、それが決まれば、家定には圧力をかけてすぐに隠居をさせ、新将軍に切り替えようという話であることは明々白々といえます。 しかし、こうした支持勢力は、慶喜から見ればはっきり言って迷惑といえるでしょう。リーダーシップのとれる強力な将軍家は、当然独裁をするべきなのです。それなのに、このような諸侯の支持の上に立って将軍位についた場合には、将軍の権力を大幅に削減する雄藩連合の形で政局を運営せざるを得ないからです。 かなり後のことになりますが、慶喜は酒に酔った上で、松平慶永、島津久光、それに宇和島藩主伊達宗城という彼の大事な支持者達に対し、面と向かって、天下の大愚物、大奸物と悪罵を放って、彼らを激怒させています。いかに慶喜が、彼らに擁立されるのを嫌っていたのかが判ると思います。そこで、慶喜本人は、この時期、再三にわたって後嗣辞退を幕閣に申し出ています。 B 紀州派 この問題に対する将軍家定の意見は単純です。慶喜は嫌いだ、慶福は我が子のようでかわいい、というのです。家定は先に述べたように1824年生まれ。これに対して一橋慶喜は1837年生まれですから、一回りほど慶喜の方が若いことになりますが、既に立派な青年です。家定がいくら暗愚でも、慶喜が養君ということになれば、あっという間に自分は引退させられるということくらいは理解できます。これに対して、慶福は1846年生まれですから、家定とは二回り近く違い、親子といっても不自然でない年齢差です。かわいいというのは本音でしょう。 幕閣も紀伊慶福支持でほぼ固まっています。水戸斉昭と衝突して、阿部正弘から老中を罷免された松平忠固を、堀田正睦は、阿部正弘が死亡するとさっそく老中に復帰させ、勝手係、すなわち大蔵大臣に就任させています。忠固が、斉昭の子、慶喜を支持するわけがありません。堀田正睦もやはり斉昭は嫌いですから、同意見です。 溜まりの間においても、その最有力者、井伊直弼は徹底した血統主義者ですから、家斉の実の孫の慶福を是と考えるのは当然です。 また、徳川家の政治ファクターにおける隠れた大勢力である大奥では、この当時は家定の生母が君臨していました。彼女は、母親として当然の事ながら、実の孫の生まれるのを期待していましたから、養子を取ることには好意的ではありません。ましてや慶喜のように、息子家定の引退含みの養子には絶対に反対でした。 島津斉彬は娘の篤子を通じて大奥工作を試みます。家定没後に出家して天璋院と号するようになった彼女は、姑として、嫁の皇女和宮をいびり抜いて勇名をはせます。が、この時点では、処女妻にすぎない彼女に、大奥の状況を左右するほどの力はありませんでした。 結局、幕府内部における一橋慶喜擁立派の支持勢力は、阿部正弘が抜擢した川路聖謨や岩瀬忠震らのエリート官僚達だけでした。彼らは、日々現場で困難な対外交渉に当たっているのですから、こうした時代におけるリーダーシップの欠如による被害を誰より痛切に受けていました。ですから、わずか13歳の子供の将軍ではなく、22歳の青年の将軍を望んだのも無理はありません。しかし、この時点では、まだ彼らの意見は、幕閣を動かすほどの力はありませんでした。 したがって、普通であれば、すんなりと慶福に決まるはずです。そこで、一橋慶喜擁立派は、最後の手段を使うことにしました。すなわち詔勅を得て、慶喜を将軍にしようとはかり、彼ら得意の京都工作を展開します。しかし、彦根藩主井伊直弼の逆工作の前にその謀略は潰えました。 C 堀田正睦の寝返り ここで将軍後嗣問題にとんでもないどんでん返しが起こりかけます。前節に述べたとおり、堀田正睦は日米通商条約について勅許を得るために上京していましたが、3月11日の公家のデモに、あきらめて江戸に帰ることにしました。 ところが、この段階になって突然、堀田正睦が慶喜擁立派に宗旨替えをしたのです。理由は単純で、尊皇攘夷で知られる水戸家の御曹司を将軍にし、また一橋慶喜擁立派の重鎮、松平慶永を大老ということにすれば、朝廷も軟化し、条約に対して勅許が得られるのではないか、と考えたからです。おそらく、対朝廷工作の中で、そのような印象を与えられたのでしょう。江戸帰着の二日後、堀田正睦は家定に謁して、慶永を大老に就任させることを進言します。 しかし、これは手遅れでした。堀田正睦のいない間に、紀州派は、一橋派の京都での暗躍を察知し、堀田正睦の寝返りを予想して対策を講じていました。それが伊直弼の大老就任です。これについて既に家定の了解を取っていました。したがって、家定は、堀田正睦の言上を、大老になるのは、井伊家に決まっている、と一言ではねつけます。そして、その翌日、井伊直弼を正式に大老に就任させました。その結果、将軍後嗣は紀伊慶福ということに自動的に決まってしまいました。 堀田正睦はその後、少しの間、老中の座にとどまります。しかし、井伊直弼は、この年6月19日に勅許がとれないままに、日米通商条約調印を断行しました。その上で、勅許を得ずに条約を調印した責任者という形で、堀田正睦と松平忠固二人は、同月22日に登城停止の処分を与えられます。そして、翌23日には老中職を罷免され、蟄居を命じられました。これは、彼らのどちらにとっても、二度目の失脚というわけです。 しかし、堀田正睦の真の失脚原因は、将軍後嗣問題に当たって、紀州派から一橋派に寝返ったことにあるといわれています。その意味では忠固の失脚は、堀田正睦の巻き添えということもできるでしょう。 堀田正睦は、そのまま二度と世に出ることなく、失意のうちに元治元(1864)年に死去することになります。 4. 堀田正睦の財政 ここで本稿としての問題は、堀田正睦は、彼が責任者であった時代の財政をどのようにやりくりしていたか、という点です。彼の時代の財政の全体規模については判っていませんから、どこにどれだけ使用したのか自体が判りません。 しかし、台場工事にも着工していましたし、対朝廷工作にも相当の費用がかかっていますから、阿部正弘時代に比べると、かなりの程度歳出規模が拡大していることは確実です。しかし、現実にどの程度の歳出規模であったかということは判りません。 とにかく、これまでにない新たな支出要因が存在している以上、何らかの形でそれを賄わなければなりません。先に述べたように、輸出入両面にわたっての関税賦課を、岩瀬達がハリスの反対にも関わらずがんばり抜いたのは、まさにそれを意識してのことと思われます。 しかし、これ以外の点については、特段の新規歳入手段は講じていません。各地の豪農や商人、特に大阪地方の豪商に、臨時の上納金を命じた事は判っています。だが、それが全体でどの程度の歳入額になっていたのかについても資料が不十分で、全く判りません。 第3章 井伊直弼と安政の大獄 1. 井伊直弼の登場
(1) 譜代の棟梁 武田信玄軍団の最精鋭部隊は、赤備え(あかぞなえ)と称して、鎧や甲を赤く染めていたため、戦場で非常に目立ちました。徳川家康は、武田氏滅亡後、この赤備えを使用することを、井伊直正(なおまさ)の部隊に許しました。とりもなおさず、井伊軍団に対して、徳川軍の最精鋭部隊であるというお墨付きを与えたに等しいことです。事実、その後、井伊の赤備えは、その精強ぶりを敵味方双方に畏怖されることになります。井伊直正は、関ヶ原の合戦に大功をあげ、明智光秀の拠点であった近江(滋賀県)佐和山18万石の大名となりました。 その子直孝も大阪夏の陣の際に、木村重成(しげなり)=長宗我部盛近(ちょうそかべ・もりちか)の連合軍を撃破し、豊臣秀頼母子を自害に追い込むという大功をたて、近江彦根20万石の領主になりました。家光は、さらに5万石を加増して計25万石とし、彼を大老(たいろう)に迎えて幕政全体にわたって睨みを利かせるようにしました。 この25万石という石高は譜代大名の中で最大の石高であったため、井伊家は、以後、「譜代の棟梁」と呼ばれるようになります。井伊家に対してはその後も再三加増があり、最大時には35万石となりました。 大老というのは、徳川幕府では、老中の上席に立ち、幕政全体を統括する最高責任者です。が、常置の制度ではなく、特に問題が起きた時に限って置かれます。大老職に就けるのは井伊、酒井、土井、堀田の四氏に限られていました。特に井伊家の指定席的観があります。幕府存続中に9人が計10回大老に就任しましたが、そのうちの5人6回は井伊家からでていることから見ても、江戸幕府中における井伊家の家格の高さが判ると思います。もっとも、この家格の高さが災いして、井伊家は普通の老中には、なっていません(幕府の最初期に一人いるだけです)。大老になるか、溜まりの間に詰めて実質的に睨みを利かすというのが、井伊家の役割であったのです。 (2) 井伊直弼の前半生
直弼(なおすけ)は文化12(1815)年、井伊家11代藩主直中(なおなか)の14男として生まれました。上に13人も男子がいては、普通なら間違っても家督を継ぐことなどあり得ない地位です。しかも将軍家斉が子供を大量生産して、あちこちの家中にむりやり養子として押し込んでいた時代ですから、彼には養子の貰い手もありません。このため、わずか300俵の捨て扶持を与えられ、32歳まで部屋住みとして暮らしました。自邸に「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けていた、ということから、この時期の彼の絶望感が伝わってくるような気がします。 しかし、この間、彼は決して無為に暮らしていたのではありません。武道としては居合いや槍、学問としては禅や茶道、国学等を学び、いずれも一流の域に達したといいますから、非凡な資質を持つ人物であったことは確かです。特に、その国学の師となった人物が、井伊直弼の引き起こした安政の大獄で、井伊直弼の腹心として暗躍することになる長野主膳です。 彼が32歳の時、ようやく幸運が巡ってきました。藩主である長兄直亮(なおあき)の子が死亡し、この時には他の兄たちも様々な理由からいなくなっていたため、代わって世継の地位につくことができたのです。さらに嘉永3(1850)年、彼が36歳の時、直亮が死亡したため、ついに彦根藩主の地位についたのです。 (3) 大老就任
井伊家は東海道の要衝彦根を押さえ、特に至近距離にある京都に睨みを利かす位置にあります。しかし、それだけに尊皇思想に染まりやすいといえます。特に直弼は、国学を学んだだけに、その精神的バックボーンには尊皇思想があったことは間違いありません。 それと同時に、譜代の棟梁として幕府至上主義でもありました。そして、溜りの間詰めの譜代大名として幕府の財政事情の厳しさを知っていただけに、開国して貿易利潤を幕府が独占する必要性も理解していました。 彼は、溜りの間を代表して、阿部正弘の路線を、有力諸侯に迎合するものとして厳しく批判し、阿部正弘に代わって堀田正睦を老中首座に押し上げるのに成功しました。 その後に大きな政争となった家定の後嗣問題に当たっては、血統主義の立場から紀伊慶福(よしとみ)を支持し、一橋慶喜を支持する松平慶永や島津斉彬と対立しました。この戦いは、前章で述べたとおり、将軍、大奥、幕閣、溜まりの間、とすべての政治勢力が紀伊慶福を支持した結果、早い段階から圧倒的に紀州派に有利でした。 そこで、一橋慶喜擁立派では、最後の切り札として詔勅を得るべく、松平慶永が腹心の橋本左内を、また島津斉彬がやはり腹心の西郷吉之助(後の隆盛)を京都に送り込んで対朝廷工作を行いました。直弼は、これを察知すると、彼の腹心である長野主膳を送り込んで対抗策を講じました。一橋派の工作は、一時は成功して、詔勅案に明確に慶喜擁立派のスローガンである「英明・年長・人望」の三語を書かせることができました。が、彦根を拠点にしているため、京都の内情に詳しい井伊家の底力はすさまじく、長野主膳は、最終稿の段階で、関白九条尚忠(ひさただ)に、その問題となる文言を削除させることに成功し、その結果、将軍継嗣に関する勅書は曖昧なものになりました。 また、条約に対する勅許を得るのに失敗した堀田正睦の意見が慶喜擁立に変化したのを素早く察知し、彼が江戸に戻る直前に、直弼自らが大老の地位につくように将軍家定の説得を行い、成功しています。こうして、安政5(1858)年4月23日、直弼は大老に就任し、幕府建て直しのため、その強権を振るい始めるのです。 2. 条約の締結
大老に就任すると、まず彼は、将軍後嗣を正式に紀伊慶福と決定し、5月1日に家定に正式承認させます。それに伴い、先例にしたがい朝廷にその承認を請うています。 また、日米通商条約については、堀田正睦にハリスと再交渉をさせ、7月27日までの時間を得ます。そこで、その時間的余裕を利用して改めて朝廷から勅許を得ようとしたのです。 (1) アロー戦争と条約の調印
6月13日、米国蒸気フリゲート艦ミシシッピ号が浦賀に入港してきて、アロー戦争で清国が破れた結果、英仏と清国の間で天津条約が締結されたことをハリスに伝えてきました。 アロー戦争というのは、イギリス商船アロー号の中国人船員を清国当局が逮捕したことを口実として、英国とフランスが清国を相手に始めた侵略戦争で、第二次アヘン戦争とも呼ばれます。その結果締結された天津条約が、清国の主権を蹂躙した非常に不平等なものであることは、言うまでもないことです。 さらに、その余勢を駆って、英国からエルジン伯爵が、またフランスからはグロ男爵がそれぞれ全権大使として、艦隊を率いて日本に来航し、清国との間に結んだ天津条約と同様の内容の条約を日本に強要しようとしているというのです。偶然、その6月16日にプチャーチンが座乗するロシアの軍艦アスコルド号が下田に入港し、この情報の真実性を裏書きしました。 その前日の6月15日にポーハタン号が入港し、この時点における米国司令長官タトノールが座乗していました。先に紹介したとおり、このポーハタン号というのは、ペリーの2回目の来航時の旗艦だった船で、2415トンあり、当時としては世界最大、最強といえる艦の一つでした。つまりこの時点で、米国の強力な蒸気軍艦2隻が偶然浦賀に集中し、しかもそれを動かす権限を持つ人物が搭乗して来ていたわけです。ペリーの来航以来、最大の米海軍勢力をハリスは持ったことになります。 極東におけるこの新事態こそ、条約調印に向けて日本の情勢を動かす好機と見て取ったハリスは、ポーハタン号に自ら搭乗し、江戸湾を神奈川沖まで侵入して堀田正睦と連絡を取りました。このような大型艦に神奈川沖まで侵入されては、幕府としてはかなりの威圧感を覚えざるを得ません。 この結果、ハリスに言わせると、「日本政府は初めて敏速に行動した」のです。すなわち、交渉担当者の岩瀬忠震と井上清直の二人は、取るものもとりあえず咸臨丸に飛び乗って神奈川沖に駆けつけ、17日の深夜、ポーハタン号に乗船し、ハリスに面会しました。ハリスは、数十隻からなる英仏の連合艦隊が来航中であり、時間はきわめて切迫していると説きます。また、日米条約が締結されていれば、米国は日本のために友好的調停者として行動するであろう事を誓約するというのです。これに説き伏せられた岩瀬達は、引き返して堀田正睦の説得に成功し、この問題は閣議にかけられることになります。夜を徹して続けられた閣議は紛糾しました。が、堀田正睦、松平忠固の二人が即時条約断行論を唱えたため、井伊直弼もどうしてもやむを得ないのであれば無勅許調印をしてもよいという決断を下し、将軍の裁可を仰ぎました。 岩瀬と井上がポーハタン号に戻ってきたのは、6月19日の正午過ぎでした。彼らは井伊直弼の命に反して、調印延期の可能性について全く交渉することなく、直ちに調印することとしました。この命令違反に対して井伊直弼の持った不快感が、後に岩瀬忠震らに大きな悲運を招く原因の一つとなります。 そこでポーハタン号上に調印場が作られ、両国政府代表が日米通商条約の調印を行いました。ポーハタン号からこれを祝って放たれた21発の祝砲が、江戸湾に殷々ととどろき渡りました。この瞬間に、幕末は、新しい段階を迎えたわけです。 (2) 一橋派の弾圧
井伊直弼は、6月22日に諸大名に総登城を命じて条約調印を発表しました。同時に、閣議の席で条約の即時調印を主張した堀田正睦、松平忠固の二人を、違勅調印を理由として老中から罷免することで、一橋派の攻撃の矛先を交わそうとしました。自分も、その決定に最終的に同意したことは、井伊直弼の、自分に都合のいい記憶からは抜け落ちていたのでしょうか。 A 一橋派の一斉不時登城 一橋慶喜は、これに対して、純然たる尊皇論者の立場から、翌23日、登城し、違勅調印について直弼を責め立てました。 他方、政治闘争で一敗地にまみれた一橋派では、今後の打開策について検討しました。松平慶永を始め、彼らの中には開国主義者も多いのです。が、この違勅調印に井伊内閣の弱点があると見て、ここを攻めれば倒閣できるのではないか、と考えました。 そこで翌24日、本来の登城日でもないのに一斉登城を決行し(これを当時の言葉で「不時登城」といいました。)、直弼を責め立てました。今流に言えば、労働組合員が勤務時間外に出勤して管理職を吊し上げるようなことをやったわけです。ただしこの場合は、吊し上げをした水戸斉昭・慶篤親子や尾張慶恕、松平慶永の方が、吊し上げられた井伊直弼より家格が上なので、井伊直弼はひたすら平身低頭するしかない、というまことに辛い状態でした。 勢い込んだ一橋派では、翌25日にも不時登城を決行し、さらに吊し上げを続行しようとしました。しかし、井伊直弼は、彼らに、将軍後嗣が、朝廷の承認を受けて、紀伊慶福に正式に決まったことを発表することで、その出端をくじきました。 B 直弼の反撃 吊し上げを受けて怒り心頭に発した井伊直弼は、7月5日になって反撃に転じます。水戸斉昭に「急度慎(きっとつつしみ)」、尾張慶恕と松平慶永に「隠居・急度慎」、一橋慶喜及び水戸慶篤に「登城停止」をそれぞれ命じたのです。松平慶永は隠居に伴い春嶽と号する事になります。この号はよく知られているので、本稿でも、以後、彼のことは春嶽と呼ぶことにします。 なお、家定はその直後、1858(安政5)年7月6日にわずか35歳で死亡します。脚気衝心(かっけしょうしん)、すなわち今日の言葉でいうところの心臓脚気が死因ということです。これにより、紀伊慶福が、その名を家茂(いえもち)と改め14代将軍となりました。ただし、井伊直弼は、次に述べるような一連の新規施策をする都合上、この段階で家定の死を公表することができず、その死の正式発表は1ヶ月後の8月8日となりました。 3. 安政の五カ国条約締結 (1) 専任外交機関の設立 井伊直弼は、日米条約交渉を通じて、外交を担当する専門の機関を設立する必要性を痛感しました。そこで、まず閣内に、外国御用係老中を設けました。今日の外務大臣に相当する職と考えればよいでしょう。 これまで、綱吉の改革以来、今日の大蔵大臣に相当する勝手係老中がいたことは紹介してきましたが、それを除けば、初めての専従制を導入したわけです。初代の外国御用係には、太田資始、間部詮勝、脇坂安宅(やすおり)、久世広周(くぜ・ひろちか)の4老中が任命されました。 これに対応する形で幕府は安政5(1858)年7月8日に外国奉行の職を設けます。すなわち外務省を設置したわけです。外国奉行は今でいえば外務事務次官に相当します。初代奉行として水野忠徳、永井尚志、岩瀬忠震、井上清直、堀利煕(としひろ)の五名を任命します。ただし、このうち井上清直は、従来どおり下田奉行を、また堀利煕は函館奉行をそれぞれ兼任することとされました。むしろそれら開港地で外国人と折衝するにあたり、外国奉行の肩書きを与えたと言っていいでしょう。したがって実質的には、水野、永井、岩瀬の3人が初代奉行として活動することになります。 この職は、高2000石とされましたから、高3000石の勘定奉行等に比べると少し低い職ですが、高1000石の普通の遠国奉行に比べると、ぐっと重職というところです。実をいえば、水野忠徳も勘定奉行経験者ですし、永井尚志に至っては、直接勘定奉行から外国奉行に配置転換されています。したがって、彼らにとっては、形式的には左遷気味のところがあります。が、むしろこの段階では適材適所が貫かれたと見るべきでしょう。それと処遇がかみ合わないのは、過渡期にはやむを得ないところです。外国奉行設置に伴い、海防係は廃止されました。 なお、これまで長いこと勘定奉行兼海防係として対外交渉の第一線で活躍してきた川路聖謨は、井伊直弼の大老就任に反対してその逆鱗に触れて、これに先立つ5月6日に、既に西の丸留守居役に左遷されていたため、この人事から漏れています。この川路聖謨の左遷は、後に安政の大獄の一環として吹き荒れる人事粛正の嵐の、前触れともいうべきものです。 (2) 対英交渉 この7月に、オランダ、ロシア及び英国の大使が、いずれも通商条約の締結を求めて江戸に入ってきました。水野忠徳達は、まずオランダ、ロシアと交渉して、米国と同一条件での条約を調印しました。オランダは日本との長い交渉がありますから、基本的に日本に同情的です。またロシアはまだ資本主義が未発達でしたから、日本との通商に強い要求をもっていなかったのです。そこで日本としてはいずれも交渉のしやすい相手だったわけです。 その後で、やおら英国大使のエルジン伯爵との交渉に臨んだのです。英国の方では、ハリスが言ったとおり、6月に清国と天津条約を締結しており、本国政府は彼に、日本とも、天津条約と同一条件の条約を締結するように指示してきていました。しかし、水野らは米、蘭、露三国と同一条件の条約でなければ締結しないとがんばり、エルジンにそれを承知させて7月18日に、ほぼ同一の条件で日英条約を締結します。 実は、この時点においては、アジアで活動中の英国商人はともかく、英国政府そのものはまだ日本との交渉に切迫感をもっていなかったのです。そのため、エルジンはロンドン出発に当たり、次のような指示を受けていました。 「強硬手段を用いて日本に新条約を押しつけることは、女王陛下の政府の意図するところではありません。我々は日本の政府と国民の好意を得ることを望んでいるのです。」 この好意を象徴する行動として、日英条約が調印された18日に、エルジンは伴ってきた蒸気客船エンペラー号を日本に贈呈しています。日本名を蟠竜(ばんりょう)丸と呼ばれる船です。このような柔軟な対日姿勢が、やがて英国が米国に代わって対日列強外交の主導権を握るに至る原因をなすのですが、それは後のことです。 そういうわけで、この時点では、エルジンはそもそも無理押しする意思はなく、したがって、水野が力こぶを入れるほどの問題ではなかったというのが真相であったようです。そもそもエルジンは、日本側との通訳さえ用意せずに来ていました。だから、ハリスがヒュースケンを提供すると、喜んで受け入れたのです。そして、ハリスが粘り強い交渉により獲得していた不平等条約もまた喜んで受け入れたというわけです。 もっとも、細かく見ていくと、この日英条約は色々な点で日米修好通商条約に比べて、さらに英国に有利な内容になっています。エルジンの交渉技術の巧みさを示すものといえるでしょう。 第一に、天津条約にあったのと同じ、一方的な最恵国待遇の規定が、日英修好通商条約には入っていることが注目されます。後年、英国領事のパークスは、日本とオーストリアとの間の通商条約締結に大いに尽力をします。それは決して博愛的な行動ではなく、その条約の中に、甚だしい不平等規定を挿入し、それにより英国も同一の条件を獲得するためのものだったのです。 第二に、英国は、同国の主力輸出品である綿製品及び羊毛製品を5%関税にする事にも成功します。つまり、ここで簡単に幕府が譲ったことで、ハリスが日米条約の形で行った英国進出阻止の謀略は失敗に終わったわけです。 (3) 対仏交渉 遅れてきたフランスのグロ男爵も、ハリスの斡旋でほぼ同一の条約を承諾し、9月3日に調印します。ヒュースケンは、フランス語も流暢でしたので、その際にも通訳として活躍します。フランス代表のグロ男爵は、フランスワインを日本に輸出するために、アルコールにかけられる35%という高率関税を軽減するように交渉しましたが、これは失敗に終わりました。 これにより、いわゆる安政の五カ国条約がそろったことになります。 結論的に言えば、ハリスの6月17日における英仏の脅威を強調した言動は、いわゆるお為ごかしの恫喝でした。彼の語った脅威は実際には存在していませんでした。もし幕府が、彼の恫喝に負けずに、事前に獲得していた期限までに何らかの手段で朝廷の勅許を獲得していれば、その後の歴史の流れはかなり違っていたものと思われます。歴史でifを言っても無駄なことではありますが・・。 これらの条約は、明治にまで悪影響を及ぼした不平等条約でした。しかし、当時アジア諸国が欧米から押しつけられていた条約に比べると、遙かにわが国の主権を確保できたもので、その点では高く評価できます。実は、明治において不平等が云々されるに至る原因は、この時点での条約内容よりも、その後2回行われた条約の改悪による影響が大きいのです。それらについては後にお話しすることにしたいと思います。 この時外国奉行であった者たちは、阿部正弘に抜擢されて以来、多年にわたりわが国外交の第一線で苦労してきたわけですから、五カ国条約の調印が済んだときには感無量の思いだったことでしょう。しかし、実はこの時既に、このエリート官僚達の運命は、彼ら自身の預かり知らないところで暗転していたのです。 4. 安政の大獄 (1) 戊午の密勅 孝明天皇は、勅許もないのに幕府が調印を決行したということを聞き、激怒しました。そこで、井伊直弼に対して、無断条約調印の釈明を求める沙汰書を発し、それは安政5(1858)年7月6日に直弼の手元に届きます。それには、御三家並びに大老に対して、釈明のため、早々に上京するように命じていました。しかし、直弼は、三家は処分中であり、自分は政務多忙で、いずれも上京できない、と素っ気なく拒絶し、そのうちに使いの者が状況の上説明する予定である旨の返事を7月8日に送っただけでした。 閣内で調整した結果、外国係老中の一人である間部詮勝(まなべ・あきかつ)を、事情説明に上京させることにし、その旨を7月末になって京都に伝えています。間部詮勝は、その姓で判るとおり、家宣の時、側用人として異数の出世を遂げ、新井白石とともに正徳の治を主導した間部詮房の子孫です。この時は、越前鯖江5万石の城主で、罷免された堀田正睦の代わりとして、井伊直弼によって6月23日に老中に任命されたばかりでした。 この頃、政争に一敗した一橋派では、失地回復の手段として、再び朝廷カードを切ろうとしていました。まずその手始めに、井伊派である関白九条尚忠(ひさただ)を脅迫して辞職に追い込みました。そして、井伊直弼の素っ気ない態度にいよいよ怒り狂っている孝明天皇に近づき、8月8日にいわゆる戊午(ぼご)の密勅を発っさせる事に成功しました。戊午というのは、この年の干支です。この密勅の内容については、幕府に正式の記録がなく、写しと賞する文書がいくつか世の中に流布しました。しかし、大同小異ですので、そのうちの一つを、適宜現代語訳しつつ次に紹介します。 「この度、幕府諸有司から、宿次の奉書により、朝廷の許可なく仮条約に調印した旨申し来たった。右の通りならば、せっかく天朝より勅命を下した甲斐もなく、大樹公から京都に許可を求めに来た趣意も立たない。大樹公が賢明であるのに、幕府の有司はいったい何を考えているのかと(陛下は)不審に思われた。このようでは、外夷はさておき、国内の人心の折り合いにも影響して来るであろうと陛下はお心を悩ましていらっしゃる。その上、水戸前中納言、尾張、越前の諸侯も蟄居を命ぜられているという。どのような罪があったのかは知らないけれども、三家家門の儀は柳営の羽翼というべき大切な家筋であり、外夷入津・国事多難の日にあたり、このような状況では実に徳川家の盛衰に関わるので、陛下はお心を悩ましていらっしゃる。(したがって)三家、三卿、大老、閣老、国主、外様、譜代にて会議し、陛下のお心を安心させるような処置を執るようにと陛下は思し召されている。」 冒頭にでてくる「宿次」というのは、宿場ごとに手紙をリレーして送る飛脚のことで、当時としてはもっとも早い手紙の送り方です。「大樹公」とは将軍を、また、「柳営」とは幕府をそれぞれ意味します。括弧書きは原文にはありませんが、補った方が判り易いと考えて挿入したものです。 この勅書は、要するに、井伊直弼の一連の施策に対するあからさまな批判であり、また、水戸斉昭や島津斉彬の雄藩連合構想に対するお墨付きと言っていいものです。 しかも問題は、この密勅が、まず水戸家に下され、ついで幕府に下された点にあります。このため、幕府としてはその内容が諸大名に漏れるのを防ぐことができないのです。 このような密勅を周旋する行為は、当然の事ながら、禁中並びに公家諸法度をはじめとする幕府の法令の厳禁するところです。阿部正弘が、水戸斉昭の京都工作を暗黙のうちに認めて以来、その禁令にふれる行為が日常化してきて、ついにこのような密勅が下されるに至ったわけです。 (2) 間部詮勝上京 ここにいたって、井伊直弼は、幕法を厳正に適用することにより、京都を徹底的に粛正することを決意します。したがって、間部詮勝の使命は、単なる釈明旅行とは全く異なる色彩を持つに至りました。詮勝は「この度は天下分け目のご奉公と存じ、一命にかけ勤め候心得にござ候」と悲壮な覚悟をして京都に乗り込みます。 長い間、全く取り締まりがなかったため、水戸家の家臣をはじめとする勤王の志士たちの多くは全く無警戒でしたから、幕府としては違法活動の証拠を発見するのに苦労はしませんでした。 間部詮勝の上洛に先行して、まず京都所司代酒井忠義(ただあき)の手により、この密勅の首謀者である梅田雲浜(うんぴん)が、9月7日に逮捕されます。 さらに9月17日に間部詮勝が京都に入るとともに、京都と江戸にまたがる大量逮捕が開始されます。水戸藩では、家老安島帯刀(あじま・たてわき)以下20数名が逮捕され、越前藩では慶永の腹心橋本左内が逮捕され、さらに多数の公家の家臣が芋蔓式に検挙されるに至ります。また、薩摩の西郷吉之助も危うく捕まりそうになり、かろうじて逃走に成功しています。 詮勝は、こうして十分に公家を威嚇した上で、10月19日には親幕的な九条尚忠を再び関白に復職させ、24日には家茂に対する将軍宣下を実現しました。そして、この日、入洛後37日目にして初めて参内(さんだい)すると、条約を無許可調印した責任は、水戸斉昭らの陰謀にある、と人を喰った報告をしました。 その後も、儒者頼三樹三郎(らい・みきさぶろう=頼山陽の息子)を逮捕するなど、粛正を続行しました。その結果、12月31日には、条約調印はやむを得ざるところと「御氷解」したという天皇のお言葉をいただき、事実上、条約調印の勅許を獲得するのに成功したのです。 こうして逮捕された者達は、あるいは厳しい取り調べに耐えきれずに獄中で死亡し、生き延びたものも、切腹、死罪、遠島、追放その他の厳しい処罰を受けたことはよく知られているとおりです。 (3) 一橋派の再弾圧 この機会に、井伊直弼は、一橋派の徹底壊滅を計ることを決意し、安政6(1859)年2月に、一連の行政処分を下します。安政の大獄というと、上記の刑事罰の方が有名ですが、実は日本史的には、こちらの行政罰の方がはるかに重要です。刑事罰の対象者は小物であったのに対して、行政罰対象者は、この時点で現実に日本史を動かしていた大物ばかりだからです。 皇族では、青蓮院宮(せいれんいんのみや=後の中川宮)に対して御慎永蟄居が命じられます。永蟄居というのは一生家から出てはいけないというのですから、今日の言葉でいえば、自宅監禁という終身刑です。公家では、戊午の密勅に名を連ねた太閤鷹司政道(たかつかさ・まさみち)や前内大臣三条実万(さねむつ)、左大臣近衛忠煕(ただひろ)、右大臣鷹司輔煕(すけひろ)等が、辞官・落飾(らくしょく)・御慎の処分を受けました。落飾とは、出家することです。 また、大名では、尾張慶恕・堀田正睦等に対しては隠居・慎みが言い渡されました。 もっとも峻厳を極めたのが水戸家に対してで、主犯格の斉昭が水戸にて永蟄居、当主の水戸慶篤に対して御差控(おさしひかえ)、一橋慶喜に対して御隠居・御慎みという処分が下されたのです。水戸斉昭は、結局この命令に活動を封じられたまま、万延元(1860)年8月15日に病没することになります。享年61歳。死因は脚気衝心といわれます。 (4) エリート官僚達の弾圧 こうした政敵処罰は、先の刑事事件と直結していますから、理解可能です。が、井伊直弼は、さらにこの機会に、常識的には理解不可能な行動にでます。これまで彼の外交・内政の施策を忠実に実行してきたエリート官僚達に対して、一斉に処分を下したのです。 直弼から見た場合に、彼らの言動が一橋派と見えたからに他なりません。処分された理由は大きく分けて二つあります。 一つは13歳とまだ幼い家茂が将軍についたため、将軍そのもののリーダーシップは期待できなくなりました。そこで、官僚達は将軍に後見職を設け、それに一橋慶喜を当ててはどうかと井伊直弼に具申したのです。後見職を設けろという意見そのものは妥当ですし、挙国一致体制を作ろうと考えるならば、その職に慶喜を起用するのもまことに妥当です。 しかし、政敵を起用する意思は、直弼には、全くありませんでした。後見職には、結局、田安慶頼を就任させています。この人は、実兄の松平慶永が、俗人中の俗人で、最悪のおべっか使いと酷評した人物です。そのような人物を起用し、正論を具申してくる職務に忠実な官僚を処罰するというあたりに、井伊直弼の政治家としての器量の小ささを端的に見ることができます。 今ひとつは、遣米使節問題です。日米通商条約の調印の際、岩瀬忠震は、日本人に米国を見せることによって、条約締結に対して朝野に好ましい反応を引き起こすことが期待できるのではないかと考え、正式批准をワシントンでするのはどうかと、ハリスと交渉したのです。ハリスもそれは良いと積極的に賛同しました。 岩瀬忠震は、自らが全権大使となって米国に渡り、それと同時に幕府及び諸侯中の家臣で、気概識見のある人々をも使節団のメンバーに加え、直接に米国を見せれば大いに啓発されるであろうと考えたのです。より端的に言えば、条約の締結に反対しているような人物でも、実際に米国を見せれば意見が変わるだろうと考えたわけです。少し後のことになりますが、長州藩では攘夷派の伊藤俊輔(後の博文)や井上聞多(後の馨)等を英国に密航させて欧米の文化に触れさせることにより、攘夷論者から開国論者に豹変させるのに成功していますから、この考えは悪い考えではないのです。 しかし、諸侯中で、条約締結に反対している気概識見のある人といえば、この当時の状況下ではかなりの者が一橋派となります。したがって、これもまた、政敵を起用したり、便宜を図ったりするつもりなど、間違っても持っていない井伊直弼の逆鱗に触れることになりました。 処罰のされ方には、人により厳しさに差異があります。が、それは、こうした一橋派を利するような考えを、直接井伊直弼に意見具申に及んだ者は首謀者として厳しく処断され、単なる一味徒党と見なされた者が比較的軽かったという事から来る違いです。 水野忠徳は、前年9月に日仏条約に調印した直後、すなわち京都による粛正が始まると同時に既に罷免されています。 岩瀬忠震も同じく前年9月にいったん作事奉行に左遷されていました。が、結局この時改めて永蟄居が命ぜられます。彼は、文久元(1861)年、失意のうちにわずか44歳で死亡することになります。死因は脚気衝心といわれます。 永井尚志は、この時いったんは新設された軍艦奉行に転出しますが、結局8月になって罷免の上永蟄居が命じられます。 川路聖謨は、この前年の5月、井伊直弼の大老就任の直後に、既に西の丸留守居に左遷されていた事は前述したとおりですが、井伊直弼の憎しみはなお消えず、この時改めて隠居・慎みが命じられています。 井上清直は小普請奉行に左遷されました。比較的処分が軽かったのは、おそらく彼自身が政治的行動をしたのではなく、兄の川路聖謨の処分に連座したのでしょう。 結局、初代の外国奉行のうち、この粛正を無傷で切り抜けたのは、遠い函館にいた堀だけでした。 彼ら官僚達は、個人の意見は意見として、井伊直弼政権の下でも忠実にその職務を果たしていたことは、前節に紹介したとおりです。このむちゃくちゃといって良い粛正により、初代の外国奉行は壊滅状態となります。 井伊直弼という人は、このように人に対する好き嫌いの感情の激しい人で、一時どんなに親しくても、嫌いになると我慢ができません。嫌いな人でも、有能であれば、その能力を生かすというやり方がまったくできないのです。先に初代の外国御用係老中(外務大臣)として紹介した間部詮勝など4人の老中達は、いずれも彼の盟友といって良かった人々ですが、彼らも、この前後の時期に、全員が老中から罷免されています。 5. 遣米使節
(1) ポーハンタン号 井伊直弼には、外交という行政の一分野における高度の専門技術性が理解できなかったようです。すなわち、条約というものは、締結のために交渉することも確かに困難なことです。が、締結した条約を、現実に実施する段階になると、遙かに困難な事態が次々と起こり、その処理には有能な実務官僚が必要になる、という単純なことが判らなかったのです。そこで、条約締結が済んでしまえば用済みだから、いつ逆らうか判らない獅子身中の虫は処分してしまうのが一番、と考えたに違いありません。 彼らエリートに代わって任命された新たに外国奉行に任命されたのは、村垣範正(のりまさ)や新見正興(しんみ・まさのり)達です。前者の村垣範正は、八代将軍吉宗が紀州から連れてきたお庭番の家筋です。お庭番の中では出世頭といえます。国内で、各地の情報の収集や分析をやらせれば、非常に有能な人物であったことは間違いないでしょう。 彼らに予定されていた一番の大仕事は、米国軍艦ポーハタン号に乗ってワシントンに行き、日米通商条約を正式に締結してくることでした。おそらく、井伊の頭では、情報の収集は、お庭番に任せるのが適材適所という意識があったのではないでしょうか。しかし、外国情報の収集は、従来の日本国内での情報収集活動とはかなり事情が異なります。何よりも、それに先行する一般情報をもっているか否かが重要になるからです。ハリスも、この人選に対しては強い不満を表明しました。が、井伊直弼の人事は変わりませんでした。 翌年1860年1月には、新任の外国奉行を団長とする遣米使節団が米国軍艦ポーハタン号に乗って出発し、無事に条約批准という使命を果たしてきました。が、気の毒にも、彼らは”忘れられた遣米使節”と歴史家に呼ばれています。 遣米使節団の派遣目的は、確かに形式的には修好通商条約の批准です。が、実質的狙いは、わが国の歴史にインパクトを与え得るような人材に、実際に海外の文物に触れる機会を与えることにより、その後のわが国の国内世論そのものに影響を与えようということでした。 しかし、それほどの能力を持つ逸材を乗せようとすれば、井伊直弼の逆鱗に触れることは、その直前の初代外国奉行の粛正に明らかです。そこで、村垣等の人選が事なかれ主義に終始するのも無理はありません。その結果、この使節団に参加した人々で、その後歴史上に名を出す人は、わずかに目付として随行した小栗忠順(おぐり・ただまさ)ただ一人に過ぎませんでした。 (2) 咸臨丸 その護衛艦という格付けで、しかし実際には別行動を取った咸臨丸は、日本人初の太平洋横断という壮挙を行いました。それに加え、艦長勝義邦(海舟)や福沢諭吉など、その後の歴史の主役がずらりと参加していました。このため、この脇役の方が遙かに我々の印象に強く、遣米使節はこちらのような錯覚を覚えます。 この航海では、便乗者となってされていたジョン・M・ブルック大尉の記録では、日本人に航海能力はなく、ほとんど彼とその部下が操縦したとなっています。これに対して、艦長だった勝義邦はもちろん、彼と仲の悪かった福沢諭吉も、口をそろえて、日本人だけの力による航海だったと強調しています。 これは水掛け論で、厳密にどちらが正しいと決定することは不可能です。が、おそらくブルック大尉の方が正しいと考えて良いでしょう。なぜなら、この当時、日本人の航海術はお話にならないくらい低かったからです。 幕軍が鳥羽伏見の合戦に敗れ、徳川慶喜が謹慎した後、榎本武揚は8隻の幕府海軍を率いて函館五稜角に脱走しますが、彼の艦隊のうち、実に6隻までが航海術のミスのため沈没しています(1隻は軍資金獲得のため売却し、明治時代になって外交問題になっています)。このため、彼の海軍は自然消滅してしまうのです。したがって、それよりかなり前のこの時点での幕府海軍の航海術は、それよりさらに低かったと考えるべきです。 しかもこの年の北太平洋は、米国司令長官タトノールがその長い海軍生活の中で見たことがないというほどの悪天候で、ベテランの船乗りをそろえた巨艦ポーハタン号でさえ、予定外のハワイ寄港をしなければならないほどでした。それなのに、小艦の咸臨丸は、その悪天候をついて、驚いたことに無寄港でアメリカまで行っています。榎本艦隊のことを考えれば、この時点で、米海軍を上回るほどの卓絶した航海技術を咸臨丸乗組員が持っていたはずはないと断定できるでしょう。これに対して、ブルック大尉は、航海術と測量に関しては、世界史に名を残している名航海者でした。 6. 貿易の開始 (1) オールコックの着任 安政5(1859)年5月、神奈川開港の数日前に、英国は駐日領事としてオールコック Rutherford Alcockを来日させます。彼は中国領事を経て日本に着任した練達の外交官です。後に本国の許可なく、独断で四カ国艦隊を組織し、下関砲台を攻撃させた責任を問われて本国に召還されるまで、英国の対日本外交をリードし、幕末史に大きな影響を与えた人物です。その3年間の日本滞在中の見聞を「大君の都」という著書で、世に残したことでも知られています。 これより以後、ハリスの離任まで、オールコックとハリスは在日外交団の主導権を巡って死闘を演じることになります。 (2) 初期の貿易状況 安政の五カ国条約と一口に言いますが、その条約の効力の発生時点は、それぞれの条約により異なりました。先に、日米修好通商条約で決まっていた神奈川及び長崎の開港日は西暦1859年7月4日と紹介しました。しかし、その後に締結された一連の条約では微妙に開港日が違い、一番早いのは日英修好通商条約で、西暦1859年7月1日とされていました。日本の年号でいうと、安政6年6月2日のことになります。そこで、最恵国待遇の規定から、これが神奈川の開港の日になったのです。 実際には、水野忠徳の献言により、東海道の神奈川宿に代えて、そこからほど近い横浜が開港されることになります。最初、列強側は条約違反と文句を言いましたが、現地を見ると、船が停泊するのに、横浜の方が確かに優れているので納得しました。 貿易を開始してみると、アジアに既に拠点を持っているイギリスが、わが国輸出入量の半ば以上を示すという調子で、最初から圧倒的に大きな貿易量を示しました。 それでも米国はこの最初の年はわが国からの輸出に関する限り、全体の3分の1程度を占めるというまずまずの実績を示しました。しかし、翌1861年から南北戦争という国内戦争が始まったために、海外進出の余力がなくなってしまいました。そこで、米国は、以後、急速に対日貿易量が減少していってしまいます。南北戦争のピークである1863年には、対イギリス貿易量は、わが国の全貿易量の80%以上に達します。ペリーに始まる米国の一連の努力は、結果として英国を益するための、露払い的活動に過ぎないことになってしまったのです。 とにかく、井伊直弼がベテラン官僚を2月に切り捨てて間もないこの安政6(1859)年6月に、英国の対日進出が本格化するわけです。この時点では、横浜、長崎、函館の3港が開かれました。 7. 貿易に伴う問題の発生 貿易の開始されたとたんに、通商条約の抱えていた問題が表面化しました。 (1) 輸出の急増と国内物価の高騰 第一の問題は輸出量の急激な増大です。それまでの鎖国時代においては、わが国は一貫して大幅な輸入超過状態で推移してきたことは、江戸財政改革史において紹介したとおりです。その時の主力輸入品は一貫して絹と木綿でした。初期においてはそれに対して金銀を以て支払い、後には金銀の流出を抑えるため、銅や俵物という輸出産品を開発することで、何とか輸入品代金の支払いを行うことを可能にしていたのです。おそらく幕府側としては、開国といっても同じような状況が、ただ対象国数が増えるだけ大型化して続くものと予想していたと思います。 A 生糸の輸出急増 横浜等を開港してみると、わが国の伝統的な輸入品である絹が、いきなり主力輸出品と化す、という誰も予想しなかった事態が起きました。最初期には、わが国からの輸出量全体の7割程度を生糸が占めているのです。 欧米諸国は、日本の絹の品質の高さに驚嘆しました。世界最高の品質と、当時の書物には書かれています。なぜこんな逆転現象が起きたのでしょうか。 開国前の文政から天保にかけての時期、幕府財政も疲弊していましたが、諸藩の財政もまた破綻の一歩手前でした。しかも諸藩は幕府と違って、金銀改鋳という打ち出の小槌を持っていませんでしたから、いずれも殖産興業により財政建て直しを行おうとしたのです。その場合、少ない生産量で換金価値の高い商品を狙うのは当然で、その結果、絹の生産量が延びていたことは確かと思われます。しかも、同じ生産量なら品質の高い生糸の方が高価に売れますから、品質管理に神経を集中するのも当然です。農家に副業的に生糸生産をさせるのではなく、品質管理をやりやすいように、小規模ながらマニュファクチャ生産に移行していたといわれます。これが、欧米の驚いた高品質の秘密と思われます。 しかし、生糸は、この直前の時期まで我が国の主力輸入品だったほどですから、国内生産量が延びているといってもたかがしれていたはずです。これが爆発的に海外流出を始めたのですから、国内市場では大変な品薄になり、その結果、国内価格は一気に上昇しました。 B 茶等の輸出急増 ハリスは当初から日本の茶に目を付けていたくらいで、多くの人が、茶は、開国前からわが国の米国向けの主力輸出品になると考えていました。実際そのとおりの推移をたどりました。もっとも、わが国が生産するのは緑茶であるのに対し、欧米人が飲むのは紅茶です。そこで、初期においては、茶はいったん上海に送られ、そこで紅茶に加工されて米国に運ばれていました。後には、わが国で紅茶への加工まで行われるようになったので、直接対米輸出が行われるようになりました。この輸出急増に伴って、茶もまた、国内価格が一気に上昇しました。 また、銅器、陶磁器、漆器など、わが国の工芸品は、化政文化の爛熟により極めて芸術的なレベルに達していたこともあって、やはり海外で爆発的な人気を呼びました。そのほか、欧州人の目から見て価値のありそうなものは何でも、貿易取引の対象となりました。 C 輸入の急増 鎖国時代は、わが国は常に輸入超過状態でした。開国により、輸入はさらに急増します。上述のとおり、絹は開国に伴い、輸出品になりますが、木綿は依然として輸入の花形でした。万延元年の時点だと、輸入量の半分までが綿布でした。 江戸財政改革史で詳述したように、今日の我々の常識と異なり、綿製品は江戸時代を通じて絹に次ぐ高級品でした。国内木綿産業は、この高価な輸入木綿を競争相手として成立したものですから、半田というような不自然な生産形態で、高価な金肥を惜しげなく使用しても、価格競争力を持っていました。しかし、製品の品質はお世辞にも高いとはいえません。手で紡ぐため、糸は太く、しかも太さが一定しないからです。 そこに近代工業が機械で生産した廉価な海外木綿がなだれ込んできたのです。有名な産業革命で、英国は既に蒸気力を利用して大量生産を行っていました。したがって、糸も細く、しかも製品の質も均質です。為替レートの壁は、このような高品質、低価格な外国製品の流入を防ぐ力はありませんでした。しかも、木綿は生活必需品という分類に入っていたので、輸入税はわずか5%でした。これでは、育ちつつあった国内木綿産業を守る保護関税としての機能は果たせません。この結果、国産木綿は大打撃を受けることになります。 ただし、国内綿織物業者は、輸入綿糸を使用して着物向けの小幅綿布を生産することで活路を見いだしました。すなわち、外国木綿の雪崩込みは、その後のわが国産業の基本形態である加工貿易を形成するきっかけを作りだしたことになります。 綿作農民はかなりの打撃を受けた模様です。ただ、1861年から始まった南北戦争により、米国南部の綿作地帯からの綿糸が入らなかったことから、世界的に一時、品薄になったおかげで、ただちには壊滅しなかったようです。国内綿作が本格的に壊滅するのは、南北戦争が終わった後、すなわち明治に入ってからになります。 しかし、こうして貿易により、綿布に関するそれまでの生産形態が根底から変動せざるを得なくなり、輸出ドライブ同様に、国内経済混乱の一因となりました。 D 国内物価の急騰 輸出が急増した商品は、そのいずれの産業構造も、国内消費を念頭に置いてできていますから、輸出が急増したからといって生産量がそれに応じて直ちに増えるというわけには行きません。その結果、国内市場において品薄となり、そうした商品の国内価格は一斉に跳ね上がったことは上記の通りです。 それらの多くは日常生活に使用される品ですから、当然、国内消費者物価全体が、それに引きずられて高騰を始めることになります。したがって、一般庶民の生活は一気に苦しくなりました。 普通であれば、国内物価がそんなに値上がりすれば、輸出に自然と抑制がかかりそうなものですが、この時は、そうはなりませんでした。為替レートが国内の実勢物価に比べてかなり低く、少々値上がりしても、英国商人としては輸出すれば十分に利益があるような状態だったからに違いありません。 (2) 為替レートの過小評価問題 輸出ドライブの最大の原因であった為替レートの過小評価問題は、正確に言うと二つの問題に分けることができます。江戸財政改革史に述べたとおり、江戸時代には、金銀銅三重本位制が採用されていました。すなわち、金貨、銀貨、銅貨がそれぞれ独立して国内流通しており、相互の交換比率は市場の需給関係から絶えず変動していたのです。その結果、第一に、銅貨と銀貨の国内交換レートと国際的な交換レートの乖離という問題があり、第二に銀貨と金貨の国内交換レートと国際的な交換レートの乖離という問題があるのです。この二つの問題が同時に発生したのですから、為替レート問題が深刻だったのも当然です。 A 銅貨と銀貨の交換レート おそらく、この時点でのわが国の為替レートは、最初にペリーが締結した、銀1分=洋銀1ドルあたりが妥当な相場だったのでしょう。ペリー来航の時点では、この三つの本位通貨のうち、銅貨の交換価値を基準に基本的な対外レートが決定され、これを国内交換レートを基準にして銀貨に置き換えて表現したのがこの銀1分=洋銀1ドルだったのです。 ところが、前述のとおり、ハリスとの交渉において、銀貨の交換価値を基準に対外レートを決定し直した結果、いきなりペリーの時の3分の1に邦貨の価値が切り下げられたのです。つまり、銀貨と銅貨の国内交換レートが、国際水準から大幅に乖離していたことがこの混乱の原因です。そして輸出の主力商品はいずれも日用品ですから、国内価格は銅貨で決定されていたのです。ですから、国内物価が3倍に跳ね上がらない限り、国際的に見れば何でも割安感があったに違いありません。 B 銀貨と金貨の交換レート 銀貨と金貨の国内交換レートが国際水準と乖離していたことから発生した重大問題は、わが国金貨の海外流出です。先に紹介したとおり、安政の通商条約では、貨幣は金貨、銀貨それぞれに、金銀の含有量に応じて等価交換することになっていました。そして主要決済通貨は銀貨と決め、交換レートは岩瀬忠震が下田条約で決まっていた交換手数料の6%を放棄した結果、34.5セント=銀1分ということに決まっていたのです。 先に財政改革史で述べたとおり、一分銀というのはこの当時採用されていた本位制の区分でいうと金貨で、したがって固定レートで小判と交換することができます。すなわち一分銀4枚で金1両です。したがって、1両は1ドル38セントという計算になります。ところが小判1両の含有する金を国際的に評価すると、3ドル以上の価値があるのです。つまり、100ドル相当の金を直接小判に換金すると、30両程度にしかならないのに、100ドル相当の銀貨をいったん一分銀に交換し、それをさらに小判に換金するという手間をかけるとざっと70両以上の小判を手に入れられるというわけです。しかも岩瀬忠震が締結した条約では、わが国金貨の海外持ち出しそのものを認めていました。 この事を発見した英国商人達は、貿易をそっちのけにして、一分銀の入手に狂奔することになります。それどころか英国公使館の職員までがこの濡れ手で粟の事業に手を出した模様で、処罰者を出しています。もっとも日本の両替商も、利にさとく、外国人相手では両替レートをかなりつり上げたようですから、計算通りの利潤が得られたのは最初期だけのようです。それでも、安全に何割かの利益が得られるとなれば、十分魅力的な商売であったことは間違いありません。 当時の外字新聞の示す数字では、開港第1年度のわが国からの輸出総額は、英価に換算して100万ポンドでしたが、そのうち、現実の商品取引は20万ポンドで、残り80万ポンドは実は小判そのものの輸出だったというのです。80万ポンド相当の小判とは、約100万両にあたります。当時国内で流通していた小判の総量は1421万両程度と推定されていますから、たった1年で国内金貨量の7%が消えてしまったというわけです。 これだけ通貨量が減少すればデフレ効果で物価の鎮静作用が起こりそうなものですが、そうはなりません。なぜなら、国内市場の中心は大阪にあり、大阪市場は銀本位制で動いているからです。流出した金貨の代わりに大量の銀貨が流入していました。しかも、岩瀬忠震はその外国銀貨の国内流通をも承認していました。ドル銀貨という言葉がなまって、泥銀と呼ばれていたようです。その結果、むしろ銀貨に関しては供給過剰に陥っています。これもまたインフレ原因となりました。 (3) 伝染病の流行 第三の問題は、この条約が検疫ということを全く予定していない点にありました。これまでわが国はほとんど外国との直接交渉がなく、わずかに開いた窓であるオランダ貿易も、オランダ人達を長崎の出島という隔離室に閉じこめる体制で行われていましたから、海外から伝染病が持ち込まれても、自ずと水際で防ぐ体勢になっていたわけです。その結果、いわば国全体が無菌室のようなものでした。そこに外国との濃厚な接触が始まり、検疫体制が皆無といっていい状況でしたから、もろに伝染病に侵入されたのでした。 すなわち、安政4(1857)年にインフルエンザの流行があったのを皮切りに、安政5年にはコレラ、安政6年には麻疹がそれぞれ大流行するという具合に、連年、それまであまり縁のなかった伝染病が猛威を振るい始めたのです。 インフルエンザや麻疹というと、今日の我々は少々熱を出して寝込む程度の軽い病気と思います。が、全くの処女地におけるそれは、ペストやコレラ並の高い死亡率を持つ恐るべき病気なのです。 (4) 外国人の殺害事件 最後の問題は、外国人の殺害事件が続発したことです。今日の我々は、ややもすれば外国人が殺害された原因を攘夷思想に求める傾向があります。が、実はむしろ外国人貿易商人そのものが、殺されるのにふさわしい?下劣な品性の持ち主達だった点に、より大きな原因がありました。 なにしろ彼らは、祖国から遠く離れたアジアで一旗揚げようともくろんでいる連中です。彼らを保護しなければならない立場にある英国大使オールコック自身が、彼らのことを「ヨーロッパのscum(滓)」と呼ぶような品性下劣な人間達が大半でした。 しかも中国などで貿易活動に従事する間に、彼らは、アジア人というものは、怒鳴りつけ脅しつければ無理を聞くものだという固定観念を身につけていました。したがって、彼らの日本人に対する態度は、アジア人蔑視を絵に描いたようなひどいものでした。 そうでなくとも、神国思想がはびこり、西洋人といえば動物にも等しい輩という偏見が日本人側にある訳です。そこに、その現物教育のようなひどい態度を見せられれば、問題が起こらないわけがありません。 安政6(1859)年7月27日にロシア艦船の士官1名、水兵2名が横浜で殺されるという事件が皮切りになります。同年10月11日にはフランス領事の中国人下男が同じく横浜で斬られました。翌年1月7日に英国公使館付き通弁伝吉がその公使館前で斬られました。同年2月5日にはオランダ商船の船長等がやはり横浜で殺されました。こういう調子で、欧州人やその関係者と見られたものへの襲撃事件が相次ぎます。 民衆はこれに喝采を送りこそすれ非難する者はいません。したがって殺人犯達は公衆の面前で悠々と犯行を行い、悠々と立ち去るのです。それにも関わらず、目撃者が見つからないのですから、犯人は誰一人として逮捕されません。 このため、外国人の間では、これは幕府が犯人達をそそのかしてやらせている政治的殺人だという噂が流れる始末です。自然、在江戸外交団と幕府の関係はぎくしゃくしたものにならざるを得ません。 * * * このような困難な対外問題が山積みになっているのに、井伊政権は全くの無策でした。井伊直弼が暗殺されたとき、民衆が快哉を叫んだのは、こうした無策に苦しめられていたからに違いありません。これらの問題も、対処能力を持つベテラン官僚達をばっさりと大量処分したことから起きた問題である事は明らかです。 8. 軍艦奉行に見る人事の混迷 話は少し戻ります。ポーハタン号に随行して米国に行った咸臨丸は、阿部正弘が嘉永6(1853)年にオランダに注文しておいた船ですが、これが日本に届いたのは安政4(1857)年のことでした。その翌年には、さらに朝陽丸と鵬翔丸がそれぞれ届きました。 これらの船に乗せる将兵は、安政2(1855)年に阿部正弘が開設した長崎伝習所で、既に訓練中でした。そこではオランダからカッテンディーゲを始めとする海軍士官が訓練教官として派遣されてきていました。 こうして艦船が届き、わずかながらも海軍らしきものが誕生し始めましたから、それに対応して幕府内部に海軍省にあたる管理機構も作らねばなりません。これが軍艦奉行で、安政6(1859)年2月に置かれます。高2000石ですから、外国奉行と同格の職ということになります。 この軍艦奉行の、井伊政権下の人事を見ると、いかに井伊直弼が個人的な好悪の感情から人事を混迷させていたかが良く判ります。 軍艦奉行の初代は、先に述べたように永井尚志です。永井尚志は、初代の長崎伝習所総督であったばかりでなく、長崎が江戸から遠すぎるために、江戸に開設した軍艦教授所の初代所長でもあります。したがって最適の人材といえます。井伊直弼としては、本来なら、岩瀬忠震や川路聖謨と同様に処罰したいところだったのでしょうが、何せ外に人材がありません。そこでやむを得ず、任命したわけです。 しかし、井伊直弼は先に述べたとおり好悪の感情の強い人で、気に入らない人間を、部下として使用することができません。彼にこの年8月27日まで勤めさせますが、そこで罷免し、永蟄居を命じています。 職務の特殊性を考えると、しかし、その後任として務まる可能性があるのは、いくら気に入らなくとも阿部正弘の抜擢したエリート達の外にありません。そこで永井尚志に代わって8月28日に任命されたのが、初代外国奉行の中でも最初に罷免されていた水野忠徳です。彼はこの年の10月28日までこの職にあります。が、そこで井伊直弼は辛抱できなくなり、西の丸留守居に左遷します。 しかし、外に人がいないのですから、その後任としては、再び気に入らないエリート達の中から起用する外はありません。今度はすでに小普請奉行に左遷されていた井上清直を任命することになります。まさに猫の目人事です。 彼になってようやくある程度直弼との関係が安定し、そうこうしているうちに肝心の井伊直弼が暗殺されましたから、彼はある程度長期に軍艦奉行を勤めることができました。 9. 井伊直弼の財政 (1) 財政状況 阿部正弘や堀田正睦の時代には、新規施策に着手するだけで、あまり実際の財政負担は増大しませんでしたから、前章の終わりに書いたように、上納金等を命ずることにより、幕府財政は何とかやりくりできていたようです。 しかし、井伊直弼の時代になると、歳出増が本格化してきます。すなわち、咸臨丸と朝陽丸はいずれも代価は10万ドルです。鵬翔丸については判っていませんが、これよりは安かったと思われます。いずれにせよ、この代金を支払わねばなりません。また、届いた以上、維持管理費もかかるようになってきます。これも、わが国国内にドックがないのですから、ちょっとした修理でも一々上海まで行かねばならず、かなりの額になったはずです。長崎伝習所の維持管理費やオランダ人教官達への給与の支払いも必要です。 ところが、井伊直弼は勘定奉行として活躍してきたエリート官僚達を処罰したばかりでなく、外国奉行や軍艦奉行など重要な官職についても、担当者をくるくる変えるなどして、人事の迷走を引き起こしています。頻繁な人事交代は、事務引継その他でよけいな費用のもとになったばかりでなく、長期安定的な財政的施策を展開することを困難にすることは間違いありません。この点において、井伊直弼の無能ぶりは、これまでに紹介してきた歴代の権力者の中でもずば抜けているといえそうです。 (2) 安政の金銀改鋳 では、そうした支出増をどうやりくりしたのでしょうか。新たな歳入源として海外貿易による関税収入が登場してきた事は間違いありませんが、貿易が本格化するのは万延元年からで、安政6年の段階では、輸出入を合計しても150万ドル程度ですから、関税収入は数万ドル程度にとどまります。したがって、井伊政権の財政に寄与するところはほとんどありません。 結局、彼がやったことは、財政に無能な幕府官僚の常套手段である金銀貨の改鋳です。 安政6(1859)年に発行した安政小判は、それまで最悪の通貨であった天保小判が1枚3匁あったのに対して、1枚2.4匁と2割も重量が減少している、というずば抜けて劣悪な通貨です。同時に安政一分金も発行しています。これは一枚0.6匁と安政小判の正確に4分の1の重量です。両者併せて発行量は35万1千両です。その2割ですから7万両程度しか改鋳差益がありません。もちろん、改鋳の対象がより古い文政小判や元文小判であれば、差益はもっと大きくなりますが、いずれにしても、この当時の幕府財政規模からすれば高の知れた金額です。この程度のわずかの利益のために金貨の改悪を行ったという汚名を負わねばならないくらい、この時の幕府財政が逼迫していたことが判ります。 また、一分銀の改鋳も行っています。すなわち、それに先行する天保一分銀は2.3匁の純銀だったのですが、銀の含有量を87.27%に落としたのです。したがって、12%程度の差益を手に入れられるというわけです。こちらの方は、明治初年まで改鋳が続けられ、発行総額は2547万1150両に達しています。しかし、このうち、井伊政権下でどの程度の発行量になったのかは判りません。 天保一分銀の改鋳による差益が、阿部正弘政権下でも数十万両に達する巨額であったことを考えると、それより若干差益を拡大した安政一分銀による改鋳差益が、井伊政権を実質的に下支えしていたと推定して間違いないでしょう。 しかし、この劣悪な一分銀の発行が、わが国通貨の対外価値を引き下げ、先に述べたとおり、国内的に大変なインフレを生んだのです。経済を全く理解していない愚策という外はありません。 井伊直弼という人については、先に人事面から、厳しい評価をかきましたが、財政面から見ても、国際化時代の幕府を背負う器量のない小人物と評価せざるを得ないわけです。 10. 桜田門外の変 (1) 密勅の返納問題 井伊直弼の実施した一連の処分で、もっとも危機感を募らせたのが、水戸藩士でした。藩主一家が全員、身動きもできないほどの厳しい行政処分を受けたばかりか、家老をはじめとして多数のものが刑事処罰を受けたのですから、無理もありません。井伊直弼という人物の執念深さを考えれば、今後も改めて処罰が繰り返されることも予想され、下手をすると藩そのものが滅亡しかねないという恐怖をもったのも無理のないところでした。 事実、追い打ちをかけるように、幕府は、前年朝廷が水戸藩に下した戊午の密勅を朝廷に返納するように、という勅書を獲得することに成功しました。この朝命を伝える幕府の使者として、12月16日に小石川の水戸藩邸に乗り込んだのが、この時点では若年寄であった安藤信正です。彼は殺気立つ水戸家の家臣に取り囲まれながら、堂々と水戸慶篤と交渉して、勅書を幕府を通じて朝廷に返還するという約束を取り付けるのに成功します。これにより、その有能ぶりを井伊直弼に認められ、彼は翌年正月に、老中に抜擢されることになります。 しかし、勅書返納というのは、単に友達から来た手紙を出し手に返す、というのとは訳が違います。特にこの戊午の密勅の場合、永年尊皇にいそしんできた水戸藩の、一つの到達点とでもいうべき重要性を持つものです。したがって、これを返却するということは、それまでの水戸藩の努力のすべてを否定するに等しい意味を持ちます。そこで、藩内の尊皇過激派が激高したのも無理のないところです。 井伊直弼という人は、自分に反対する者は、徹底的に叩き付けないと気が済まない人です。 普通、幕府評定所で審理する刑事事件の場合、寺社奉行、江戸町奉行、勘定奉行の三者が協議して判決原案を作ると、老中は、将軍の温情を示すため、その罪をいくらか減じて判決とするものなのです。が、安政の大獄において、井伊直弼は原案どおりどころか、場合によっては原案よりも数等重い判決を下しました。行政罰の実施にあたっても、政敵処分はともかく、忠実な官僚達まで処分する必要はなかったと思えます。 そして、水戸斉昭等、直接の政敵を叩いたのは判るとしても、ぎりぎりまで追いつめようとしたのはやはり間違いであったという外はありません。松平定信も、田沼意次を、繰り返し執念深く叩たきました。しかし、田沼家は新しく成立したばかりの藩でしたから、いくら弾圧しても、平の藩士が牙をむいて来るというおそれはあまりなかったのです。が、徳川創業以来、天下の副将軍としての誇りを持つ水戸家となれば話が違います。 (2) 水戸家の内乱 過激派の藩士は、藩主慶篤の説得にも関わらず、いうことを聞きません。老公斉昭が直接に説得すれば、あるいは効果があったかもしれません。が、斉昭は水戸で永蟄居となっているので身動きがとれません。そこで書面により説得を試みるのですが、それでは役に立ちません。 斉昭はやむを得ず、過激派の中でも首領格の者二人を逮捕しようとします。しかし、二人はそれを知って出奔し、同志を集めます。最後の手段として斉昭は兵を出してこれを攻撃したので、彼らは支えきれずに逃げ散ります。安政7(1860)年2月の出来事です。 水戸家では、このことを幕府に届けたので、幕府では、会津から房総半島にかけての諸侯に命じ、警戒態勢を取らせました。また、過激派が江戸に潜り込んだ可能性もあるとみて、井伊直弼に対して、登城の際の警備を厳重にするようにとの勧告が警備当局より出されています。 しかし、井伊直弼は、幕法により定められた以上の供回りをつけるわけには行かないと、この勧告を拒絶しました。幕法遵守ということを旗印として安政の大獄を実施した井伊直弼としては、どうしてもそういわざるを得ない立場にあったのかもしれません。しかし、これにより惨劇の起こる最後の条件が整えられたわけです。 (3) 雪の桜田門 井伊直弼は、安政7(1860)年3月3日、江戸城に登城の途中で、水戸脱藩士17名及び薩摩脱藩士1名の、計18名により襲撃され、殺されました。 襲撃の合図として、浪士の一人が発射したコルト拳銃の銃弾が、井伊直弼の致命傷になったといわれます。彼の開国政策によって、浪士程度の者でさえそうした武器が入手可能になっていたというのは、歴史の一つの皮肉というべきでしょう。 幕法の厳正な遵守という直弼の政治姿勢そのものが、彼の命取りになったということは、今ひとつの大きな皮肉です。 戦国の世に、井伊の赤備えと多くの敵を震え上がらせた井伊家藩士も、すっかり太平の世になじんでしまっていました。このため、わずか18名の小勢に無惨に蹴散らされました。 3月というのは現在の暦でさえ、もう暖かい時期です。まして旧暦ですから、新暦でいえば4月に入っている時期です。そのため、この日の天候は、季節はずれの大雪が降るというだけでなく、雪と雨とが交互に激しく降るという最悪の状況でした。このため、侍達は皆、雨合羽を着ていたのです。もしかすると刀には柄袋をかけていたかもしれません。そのため、襲撃されてもとっさに刀を抜くことができなかった、という悪条件にあったのです。しかし、事前に警備当局からの警告があったことを思えば、そのような身支度をしていたことは、やはり士道不覚悟と評価する外はありません。 かろうじて小物一人が藩邸に駆け戻って急を知らせるというていたらくでした。井伊家から後詰めの一隊が現場に駆けつけたときには、既に浪士達は、直弼の首を切り取り、持ち去ってしまっていました。ここに井伊直弼の恐怖政治は頓挫することになります。 安政という年号は、ペリーの再来日という大事件に震駭した朝廷が、今後の政治の安らかであることを祈ってつけられたものでしょう。しかし、安政年間は、条約交渉を巡る幕府と朝廷の衝突、安政の大獄、そしてこの桜田門外の変と、政治的事件が立て続けに起こり、とても安政とはいえる状態ではありませんでした。そこで、朝廷ではこの事件直後の3月18日に、年号を万延と変えます。 普通、桜田門外の変は、万延元年3月3日といいますが、事件の起きた段階ではまだ安政でした。したがって、正確には先に述べたように安政7年3月3日と言うのが正しいのです。 第4章 安藤信正と幕府絶対主義 1. 井伊直弼遭難対策 A 安藤信正の出自 家康の頃には、幕府の行政制度は軍事体制そのままで、平時の体制といえるようなものはほとんど存在していませんでした。家康が死亡し、秀忠が名実ともに政権の座についたあたりから、実質的に平時における行政機構といえるようなものが徐々に成立してきます。このように考えた場合、幕府最初の老中(その当時は年寄りと呼ばれていましたが・・)は、酒井忠世(ただよ)、土井利勝、安藤重信の三人と考えるのが妥当です。 陸奥岩城平5万石の藩主である安藤信正は、この初代老中の一人である安藤重信の子孫です。したがって、これまで紹介してきた阿部正弘や堀田正睦を上回る譜代の名門で、井伊直弼等に比べてもほとんど遜色のないといえるほどの名家の出身であることが判ると思います。 この譜代の名門という意識は、彼の為政全体を貫くきわめて重要な要素となります。本章のタイトルに、幕府絶対主義と付けましたが、それはこの特徴によるものです。すなわち、それまでの幕府政治が、幕府と日本の利益を同一視するというスタンスから行われてきたのに対して、彼の下における為政は、両者の相違を意識した上で、幕府の利益を確保しようとする方向で動き始めるのです。この姿勢は、これ以後、幕府滅亡まで、一貫して幕府官僚の意識の底流に存在し、時に表面に吹き出す形で歴史の流れを乱し続けるようになっていきます。その最初の頁を開いたのが安藤信正だったのです。 話は少しそれますが、れっきとした幕府官僚でありながら、これ以後の幕府官僚を支配するようになったこの思想と明確に一線を画し、幕府の利益を犠牲にしてでも日本の利益を考えるべきだという姿勢を明確に示したのが、勝海舟ということになります。 安藤信正は、文政2(1819)年生まれですから、井伊直弼が遭難死した安政7(1860)年の時点では41歳。まさに男の働き盛りという年齢で、歴史の檜舞台に突如登場してきます。 B 桜田門事件の正規取扱い方法の問題点 井伊直弼暗殺の急報を受け取った幕閣では早速、老中達が集まって鳩首して相談しますが、善後策が立ちません。問題は、井伊、水戸両家に対する処分をどうするかという点です。 これまでの幕府の慣習法によれば、藩主がおのれの不覚により一命を落とした場合や、生前に跡目を相続する者を決定せずに藩主が死亡した場合には、その藩は改易ということになっています。井伊直弼の死の場合、この両方に該当します。したがって、正規の取扱法に従う限り、譜代の名家である井伊家といえども改易は免れません。 この時代には赤穂浪士の先例が厳として存在しています。したがって、そのような事態に至ったら、井伊家の家臣としては、おそらく武士の面目を立てるため、水戸家を攻撃してその藩主暗殺を謀らざるを得ないと考えるでしょう。しかし、天下の副将軍家と譜代の棟梁家が戦うような事態になって、そもそも幕府は立ち行くことが可能なのでしょうか。 水戸家の方も、大老襲撃に参加した藩士達はその前日に脱藩届けを出したばかりで、当然まだ受理もしていない段階ですから、家臣取り締まりの責任を問わねばなりません。しかし、井伊直弼があれだけ徹底的に処罰した後ですから、これ以上の処罰をしようと思えば、藩主の切腹か、藩の改易くらいしか残っていません。御三家に対して、そのような処罰を行うことが、そもそも幕閣には可能なのでしょうか。 C 安藤信正の打開策 前章に述べたとおり、安藤信正は、水戸家との交渉ぶりが井伊直弼の気に入り、その年の1月15日に老中に昇格したばかりですから、単に末席であるばかりでなく、閣僚経験も2ヶ月に満たないという新参者です。 しかし、井伊直弼という人は、少しでも自分に逆らう人には我慢できず、老中に対しても激しい粛正を繰り返していました。その結果、この時点で幕閣に名を連ねていた老中達は、いずれも井伊直弼が独断専行することにおとなしく追随することにしか能のない、小粒のイエスマンばかりとなっていました。ですから、先輩老中はこの降って湧いた大事件に呆然とするばかりで、何ら建設的な意見を出すことができません。 そこで、信正は、実に簡単な解決策を提示しました。それは、大老は襲撃はされたが死んでいないということにしよう、というコロンブスの卵的奇策です。 確かに井伊直弼が生きていてくれさえすれば、上記の問題はすべてなくなります。しかし、井伊直弼は単に暗殺されただけでなく、その首を切り取られて暗殺者によって持ち去られており、しかもそのことは、多くの庶民が目撃しているのです。それを承知で、法の建前としてはまだ生きていると言い張ろうというのですから、これは実に人を喰ったアイデアです。 外に何の思案も浮かばないのですから、これが閣議決定となります。早速井伊直弼は病気引き籠もりと発表され、将軍家茂からは病気見舞いと称して朝鮮人参が届けられ、奥医師も派遣されて、首のない死体をしかめつらしく診察しました。彼の死が公表されたのは、翌月、閏3月30日になってからのことですから、形式的には2ヶ月近くもその死を秘していたことになります。 D 久世=安藤政権の誕生 この奇案の実施を一任されたことにより、安藤信正は、一挙に幕閣の指導的立場に立つことになります。 井伊直弼は、安藤信正との対比でいえば、幕府の利益が即日本の利益と考え、そして幕府の利益とは彼が利益と認めたものという考えの下に独裁路線を突っ走って、幕府内外の関係を完全にこじれさせてしまった人物です。 したがって、安藤信正として、幕府の利益を追求しようとすれば、そうしたこじれを解消することを目指すことがまず必要であることは判りきった話です。そこで、井伊直弼内閣の継承内閣であるにもかかわらず、どこかの国の首相と違って、閣僚を全員留任させようなどとは間違っても考えません。それどころか、幕閣から井伊色を完全に消すことを、積極的に狙っていきます。 そのために、彼は、まず先任の老中3名のうち、特に無能な2名を罷免し、代わりに、井伊とは関わりのなかった老中2名を新たに任命しました。さらに、以前に井伊直弼と衝突して老中を辞職していた硬骨漢の久世広周を改めて、老中に迎え、しかも彼に老中首座の地位を譲り、自分自身は外国係老中について、久世の陰で実務に専念する体制を作りました。 普通、高校などの歴史の教科書では、この時代を安藤信正が為政の中心となった時代と説明します。が、このように首相は久世広周なのですから、厳密には久世=安藤連立内閣というべきです。実際、久世広周は単なるお飾りの首相ではなく、かなりの実力派でした。安藤信正が失脚した後も、数ヶ月間、その地位で頑張り、様々な施策を展開するだけの力を持っていたのです。そこで本稿でも以下、久世=安藤政権と呼ぶことにします。が、政権の実権を握っていたのが、安藤信正であることは間違いありません。 2. 協調と宥和の政策 安藤信正として、第一の政治的課題は、井伊直弼の一連の強硬施策によりこじれきった朝廷との協調体制を確立することです。第二の政治的課題は、これもこじれきった一橋派との宥和政策を実施するです。 A 公武合体 朝廷との宥和政策を、当時は公武合体という言葉で呼んでいました。昔も今も、家どおしの結びつきを強める常套手段は婚姻政策です。 幸い、将軍家茂は独身であり、孝明天皇の妹にちょうど似合いの年格好の和子(かずこ)という女性がいました。彼女は弘化3(1846)年生まれです。新郎の家茂も同じ弘化3年の生まれですから、二人は同い年なのです。そこで、この二人を結婚させれば、もってこいの公武合体策になる、というわけです。 なお、幕府創世期には、逆に将軍秀忠の娘が天皇家に嫁しています。偶然にも、その女性も和子という名前でした。日本史の教科書では「まさこ」と読ませることが多いのですが、私の同僚が徳川家に問い合わせたところ、ただしくはやはり「かずこ」と読むのだそうです。 この婚姻政策は、元々は井伊直弼の策でした。ただし、井伊直弼は、皇室の外戚として朝廷に幕府が君臨する手段としてこの婚姻を考えていたのです。これに対して、安藤信正は朝廷との融和策としてこのことを考えたのです。行為は同じでも、両者の基本的姿勢の違いには、非常に大きなものがあります。 朝廷との協調体制を作ることは、井伊直弼の大弾圧の後ですから、常識的にはきわめて困難です。が、この時は一つの幸運がありました。朝廷の中心人物、孝明天皇自身が、先の戊午の密勅の文章に見られるとおり、きわめて親幕的な思想の持ち主だったことです。 孝明天皇としては、井伊直弼のような発想の下で、将軍家の姻戚になるつもりはありませんでした。そこで、井伊政権からの婚姻の申請に対しは、天皇は、当初反発を示します。が、安藤信正のような発想であれば、これは申し分のない婚姻といえます。そこで、同年6月には早くも降嫁を認める意向を天皇は示しました。 翌文久元(1861)年10月に和子は関東に下り、同12月に結婚式を執り行いました。家茂という青年が非常に気分の良い人物だったこともあり、夫婦仲も問題はなかったようです。唯一の問題は、養父家定の処女妻だった島津篤子が、姑としての立場から嫁いびりをしたことくらいでした。政略結婚の犠牲者である彼女としては、同じように政略結婚でありながら、幸福な結婚をする事ができた和子が妬ましかったのでしょう。 B 皇妹降嫁の悪影響 こうして無事に終了した皇妹降嫁ですが、安藤信正にとってはこの婚姻の実施はよいことだけではありませんでした。それどころか、二つの時限爆弾をその中に秘めていました。 一つは、この婚姻によって尊皇派の連中が親幕的になるどころか、逆に和宮を犠牲にする幕府の横車政策として、幕府に対する反感をいよいよあおり立てる作用をしたことです。ついには、皇妹降嫁は廃帝の奸策にでるものなり、というデマまでが飛ぶ始末です。これが後の坂下門外の変の、直接の原因となります。 今ひとつは、婚姻許可の詔勅に、今後10年以内に攘夷を実行することという条件が明示されてしまったことです。安藤信正は、降嫁を実現したい一心で、この条件を受諾する旨の報答書を老中連名で朝廷に提出してしまいます。 もっとも、これは単に朝廷の圧力に屈して心にもないことを言った、ということではありません。その頃になると、前章に書いた貿易による国内政治への悪影響は顕著に認められるようになってきています。こうした国内政治への大きな不安定要因が、結局、幕府を滅亡させることとなったわけです。このことは、その時点で現に政権を担っている者であれば、よほど暗愚でもない限り、当然に判っていたはずです。そこで、幕閣自身が何とか貿易を抑止したいという欲求を持つようになってきています。ですから、むしろ朝廷に対する公約をてこに、貿易制限に向かおうという狙いが存在していた、と見る方が妥当です。 実は、この皇妹降嫁工作と同時並行で、安藤信正は、非常にスケールの大きな財政政策を展開しています。後に詳しく紹介しますが、国益会所という組織を作って、外国との貿易利益を幕府が一手に収めることにより、国内経済を統制すると共に、幕府財政を立て直そうというものです。 先に連載した江戸財政改革史の中で、鎖国とは、そういう名の幕府による貿易統制策にすぎず、貿易制限という意味はなかったと説明したことがあります。そのことは、鎖国体制に移行してからの方が、わが国の貿易量は増大しているのだ、ということにより明らかなのです。 それと同じように、ここで安藤信正が朝廷に公約した鎖港なるものも、そういう名の、幕府による貿易統制策と考えると、その後の幕府の行動が良く理解できるようになります。彼が朝廷の要求を飲んだ裏側には、むしろ幕府に有利な貿易体制を朝廷の権威を借りて実現しようという狙いが見え隠れしていると、私は考えています。 しかし、条約に反する内容を、朝廷に対して、日限を切って公約してしまったということは大きな意味を持ちます。したがって、この公約の履行問題は、その後、信正だけでなく、幕府そのものの上に重くのしかかってくることになります。 C 一橋派との宥和政策 旧一橋派に対する融和政策も急ぐ必要があります。が、幕府の権威を守る必要もありますから、既に下した処分を撤回するには、それ相当の大義名分が必要です。 信正は、水戸斉昭がこの年8月19日に死去したのを、そのための機会と認識して、融和策を実施に移します。すなわち、幕府はその喪を発するに先立って、まずその永蟄居を解き、ついで、尾張慶恕や一橋慶喜等の謹慎も解く、という形で、井伊直弼の行った一連の行政処分を解除したのです。 しかし、これによっても、一橋派の恨みは残り、とても本格的な融和とはなりませんでした。安藤信正が失脚した後に、追い打ち的処罰が彼に対して行われますが、それは一橋派の井伊直弼に対する恨みの側杖とでもいうべきものでした。 3. 経済混乱の打開策 (1) 五品江戸廻送令 前章に述べたとおり、わが国経済は開港と同時に大混乱に陥っていました。井伊直弼はそれに対して無策でした。 安藤信正は、実質的に政権を担うことになった直後の、万延元(1860)年閏3月19日に、さしあたっての策を講じます。有名ないわゆる五品(ごひん)江戸廻送令として知られる命令を発したのです。例により適宜現代語訳しつつ紹介すると、次のようなものです。 「神奈川御開港、外国貿易仰せ出され候に付き、諸商人ども一己の利得にこだわり、競って相場をせり上げ、商品を買い受け、直接に御開港場へ廻し候に付き、御府内入荷の荷物が減少し、諸色払底に相成り、難儀いたし候おもむき、聞こえ候に付き、当分のうち、左の通り仰せ出され候 一 雑穀、 一 水油、 一 蝋(ろう)、 一 呉服、 一 糸 右の品々に限り、貿易荷物の分は、すべて御府内より相廻し候はずに候間、在在より決して神奈川へ積み出し申すまじく候」 要するに、商品が皆神奈川(実際には横浜ですが・・)に行ってしまった結果、江戸が品薄になって庶民が困っているので、特に生活必需品である五品については、当分の間は、いったんは江戸に回しなさい、江戸で余れば神奈川に回すから、というわけです。ここで水油といっているのは灯油、つまり行灯(あんどん)等に使う菜種油で、糸とは生糸の意味です。 確かに雑穀から呉服までの4品については、日用品で、こういうものが払底すれば、庶民の生活に響くだろうということは判ります。しかし、同時にこのような日本人の日常に密着した商品が、この時代に万里の波濤を越えて欧州やアメリカまで運ぶ貿易の対象となるわけはありません。したがって、開港のために払底するというのはおかしな話です。実際、この時期の輸出統計を見ても、そこにこれらの品は上がっていません(正確に言うと、蝋は若干輸出実績があります)。 それに対して、生糸は全く事情が異なります。江戸に住む一般庶民が、機織りをして自分の衣類を生産するとか、江戸市中に機織り工場がある、とかいう事実は全くありません。また、普通の庶民は絹織物を日常に着る、というようなことはありません。したがって、生糸が江戸に流れ込まなくなったからといって、庶民が困るということは絶対にあり得ません。その生糸がさりげなく最後についているというところから逆に、この五品江戸回送令の本当の狙いが、実は最後の生糸だけにあることが判ります。 しかし、このような法令をわざわざ出すことで、安藤信正は何を狙ったのでしょうか。これについて、従来の通説は、開港場に地方商人が直接輸出品を売り込むようになったので、それまで独占的にそうした商品を扱っていた江戸の特権商人が打撃を受けたところから、幕府を動かして出させた、と説明しています。そうであるならば、これは輸出抑制策ではありません。単に江戸商人の利潤確保策です。 井伊直弼時代の幕府財政は、先に紹介したとおり、金銀の改鋳益に頼る以外、何ら具体的な歳入増加策がありません。したがって、火の車であったと想像されます。これが出された時期から見て井伊直弼時代の決定事項を安藤信正が単に承継したと見ると、上記説明が説得力を持ちます。 すなわち、江戸商人達は、多額の上納金を行うことで、この法令を井伊直弼から引き出すことに成功していたが、実際の命令を発する前に暗殺されたという訳です。しかし、この時点では、井伊直弼は生きていることになっているのですから、安藤信正はその決定をひっくり返すわけにも行かなかったと思われるのです。 そこで、五品江戸回送令に従い、在方荷主の荷物は確かに建前上は、いったんは江戸に回されますが、実際には単に問屋の送り状を受けただけでそのまま横浜に送られることになりました。江戸商人は、送り状の発行に当たって利潤が確保できれば満足で、生糸の現物を必要としていたわけではないからです。したがってこの時点での五品江戸回送令は、貿易そのものには影響を与える措置ではありませんでした。 しかし、万延元(1860)年も後半に入ると、何とか貿易量を抑止しなければ、わが国産業はすべて壊滅的な打撃を受けかねないことが明らかになってきます。そこで、開港・開市に対して安藤信正は消極に転じ、妨害的とさえいえる行動を様々な場面で見せるようになります。 そのような立場から五品江戸回送令を見ると、これを利用して生糸の輸出抑制に利用できるということに、久世=安藤政権は気がつきます。そこで、翌年になって改めて五品江戸回送令を出し直します。こちらの方は、厳しく遵守させようとし、実際ある程度の効果を上げたと私は考えています。ただ、このような間接抑制策であるために、具体的な効果が現れてくるのには時間がかかりました。すなわち貿易統計的には、翌文久元(1861)年に貿易量の落ち込みが若干見られる程度に過ぎません。また、当然、金貨の流出という事態の解決策にはなりませんでした。 (2) 万延改鋳 経済の混乱状態を打開するには、井伊直弼が処分を行ったエリート官僚達を起用して対応させれば良さそうなものです。が、幕府としては、政権を有する者が替わったからといって、手のひらを返すように処分を撤回するのは、その権威に関わるという意識があるのでしょう、彼らに対する処分はそのままです。 したがって、エリートの一人、水野忠徳も、この時期は、まだ実権を回復していません。只の西の丸留守居役で、通貨問題の担当者でもなければ、通商交渉の担当者でもありませんでした。おそらく名門の御曹司たる安藤信正には、政権を継承した直後の時点では、井伊直弼が断行したエリート官僚達に対する処分がもっている問題性を理解できていなかったために違いありません。 が、現実に対外交渉を実施している外国奉行達にとっては、彼らエリート達の実力は十分に理解できます。そして、他のエリート達は自宅謹慎を命じられて動きがとれないのに対して、水野忠徳だけは、閑職であれ、ちゃんと江戸城に出仕できる地位にいたのです。そこで現職の外国奉行達は積極的に彼の存在を容認し、重要な外交交渉に際しては、屏風の陰に隠れて彼が傍聴することを認めていたといわれます。交渉の要所にかかると、屏風の裏からメモ書きが回ってきたそうです。このためにこの時期、彼には屏風水野というあだ名があったほどです。 そうして得た情報を、その鋭い頭脳で分析した水野忠徳は、少しも自分の得にはならないのに、幕府の役に立つ様々な建議をこの時期、積極的に行っています。先に神奈川に代えて横浜開港を建議したと書きましたが、それもこうした活動の一つです。 この万延元(1860)年4月には、物価の騰貴と金貨の流出という二つの問題を同時に解決するすばらしいプランを再び建議しています。これほど有能な人物を、西の丸留守居に留め置いた安藤信正の器量の限界というものを感じさせます。 A 貿易レート問題と改鋳の関係 ここで、なぜ開港に伴ってこのような問題が発生したかを改めて考えてみましょう。 開港に伴って物価が騰貴する理由は、通商条約が採用している為替レートが実勢に見合っていないために、外国から見てわが国産品に割安感があるためです。したがって、レートを改訂すれば、輸出ドライブは阻止できます。 基本レートは銀貨を決済単位として決められていますから、銀貨を改鋳して、より高品位にしてやれば、やっかいな対外交渉などしなくとも、自動的に為替レートの改訂ができます。例えば、銀1分=1ドルというペリーの時点のレートに戻せば、外から見たわが国物価は一気に3倍以上に跳ね上がることになりますから、激しい輸出はいやでも止まるはずです。 また、なぜ金貨が流出するかといえば、銀貨をベースとする為替レートに基づく小判の価値に比べて、海外の金の取引価格が高すぎるからです。しかし、わが国銀貨の対外価値を高めれば、自動的に小判の対外価格も高くなり、金の流出はやはり止まるはずです。仮に上記のように、銀1分=1ドルとすれば、自動的に小判は4ドルという計算になりますから、海外よりも金が高くなり、うまくいけば流出した金が戻って来るくらいになるはずです。 したがって、物価の騰貴も、金貨の流出も、銀貨の高品位化というただ一つの国内政策で解決可能ということになります。 そもそも、こうした問題が起こった原因は、この時期の一分銀が、幕府通貨史の中でも、きわだって粗悪な通貨だったことにあります。 先に財政改革史で説明したとおり、田沼意次は、純銀で南鐐二朱銀を鋳造することにより、銀で金貨を作るという離れ業を行い、これにより、金銀二重本位制を打破しようとしました。この南鐐二朱銀は1枚で2.7匁の重量がありました。 しかし、家斉の浪費から疲弊した幕府財政を救うため、水野忠邦は天保一分銀の発行に踏み切ります。1分は4朱に当たりますから、一分銀は南鐐二朱銀の2倍の価値があります。ところが、天保一分銀の重量は2.3匁と、南鐐二朱銀よりも15%も軽いのです。この劣悪な一分銀は安政元年まで一貫して鋳造・発行され続けており、最終的な発行量は総計で4520万0589両、1億8080万枚になります。さらにそれより粗悪な安政一分銀も、井伊直弼によって、この前年から発行が開始されていた事は、前章に紹介したとおりです。 B 南鐐二朱銀の復活案 ここまで説明すると、水野忠徳のアイデアが理解できると思います。彼は南鐐を復活し、これを為替レートを決定する際の基本通貨とすればよいと考えたのです。南鐐はその重量から計算すると43セント程度に相当します。しかも南鐐は二朱ですから1両はその8倍、したがって3ドル43セント程度になります。つまりこれが基本レートになれば、日本通貨はそれまでよりも約2.3倍強くなり、輸出にも歯止めがかかるし、金の流出も止まるということになります。 しかし、水野忠徳は、どうせもう一度改鋳し直すなら、ついでに南鐐を少し増量してぴったり50セントにあたるようにすればよい、と考えたようです。つまり1両=4ドルです。そこまでしておけば将来におけるインフレを考えても、まず問題が起こることはないからです。しかも、原料となる銀は、外国貿易によりいくらでも流れ込んでくるのですから、材料不足によって困ることはないはずです。 日本史の本には、水野のこのプランに対してハリスが強硬にクレームを申し立てたので、この案はわずか10日で流れた、と書いてあるものがあります。確かに、ハリスとしてはそのような策を取られては日本と貿易するうまみがなくなりますから、クレームを申し立てたのは事実でしょう。 が、私は、外国からのクレームがこのプランが流れてしまった真の原因ではない、と考えています。なぜなら、この水野プランの長所は、為替レートの変更を、外国との交渉ではなく、国内における改鋳という処理だけで行いうる点にあるからです。いくら外国から苦情が来ても、それは幕府得意の、いつもの時間引き延ばし策を取って対応すれば足りることなので、この抜本対策を放棄する必要はなかったはずです。 C 幕府財政の改鋳差益依存問題 私は、幕府の財政事情が、このすばらしいアイデアを許さなかったのだと考えています。先に天保13年及び弘化元年の財政収支を紹介しました。それらの年度では、構造的に歳出超過になっており、改鋳差益によりかろうじてバランスがとれていました。 久世=安藤政権の時期の財政収支は判っていません。が、関税収入がある程度見込めるようになっていたにせよ、長期的な安定財源足りうるかどうかは、まだ幕府に判っていません。したがって、改鋳差益に依存するしか収支の均衡を図る手段がない、と依然として考えられていたはずです。劣悪な天保一分銀が、井伊直弼によって、より劣悪化された安政一分銀に変えられ、久世=安藤政権もこの改悪策を継続実施した理由は、そこにあるはずです。 先に述べたように、この年、皇妹和宮の降嫁による支出が予定されていました。幕府としては、井伊政権によりこじれきった朝廷との関係を修復するため、金に糸目を付けない歓迎をするつもりでいます。そこで、この婚礼行列は総勢6000人という規模に膨れ上がり、これが中山道の全行程を旅する事にしたのですから、純然たる旅費だけでも莫大なものになります。 しかも、勤王の志士による和宮奪回計画の噂があったため、幕府は沿道警備に計29藩の藩士を動員したのです。それに要した費用をすべて財政の疲弊している各藩に負担させるわけには行きません。下賜という形を取るか、貸し付けという形を取るかは選択の余地があるにせよ、何らかの形で現実の資金を諸藩に提供する必要があります。 したがって皇妹降嫁の旅が、幕府財政にとって大変な負担になるであろうことは、勘定方には容易に予想がついたに違いありません。最終的にいくらかかったかは判っていませんが、後に将軍家茂が上京した際には直接経費だけで80万両かかっています。片道旅行であること等を考えても、やはり数十万両という巨額が必要になるはずです。 こういう大口支出が予定されているときに、一分銀の発行によって発生する年間数十万両の収益を放棄する余力は、幕府にはなかったはずです。これが当初の水野構想がつぶれた原因と、私は考えています。 D 万延改鋳の内容 そこで、水野忠徳は改めて次善の策を建議します。為替レートの改訂はあきらめて、金の流出だけでも食い止めようというのです。小判が国内的には一分銀の4倍の価値しかないのに、それに含まれる金の量が国際水準から見て高すぎることが流出原因です。したがって、国際水準からみて一分銀の4倍程度しか金を含んでいない小判を発行すれば、いやでも金の流出は止まるという、コロンブスの卵的な発想です。こうして発行されたのが、万延小判です。 E 小判改鋳小史 万延小判がそれまでの幕府の通貨管理の常識から見て、どれほど突出して劣悪なものであるかを理解していただくために、これまで折に触れて紹介してきた小判改鋳の歴史を、ここで簡単に振り返ってみましょう。 幕府創設時の慶弔小判は4.76匁で金の含有率は87%でした。綱吉の改鋳により悪名高い元禄小判は目方は同じ4.76匁でしたが、金の含有率を57%に落としたものでした。大岡忠相によって発行された元文小判は重量を3.5匁に落としていましたが、含有率は66%と若干改善していました。水野忠成による文政小判は、重量は3.5匁のままですが、含有率を56%と元禄小判並に落としました。水野忠邦の天保小判は、含有率は57%と文政小判並ですが、重量を3匁に落としました。井伊直弼により安政年間に発行された安政小判は、含有率は依然57%と変えていませんが、前章に紹介したとおり、重量はさらに減らして2.4匁となっていました。これによる改鋳差益がこの厳しい時期、幕府財政を下支えしてきたわけです。 F 万延の豆小判 この最後に登場した安政小判という、我が国歴代の小判から見れば驚くほどの低品位通貨でさえも、国際的に見れば、大変な価値があった点に、幕末最大の問題があるのです。万延小判は、一両小判の持つ国際価値を、当時の為替レート並に下落させることを狙いました。 その結果、万延小判は、金の含有率は57%という点では安政小判と変わっていませんが、目方がなんと0.88匁と、当時大量に出回っていた天保小判と比べると29%、直前の通貨である安政小判の37%にまで落としてしまったのです。この37%という数字が、たびたび引用してきた一分銀の為替レートとほぼ一致しているのに気がつかれる事と思います。従来の小判の3分の1ほどの大きさなので、豆小判というのが通称でした。 万延小判の総発行量は62万5050両です。金銀改鋳のやり方としては、新旧両通貨を、額面どおり等価交換する方法と、含む金の量の減少に応じて増付付きで交換するやり方とがあります。新旧通貨を等価交換すれば、幕府に改鋳差益が転がり込みます。が、民衆は交換に抵抗しますから、新旧通貨の交換は遅々として進まず、経済混乱の原因となります。これに対して、増付付き交換をすれば、すんなりと事務が進むことは明らかです。 大岡忠相の主導で行われた元文改鋳は増付付き交換であったため、ほとんど経済に混乱が起こらず、長期安定通貨を作り出すのに成功しました。この万延小判の改鋳に当たっても、幕府はこの増付交換方式を実施しました。すなわち天保小判1両を万延小判3両1分2朱と交換するという、極めて正確な等価交換を行ったのです。改鋳手数料だけ幕府の丸損になるという英断を下したわけです。 一気に目方を3分の1に落とすというドラスティックな改鋳であるにもかかわらず、比較的混乱が少なく、豆小判が順調に流通したのはこのためです。幕府としては、金貨の激しい海外流出を防ぐために実施する改鋳なのですから、改鋳差益を稼ぐというような目の前の利益にこだわるわけには行かなかったのです。そして実際、金貨の流出はこれにより立派に阻止されました。 しかし、高品位二朱銀の発行に比べて、この方法はいくつかのはっきりした欠点がありました。すなわち、これは国内的に見れば平価の切り下げです。したがって、金貨で示される名目物価が単純に3倍以上に跳ね上がります。通常平価の切り下げで問題になるのは、それに伴う便乗値上げです。この場合にもそれが起こったはずです。困ったことに、激しい輸出ドライブに伴う物価の騰貴が同時並行的に起こっていますから、便乗値上げかどうかを確実に識別する方法はありません。この結果、一般物価の騰貴が一段と促進されたわけです。 ただ、この時期の日本にとり、救いであったのは、日本では依然として金、銀、銅三重本位制が通用していた、ということです。金貨の価値が三分の一に下落すれば、当然、銀貨(一分銀など金貨の補助通貨ではなく、丁銀や豆板銀のことです。)はそれに対して3倍強くなったはずです。したがって、銀貨をベースにしている上方商人にはあまり大きな影響はなかったはずです。 また、銅貨も同様に、3倍強くなったはずです。したがって、銅貨を生活の基盤にしている一般庶民に対しても、直接的にはそれほどの打撃にはならなかったはずです。 おそらく、一番苦労したのは、金貨を生活の基礎にしていた武士階級だったでしょう。だからこそ、この時期以降、下級武士ないし郷士と呼ばれる人々を中核として、急激に倒幕に向けて気運が高まっていくことになります。 歴史の教科書などではいとも無造作に、この万延改鋳が、一般庶民をも直撃した幕末における激しいインフレの原因と書いてあるものが目立ちます。しかし、この改鋳自体は、このように、インフレ原因とはならない性格のものです。 しかし、現実に、この後も激しいインフレが庶民を苦しめます。その原因は、この改鋳が行わなかった点、すなわち対外レート問題にあったのです。銅貨などが中国の同種銅貨に比べて約4分の1程度に低く評価され、その結果、日本の商品に大変な割安感があったという事実は依然として残っていたのです。そこで、金貨の流出がやんだ後においても、あらゆる生活必需品が激しい輸出ドライブのために品薄になり、激しいインフレが続いていったわけです。 G 少額金貨の発行 南鐐二朱銀や一分銀の持つ根本的な問題は、国内的には金貨として通用するものであるにもかかわらず、銀で作られたものであるために、国際的には銀貨として評価されてしまう点にありました。これを解決するために、この時、幕府は、小判の補助通貨を一斉に金貨に切り替えました。すなわち、田沼意次以来、営々と続けられてきた金銀二重本位制への挑戦をこの時、幕府は止めたわけです。これにより発行されたのが、万延二分金、万延一分金及び万延二朱金です。 このうち、万延一分金は、金含有率は万延小判と一緒で、重量が0.22匁と正確に1両の4分の1になっています。しかし、これではあまりに小さくて、通貨として日常使用するのに不便でしたからあまり通用しませんでした。そこで、発行量もわずかです。 この点を考慮し、重量を確保する都合から、金22%、銀78%という比率の合金で発行されたのが万延二分金と万延二朱金です。8割までが銀なのですから、外国人達から金色をした銀貨と悪口を言われたのも無理はありません。二分金は重量が0.8匁と万延小判とあまり違いがありません。二朱金は、その正確に4分の1の0.2匁です。劣悪通貨として評判の悪かった一分銀の重量が0.6匁でしたから、これを回収して若干の金を加えれば二分金、すなわち国内における価値が二倍の通貨が作り出せることになりますから、大幅な改鋳差益を確保できたことは間違いありません。 金貨の海外流出により通貨の絶対量が不足していた時に、激しいインフレが発生したのですから、日常生活で使われる貨幣自体が、従来に比べて高額化しました。それでも、日常生活では小判で取り引きされるということは滅多にありません。日常生活の中心となる少額取引に使いやすい補助通貨は、このように極端に低品位化した通貨の発行であるにも関わらず、国内的には歓迎されました。 安政一分銀も引き続き発行され続けました。これの場合には洋銀を市場から回収して改鋳していたのではないかという説が唱えられています。ここからもかなりの額の改鋳差益が上がることになります。 こうして、いわば外圧が追い風となって、大きな改鋳差益を幕府は入手することができ、今後の様々な歳出増を賄い続けることが可能となりました。 文久元年の場合、二分金など金貨改鋳に伴う益金が143万1967両、一分銀など銀貨改鋳に伴う益金は14万0257両、計157万2224両といいます。もっとも、当然ながらこれは平価の切り下げにより3倍に跳ね上がった金額ですから、弘化の頃の歳入と比較する際には3分の1に割り引かねばなりません。それでも50万両程度に達する計算です。 二分金は、明治初年まで発行が続けられ、最終的には計4689万8932両も発行されました。毎年同じ量を発行したわけでもないでしょうが、単純に割り算すると毎年600万両弱が発行された計算になります。改鋳そのものにかかる費用が不明なので、正確な差益額は判りませんが、文久2年以降は、おそらく毎年新通貨で200万両程度にはなったはずです。狂乱物価という大きな犠牲を払った代わりに、幕府はついに巨大な歳入源を手に入れるのに成功したのです。 (3) 関税収入 万延元年に入ると、貿易も本格化してきます。同年の輸出総額は471万1千ドル、輸入総額は165万9千ドルに達しました。 これにより正確にいくらの関税収入があったのかはわかっていません。仮にすべての輸出入品が一律5%の関税率とすれば、新通貨で120万両以上の関税収入があったはずです。 安藤信正が五品江戸回送令を利用して輸出量の削減を計った翌文久元(1861)に若干輸出量が減少したことを除いては、この後明治維新までの間、輸出は毎年著しい伸びを示し続けます。また、輸入は例外なく毎年伸びています。 したがって、万延元年以降、幕府の崩壊までの間、改鋳差益と並んで、関税収入は幕府の重大な財政基盤となっていくことになります。 4. 久世=安藤政権の財政政策 久世=安藤政権では、上述した万延改鋳では、結局、水野忠徳が当初建議した抜本策ではなく、金貨の流出防止だけを念頭に置いた策をとらざるを得ませんでした。したがって、物価の暴騰や輸出ドライブなど、貿易から作り出された問題に対しては、別途対策を立てる必要が生じました。 生活必需品が海外に流出することによる品薄がインフレの原因であることははっきりしているのですから、日本という立場から見た場合、対策としてはそうした生活必需品の輸出制限であることは明らかです。先に朝廷に公約した条約の撤廃は、それを目指したものです。 しかし、幕府の利益を第一に考える久世=安藤政権では、対策の順序が変わります。先に紹介したとおり、貿易による関税収入は、すでにこの時期の幕府財政は無視できないほどに巨大なものです。したがって、とるべき経済政策は、貿易量を適当に維持しつつ、同時により一層の増収をもたらして幕府の財政再建に結びつくものである必要がありました。それには、貿易の全面廃止ではうまくないのです。貿易による利益が幕府にだけ流れ込み、同時に物価騰貴を沈静できるような、適切な経済統制手段を設ける必要がありました。 これを単なる観念論にとどめず、実際に具体的な対策にまでまとめ上げたところに、この政権の偉大さがあります。幕末と呼ばれる、本稿に取り上げた時期で、明確な財政政策を持っていた幕府政権は、この久世=安藤政権だけです。その点だけからでも、この政権はもっと注目される価値があります。 (1) 国益主法掛の設立 ここで要求される政策は、経済統制手段の機能があり、同時に貿易による利潤を幕府が独占する手段である、という二面的性格を持っている必要があります。このことを安藤信正は早くから承知していたと思われます。なぜなら、井伊直弼の死が公表され、久世=安藤政権が正式に発足した直後の万延元(1860)年4月の時点で、早くもその政策が着手されたからです。 その経済統制政策の中核機関として、この時に設立されたのが「国益主法掛(こくえきしゅほうがかり)」とよばれる存在です。 これは、町奉行、勘定奉行、勘定吟味役という従来からの経済官僚に加えて、大目付及び目付を加えて設立された行政委員会で、政策立案ばかりでなく、その実施作業にも当たる強力な組織です。そして、5月にはこの国益主法掛の担当老中として筆頭老中の久世広周自身を任命し、また、担当若年寄や専任職員の任命も行いました。 A 目付について これまで本稿では、目付という官職についてはあまり触れてきませんでした。勘定所が財政担当機関、すなわち今日の財務省に、そして勘定吟味役が財政に関する監察機関、つまり今日の会計検査院に相当する機関であるとするならば、目付は人事に関する監察機関、すなわち今日の人事院に相当する機関です。 一口に大小目付といいますが、実際にはかなり複雑な役職に分かれます。 「大目付」は、大名に対する監察機関です。従前は4〜5名が定数とされていました。が、弘化3(1846)年以降、定数が10名に増員されました。3000石相当の地位ですから、町奉行や勘定奉行と同格の重職です。が、大名を監察する地位にあるため、城中では万石相当の待遇がされました。将軍に直訴でき、老中も監察対象になるという点で、他国に例を見ない、極めて強力な人事監察機関でした。 大小目付という言葉からすると、小目付という官職がありそうですが、実際には存在しません。旗本に対する監察機関は、正式には単に「御目付」と呼ばれます。定数はこの当時10名でした。1000石高の職ですから、遠国奉行と同等で、500石高の勘定吟味役よりも重職です。 また、御目付は、お目見え以下の地位にある幕臣を監察する徒目付(かちめつけ)及び御小人目付(おこびとめつけ)、御中間目付(おちゅうげんめつけ)等を統括する職でもありました。 現在の人事院が、人事監察だけでなく、人事行政一般を司るように、大小目付も広範な人事行政権を持っており、その支配下には数百人の官僚がいて、江戸城内外に目を光らせていました。 大小目付は、その職の性質上、勘定吟味役同様に、いかなる誤りも許されないので、廉直な人物であることが要求されました。このため、徳川時代を通じて一貫して門閥・門地にこだわることなく、人材の抜擢登用が行われてきました。幕府の官僚機構の中では、勘定所と並んで、実力主義の支配する世界といえます。 実力のある者が実権を握るのが、官僚機構というものです。その結果、この時点ともなると、幕政の実権は老中、勘定所及び目付に握られているといってよい状況にありました。 水戸斉昭の懐刀であった藤田東湖が、斉昭にその旨を進講したと、福地源一郎が書き残しています。なお、東湖は幕府における第4の実力機関として奥御右筆をあげているそうです。これについては、幕府財政改革史に述べたことがありますが、今日でいう最高裁判所調査官に相当する役職です。藤田東湖がこれを指摘したのは、幕府の最高裁判所である評定所の判決を左右する力を持っていたからでしょう。 B 佐藤信淵と国益主法掛の政策 国益主法掛は、この幕府の実力機関のうち、奥御右筆以外のすべてをとりまとめたものとして設立されたわけです。いわば、幕府の最後の切り札というべき強力機関です。 国益主法掛が実施した政策は、非常に幅広いものです。が、それらが単なる思いつきではなく、江戸中期の経済学者佐藤信淵(のぶひろ)の経済理論に基づいて行われた、というのも、この国益手法掛の大きな特徴です。 佐藤信淵の思想は、絶対主義的性格を持っていました。すなわち彼によれば、全日本はただ一人の君主とその下に統一される八種の産業に従事する平等な八民とに分かれ、膨大な官僚機構の下に強大な常備民兵を備えているべきものなのです。 したがって、その基本思想自体が、幕府を強大化し、日本全体を支配しようとしている官僚達にとってはもってこいの理論であるわけです。政策の展開に当たり、このような統一的な理論的アプローチが行われたということは、幕府では最初で最後ということができるでしょう。「国益」というネーミングそのものに、この政策を担当した彼らの気負いが、ひしひしと感じられるではありませんか。 国益主法掛は、設立されるや否や、極めて多方面にわたって活動を開始しました。その政策名をざっとあげると、諸士救済策、物価引き下げ令、荒地起返(あれち・おこしかえし=荒廃した休耕田をもう一度農地に戻す事業)、陶器輸出策、機械試造、玉川上水水元模様替え、糸価調節、国益会所の設立などがあります。これら、多方面にわたる様々な事業を実際に実施し、または実施のための調査を行いました。 先に五品江戸回送令が、万延元年閏3月に出された直後と、後に再度布告された時とでは、遵守のさせ方に違いがあると述べました。これも国益手法掛による再評価の結果と思われます。 (2) 国益会所 国益主法掛の打ち出した様々な政策の中でも、最も重要なものが国益会所(こくえき・かいしょ)の設立です。 先に述べたように、幕府は米国との通称条約の締結に当たり、永年オランダとの間で行ってきた、長崎会所を通じた貿易体制を、米国に対しても拡大する、という方針で臨みましたが、ハリスに一蹴されて、自由貿易を飲みました。 A 国益会所の意義 自由貿易のままでは、しかし、関税収入の確保は可能でも、鎖国時代と違い、貿易利潤そのものを幕府が得ることは不可能です。そこで、条約ではできなくとも、国内法の整備により、実質的に会所貿易を実現できないか、というアイデアが生まれてくるわけです。 したがって、国益会所は、幕府が国内の全市場を支配するための中心機関となるべきものです。これを通じてすべての輸出入品を幕府の支配下におくことができれば、幕府は開国による利潤を独占することができるわけです。それは同時に国内の流通を統制する事を意味しますから、狂乱物価を抑制するなど、経済混乱の防止にも繋がります。 この国益会所に、もっとも確実にその機能を発揮させるには、条約締結以前の鎖国体制に戻すことが一番です。そうすれば、いやでも貿易を幕府が完全に統制することができるからです。相手国が、オランダ一国であった状態から、イギリスなど多数の国に増大した状態へ移行した上で、それを幕府が一元的に統制できれば、それによる利益は長崎会所の比ではありません。ここに、久世=安藤政権が横浜鎖港という政策を打ち出し、朝廷に対して公約した真の理由がある、と私は考えています。 B 理論対立と目付の敗北 この国益会所への諸国の産物の買い集め方式を巡って、国益主法掛の二本の柱というべき勘定方と目付達との間に、深刻な理論対立が生じてしまいました。 目付は、その官職の性格上、強権的な行き方を好みます。そこで、「すべての商人を管轄して、一挙に利権を官に帰せん」と主張します。 これに対して、永年商業資本とつきあい、商業活動の難しさというものを知悉している勘定方は反対し、「不馴れの官吏をして俄かに商を括り、天下の方物を全括して漏らさざらん事は、勢い危うきを以て、まず商と相和し、これを懐口にして使い、漸を以てその利権を移し握らん」と主張しました。すなわち、最初から官吏がやろうとすると失敗するから、まず商人にやらせて路線を確立した上で、徐々に官に権限を移行しよう、というわけです。 この結果、目付=急進派と勘定方=漸進派の対立となったわけです。 久世広周は、最終的に、漸進派を以て妥当と判断しました。しかし、彼が決断を下すまでの間に、この対立があまりにこじれてしまったため、9月には、大小目付は全員が国益主法掛を罷免される、というところまで事態は発展してしまいました。幕府の実力派官僚のすべてを投入する、というプランはここに崩壊し、国益主法掛は片肺飛行になってしまったわけです。 C 国益会所の廃止 勘定方の下で、しかし、国益会所プランは順調に発展しました。このプランは最終的には全国の産物を江戸及び大阪に設ける会所によって総括しようという壮大なものです。しかし、さしあたりは江戸に会所を設立し、諸藩の物産と関八州、甲信及び伊豆の産物を豪商を手先にして買い集めようというものでした。 12月には会所頭取が任命され、翌文久2年2月に国益会所が正式に発足しました。5月からは実際の事務を取り始めたのです。 が、7月になって会所そのものが廃止されます。その理由は単純で、詳しくは後に述べますが、この構想の推進役であった安藤信正や久世広周など、久世=安藤政権を構成していた老中のほとんど全員が、その3月から6月までの間に失脚してしまったからなのです。 商業を全面的に国家がコントロールしようという考え方は、最近では、ロシアや東欧圏諸国が押し進めて、結局失敗したことに明らかなとおり、基本的には無理の多い話です。しかし、この当時は、諸藩がいずれも財政危機乗り切りのため、同様の施策を展開し、成功していたわけです。 したがって、少なくとも当初計画が念頭に置いていた天領部分については、十分に成功の可能性があったといえるでしょう。そして、部分的にしか成功しなくても、幕府には莫大な利潤が確保できたはずです。安藤信正達の失脚により、幕府は、惜しまれるチャンスを逃したといえます。 5. 久世=安藤政権の軍事政策 幕府は基本的に軍事政権ですから、幕府が今後も存続し、一層支配力を強めていくためには、その軍事力の強化が絶対に必要です。そこで、久世=安藤政権にとっての急務は、幕府の戦闘能力を回復するということです。 ところが、この時点での幕府の軍制は単に旧態依然としている、という程度の生やさしい状況ではありません。人事が門地、門閥、年功序列によって行われていた結果、前線指揮官であるべき地位に老人が多数いて、ものの役に立たないという状態でした。 そこで、文久元(1861)年2月にまず御旗奉行、槍奉行、持ち頭及び先手という軍事上の重職であり、したがって長く平和が続く中で形骸化し、老人ばかりが任命されていた職に「極老の者」を任命しないこととしました。しかし、これはいわば急場の対策にすぎません。その程度のことでは、対外国軍との戦闘はもちろん、国内戦でさえも、とうてい満足に遂行できる状況にないことは、誰の目にも明らかです。 そこで5月になると、積極的な軍制改革を行うことに決めました。その中核組織として、「海陸御備え並びに軍制取調御用」という委員会を発足させ、軍制改革構想を検討させたのです。このように、組織を素早く整備する、という点も、久世=安藤政権の大きな特徴と数えて良いでしょう。この委員会には、勘定奉行、講武所奉行、軍艦奉行及び大小目付という実力派を委員としたという点、国益主法掛と一緒です。この委員会には小栗忠順や勝義邦(海舟)等、後世に名を残す実力者が多数、委員として加わっていました。 阿部正弘が、挙国一致体制の下でわが国防衛力の強化を図ろうと考え、様々な禁令を解除したことは先に触れました。これに対して、この委員会では、幕府の軍事力のみを強化することを目指したという点で、これも大きな方針の転換です。 この軍制改革案は、軍制を完全に洋式のものに切り替えるという壮大かつ抜本的なものでした。すなわち陸軍については歩兵、騎兵、砲兵の三兵計1万3625人の常備軍の設立を目指します。海軍については、さしあたり、江戸及び大阪防衛のため2艦隊(艦船43隻、乗組員4904人)を作り、将来的には日本の沿岸全体を防衛するため、6艦隊(艦船370隻、乗組員6万1205人)を編成しようというものです。財政的にどこまで可能かはともかく、各艦隊ごとに艦種を想定し、各艦ごとの水兵の端数までも計算するという点で、大綱案であると同時に、精密な立案でもあったわけです。 司馬遼太郎の『龍馬が行く』の中で、海舟を暗殺しようと訪ねた龍馬を相手に、海舟が海防論を説いて、逆に弟子入りさせる感動的な下りがあります。あそこで海舟が龍馬に見せたプランこそ、この「海陸御備え並びに軍制取調御用」委員会の研究の成果だったのです。 これほどの大計画は、存続期間の短かった久世=安藤政権では、その具体的な実施にまで着手する時間的余裕がありませんでした。しかし、その後、幕府が存続する限り、続けられた軍事力強化努力は、この計画に則って行われました。その方向付けを決定した、という意味で、この政権の軍事面での努力を無視することはできません。 6. ヒュースケン殺害事件とその波紋 (1) プロイセンとの通商条約問題 井伊直弼の暗殺後も、攘夷派浪人による外国人襲撃事件は後を絶ちません。万延元年9月には、フランス公使館員でイタリア人のナタールが傷害されています。しかし、何といっても当時江戸にいた全外交官を震駭させたのが、同年12月5日に起きたヒュースケン殺害事件でした。これは、かれがプロイセン使節団のために通訳活動をしている最中に起きた事件でした。 プロイセンが東アジアに進出を考え、議会で承認を得たのは1843年のことですから、米国よりかなり早かったのです。しかし、それが実際に実現したのは1859年のことでした。欧州からの万里の波濤を越えて、特命全権大使オイレンブルク伯爵が横浜港に入港したのは万延元(1860)年7月19日でした。すなわち、安政の五カ国条約を決行した井伊直弼が暗殺された半年ほど後です。 プロイセン使節団は、7月23日に上陸して赤羽接遇所に入り、通商条約の締結交渉に入ります。しかし、準備の悪いことに、日本側と言葉の通じる通訳を用意していません。そこで例によってハリスが申し出て、ドイツ語の堪能なヒュースケンが通訳を勤めることになりました。ですから、この時期、ヒュースケンは毎日のように接遇所に通っていたようです。接遇所は、米国公使館のあった麻布善福寺からは、歩いても10分くらいの距離でした。 しかし、この条約交渉は難航しました。この時政権を握っていた安藤信正としては、その前月、10年以内の攘夷決行を条件に孝明天皇から皇妹降嫁の許可をいただいたばかりです。それは先にも述べたとおり、幕府そのものの長期構想でもあります。したがってそれとは逆方向の、貿易相手の拡大は、国益会所がきちんと機能を開始するまではやる気がありません。その結果、間違ってもプロイセンと修好通商条約を締結するつもりはなかったからです。 この時期、ハリスは在江戸外交団のリーダーと自認しています。そこで、その地歩を固めるため、ハリスはプロイセンに対して助け船を出しました。 先に述べたとおり、井伊直弼は、安政の5カ国条約で、神奈川開港の半年後の1860年1月1日の新潟開港を皮切りに兵庫の開港や江戸・大坂の開市場を行うと約束しています。安藤信正としては、プロイセンとの条約を締結できないのと全く同じ理由で、新潟開港以下の条約条項の遵守もまた、することができません。 そこでハリスは、もし幕府がプロイセンと条約を締結するならば、神戸・新潟の開港及び江戸・大坂の開市については延期しても良い、と申し出たのです。 そういう条件であるならば、安藤信正としても、たとえ短期的には孝明天皇が激怒するという問題を抱えても、長期的には好ましい結果が得られるわけですから、プロイセンと条約を締結することを考慮する余地はあったのです。 もっとも、これについては順序が逆である可能性もあります。つまり、安藤信正が先にハリスに開港開市延期問題について泣きつき、ハリスがその代償としてプロイセン問題の解決を要求した、ということです。どちらであれ、この二つの異質の問題がハリスの手でワンセットにされたことだけは間違いないようです。 そこで、このハリスの介入をきっかけに、プロイセンとの条約交渉は進展を見せ始めました。安藤正信は、函館から井伊の粛正を無傷で生き抜いた唯一の初代外国奉行である堀利煕を呼び寄せて主席代表に据え、また金貨の海外流出などでその冴えを見せた水野忠徳を、再度外国奉行に起用して、次席としてこれに当たらせたのです。 (2) ヒュースケン殺害事件 ヒュースケンは、問題の万延元(1860)年12月5日の夜も、9時近くまで接遇所にいてプロイセン側と折衝し、馬で公使館に帰りました。3名の騎馬の武士が警護に就き、4名の下僕が提灯をもって付き従っていたということですから、必ずしも警備が手薄だったわけではありません。しかし、7名ほどの者に襲撃されて重傷を負い、その夜のうちに死亡しました。 犯人について、当時はプロイセンとの交渉における主席全権である堀利煕の家臣という噂が立ちました。というのは、その直前の11月8日に、堀利煕が謎の自殺を遂げており、その原因がヒュースケンとの衝突だという噂が流れていたからです。 当時の駐日イタリア大使が書いた「伊国使節アルミニヨン幕末日本記」という書は、次のような噂を伝えています。堀はヒュースケンに対して、その夜歩きが頻繁な事を、外国人の警備責任者としての立場から注意したのに対して、ヒュースケンはまことに横柄な態度で、「自分は外出したいときにはいつでも外出する。自分に刃向かう者があれば、いつでも撃退してみせる。」と公言したというのです。 実際、ヒュースケンは日本人全体に対して、一般に見下した態度が目立ったようです。この返事に、堀は激怒し、安藤信正に対してヒュースケンを排除するように求めました。が、安藤がこれを退けたため、怒りのあまり堀は自殺した、というのです。そこで、これを遺恨に思った彼の家臣が、ヒュースケンを襲撃したのではないかと思われたわけです。 もっとも堀の自殺原因については、福地源一郎は「幕府衰亡記」の中で違う説を書いています。幕府としては、ハリスの周旋により、プロイセンとは条約を締結するが、他の国との条約は、依然として峻拒するという方針だったのです。ところが、この当時、ドイツはプロイセンにより統一の過程にあり、この時点においては、プロイセンはドイツ関税同盟の盟主となっていました。そこで、条約書には、プロイセンの外、関税同盟に属する各国の名が書かれることになったのです。その数、実に18カ国です。プロイセンを除けばほとんどが重要性を持たない小国である、ということは、ここでは問題になりません。これまでに5カ国と条約を結んだことが問題になっているのに、さらに一気に18カ国と新規条約を締結するのは、あきらかに朝廷にした公約への違反です。 そんな重要なことを、条約交渉が最終段階に入るまで、主席全権の堀が気がつかないでいた訳です。それでは安藤として、孝明天皇に対して顔が立ちません。そのことを安藤が怒って、激しく堀を叱責したことから、堀が責任をとって自殺したというのです。 当時、福地源一郎は水野忠徳の部下です。その水野の実見談ということですから、こちらの方が確度が高いと思われます。 ヒュースケン殺害の真犯人は、後になって薩摩浪士であることが判明しました。ヒュースケンを暗殺すれば、それにより幕府と列強の間がまずくなり、幕府が窮地に立つだろうということを狙って行ったものです。 これまであった外国人襲撃事件は、先に述べたように、アジア人蔑視の姿勢を見せる西洋人に対する感情的な反発から起きたものでした。それに対して、この事件は、外国人との関係では初めての政治的暗殺事件ということになります。そして、その犯人達の狙いは見事に当たりました。 (3) 在江戸外交団の横浜引き上げ ヒュースケンの死は、幕府としては十分警護をしていたにもかかわらず、本人が不用心に出歩くということを繰り返したことから起きたのは明らかです。したがって、幕府として責任を負うべき筋合いのものとは思えません。 が、先に述べたように、外国人襲撃事件が頻発することに加え、その犯人が一人も捕まっていませんでした。そういうことから、外国人側では、幕府による政治的暗殺ではないかと疑心暗鬼になっていました。つまり、幕府が暗殺からの警備を理由として、公使館警備の陣容を大幅に増強したため、公使館としての情報収集などが極端に不便になったからです。 そこにヒュースケン事件が起こったものですから、外国人達が過剰反応を起こしたのも、ある程度は無理のないことです。そこで幕府は、害意のないことを示すポーズとして、急ぎプロイセンとの話し合いをまとめ、事件の10日後の万延元年12月14日には通商条約を調印しました。 しかし、そのくらいのことでは、外国人達の動揺は収まりません。幕府が新潟開港を実施しようとしないのに腹を立てていた英国公使オールコックは、この機を捉えて、英国公使館にフランス及びオランダの代表を集め、数時間にわたって談合をしました。つまり、ヒュースケン事件に借口しながら、その直接当事者である米国の代表をわざと呼ばずに会議を開いたのです。米国に取って代わって、対幕交渉の主導権を持とうとする英国の野心が端的に見て取れる行動です。 そして、幕府には外国人を保護する能力も誠意もないので、一時横浜に引き上げ、海兵隊の力を借りて自衛の道を講じようと決定しました。本来、在外公館は相手国の首府に駐在してこそ、その存在の意義があります。それを首府から一斉に離れるというのですから、かなり異常な決定です。 オールコックはこれにより様々な狙いを同時に実現しようと考えていました。 第一に、ハリスが勝手に約束した、開港・開市延期をもう一度元に戻すための圧力ということです。先に述べたとおり、日本の開国により最大の利益を上げているのは、先鞭を付けた米国ではなく、英国の商人です。彼らは、当然の事ながら一日も早い全面開国を待ち望んでいたわけです。ハリスが開港開市の延期を、自分と直接の利害関係がないプロイセン問題と結びつけて受諾したのも、漁夫の利を占めたイギリスへの憤りにあることは間違いないでしょう。 第二に、それによりハリスの顔を潰すことで、これまでハリスが務めていた在日外交団の幹事役をオールコックに奪い取り、英国の対日影響力を増大しようということです。 第三に、領土的野心です。横浜の外国人居留地を、中国における外国人租界のように、自らの武力で守る治外法権の地とすることを狙ったのです。 特に、第一、第二の狙いが大きかったことは、本当の当事国であるはずの米国を除外してこの会談を開催したことに、良く現れています。 万延元(1860)年12月16日に、オールコックはさっさと英国公使館を横浜に移転してしまいます。これを知った幕府は驚倒し、困惑しました。 ハリスは、自分をあえて招かずになされた列国公使館を横浜に移すという決定には、絶対反対でした。何より、そのまま横浜移転に追随したりすれば、それまで2年近くもかけて営々と築いてきた在日外交団の幹事という地盤を失うことになります。そこで、オールコックに手紙を書いて巻き返しにでます。 手紙の中でハリスは、第一に自分は江戸での居住に何ら不安を感じていないこと、第二にヒュースケンの死は、夜間外出が危険であることを幕府が繰り返し警告しているのに、これを無視したためであること、そして第三にその少し前にイタリアのナポリで起きたフランス公使暗殺事件にも関わらず、列国がナポリから撤退していない事実等を指摘しました。さらに、フランス公使やオランダ公使にこの手紙の内容を伝えて、彼らの了解を求めたのです。 在外代表部が、その首都にいないというのはどう考えても異常な事態ですから、各国は結局ハリスに同調しました。こうして、オールコックの、少々非常識なデモンストレーションは失敗に終わり、万延2(1861)年1月21日には英国領事館自身も江戸に復帰する羽目になります。なお、この年は2月19日に年号が文久に変わります。 したがって、この事件は、結果として、いたずらに在江戸外交団の中におけるハリスの優位性を高めただけに終わりました。 (4) ヒュースケン事件の後始末 他方、ヒュースケン暗殺のニュースがワシントンに届くと、米国政府は、英・米・蘭・仏・露の軍艦をもって日本沿岸で軍事デモンストレーションをするように指示してきました。米国政府が、この時点でも、ペリー以来の砲艦外交を信じていることがよくわかります。硬軟取り混ぜた英国の外交に比べて、米国の姿勢が柔軟性を欠いていることが判ると思います。が、ハリスに直接動かせる艦船を与えたわけではありません。翌1861年から南北戦争が始まる、という時期なので、そんな余裕は米国政府にはないのです。 したがって、ハリスとしては、この訓令に従うには、他国、特にイギリスを動かす以外に方法はありません。が、江戸に居住していても何ら問題はない、と断言しながら、そういう要請をすることは、彼とオールコックの関係がこじれきっているこの時点では、不可能なことでした。 するとアメリカ本国は、それに代わる措置として、日本政府からヒュースケン暗殺に対する誠意ある回答を引き出すように指示しました。ハリスはそれを、日本から賠償金を取り立てるように、という意味の指示と考え、その後数ヶ月かけて幕府と交渉しました。これは、ヒュースケンの死は彼の自業自得であり、幕府に責任はない、と各国公使宛に公言したハリスとしては、実に変な行動です。 先のイギリス公使館移転騒ぎなどでハリスに借りがあると感じていた安藤信正は、しかし、この交渉に結局応ずることにし、文久元(1861)年10月23日になって、1万ドルの賠償金を支払うことを承諾しました。関税収入の洋銀を直接これに充てて交付したようです。 しかし、これは歴史的に見れば、大きな失敗でした。これにより幕府は外国人の襲撃事件で賠償金を支払うという前例を作ってしまったからです。以後、襲撃事件の都度、列強から賠償金をゆすり取られるようになります。そのピークが下関砲台砲撃事件で、幕府はその莫大な償金に苦労し、債務の大半を支払いきれずにいる間に滅亡して、明治政府に引き継いでしまうことになります。 7. 英国の対日政策の転換 (1) ロシア艦対馬占拠事件 万延2(1861)年2月3日、ロシア軍艦ポサドニック号が対馬に来て、そのままそこを占拠し、アジアの拠点としようとした事件が起きました。この時点で、幕府にはこれを強制退去させるだけの実力はありませんから、幕閣は狼狽しました。 4月になって、ようやく遣米使節の一員としてワシントンから戻って間のない小栗忠順(ただまさ)を対馬に派遣しました。この間に対馬では、ロシア側が暴行や略奪を繰り返すことに対して、住民が怒って抵抗運動を展開し、死傷者を出していました。しかし、小栗忠順はきちんと退去を要求するどころか、ロシア側に脅かされて「拙者どもかぎりでは取り扱い候あいだ、急速江戸表へ立ち帰」って指示を仰ぐと称してそうそうに逃げ出し、指示のあるまでの間は「なるたけ穏便に取り扱い申すべく候」と通達する、という弱腰ぶりです。小栗忠順という人は、官僚としてはかなりの才人ですが、こういう厳しい状況に即応する能力までは持っていなかったようです。 しかし、幕府以上に狼狽したのが英国公使オールコックです。クリミア戦争に敗れたロシアが、西への進出を諦めて、東に矛先を向けていることは明らかでした。この極東におけるロシアの脅威に対し、オールコックとしては早急に何らかの手を打つ必要がありました。彼は、ロシア艦が退去しない場合には、イギリスも対馬を占領して日本海における拠点にしようと意思を固めて、指揮下の軍艦オーディン号を派遣してロシア艦を威圧しました。この結果、8月に、ロシアは退去したので、イギリスによる対馬占拠という事態も起こらずに済みました。 幕府は単純にオールコックがロシアを追い払ってくれたと考えたものですから、これにより、オールコックと幕閣の間に一定の信頼関係が生まれたことは確かです。 (2) 第1次東禅寺事件とその波紋 幕府に対するオールコックの姿勢が大きく変わるのは、しかし、皮肉にも彼に対する攘夷浪士による襲撃をきっかけとしました。 朝廷は、この万延(1861)2年の2月19日に早くも改元し、年号を文久とします。その文久元年5月28日夜、英国公使館のおかれていた高輪の東禅寺が、水戸浪士17名によって襲撃されたのです。 この時点では、東禅寺の警備の主力は、旗本の子弟で編成していた別手組40名でした。この他に、中門の外を大和郡山藩が、また、裏手を三河西尾藩が警備しており、両藩併せて200人近い人間がいました。 この厳重な警備の中にわずか17名で切り込んだのですから、まさに決死の覚悟といえます。実は、この水戸浪士達は、戊午の密勅返納に反対して、斉昭により追われた一派の残党です。すなわち、井伊直弼暗殺者の仲間ということです。幕府の厳しい残党狩りに将来の展望を失い、派手な死に場所を求めて切り込んだのでしょう。 浪士達が、寺院内にどのように潜入したのかは判っていません。公使の寝室近くまで侵入したところで発見され、警備陣と斬り合いになります。結局、犯人のうち3人がその場で殺され、2人が重傷を負って捕縛されました。また、幕府は、事後に、直接襲撃したものばかりでなく、その一味も多数逮捕することに成功しました。 英国人では、第一書記官のオリファントと、たまたま来訪していた長崎領事のモリソンが負傷しました。そのほかは、無事でした。が、警備陣は合計で20人以上の死傷者を出したのです。 それまで、オールコックは幕府の行っている厳重な警備は、外国人を監視する事をかねての嫌がらせくらいに考えていたのです。が、目の当たりに浪士達の襲撃の恐怖を見て、考えが一変しました。確かに、貿易反対派の力は侮りがたいものがあり、したがって安易な開港場・開市場の拡大は、イギリスが条約を締結している相手政府を崩壊させるという悲劇の元となりかねないことを、はじめて理解したのです。 もっとも、理解したということと、列強としての利権を確保することは別です。すなわち、オリファント、モリソンに対する賠償金ということで、オールコックは、ヒュースケン事件の先例に倣い、1万ドルづつ、計2万ドルを幕府からゆすり取っています。 この東禅寺はさらに翌年5月にも襲撃されます。こちらの方は、その時期に東禅寺の警備を担当していた松本藩藩士1名が、やはり公使の寝室を襲おうとしてイギリス人水兵に発見され、水兵2名を斬殺し、自らも自殺した、というものです。この事件でも、幕府は賠償金として1万ポンドをイギリスから強請り取られています。 この二つの東禅寺襲撃を区別するため、先に書いた水戸浪士による襲撃を普通第1次東禅寺事件と呼びます。 (3) 遣欧使節の派遣 A 遣欧使節派遣までの経緯 少々話は遡ります。ハリスの画策により実現した、この前年2月の遣米使節の出発を、オールコックは焦慮の念で見送っていました。それにより、米国が日本における主導権を確立することができることは明らかだからです。 しかし、練達の外交官らしく、オールコックは直ちに失地の回復に取りかかります。すなわち、遣米使節がまだ出発の準備に追われている段階で、早くもオールコックは、江戸における米国の優位性を突き崩すべく、英国の外務大臣に、遣英使節招待案を書いて送っているのです。 その後、井伊直弼が暗殺され、久世=安藤政権になるとともに、幕府ははっきりと貿易に対して消極姿勢を見せるようになります。オールコックは、自由貿易主義の優越性を信じていますから、その立場から何とか幕府を説得しようとします。しかし、幕府は攘夷浪人の横行や朝廷の反対を理由に、新潟等の開港・開市はおろか、横浜の鎖港までもほのめかす始末です。その結果、開港を促す交渉は完全に膠着状態に陥ってしまいます。 そこで、オールコックとして考えられる唯一の打開策は、遣英使節の誘致ということになります。日本の為政者に欧州文明の優越を見せつけることで、攘夷や鎖港という政策は、時代に逆行するもので、列強側としては、到底受け入れ不可能であることを知らしめようというわけです。 ちょうどロンドンで1862年5月から国際大博覧会が開催されることになっていました。だから、それにあわせて日本代表がイギリスに行けば、欧州の文明を一度に見ることができます。またそこで日本の優れた工芸品を展示することにすれば、日本からの輸出促進にも繋がると考えたわけです。 幕府に打診したところ、幕府は喜んで応じてきました。ただし、幕府側の思惑は、オールコックとは全然別のところにあります。つまり、和宮降嫁を実現する際に、10年以内に再び鎖国体制に戻すという事を朝廷に公約しています。そこで、そのための了解を遣欧使節を派遣することで、本国政府から取り付けようというわけです。 しかし、先に述べたように、東禅寺の襲撃にあうことで、オールコックの意見は劇的に変化しました。警備陣が出した甚大な損害を見て、浪人が、外人への嫌がらせに幕府がそそのかして動かしている暴力団では決してなく、幕府と外国人双方にとって、真に危険な存在ということを理解することができたのです。 このように、幕府がいたずらに時間稼ぎをしているという先入観がなくなった後に開かれた、7月の9日及び15日の安藤信正のとの会見は、歴史的重要性を持ちました。それまでになかったほどのつっこんだ質疑応答が行われた結果、オールコックは、開港・開市問題で幕府が直面している危険がいかに大きなものかを、よく理解することができたからです。 B 遣欧使節団の構成員 文久元年12月22日、遣欧使節団は出発しました。幕府内部には、この時期の出発を、いたずらに攘夷論者を刺激するものとして難色を示すものがありました。しかし安藤信正は、これを断行すること決定したのです。この決断が、この翌年早々に起きる坂下門外の変の一つの原因となります。 一行は、正使、副使、観察使の3名に、通訳その他36名の部下を従えて英国軍艦オーディン号で出発しました。遣米使節の時は80名の随員でしたから、それに比べると半分以下の規模です。これは幕府財政が苦しい折から、渡航費用を全面的に招待者側に依存したので、招待者側から人数の削減を求められたためです。 招待費用を中心となって負担をしたのは英国ですが、そのほか、フランス、オランダ、ロシア等、わが国と条約を締結していた国が分担しました。したがって、使節はこれらすべての国を歴訪することになったわけです。 正使は外国奉行兼勘定奉行の竹内保徳、副使は外国奉行兼神奈川奉行の松平康直、観察使となったのは目付の一人、京極高朗(きょうごく・たかあき)でした。 実は副使は、当初、水野忠徳の予定でした。ところが、オールコックが強く異を唱えたのです。 一連の外国人殺害事件の一つに、ロシア軍艦の士官殺害事件があります。その時、外国奉行水野忠徳は神奈川奉行の職を兼ねていたのですが、事件が起きたとき、その責任を問われて、外国奉行と神奈川奉行の職をともに解かれていました。 オールコックは、そのようなロシア人襲撃事件の責任者とされた人物を遣欧使節の副使として派遣するのは、ロシアとの関係でまずい、と指摘したのです。おそらく、一連の外交交渉で幕府側の利益をもっとも明確に主張し、特に万延改鋳を推進したために、彼がオールコックに毛嫌いされていたことが真の原因でしょう。水野忠徳にとっては何とも不運な話でした。 なお、この遣欧使節団の随員には福沢諭吉、福地源一郎、松木弘安(後の寺島宗則)、箕作秋坪(みつくり・しゅうへい)等、維新後に活躍することになる俊秀達が多数含まれていました。この点、安藤信正の開明性を示すものといえます。井伊直弼政権下で、事なかれ主義の人選に終始した遣米使節のとの差を感じます。その意味でも"忘れられた遣米使節"に比べると遙かに重要な使節団でした。 しかも、この使節団は、日本側が本当の目的とした通商条約の改正に成功したのです。短期的には、この点に、この使節団の最大の重要性があります。単に形式を整えに行っただけの遣米使節団との大きな相違です。 (4) 開港開市の延期 オールコックは文久2年3月に一時英国本国に戻りました。その帰国に先立って、2月12日及び16日の二日にわたって、幕閣と最後の話し合いが行われました。この時、安藤信正は坂下門外の変で負傷していて欠席したため、もっぱら久世広周と話をすることになりました。久世は、開港・開市の延期がない限り、内乱の危機に直面していると訴えました。オールコックは幕府の窮状を理解し、幕府の提案に対して譲歩することを、ここに最終的に決意したのです。 遣欧使節団は、当初パリに行って条約改正交渉をしますがうまく行かないので、ロンドンに行きました。しかし、英国外務省としては現地情報が十分ではないため対応できず、結局、使節団はそこでオールコックが英国に帰りつくまで1ヶ月も待たされることになります。 しかし、オールコックは、帰国すると早速ラッセル外相に日本の状況を詳しく説明し、説得したので、英国政府は、オールコックの提案にしたがい、安政条約の修正を承諾することにしました。 遣欧使節団との間で、新潟、兵庫両港の開港及び江戸及び大阪の開市を1863年1月1日から5年間延期することを認める、という条約(ロンドン覚書と呼ばれます)を締結したのは、文久2年5月9日のことでした。交換条件として、函館、横浜、長崎3港では条約をきちんと遵守すること、外国人を排斥する古法は廃止すること、等がついていますが、さしあたり特に問題になるようなものではありませんでした。 日本市場に最大の利害関係を持つ英国が、このように譲歩したのですから、フランス以下の関係国もこれに倣います。この通称条約修正の成功により、幕府は攘夷の実行問題で一息つくことができるようになったのです。この激動期に5年の猶予は実に大きなものといえます。 しかし、次に述べるように、この時点では既に久世=安藤政権は崩壊してしまっており、その後継者達も、この猶予期間を生かして幕府を立て直すことはできませんでした。5年後の1868年とは、明治元年として知られる年なのです。 8. 坂下門外の変 安藤信正は、井伊直弼の場合と同じように、自分が攘夷派の浪士から襲撃される可能性が非常に高いことは十分に承知していました。そこで二つの予防策を講じていました。 普通、老中が登城するのは、井伊直弼と同様、桜田門からです。しかし、市中を長く歩けばそれだけ襲撃の機会が増えます。そこで、彼は前例を破り、自分の上屋敷から最寄りの坂下門から登城することにしていたのです。 また、剣術の達者なものを雇い、駕篭の回りに配置していました。もちろん、井伊家のように、柄袋をかけるような不用意なことはさせません。 文久2(1862)年1月15日、安藤信正は、6人の水戸浪士に登城の途中を襲撃されます。 襲撃者は井伊直弼襲撃の時と同様に、拳銃を一発発射した上で駕篭めがけて突進しました。しかし幸運にも、この拳銃弾ははずれました。駕篭脇の剣術使い達は、かねて予想していたところですから、一斉に迎撃します。安藤家の方が人数が遙かに多いこともあって、容易に襲撃者を切り伏せることができました。 問題は、この雇われ剣客達が眼前の敵を深追いしすぎたところにありました。そのため、駕篭の脇に誰もいなくなってしまった瞬間が生まれてしまったのです。その時、遅れて飛び出した浪士が駕篭に駆け寄り、扉越しに数回刀を突き通しました。駕篭の中で、安藤信正は必死に身体を伏せて、攻撃をかわしました。そのおかげで致命傷は負わなかったものの、それでも、後頭部及び背中に3箇所の傷を負ってしまいました。 襲撃そのものはホンの一瞬のことでした。安藤信正は、自分自身で坂下門まで出向き、襲撃にあって手傷を負ったので、今日は登城を取りやめる旨を、門を守る武士に告げた上で帰邸しています。その落ち着いた態度に、その場にいた者は皆、非常に感心したそうです。 しかし、彼の落ち着いた行動も、市中にデマが流れるのを防ぐことはできませんでした。 井伊直弼が暗殺されたときに、幕府は負傷しただけで生きていると発表したものですから、今回、軽傷にとどまったと発表しても、安藤信正は実際には死んでいるのだ、と、一時、デマが流れ、多くの者が信用してしまいました。 また、無事であることが判ったあとでは、浪士に追われて足袋裸足で坂下門に逃げ込んだ、という悪質なデマが流れたりしました。 実際には、軽傷でしたから、登城は遠慮したものの、病床から安藤信正は指示を出し、政治を動かし続けました。オールコック等、外国公使とも、病間で話をしたりしています。 9. 久世=安藤政権の崩壊 (1)謎の失脚 襲撃から3ヶ月後の文久2(1862)年4月11日、安藤信正は老中職を免ぜられ、失脚します。そればかりか、彼とともに内閣を構成していた老中達は、この前後の時期に一斉に免職になっています。すなわち、三河岡崎藩主本田忠民が安藤信正より前の3月15日に、越後村上藩主内藤信親が5月26日に、そして久世=安藤政権で筆頭老中とされていた久世広周が6月2日にそれぞれ免職となります。久世=安藤政権で老中職を務めていた者で残ったのは、わずかに丹波亀岡藩主松平信義ただ一人という徹底した粛正が行われたのです。 これまで幕府では、政権が変わっても、その中心人物が変わるだけで、閣僚の総免職ということはまずありませんでした。これに匹敵するほどの大粛正は、田沼政権末期に松平定信がやった大粛正が唯一の前例といえます。 (2) 崩壊の原因 なぜ久世=安藤政権がこの時点で崩壊し、その手段としてこのような総免職の形を取ったのかは、幕末史の謎の一つです。政権崩壊の理由が説明できないものですから、普通、日本史の本では、漠然と「坂下門外の変が原因となって」という曖昧な書き方をしています。しかし、坂下門外の変が原因なら、その直後に失脚するはずで、3ヶ月も間があいたのは不自然です。また、変の直接当事者である安藤信正だけならともかく、全閣僚に及んだ理由も説明できません。 普通、老中が失脚するには、将軍と衝突して免職されるか、閣内もしくは溜まりの間などの有力者と衝突して免職されるか、のどちらかです。 この時点での将軍は家茂ですが、やっとかぞえの17歳。へそ曲がりを自認していた勝義邦(海舟)でさえ無条件の忠誠を誓っていたほどの、実に気分の良い若者だったということです。実際の政治を精力的に動かしている老中を失脚させ、自ら親政を行おうとするほどの意欲的な人物では、間違ってもありません。 では、老中の中か、譜代大名、あるいは御三卿、御三家中に、彼を失脚させて政権を握るほどの実力者がいたのでしょうか。この時期にはそれもまったくいないのです。 現役老中の中で、ただ一人粛正されずに生き残った松平信義は、翌年9月まで老中の座を暖め続けます。が、はっきり言って小物で、以後の政局でもキャスティング・ボードを持つことは、まったくありませんでした。 その後の政権を担ったのは、本田忠民が罷免された3月15日に新たに任命された水野忠精(ただきよ)と板倉勝静(かつきよ)の二人です。前者は水野忠邦の息子であり、後者は、安政の大獄時に寺社奉行を務めていて、刑罰を緩やかにすることを主張して井伊直弼に罷免された人物です。確かに新鮮な人事ですが、いずれも少々小粒という感を免れません。彼らが、閣外から、上記大粛正をやってのけたとは、その後の彼らの政治能力を見ても、まず考えられないことです。 では、将軍でも、老中でもない誰が、この大粛正を演出したのでしょうか。 福地源一郎は、久世広周自身がやったのだという説を「幕末政治家」という本で書いています。つまり、安藤信正が井伊色を政権から一掃しようと努めたにもかかわらず、久世=安藤政権はなお井伊の後継政権と見られて、安政の大獄に対する恨みを浴びている所があったので、人心を一新するために、自分自身も含めた全閣僚の更迭を行ったのだ、というのです。つまり筆頭老中の自作自演だというわけです。 しかし、自作自演ならば、普通、退陣後も一定の発言権を維持するものです。ところが、その後の政治は、いきなり彼らのそれまでの努力を否定する方向に走り出し、さらに久世や安藤は新政権から厳しい処分まで受けています。単なる人心の一新策としては、あまりに馬鹿げた後任人事です。したがって、新政権樹立に久世の意志が働いているとはとうてい思えません。 国益会所問題で、勘定所側を安藤信正や久世広周が支持したため、それに敵対する大小目付から反発されたことが原因とする説も日本史の専門家の間では強く唱えられています。 確かに坂下門外の変後における、目付達の、安藤信正に対する反発は、非常に強いものがありました。先に述べたとおり、信正は伏せて攻撃をかわしたものですから、その傷は後頭部や背中についています。昔から武士には、向こう傷は名誉で、後ろ傷は不名誉とする考え方があります。そこで変後に信正が傷が癒えて出仕すると、目付は一様に彼に反感を示し、強硬派の中には、安藤候がこの後もお勤めならば目付は一斉辞職をする、と脅かす者までいたほどです。 しかし、下僚が反発する程度のことであれば、井伊直弼のようにばっさりとまとめて免職するなり、処分するなりすれば足りることです。内閣崩壊の原因とするのはうなずけません。そして、久世=安藤政権は、先に述べたとおり、自らの決定に目付が反対すれば、国益主法掛からばっさりと全目付を切り捨てるほどの実力と気概を持っていたのです。 坂下門外の変が起きたとはいえ、代わりの実力者が台頭したのではないのですから、彼の実力が急に失われたとは思えません。また、仮に安藤信正自身の実力が変によって失われて、彼の失脚原因となり得たとしても、久世=安藤内閣そのものの総退陣の原因としては理解できないといわざるを得ません。 島津久光からの圧力があったとする説もあります。久光は、4月16日に朝廷に提出した改革趣意書9箇条の中で、安藤信正の退陣を求めているのです。しかし、安藤信正の退陣は、この改革趣意書の提出より前の話なのですから、これも説得力を持ちません。 もっとも、幕府は、安藤信正免職の前日である4月10日に、会津藩の松平容保(かたもり)と越前藩の松平春嶽の二候に対し、政治に関して発言して欲しいので、頻繁に登城して欲しいという旨の将軍命令を発しています。松平春嶽に対する政治的発言の許容は、明らかに朝廷の歓心を買おうとする行為です。しかし、同時に佐幕派の筆頭というべき松平容保に同じ事を言っているところは、バランス感覚に出たものと言えそうで、この時点では必ずしも朝廷一辺倒とは思えないのです。 こうして現在ある説はどれも説得力に欠け、結果として謎の失脚としか言いようがないわけです。 とにかく、安藤内閣が崩壊した理由は不明ながら、6月2日の久世広周の免職により、政権は水野=板倉連立内閣へと移行することになります。 久世=安藤政権は、幕府が主体的に行動した最後の政権でした。それに先行する井伊政権の残した課題に積極的に取り組みました。井伊政権が経済その他の内政や外交で無能ぶりが目立つだけに、それとの対比で、久世=安藤政権は、その存続期間が短かった割には驚くほど多くの実績を上げた政権ということができます。 それに代わって登場した水野=板倉連立内閣は、事実上、島津久光の圧力の下に京都のリモコン内閣とでもいうべきものとなり、松平春嶽政治総裁及び一橋慶喜将軍後見職を受け入れ、次章に述べるように、幕府を瓦解させる方向へ、もしくはそこまで行かない場合にも、少なくとも自らの努力による問題解決を投げ出しているものとなってしまいます。 その意味では、久世=安藤政権が崩壊した瞬間に、正統的な徳川幕府の歴史は、その幕を閉じていた、ということができます。 財政という面から見て重要なのは、この政変以降、幕府官僚内部の力関係が大きく変動し、勘定所出身者の発言力が地に落ちた、という点があります。代わって目付の発言が幕府行政を動かすようになるのです。 社会が混乱しているときには、一般に、強硬意見が歓迎され、現実を見据えて一歩一歩改善しようというような意見は日和見主義と排斥される傾向があります。国益会所問題に見られるように、勘定所出身者は現実的解決を求めようと柔軟な姿勢を示すのに対して、目付は法令を出しさえすれば現実を動かせる、という錯覚をもっています。これ以後の幕府行政は、そうした現実から遊離した強硬意見によって支配され、幕府の没落を一層加速していくことになります。 (3) ハリスの帰国 米国公使ハリスは、かねてから健康上の理由から辞任を希望していましたが、この時期、ようやくその許可がおりました。安藤内閣が崩壊しつつあった文久2(1862)年3月9日、ハリスは彼の解任に関するリンカーン大統領からの親書を将軍家茂に上呈するため、将軍家茂に謁見を求め、これは3月28日に実現しました。これに答えて、安藤信正は、将軍家茂の名で、ハリスの多年の功績に感謝する国書をリンカーンに出しました。 ハリスは江戸を4月10日に出て、12日に横浜から出航する船で日本を離れたといわれています。11日の安藤信正の免職を、彼が去る前に知ったかどうかは微妙なタイミングといえます。 ハリスの後任はプリュインRobert H. Pruynです。あまり幕末史に名を見せない公使です。彼は小人物で、彼を通じて幕府がアメリカから軍艦を買おうとした時、なぜかそれを個人的に斡旋してくれと依頼されたと誤解して(あるいはわざと曲解して)民間企業との間に入って利鞘を取ろうとしたものですから、幕府はあきれて、以後相手にしなくなってしまったためです。 こうして、わが国幕末史で米国が活躍した日々も、ハリスの離日とともに終わりを告げることとなりました。 ハリスは、ほとんど軍艦の支援も受けず、単身で日本を開国させるという偉業を成し遂げたのですから、本来なら、リンカーンから英雄として迎えられても良かったでしょう。しかし、実際にはほとんど相手にされず、その後、不遇のうちに没することになります。 その原因は、ハリスの行動に彼特有の不明朗さがつきまとっていたことにあります。例えば、金銀比価の違いから小判の大量流出が起きたとき、英国公使館員の中にも、その利殖に手を染めて処罰されたものがいた、と先に書きました。ところが、ハリスの場合、そうした不正行為を取り締まる立場にいた彼自身が先頭に立って、小判の貯め込みをやっていたらしいのです。 また、横浜の米国商人の保護もほとんどしなかったので、在日米人の間から彼の罷免要求がでていました。彼の帰国は、そうした不明朗さを糾弾されての罷免という要素が強かったので、とても凱旋将軍というわけには行かなかったのです。 第5章 松平春嶽と文久の幕政改革 1. 文久2年の政変 (1) 島津久光上京 文久2(1862)年春、日本の西の端で、一人の男が、自分の力により、日本の歴史を書き換えようという決意を固めていました。島津久光です。通称を三郎といいます。 島津家では、幕末期、最初は名君斉彬(なりあきら)が登場し、積極的な殖産興業に努めて国力を発展させました。また、阿部正弘や松平慶永等と親交を結んで、中央政界にも一定の発言権を確保していました。将軍家定の妻に一族の娘を送り込むのに成功したのはその成果の一つです。 しかし、斉彬を支持する一派と、斉彬の異母弟久光を盛り立てようとする一派との間の陰惨な派閥抗争(直木三十五の代表作「南海太平記」にオカルトタッチで描かれています)の果てに、斉彬の子供達は皆不慮の死を遂げ、斉彬自身も安政5年に死去していました。斉彬は死去するに際し、藩内の紛争を終結させるべく、久光の子、忠義を後継者とし、久光をその後見人と指定しました。 斉彬は単にスケールの大きな政治家であっただけでなく、出自に拘らずに人材を発見する能力のある人で、大久保利通、西郷隆盛など多数の有能な下級武士を抜擢していました。斉彬が死ぬと、彼らは精忠組という秘密結社を組織し、水戸藩士と呼応して脱藩して、井伊直弼を暗殺することを計画しました。 既に脱藩用の船まで用意してあるというきわどいタイミングでこの情報をキャッチした久光は、彼らを呼び寄せ、斉彬の路線を今後とも継承する、と自ら説得して、この精忠組を自分の腹心とすることに成功しました。ただし、西郷隆盛だけは久光とそりが合わず、面と向かって悪口を言い放ったものですから流刑になっています。 結局、井伊直弼の暗殺には、薩摩藩士は一人だけ参加しています。彼の場合、江戸詰の精忠組だったので、暗殺に参加することを中止する旨の連絡が届かなかったのです。 こうして大久保利通以下の精忠組を取り込むことに成功した久光は、彼らを活用して藩政改革を行った結果、この文久2年春になって、いよいよ天下に向けて自分が動き出す準備は整ったと判断したのです。文化14(1817)年生まれですから、この年には45歳。まさに働き盛りです。 彼は何と、700余の兵を率いて上京したのです。小銃隊を従え、更に一応荷物に偽装してあるとはいうものの、4門もの大砲まで引っ張っての進軍でした。藩主自身ではないとはいえ、外様大名が、これほどの大兵を率いて旅をしたのも、また、京都に堂々と顔を出したのも、徳川幕府始まって以来初めての大事件といえます。幕政盛んな頃であれば、これほどのことをすれば、島津藩といえども取り潰しは避けられなかったでしょう。 そして、前章にも言及した改革趣意書9箇条を4月16日に朝廷に提出し、安藤信正の罷免、松平春嶽の政治総裁就任、一橋慶喜の将軍後見職を含む、朝廷による一連の幕政改革を建議したのです。 (2) 寺田屋事件 当時、尊皇攘夷志士はすでに京都を席巻し、天誅と称して盛んに無益な殺人や強盗を始めていました。そこに、これほどの武力を備えた久光が登場したのですから、朝廷は喜び、この過激派の取り締まりを依頼したのです。 この時、薩摩藩精忠組の中でも過激派の有馬新七を首領とする一派が伏見の旅館、寺田屋に集まり、京都襲撃を行おうとしていました。すなわち、京都において幕府を代表する機関である所司代邸に切り込んで、京都所司代を血祭りに上げ、それをてこに上京中の久光軍を動かして一挙に幕府を攻撃し、政権を朝廷に呼び戻そうという陰謀を巡らしていたのです。 久光は、基本的には公武合体的思想の持ち主で、兄斉彬の遺志を承継して、雄藩連合で幕府を動かすのが妥当と考え、朝廷を利用してその方向に幕府政治を動かそうと考えて動き出したのです。したがって、幕府そのものを滅ぼそうとは間違っても考えていません。 そこで、久光は、この暴動計画を聞いて激怒しました。有馬新七等と同じく精忠組である奈良原喜八郎ら8人を派遣して、薩摩藩士を召還することとしました。自ら慰留するというのです。しかし、召還を聞かなければ上意打ちをするように命じました。有馬新七が召還を拒んだ結果、精忠組同士の間で、激しい死闘を演じることになり、多数の死傷者を出しました。久光の非情な意思を内外に歴然と示した事件でした。これにより、薩摩藩の尊王攘夷過激派は壊滅します。 (3) 勅使下向 久光のこの断固たる措置は、同じく公武合体はが主流を占めるこの時期の朝廷では好評でした。そこで、朝廷では大原重徳(しげとみ)を勅使として江戸に派遣することとし、久光とその率いる兵に、その警護を命じたのです。700余の薩摩軍が勅使を中心にして東海道を下るわけです。 幕威盛んな時期であれば、大変な処罰を招きかねない行動です。が、京都所司代は、処罰を考えるどころか「島津三郎東下せば、幕府にては特別に礼遇ありてしかるべし」と江戸に報告しているのですから、既に腰が引けています。 水野=板倉政権では、この報を聞いて震え上がります。そこで、事前に京都の歓心を買おうと、井伊直弼の命により隠居させられていた尾張慶恕及び一橋慶喜に登城を促し、5月7日に将軍家茂と対面させたりしています。 勅使と島津久光は6月7日に江戸に到着し、10日に将軍に面会しています。勅諚(ちょくじょう)の原文は漢文で、かなりの長文ですが、それを要約すれば、外国がほしいままに暴れているのに、幕府はどうして良いか判らない状態にあるので、朝廷が知恵を貸そうということです。そして、最後に三つの具体的提案が書かれています。すなわち、第一に将軍が上洛して京都で政治を行うことを求め、第二に豊臣秀吉の故事に倣って大藩の藩主を五大老として、国政を決するに当たって是に計ることを求め、第三に一橋慶喜を将軍後継職に、松平春嶽を大老に、それぞれ就任させることを求める、というものです。 ただし、この全部を飲め、というのではなく、どれでも良いから、この中の一つを飲め、という要求になっています。どれも駄目だ、といえば、せっかく皇妹和宮の降嫁によって実現した江戸と京都の間の協調体制が崩壊します。だから幕府としてはどれかを受諾しなければなりません。 数日にわたり、幕府では抵抗しましたが、久光の武力をちらつかせての威嚇に腰が砕け、受け入れることになります。俗説によれば、大久保利通が隣室に刺客を伏せて幕府の幹部を脅したといいます。しかし、私はむしろ700余の武力そのものをちらつかせたのだと考えています。そうでなければ、数十万両の費用をかけて、薩摩からこれほどの軍勢をはるばる江戸まで動かした意味がないからです。 いうまでもなく、将軍上洛は天文学的な費用が掛かり、幕府財政が逼迫し、艦船購入や軍備の拡充で支出が急激に増大している折から、実現は困難です。五大老という制度の導入は、文字通り幕府の崩壊を招きかねません。結局、一番受け入れやすいのは、第三の、れっきとした徳川一門である一橋慶喜と松平春嶽の処遇改善という要求であることはあきらかです。実際、久光の狙いも、これによりかっての一橋派の復活にあったことは明らかといえるでしょう。 そこで、隠居させられていた一橋慶喜に、7月8日に、改めて一橋家を相続させた上で、将軍家後見職としました。 また、翌7月9日に春嶽は政治総裁職に就任します。勅諚通りに春嶽を大老にせず、新たに政治総裁という職を作ったのは、先に述べたように大老という職は井伊家など特定の家柄だけから就任するという幕府の慣行を守るための苦肉の策というべきでしょう。 しかし、同時に、この名称には諸外国の内閣制度を導入しようとする積極的な意欲も隠れています。以後、陸軍総裁、海軍総裁、外国総裁、会計総裁などの名称の職が幕府の滅亡までの間に次々と新設されるようになります。すなわち明治以降の名称でいえば、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣、大蔵大臣などに相当する官職です。 2. 新政権の政策 (1) 政権の担い手 一橋慶喜の側からこの政変を見ると、将軍後見職とは名ばかりで、実権を伴わない形ばかりの改革という感じでした。無能な老中達は、自分の上に責任者が生じたのを良いことに、徹底的に責任を回避するようになります。すなわち「老中も若年寄も概ね姑息偸安(とうあん=目前の安楽をむさぼること)にして、改革の誠意はなく、『いづれとも橋・越二公の御英断にあるべし』といいて、事毎に責任を避け」(渋沢栄一『徳川慶喜公伝』より引用)る態度をとっていたからです。 しかし、実際には大きな変革がそこには生じていたのです。すなわち、一橋慶喜は自分が単なるお飾りだったので、松平春嶽も同様の地位にあると思っていたのですが、これは錯覚でした。春嶽は、一橋慶喜を祭り上げておいて、実際にこの時期の幕府政治を動かしていたのです。 春嶽には二人の重要なブレーンがありました。一人は、横井小楠です。彼は文化6(1809)年生まれの肥後藩士ですが、安政5(1858)年、すなわち安政の大獄で懐刀であった橋本左内を失った春嶽によって越前藩に招かれ、藩政改革を指導して大いに面目を施しました。当然、春嶽が政治総裁となるとともに、その補佐役として活躍するようになっていたのです。 小楠は、「国是七策」を定めて、春嶽政権の施政方針としました。次の通りです。 一 大将軍上洛して、列世の無礼を謝す 二 諸侯の参勤を止めて術職(領内政治の報告書を将軍に提出する)となす 三 諸侯の室家(妻子)を帰す 四 外様譜代に限らず賢を選び、政官となす 五 大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなす 六 海軍を興し、兵威を強くす 七 相対貿易を止めて、官交易をなす この国是の背景には、もはや幕府単独で外国の侵略をくい止められる状況にはないので、挙国一致体勢で臨む外はない、という小楠の思想があります。そのためには諸侯が財力を蓄え、外国と戦える体力を付けることが必要だ、ということになります。それを実現するには、無用の支出を意味する参勤交代を廃止し江戸屋敷を縮小して人質となっている妻子を国元に帰すことが必要というわけです(二及び三)。また、春嶽政権の基盤となっているのは、一橋派と呼ばれた雄藩なのですから、その藩主に幕政に発言する権限を認める必要があります。(四及び五)。六に言っている軍備の増強は、したがって、単に幕府軍備のみならず、雄藩のすべてに対する要望と理解すべきです。 最後の七は、従来の日本史ではほとんど無視されていました。しかし、前章に説明したところを前提に見れば、ここで言っているのが、国益会所構想と同じものであることは明らかです。しかし、その国益会所は、春嶽政権の成立とともに廃止されています。なぜ廃止された国益会所構想が、ここに存在しているのでしょうか。 そこで、春嶽政権の第二のブレーンである大久保忠寛(ただひろ)が登場してきます。 幕府の中で実力を有する官僚集団として、勘定方と目付の二つがあったこと、国益会所を巡って両者が激しく対立し、久世=安藤政権は勘定方を支持して目付を切ったこと、を前章に述べました。その勘定方の支持者であった久世=安藤政権の崩壊は、当然の事ながら、勘定方の権力失墜を招きました。 相対的に、久世=安藤政権の下で逼塞を余儀なくされていた目付の権力が大きく延びます。上述のように、新政権の無能な老中や若年寄が責任回避をして、いわば権力の真空状態が生じている中で、元々実力のある目付の権力が延びれば、それが幕府を動かす真の権力となるのは当然です。こうして、権力の下方移動ともいうべき現象が起きたのです。 目付の中でも、この時期、突出して力を伸ばしたのが大久保忠寛です。彼は、この時点までは財政問題にも外国問題にも関わりを持たなかったため、本稿ではこれまで顔を出してきませんでした。が、彼も、阿部正弘が抜擢したエリート官僚達の一人という点では、これまでこの話で活躍してきた人々の一角を占めています。ただ、彼は目付として頭角を現してきたという点で、他の人々と違います。 彼は、安政6年2月に京都町奉行になりましたが、他のエリート達と同様、一橋派であると認められてしまったことから、井伊直弼によって、同年6月に西の丸留守居に左遷され、ついで8月に罷免されています。が、文久元(1861)年8月に蕃書調べ所頭取となって復活し、10月には外国奉行に就任し、久世政権が崩壊した時期である、この文久2年5月には大目付となりました。7月には更に累進して御側御用取り次ぎとなりました。 この大久保忠寛が、松平春嶽と緊密に結びついていたのです。まず何か改革の必要が生じると、その前夜に松平春嶽の屋敷へ大久保忠寛が行き、二人で夜半まで相談します。そして、翌朝出勤すると、評議の席で忠寛が話を切り出します。春嶽はもとより承知のことですから、それで行こうと直ちに決定を下します。しかも大小目付の大半は忠寛の親類といわれるような状況でしたから、目付達は一致して彼を支援します。この結果、一橋慶喜はもちろん、老中も若年寄も知らないところで、この時期の政策は決められ、実行されていったのです。 目付としては、国益会所の基本構想そのものは支持しており、ただ勘定所流の漸進的なやり方に反対していたものですから、勘定所流に組織された国益会所は廃止したのです。そこで、その基本構想だけは、依然として小楠の国是七策の中に生きていたわけです。 (2) 春嶽の政策 島津久光は、江戸滞在中に、今度は自らの名で幕府に20余箇条の献言をします。これは基本的には小楠の国是七策と同様のものですから、ここでは繰り返しません。春嶽政権は、以後、忠実にそれを遵守していきます。その特徴を一言にまとめるならば、幕府と諸藩の利害が食い違う場面では、幕府ではなく、諸藩の利益を優越させる、という特徴を示します。これを久光の指揮下にある700の兵力の威嚇の下に、実現していくことになったのです。 A 参勤交代の廃止 これまで諸藩にとり、もっとも大きな財政負担は、参勤交代の旅行経費及び大名子女の住む江戸邸の維持費です。そこで、春嶽政権は、久光の提案を受けて、閏8月になると、まず参勤交代制の緩和に着手します。これまで1年置きの参勤交代を3年に一回に延ばし、しかも一回当たりの滞在期間を100日以内と緩和しました。したがって、参勤交代による財政負担が5割以上も大幅に削減されることになります。 同時に、人質として江戸邸に居住を義務づけられていた大名の子女が、願い出れば帰国することも認められることになりました。これにより、江戸藩邸の維持費も大幅に縮減することができます。大名が江戸にいない間は、留守番だけをおいておけばよいことになるからです。 しかし、これにより、幕府は、重要な大名統制手段を失ったことになります。福地源一郎が、幕府の滅亡の時点は、一橋慶喜による大政奉還ではなく、将軍家茂が勅諚を受け入れて、春嶽を政治総裁にした瞬間だと書いていますが、それはこのような政策が理由です。 B 京都守護職の設置 文久2年閏8月に京都守護職の制度が設けられ、春嶽と並ぶ親藩の雄、会津藩の松平容保が任命されました。 京都守護職の任務はもちろん、攘夷派過激浪士の威圧です。これまで京都には、京都所司代の外、京都町奉行、禁裏付、二条城勤務の諸役、伏見奉行など数多くの職種が相互に独立して存在し、その相互の連絡の悪さが攘夷浪人の活動を容易にしていたのです。そこでこれらすべての役職を統括するものとして、京都守護職が設けられたのです。もちろん、雄藩藩主としては、主君の統制を離れて勝手に暴れる勤王の志士は苦々しいかぎりです。久光が江戸に来る途上で起こした寺田屋事件はこうした雄藩の意思の端的な表明です。 容保に対しては、役料として5万石が支給されました。史上空前の役料というべきでしょう。容保は、守護職職員として自藩の藩士1000名を伴って上京しました。この空前の役料は、そのための費用を見たものです。守護職の役宅は、上京区の御所の左側、現在の京都府庁の所在地に設けられました。 C 軍備の増強 上述の参勤交代の廃止は、それにより生じた財政上の余裕を利して諸藩が軍備を増強することを目指したものです。しかし、さしあたり幕府直属の軍事力を強化することが、政治総裁として可能なことです。 陸軍については、軍制改革を行い、歩兵、騎兵、砲兵の三兵を置くことにしました。しかし、幕府の直参を訓練する代わりに民間から募集することにした、という点が画期的です。 歩兵については、この年、12月1日に江戸市中の浪士や町人、農民から公募したのです。フランス陸軍士官を教官とし、洋式訓練が行われました。西の丸に1組、神田三崎町に1組の計2組、2万人を予定したというから大変な人数です。もっとも実際にはそんなに大量の応募者はいませんでした。それでもその後2年間で3500人に達したと言うことです。 編成は40人が1小隊、3個小隊をもって1中隊、5個中隊をもって1大隊、4個大隊で1組というものでした。制服は、ズボンに筒袖という洋装で、俗に茶袋と呼ばれていました。 この歩兵の最高指揮官として設置されたのが歩兵奉行で、最初にその職に就いたのは小栗忠順です。もう一つ、この歩兵奉行で特筆しておくべきは、長く続いた足高の制が廃止され、代わりにお役金として800両が支給されることになったという点です。貨幣経済の時代に、米の形で給料を支給されても、換金しなければ実際には使用できないわけです。ところが、米の売却価格は、その時々の市場で変動しますから、いくらの収入になるのか判らない、というところが困るところです。新しい時代の管理職手当が現金支給となったのは、きわめて当然のことですが、同時に封建制の伝統を破るきわめて画期的なことです。 また、この上司として、将来作られるであろう、騎兵や砲兵も統括する役職として陸軍奉行が設置されました。お役金として1500両が支給される、という地位です。最初にその職に就いたのは講武所奉行を勤めていた大関忠裕です。 海軍の方では、すでに安政6年に軍艦奉行の職が設けられていたことは、先に述べました。文久2年の改革では、それまでは別に存在していた御船手、すなわち幕府創世以来の海軍も、軍艦奉行の下に統合され、文字通り、幕府海軍全体の指揮者となった点が大きな変更です。 この時期、軍艦奉行の職にあったのは、井上清直、木村嘉毅(咸臨丸に乗った幕府使節)、内田正徳の三人でした。しかし、実務は大久保忠寛によって推挙された勝海舟が軍艦奉行並(なみ)という地位で切り盛りしていました。 陸軍と違って海軍は、軍艦とそれを操作できる軍人があって活動することがはじめて可能になりますから、陸軍のように気楽に大風呂敷を広げるというわけには行きません。当初、幕府としては、前に久世=安藤政権時代に決めた海防計画に従い、膨大な海軍を建設しようとしたのです。しかし、勝海舟は、船だけ買っても、それを操作できる人間が全くいないため、実際にはそれは机上の空論であることを、春嶽や老中達の前で鮮やかに論証しました。 結局、オランダに海軍技術を学ぶための留学生を送り出し、同時に10隻程度の船の注文をする、ということに落ち着きました。この時の留学生が、榎本武揚、津田真道、西周ら、幕末から明治にかけて活躍した俊才達です。 3. 春嶽政権の限界 (1) 報復人事 春嶽という人は、当時名君としての評判の高かった人で、今でも高く評価する人は多いようです。しかし、私は、阿部正弘と同様に、彼の才能は優れた人材を発掘する、という点に存在し、実際の政治能力はさほどではなかったと考えています。 すなわち、初期の春嶽の業績は、その懐刀といわれた橋本左内の能力によってもたらされたと考えています。春嶽の朋友、水戸斉昭が、その知恵袋であった藤田東湖を安政の大地震で失った後は、単なる攘夷派に成り下がったのと同じく、春嶽も、安政の大獄によって橋本左内を失った後は、馬脚を現す場面が生ずるようになった、と考えています。 左内亡き後は、前に名を挙げた横井小楠と大久保忠寛の補佐よろしきを得て、春嶽は前に述べたような新政策を展開して活躍しています。しかし、初期においては、春嶽は背後に控え、もっぱら左内が表面に出て活躍していたので、春嶽そのものの無能が目立たなかったのに対して、この時期は、政治総裁として春嶽自身が表面に出て動かなければならないので、ブレーンがカバーしきれず、時として、彼の持つ無能が露呈してしまうことがある、という点です。 その彼の馬脚の最たるものが、この文久2年11月に実施した、かっての政敵達への報復人事です。これ自体は、島津久光の要求に従ったものですが、彼個人の個人的復讐という面もあったはずです。 すなわち、井伊家に対して10万石の召し上げを命じたのを皮切りに、間部詮勝に対して1万石召し上げの上、隠居慎み。この二つは、安政の大獄の当事者ですからまだ判らないでもありません。 少々意外なのが、久世広周に対して1万石召し上げの上、隠居・永蟄居を、安藤信正に対して2万石召し上げの上、隠居・永蟄居をそれぞれ命じていることです。罪状はなんと井伊直弼死亡に際して、生きているなどと嘘をついた、ということです。あれは非常の際のやむを得ない判断というべきもので、因縁を付けているとしかいえません。 これは政治路線の対立によるものと考えられます。すなわち春嶽が寄って立っている雄藩連合構想は、久世=安藤政権の推進した幕府絶対主義の対局に立つものです。春嶽もまた、反対者を許せない、という体質の持ち主だったわけです。 彼らを筆頭に、合計23名もが様々な行政処分を受けています。挙国一致体制をとるべき時に、このように、旧怨をはらさずにはいられない精神というのは、醜悪と呼ぶ外はありません。 (2) 攘夷か開国か 島津久光は、表面上、攘夷を叫んでいます。しかし、島津藩は昔から密貿易をやっていた家柄です。本音で攘夷と言っているのではありません。幕府主導による開国に反対といっているのです。そのために、いったん元に戻せ、というのが薩摩の本音です。そのことは幕府の方でも十分に承知しています。その幕府を率いる者として、春嶽の意見は、攘夷と開国の間で激しく揺れ動きます。 当初、春嶽は従前からの一橋派としての路線を継承して、素朴に攘夷論を採り、したがって条約を破棄してもとの鎖国に戻そうと考えていました。これに対して、この時点では江戸町奉行の職にあった小栗忠順は次のように反論しました。 「政権を幕府に委任されているのは、鎌倉幕府以来のわが国で定まっている制度である。ところが近頃では京都から様々な注文が入るばかりでなく、諸大名からもいろいろと申し立ててくるようになった。そのため、いったん決めた政務を変更しなければならない事態に至るのは、もってのほかの政府の失態である。この上権威が振るわないことになれば、最後には諸大名に使役される存在に幕府がなってしまうであろう。」 このような調子で毅然といわれると、たちまち春嶽は意見がひっくり返ります。こうして春嶽の意見の迷走にあって、幕府そのものが確固たる路線を立てることができません。 この時期、大久保忠寛は恐るべき奇案を考え出しています。後に、坂本龍馬の献策により徳川慶喜が行った大政奉還がそれです。小栗忠順は、日本国の独裁政権としての徳川幕府の存続を願っています。これに対して、大久保忠寛は春嶽と同じく雄藩連合政権の最有力者という形でしか、徳川家を存続させる方法はない、と考えています。そのためのもっとも優れた方法は何か、といえば、大政奉還しかない、とこの知恵者は考え出したのです。 後に詳述しますが、この時期、京都朝廷はさらに様々な干渉を幕府に対して加えてきます。そこで、そうした差し出口を一挙に封ずる決めてとして忠寛が考え出した策なのです。確かに、この時期であれば、朝廷側には全く為政能力がありませんから、大政奉還といわれたら、京都は驚き、あわて、辞を低くして幕府に政権を担い続けるよう懇願したであろうことは想像に難くありません。 しかし、春嶽には、この劇薬的効果を持つ奇案を飲む勇気はありませんでした。 この構想は、皆さんご存じのとおり、後に勝海舟の弟子である坂本龍馬が復活させて、土佐藩を通じて一橋慶喜に建議しました。その時点ではすでに時代は動いており、慶喜の思惑に反して朝廷はあっさりとそれを受け入れて、幕府が滅亡することになります。 (3) 大久保忠寛の失脚 春嶽によって行われた安政の大獄に対する報復人事の一環に、なんと春嶽のブレーンである大久保忠寛が入るという珍事がこのとき起こります。先に述べたように、この時期、大久保忠寛は御側御用取り次ぎの重職にありました。が、彼はまず講武所奉行に配置転換されます。講武所奉行は役高5000石の重職ですが、御側御用取り次ぎと比べた場合には、政治的重要性は比較になりません。完全な左遷です。 さらに、今度は大変な因縁を付けられたのです。先に、大久保忠寛は、安政の大獄時に京都町奉行をしていて、井伊直弼の逆鱗に触れ、免職されたと述べました。今回、忠寛の処罰理由は、免職になる以前の京都奉行としての活動に、事実不分明な取り扱いがあった、という点に求められています。これが何を意味しているのかは判りません。 一説によると、彼はその支持基盤であった目付から攻撃されるようになり、一橋慶喜もこの動きに同調して慶喜自身が春嶽に、大久保忠寛の左遷を迫ったというのです。これも十分にあり得ることと思われます。目付達は、久世=安藤政権を憎むあまり、敵の敵は味方と考えて、大久保忠寛を通じて春嶽政権を支持したわけです。ところが、その政策の行き着くところは、幕府の弱体化にあったわけです。 当然、排撃運動に転ずるのは目に見えた話です。祭り上げられるだけで実権がふるえず、腐っていた慶喜と結びついて、さしあたり、春嶽のブレーンである大久保忠寛をつぶしに行った、というわけです。 また、一説によると、彼がこの時期、大政奉還を唱えたことが原因だというのです。この構想は、前に述べたとおり、実際に実施された時には幕府の滅亡を招きました。その意味で、この時点でしか役に立たない、まことに優れたアイデアであったと思われるのですが、ポーズだけであれ、政権を投げ出すという考えが春嶽の逆鱗に触れ、左遷されることになった、というのです。しかし、上に立つ者として、部下の特定の提案が気に入らないからといって一々左遷していたのでは人材は育ちません。人材登用の名手、春嶽の行動としては頷けないところがあります。 そういう訳で、これについても謎というほかはないのですが、とにかく、真の原因がなんであれ、大久保忠寛の短かった全盛時代はこの時終わりを告げ、差し控えを命じられた、ということです。 忠寛はその後、元治元(1865)年に5日だけ勘定奉行となりますが、4日後には罷免されます。彼が次に本格的に活躍するのは、幕府が滅亡した後になります。 この前後の時期に、春嶽はもう一人の重要なブレーンである横井小楠を失います。12月19日、友人宅にいた小楠を、彼の出身地である肥後勤王党の刺客が襲いました。しかし、幸いにも身一つで逃れることができたのです。が、肥後藩は、狼藉者に対して向かっていかずに逃げたのは士道不覚悟も甚だしい、と切腹を命じたのです。 肥後藩は、小楠という人材を理解できず、藩内に閉じこめて使おうとしませんでしたが、さりとてそれが他で活躍することも気に入らなかったのです。春嶽が小楠の優秀さを伝え聞いて、譲り受けようとしたときも、それを拒否し、派遣するにとどめていました。自分で使い切れなかった人材が、単に越前藩に止まらず、中央政界で活躍するのを見て、心穏やかではなかったため、この椿事を機会にかれを除こうとしたのです。 春嶽の意を受けた越前藩が必死に嘆願した結果、切腹命令は撤回されましたが、小楠は帰藩を命ぜられ、かつ帰藩後は士籍を剥奪されました。 * * * なぜ、春嶽はむざむざと大事な二人のブレーンを失う羽目に追い込まれてしまったのでしょうか。それは、春嶽政権を実質的に支えた重要な要素である島津久光が、この時期には江戸にいなかったからなのです。それどころか、彼は大変な置きみやげを残して中央政界から姿を消していたのです。 4. 生麦事件 少し時を遡ります。幕政大改革を実現した久光は、文久2年8月21日、早朝に江戸を立って、意気揚々と帰国の途につきました。東海道の沿道にある生麦村(現在の横浜市鶴見区)にさしかかったのは、午後2時くらいだったといわれています。 生麦事件の名で知られる惨劇の主人公となったのは、4人の英国人です。すなわち、中国での商売をやめて英国に帰る途中、日本に寄ったリチャードソンRichardson、横浜在住の商人であるクラークCrarke、同じくマーシャルMarshall、マーシャルの姉妹で香港在住の英国商人の妻バラデールBorradaileです。 この日、西暦だと1862年9月14日、日曜日でした。敬虔なクリスチャンであるなら、安息日ですから当然家に籠もって祈りでも捧げているはずです。しかし、英国公使オールコック自身がヨーロッパの滓と呼んでいた貿易商人達が、そんな殊勝なことをするはずはありません。彼らは不幸なことに、日曜日なので、馬で川崎大師まで見物に行ってみようと考えて東海道を行くうちに、久光の行列に遭遇してしまったのです。 久光の行列は、只の大名行列ではありません。先に述べたとおり、大砲4門まで引いた700名の兵の行軍なのです。行列の中には、馬も数十頭いました。この他に、記録には残っていませんが、久光自身や兵の旅装などを運ぶため、常識的に考えて、人足が少なくとも1000人以上はいたに違いありません。したがって約2000人という大変な規模の行列です。 この時代、東海道は場所によって道幅が違いますが、平均すればせいぜい二人が並んで通れるくらいし道幅がありません。したがって、大名行列が来れば一般庶民がその脇を歩く、ということは物理的に不可能です。土下座をしなければならない、とされていたのは、その意味で実に自然なことだったのです。 この時、久光の行列は、先導隊がまず進み、その後に100m程度の間隔をあけて本隊が続いていたといわれています。仮に全員がきちんと2列に並び、かつ等間隔で整然と歩いていたと考えても、行列の長さは1km以上もある計算になります。しかし、出発してからかなり時間も経ち、疲れが出てくる頃合いですから、たぶんある程度行列はばらけていたでしょう。したがって、数kmにわたって、ある程度の固まりに分かれつつ、道一杯に広がって人の波が進んでいる、という状態であったに違いありません。 リチャードソン達は馬に乗っているのですから、その高い位置から、行列がどの程度に密集していて、どの程度の長さがあるかを見て取ることは、容易にできたはずです。まともな神経のある人なら当然、馬から下りてこの行列の通行を待ったはずです。実際、彼らより前にアメリカ領事館書記官のヴァン・リードという人物がやはり馬に乗ってこの行列に遭遇しています。彼は、馬から下りて道ばたに退き、行列が通過し終わるまでそのまま控えていて、何の危害も受けていません。 ところが、中国からやってきたリチャードソンとバラデール夫人はあきれたことに、密集した久光の行列に構わず馬を乗り入れたのです。おそらく、行列の長さを見て、その通過を待ったりしたら、どのくらい時間がかかるか判らない、と思ったのでしょう。そして、中国ではそんな具合に、地元貴族の行列に馬を乗り入れるような無礼なやり方がまかり通っていたのでしょう。 これに対して、日本に住んでいるマーシャルやクラークは様々な対外国人テロによって、武士に対する恐怖を持っていますから、最初避けようとしたのでしょうが、リチャードソン等が行列に乱入したのを見て急いで追いかけました。そのため、10ヤードくらい遅れていたといいます。 久光が今回江戸に来た大義名分は、要するに幕府が公約として掲げている攘夷を実行しないので、攘夷実行を可能にする為の知恵を貸す、ということです。したがって、久光に対して外国人から無礼な行動があれば、何らかの処置にでなければならない立場にあります。 しかし他方、久光も、わが国政治の舵取りを務めようという野望に燃えているくらいですから、この時期の国際情勢の中で、外国人相手に、いきなり切り捨てごめんというような暴挙にでることの危険性は十分に承知していました。そこで、久光は帰国に先立ち、幕府に対して、外国人が騎馬で行列に乱入するなどの、無礼な行動があれば、堪忍できない場合があるので、大名往来に関するわが国の法律を幕府から各国公使の方に徹底しておいて欲しいという旨を届け出でています。 幕府も、これを受けて、英国公使館を始めとする各国公使館にその旨を通知してあります。しかし、なぜかこのことが居留民へは周知徹底されていなかったのです。知っていれば、マーシャルなど日本在住の商人達がこんな危険な小旅行を企画するとは思えません。横浜駐在英国領事ヴァイスはあまり有能な人物ではありませんでしたから、彼の職務懈怠が原因と見るべきでしょう。 島津家としては、事前にそこまで注意してあるのに、この中国呆けしたイギリス人達が、乱暴にも馬で乱入してきたのですから、対応は一つしかあり得ません。リチャードソンは腹部2箇所を切られて死亡、他の二人の男性が重傷、バラデール夫人だけが帽子を切り飛ばされ、馬が斬られて暴走してヒステリーは起こしたものの、無傷で逃げ延びることができました。さすがの薩摩隼人も、女性に剣を振り上げるのはためらわれたのかもしれません。 横浜在住の英国商人の中から犠牲者がでたのはこれが最初です。そこで商人達は一斉にいきり立ち、港に停泊中の各国の軍艦から海兵隊を送ってその夜、久光の行列を攻撃し、下手人及び久光を逮捕するように、英国公使に求めました。 先に述べたとおり、この時期、オールコック公使は、日英通商条約の改正のため帰国しており、英国公使館の責任者はニール代理公使でした。しかし、ニールは応じませんでした。私の見るところ、ニールが拒絶した理由は二つあったはずです。一つは、事件そのものが無神経な商人達が自ら招いて引き起こしたもので、自業自得だということです。今ひとつの理由は、そもそも攻撃しても勝てない、ということです。 繰り返しますが、この久光の行列は只の大名行列ではありません。大砲数門を含む、れっきとした軍隊なのです。しかも自分たちのしたことの政治的意味は十分理解していますから、事件後ただちに外国人側からの攻撃を予想して、当初横浜のすぐ目の前の神奈川宿に泊まる予定であったものを、一つ先の保土ヶ谷宿まで足を延ばしました。そして、宿場内では、迎撃のため、大砲を要所に配置し、小銃隊も伏せて、何時攻撃があっても対応できる準備を整えて待ちかまえていたのです。 この時期、薩摩隼人の剽悍さは必ずしも外国人達の知るところとはなっていません。しかし、ニールは職業外交官ではなく、駐在武官(陸軍中佐)です。このように近代兵器を備えて待ち伏せている部隊に陸上戦闘をして勝つためには、この久光軍を大幅に上回る大兵力を投入する必要があることは、十分に承知していたはずです。 ところが、この時点で、横浜にある英国の武力は、停泊中の蒸気フリゲート艦ユーラリアス号ただ一隻です。同艦は排水量2371tと当時としては、世界有数の巨大艦です。が、蒸気艦であるため、乗組員は帆走戦艦に比べて著しく少なく、わずか450名程度しかいません。艦の安全のためにある程度残す必要がありますから、ぎりぎりまで出しても、せいぜい300名くらいしか兵力はないことになります。他国の軍艦からも若干出して貰うとか、商人から義勇兵を募るなど、あちこちから兵をかき集めても、その倍になるかどうか怪しいものです。つまり、島津軍を下回る人数で、しかも陸戦になれていない水兵を中心とした寄せ集めです。これでは間違っても勝てません。 もっとも、襲撃しても勝てない、と正直に言ったのでは、興奮している商人達を説得することはできません。そこで、彼は冷静に、第三の理由を述べました。すなわち、仮に勝てたとすると、それは幕府の権威を失墜させることになる結果、内乱を引き起こすことになり、それでは英国がこれまで勝ち得てきた商業上の優位性を失うことになってしまうと説得しました。しかし、これが本音でない証拠に、その後、ニールは陸海軍の増強を本国や清国駐在官に求めているのです。 しかし、差しあたりは戦争は不可能ですから、次善の策として、幕府に対して、生麦事件の犯人逮捕と厳重な処罰をニールは要求しました。 これに対して、幕府は、老中水野忠精(ただきよ)及び板倉勝静(かつきよ)の連名で、大名領内には幕府の権力は及ばないので、貴意には添い難い、という趣旨の回答を出したのです。おそらく、これが対外関係で、幕府の滅亡を決定づけた致命的な発言だったと思われます。 これまで幕府は、対外的には日本全土を支配する、という建て前を崩していなかったのです。そして英国側もそれを疑ってはいませんでした。だからこそ、幕府を盛り立てる以外に、日本との健全な貿易は維持することはできない、とオールコックも考え、条約改正に応じたわけです。 ところが、水野や板倉は、無思慮にも、日本に、幕府以外にも当事者能力を持つ支分国家が存在することを明言してしまったのです。ニール代理公使は、この回答に接して、幕府の日本統治能力そのものに対して疑問を持ちました。 先に述べたとおり、久光が帰郷した翌月である閏8月になると、参勤交代の緩和と大名子女の帰国が認められました。ニールは、これを、各大名が国元の防衛力を強化して、外国と戦う体制を確立するための手段と理解しました。確かにそれが春嶽政権の意図ですから、正しい分析です。おりしも、長州藩が、瀬戸内海沿岸に大規模に砲台建設事業を展開中という報告が入ってきました。また、久光も、帰国後、鹿児島湾の防御力増強に全力を挙げているであろう事は常識です。 こうして、外国勢力が完全に疑心暗鬼になっている最中の文久3年2月1日、品川御殿山に建設中だった英国公使館が全焼するという事件が起きました。実はこれは、長州藩の過激派である、高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)等の仕業でした。 2月に入ると、ニールの要求に応えて、英国は、横浜の艦隊を増強し、最終的には12隻もの艦船を横浜に集結させました。これは幕末史上特定の外国勢力が集結させたものとしては空前の大海軍力です。こうして、十分な兵力を集められたので、これを背景にして、ニール代理公使は、2月19日、初めて幕府に対して強硬姿勢を示しました。生麦事件に対する幕府の無責任な対応に対するペナルティとして10万ポンド、先に述べた第2次東禅寺事件の遺族に対する賠償1万ポンドをそれぞれ要求する最後通牒を幕府に突きつけたのです。実際に兵力を手にするまでは具体的な要求を突きつけない、というこのあたりの行動は、いかにも職業軍人らしい慎重さといえます。 また、幕府が久光の臣下を自分では逮捕できない、という以上、英国艦隊自身が薩摩に行き、加害者の処刑と遺族への扶助金並びに負傷者への慰謝金として2万5000ポンドの賠償金の取り立てを直接藩主に要求するであろう、と通知しました。 ところが幕府はこれに対して返事を出すことができません。理由は簡単で、この時期、江戸に実は幕府の中枢メンバーはいなかったからです。将軍家茂自身が上京したのです。したがって、政治総裁松平春嶽、将軍後見職一橋慶喜はもちろん、老中以下、主立った官僚は皆それに随従して京都に行っていたからです。そのため、ニールに脅かされても、それに回答できる人間が全くいない、という状況にあったのです。 5. 将軍上洛 (1) 第2回勅使下向 将軍上洛に至る経緯は少々複雑です。久光がまるで自分の創見のように売り込んだ公武合体策は、実は久光に先行して、長州藩士長井雅楽(ながい・うた)が提案し、藩主が承認して長州藩として久世=安藤政権と協議してきた航海遠略策の焼き直しに他ならないのです。この政策が久世=安藤政権の崩壊とともに、宙に浮いてしまったわけです。そこに、島津久光が手柄顔で意気揚々と勅使を奉じて江戸に入ったものですから、長州藩としては強い反感を持ちます。 そこで、毛利家の世子は、久光が江戸に入る前日に、わざわざ久光とは道を変えて江戸を出て京に行きました。そして世論の主導権を握るために、あえて公武合体策ではなく、徹底した攘夷論で世論工作を始めたのです。毛利家は、その祖、元就の時代から権謀術数には非常に長けたところがあります。それがフル回転して京都で世論工作をしました。その結果、京都の論調は一気に攘夷論に傾きました。 そのため、久光が全ての要求をのませ、更に生麦事件まで引き起こして京都に引き上げてきても、もはや京都の態度は彼に冷たいものとなっていました。風向きを見るに敏な久光は、それ以上京都に長居することを断念し、速やかに国元に帰って、来るべき対英国戦に向けて錦江湾全域を要塞化する作業に取りかかりました。 長州藩は、こうした久光が消えた政治的空白をフルに生かして、公家のうちの過激派を焚きつけ、ついに朝廷世論を支配することに成功して、ここに第二の勅使が下向することになったのです。三条実美(さねとみ)及び姉小路公知(あねこうじ・きんとも)という過激公家の領袖が自ら勅使となりました。この勅使は10月27日に江戸に到着し、11月27日に将軍家茂に面会しました。到着から面会まで実に1ヶ月もかかったのです。理由は簡単で、何と答えたよいか、幕府の方で意見がまとまらなかったのです。 (2) 幕府の回答 ここで朝廷が出した要求そのものは別に問題ではありません。攘夷を督促したに過ぎないのです。 これに対して、攘夷を断行するのかどうか、肝心の松平春嶽の意見が固まっていないのです。京都守護職に決まった松平容保が京都の治安維持のためには攘夷を標榜する必要がある、と説けばそれに賛成します。驚いた一橋慶喜が開国論を説けばたちまちそちらに転向します。確かに難しい問題ではありますが、トップにこうくるくる意見が変わられては下の者は大変です。で攘夷派、開国派の両陣営から激しい批判を浴びると、辞表を提出する始末です。 具合が悪くなると逃げる。これは、これ以後、幕府滅亡までの間、春嶽だけではなく、慶喜にも老中達にも共通して現れる名門の貴公子らしいひ弱い行動ですが、その最初の現れがこの事件だったのです。 この時動いたのが勅使に随行して江戸に来ていた土佐藩の山内豊信(やまのうち・とよしげ)で、攘夷を標榜しない限り、関西は内乱状態に陥ると脅して、春嶽に辞表を撤回させ、幕府の意見を攘夷に統一させるのに成功したのです。 しかし、攘夷をする、といっても具体的にどうしたら良いか判りません。そこで、この勅使に対し、幕府は将軍が上洛して委細を回答する旨を述べて、時間稼ぎをしてしまったのです。将軍上洛自体は、前に紹介した横井小楠の国是七策にあるとおり、春嶽の基本政策ですが、それを勅使に対して明確に時間を限定して回答してしまったのは大変な問題でした。 (3) 上洛経費 将軍が上洛するのにかかる経費は大変なものです。結果的にいうと、家茂は2回上京し、その2回をあわせて約120万両を必要としました。第1回が約70万両、第2回が約50万両です。それだけの経費を投入すれば、内政・外交を充実するために様々な施策ができるはずなのです。それだけの経費を将軍上洛に投入して、それに代わる何かよい効果があるのか、というと、それがない、というところが最大の問題です。とにかく、効果以前の問題で、何と返事をしたらよいか自体が決まらないままに、この巨額の経費を投入することだけが決まってしまったのです。 家茂が老中その他約3000人の供を従えて江戸を出発したのは、文久3年2月13日のことでした。寛永11(1634)年に家光が上洛して以来、実に230年ぶりの出来事です。 この家光の先例にしたがい、出発に先立って京都市内の住民に銀5000貫(小判に換算してほぼ6万3000両)を、江戸市内の住民に金6万3000両をそれぞれ下賜しています。 また、禁裏に金5943両、銀8貫722匁、米15万俵を献上しています。 また、お供をしていく諸大名も財政が逼迫していますから、これに対する貸付金が11万両あまりとなっています。 このように、直接経費以外に、様々な馬鹿馬鹿しい経費がかかるのが、将軍上洛というものなのです。 6. 政治総裁の逃亡 春嶽には、京都情勢を甘く考えているところがありました。かつて橋本左内が春嶽の腹心として活躍していた時代には、難しいところは全部左内がやってくれましたから、春嶽は要所要所で顔を出し、左内から献言された台詞を吐いていればそれでことは足りました。何となく、春嶽は同じようなつもりでいたのでしょう。しかし、この文久3年春の時点で、現実に京都に彼が乗り込んだときには、彼には左内も小楠も大久保忠寛もいなかったのです。彼が初めて、自分の実力だけで政治の現場に立たされたわけです。 しかも朝廷のごり押しは彼の予想を遙かに超えていました。 将軍が京都に着いた翌日、将軍名代として参内した慶喜に対して下された勅書には、政治に関してはこれまで同様将軍に委任する旨の言葉があり、幕閣は安堵しました。ところが、その2日後に家茂自身が参内したときには、攘夷の決行のみを幕府に委任し、国内政治に関しては朝廷がかってに諸藩に命令する、というように勅書が書き換えられていました。攘夷派の激しい巻き返しを幕府は予想できていなかったのです。 さらに、攘夷決行に日限を切るように、と迫られます。春嶽等は、将軍が江戸に帰った上で鎖港交渉を始めたい、とがんばったのですが、許されず、将軍名代としての地位にある慶喜が、ついに4月中旬と口走ってしまったのです。 ようやく、将軍が京にいるだけかえって時間稼ぎができない、ということが判って、江戸に帰って鎖港交渉をしたいと要請するのですが、交渉は大阪で行え、といわれて江戸に帰ることが許されません。 この辺り、全く交渉の余地がない、という感じでした。 ここで、春嶽時代の終わりが来ます。彼は、辞表を書くと、夜逃げ同然に京から自分の藩に帰ってしまったのです。 肝心の政治総裁春嶽がいなくては、一橋派の大名達もやる気をなくします。春嶽の懇望で上京していた島津久光も、山内豊信も、宇和島藩主伊達宗城(むねき)も、暇を乞うて相次いで勝手に帰っていってしまったのです。 こうして、京都にある将軍家茂の補佐役は、慶喜と容保、及び老中水野忠精、板倉勝静だけとなってしまいました。まさに末期的症状ということができるでしょう。 第6章 小笠原長行と幕府の滅亡
松平春嶽が、攘夷を実行しろという朝廷の恫喝におびえて、政権を投げ出して夜逃げ同様に国元に帰ってしまった以降、幕府には、その滅亡までの間、中心となって政権を担当する人がいなくなります。 本来ならば、その任に当たるべきは、この時点における将軍後見職であり、また14代将軍家茂の死後は最後の将軍となった一橋慶喜です。しかし慶喜は、彼自身がくるくると気分が変わり、それに応じて極端に行動に振幅がある人物でした。しかも、自分の言動から必然的に生ずる結果に対する責任をとることを、少なくとも責任を追及されることを嫌う癖がありました。つまり、何かを言い出すことはできるのですが、自分自身の頭の中でそれに対する評価が変わると、その後始末は誰かがやってくれることを常に期待して、責任者の立場から逃げ出すという悪い癖です。したがって、政権の中心にあって、一定の方針の下に着実に行政活動を指揮監督し、必要に応じて自ら適切な行動をとる、ということはできませんでした。 そして、なによりこの時期、彼は幕府政治の中心地である江戸にほとんどいません。したがって、彼を中心に据えて、これ以降の時期における幕府財政を説明することは不可能なのです。 内閣としては、何度か触れたとおり、水野忠精と板倉勝静の連立内閣です。彼らの連立政権は非常に長く、安藤信正の失脚以降、幕府の滅亡まで一貫してその地位にあります。逆に言うと、無能、無難が売り物で、そのために長く政権の座に安住できたという程度の人物で、とても彼らの視点から幕末史を整理できるような人物ではありません。かっては、例えば田沼意次のように政権の首座にないにも関わらず、実質的に政治を動かしていた人物がいたりしたのですが、この時代には、古参の老中の中にも、他の老中を束ねて、政治の中心として活動できるほどの、才能と人徳を兼ね備えた人物はいませんでした。こうして、幕府という巨艦は舵取りを失った形で、幕末の風雲の中に突入し、沈没していくことになります。 幕府にとって、ただ一つの救いは、これまで幕府行政を実際に取り仕切ってきた官僚達、具体的には勘定方と目付達は、依然としてやる気を失っていなかったという点です。その結果、この時期以降も、幕府は、これが滅びようとしている政権とは思えないほど、様々な積極施策を行い、上方における慶喜のむら気ある行動を、財政その他の面で下支えし続けます。確立した官僚機構のすごみというものなのでしょう。 そして、この時期の幕府老中で、そうした下からの支援努力を集約して、幕府を助けようとして可能な限りの努力をし、最後には幕府そのものに殉じて滅びようとした人が一人だけいます。それが小笠原長行(ながみち)です。 この時期、歴史家の目は薩長側に向けられています。そのため、その大きな活動にも関わらず、小笠原長行の名は、日本史の上ではほとんど知られていません。例えば、現在高校で使用されている数十冊の日本史教科書のどれにも、彼の名はまったく登場してこないのです。亡国の臣の運命とはこういうものなのでしょうか。 小笠原長行という人は、幕末にいたって、突然登場した政治家です。その政治家としてのまことに短いながら華々しい活動の中で、たった2回だけ、出処進退を誤りました。我々凡人から見れば、生涯で2回の誤りは、問題にならないほどの少ない誤りです。しかし、幕府の運命がぎりぎりに迫り、徳川慶喜という実に気の変わりやすく、しかも部下に嘘を言って騙すことに全く良心の呵責を感じないという暗君を頂いて、彼が事実上、ただ一人で徳川家の命運を担っていた時期における誤りだっただけに、それはそのまま幕府の滅亡に直結することとなりました。 1. 小笠原長行の前半生 小笠原長行は、まことに不遇な人生を送った人です。後半生のそれは、幕府の運命に殉じて自ら選んだものですが、前半生におけるそれは、彼本人の選択というより、彼の属する小笠原家そのものが不運であったためです。 小笠原家というと、小笠原流という武家の作法を思い出される方が多いと思います。この流派の名称は、室町時代に、小笠原家の庶流に属する小笠原持長が将軍足利義教に仕えて礼儀作法を確立したことから来ています。したがって、徳川幕府にあっても、小笠原流の家元格で活動したのは一族の庶流赤沢氏で、小笠原本家そのものではありません。 また、小笠原諸島の名を思い出される方もあると思います。これは、小笠原家の祖先の一人、小笠原貞頼が文禄2(1593)年に発見したとされるところから来た名称です。しかし、小笠原家の家譜にこの事実は記されていないことから伝説のたぐいとされています。 小笠原本家は6万石格の譜代大名で、何人かの老中も出していますから、譜代中でも名門といえる家柄の一つです。譜代の大名らしく、江戸初期には頻繁に国替えをされています。その一環として、一時期、小笠原家は静岡県の掛川6万石の領主となっていたことがあります。 運の悪いことに、その時期に、白波五人男で有名な日本左衛門こと浜島庄兵衛が出現しました。彼は、東海道を荒らし回って名をあげた後、最後に何を考えたか、いくつもの関所を越えてはるばる京都まで行って自首しました。 これほどの大盗を捕縛できなかったばかりか、関所などもあってなきがごとくに通過されたことが明らかとなって、幕府の面目は丸つぶれになりました。しかし、幕府そのものに非を認めては封建体制が維持できません。そこで、小笠原家領内で庄兵衛が暴れたことがあるのに目を付けて、同藩を生け贄に罰することに決め、召し捕り不行き届きを理由に、福島県の棚倉という不毛な地に、藩そのものを左遷しました。延享3(1686)年のことです。棚倉は表高こそ掛川と同じ6万石ですが、実質4万石程度のやせた土地です。ここで小笠原家は財政難に苦しみ、数十万両の借財を抱えることになります。 文化14(1817)年になって、佐賀県の唐津に転封になります。前の領主は水野忠邦でした。つまり忠邦が老中になりたくて放り出した領地です。ここは表高は棚倉と同じ6万石ですが、物なりの豊かな領地である上に、長崎貿易の特権を認められているため、そこからの収入も莫大なのです。実質石高は20万石以上に相当するといわれました。ですから、小笠原家では、上下ともに、これで長年の貧窮から抜け出せると非常に喜びました。 ところがここに転封後まもなく、時の藩主である長昌が江戸藩邸で死亡しました。その長子が、悲運の公子である長行ということになります。彼は文政5(1822)年生まれで、父の死の時、わずか2歳でした。唐津藩には、長崎貿易の特権が認められている代わりに、長崎で何か事件が起きたときには、長崎奉行をバックアップして活動しなければならないという使命を負っています。その際には家老などを指揮官とすることは許されず、藩主が陣頭指揮を執ることとされています。したがって、幼児が藩主となることは許されません。もし、藩主の死と、幼君の相続を正直に幕閣に届け出れば、小笠原藩は、ただちに再びどこかへ転封ということになります。 そこで藩の重臣達は非情な決断を下したのです。すなわちれっきとした健全な世継ぎがいるにも関わらず、これを聾唖の廃人と幕府に届け出て、他家から養子をとることで、唐津に居座ることにしたのです。 ところが、迎えた養子がいずれも病弱であったり、早死にしたりという不運にあって、その後、わずか17年の間に何と4代も立て続けに養子をとる羽目になりました。 その間に長行は健康に成長したので、最後に藩が養子に迎えた長国は、長行より2歳も年下でした。それでも廃人と幕府に届けてしまっている以上、長行が家督を継ぐことはできず、別に養子が迎えられたわけです。 長行は、普通の世であれば、このまま埋もれて生涯を終えてしまうはずでした。しかし、井伊直弼が、不遇時代もせっせと文武の道に励んでいたのと同じように、彼も文武の道に励みました。水戸斉昭の懐刀であった藤田東湖などについて学問を学んだところから、そうした文人達を通じて彼が英才であることが、徐々に世に知られるようになってきました。唐津に鏡山という山があるそうです。鏡=明るいという言い換えをして、彼は明山と号していました。そこで、明山公子と呼ばれるようになったのです。この名そのものが、いかにも英才という響きがありますね。 彼の幸運は、30歳を過ぎてから、ようやく訪れました。ペリーの来航です。第1章に述べたように、阿部正弘はこの時広く意見を公募しました。長行はこれに応えて幕府に建白書を提出したのです。長い不遇に耐えかねて、積極的に自分の売り込みを始めたわけです。もっとも直接提出するのははばかられて、水戸斉昭を経由したようです。 この結果、幕府にも、この埋もれた英才の存在が知られるに至りました。とにかく国難の時期ですから、優れた能力を持つ大名は喉から手のでるほど欲しいところです。したがって、普通であれば直ちに幕閣へ召し出し、何かの役職に就けるというところです。しかし、廃人という届け出でがあって、世子にもなっていないのではどうにもなりません。 そこで、心ある諸侯などあちこちから藩主長国に圧力が掛かった結果、一門の次男と履歴を偽って、藩主の養子とし、ようやく世子となることができたのです。父とされる方が2歳年下というまことに奇妙な養子縁組でした。安政4(1857)年、長行36歳の時です。 しかし、それでも世子に過ぎませんですから、普通であれば、父親ということになっている藩主長国が死ぬか、隠居しない限り公職に就くことはできません。また、藩主になったところで、唐津に領地を有する限り、水野忠邦の前例に明らかなとおり、本来、老中になるということは、幕府の慣例上は不可能です。 彼が世に出ることができたのは、彼の生きた時代が幕末という非常の時であったからに他なりません。文久2(1862)年6月に、前々章に述べたとおり、安藤=久世政権が崩壊します。この6月に偶然、彼は、領国に戻った長国に代わって江戸にでてきて将軍に拝謁したのです。 人材に飢えていた幕府では、彼を世子としての身分のまま、7月21日に奏者番に抜擢します。奏者番というのは実権は何もない官職なのですが、なぜか老中になるための登竜門としての役割を担わされていました。さらに8月19日に若年寄に抜擢され、9月11日には老中格とされます。そして10月1日には外国御用掛に任じられます。 幕府の長い歴史の中で、このように、世子のまま老中格となったのも初めてなら、唐津藩から老中格となったのも、そして奏者番発令後わずか3ヶ月で老中格となったのも初めて、そして老中格の外国御用掛も初めて、という初めて尽くしの人事でした。幕府における人材の不足と、彼に対する世間一般からの期待の高さを端的に示す人事ということができます。 しかし、もちろんこれは彼にとって幸運とはいえません。前章に述べたとおり、8月21日に生麦事件が起きています。したがって、老中格とされたのも、外国御用掛とされたのも、彼に生麦事件の始末を付けさせるための人事であることは明らかです。ほとんど見習い期間もなく、いきなり彼は国の命運をその背に担わされたわけです。 もっとも外国御用係がつとまる人材が当時の老中にいたか、というと、間違いなく、ほかにはいません。長行は唐津藩の公子で、この長崎貿易という利益の多い特権が、彼の青春を奪っただけに、海外貿易に、当然強い関心を持っていました。幼い頃からたびたび長崎に行き、外国との交渉という概念そのものが、いわば自然に血肉となっていた、といえるでしょう。 彼は前に述べたとおり、水戸斉昭の引き立てで世に出たのですが、このような履歴から当然のことながら、彼は思想的に180度逆の開国派です。そこにも、幕府を支える官僚達との共通性が存在し、彼らに擁立されることになったわけです。 2. 生麦事件の後始末 前章に述べたように、松平春嶽は朝廷による攘夷要求に耐えかねて、文久3年3月に政治総裁職を投げ出し、夜逃げ(とは慶喜の表現ですが)同様に、越前に逃げ帰ってしまいます。 政治総裁のいない幕閣では、将軍後見職である一橋慶喜が最高責任者ということになります。慶喜という人は、本来思想的には開国派なのですが、前に述べたとおり、将軍家茂は攘夷の決行を迫る勅使に対して「勅諚(ちょくじょう)の趣、畏まり奉り候」と返事をしてしまっていますから、それ自体を翻すわけには行きません。責め立てられて返事に窮した慶喜は、3月19日、とうとう攘夷決行の期日は5月10日である、と返事をしてしまったのです。これが下関砲台砲撃事件などにつながる幕末における戦乱の原因となります。 こんなことを言った後の3月23日、慶喜は長行に対して、慶喜より一足先に江戸に帰り、対英交渉を行うように命じたのです。しかし、攘夷の決行を公約した後なのですから、対英交渉といっても、その中味は賠償金の支払い拒絶と、横浜の鎖港を実現しろ、ということです。 前章に述べたとおり、ニール英国代理公使は、要求を実現できるだけの史上空前の強大な海軍力を横浜に集めて、その上で初めて要求を出しているのです。したがって、それを全面的に拒絶しろ、というのは、不可能を要求しているのに他なりません。しかも、長行に与えられた時間はほとんどないのです。というより、もう時間がなくなった時点で命令が下った、という方が正確です。 ここで簡単に時系列を追ってみましょう。ニール代理公使から、20日間の期限付きで賠償金支払い要求が出たのが、文久3年2月19日のことです。将軍家茂が江戸を出発したのが2月13日ですから、その1週間後ということになります。外国奉行の竹本正雅が急いで将軍の後を追い、掛川で追いついて報告していますが、もちろん将軍自身は処理能力を持っていません。時間を稼ぐようにいうだけでした。 2月19日の20日後ですから、3月9日が期限です。しかし、幕閣の主要メンバーが上京してしまっているのですから、もちろんこの日までに回答をする、などということは不可能です。江戸の留守を守る外国奉行では、ニール代理公使と交渉して、期限をもう15日延ばしてもらいました。しかし、責任者がいないのですから、この程度の延期ではどうにもなりません。さらに何度かの交渉の結果、将軍が江戸に帰る当初予定の4月6日まで、期限を延ばしてもらうことを、ようやくニールに了解させることができました。 しかし、春嶽はもちろん、慶喜も、こうした外国奉行達の勝ち取った時間的余裕を全く生かすことなく日を送り、上記のとおり、期限ぎりぎりの3月23日になってようやく長行に対応しろ、と命令したわけです。長行は、この理不尽な命令に抵抗します。が、再三強いられてやむを得ず引き受けます。 よりによって長行に命令する、ということ自体、非常に不自然な感が強いことは否めません。なぜなら、前に述べたとおり、彼は開国派であり、そのことは、2度目の勅使により春嶽が右顧左眄し始めて以来、再三、口頭あるいは文書で意見として述べています。そのことを百も承知の慶喜が、彼に攘夷の実行者になれ、と命令するのには、当然隠れた意図がある、と思う方が自然でしょう。つまり、慶喜としては攘夷は実行してほしくないのですが、彼自身が攘夷を実行すると天皇に対して公約しているので、自分が賠償金支払いの責任者になりたくないのです。そこで、自分の代わりに責任をとってくれる人間がほしい訳です。長行にはこの考えは明白に読みとれたでしょうから、引き受ける段階で、当然、最終的な結果を引き受ける覚悟を固めていたものと思われます。 長行が京を出発したのが3月25日、江戸に着いたのが4月6日、すなわち最終期限の日です。しかし、外国奉行の方で、将軍帰着の予定が立たないことをニールに伝えてありましたから、ある程度の時間的余裕が生じていました。すなわち、前章に紹介したとおり、将軍家茂は予定通り江戸に帰るどころか、この時期には事実上朝廷の捕虜になったようなもので、何時帰れるか、全く目処も立たない状況にあったわけです。 長行としては、英国海軍と戦えるだけの軍事力を全く与えられていないのですから、江戸が焦土となるのを避けたかったら、賠償金を支払うほかはありません。しかし、独断でそれを強行しては、当時の日本では命がいくつあっても足りません。 慶喜は、長行だけでは十分に決定力がないことを承知していて、兄である水戸慶篤(よしあつ)を将軍の目代として、長行の後を追って江戸に帰らせました。水戸慶篤が江戸に着いたのが4月11日です。 そこで、水戸慶篤が中心になって、御三家の今ひとつの家である尾張慶勝(よしかつ)にも出席してもらって閣議を開くことにしました。しかし、建て前と本音の落差は誰もが承知していますから、議論は錯綜します。長行は、わざと攘夷の実行を唱えて議論を混乱させたりしています。慶喜の理不尽な命令に対する腹いせの現れでしょう。 結局、結論として賠償金の支払いを決めたのは4月21日のことでした。しかし、幕閣の最高責任者はあくまでも慶喜ですから、彼の了解を取る必要があります。そこで、ニールのほうには5月3日以降に分割払いする、と返事をして時間的猶予をもらうとともに、慶喜に連絡を走らせました。 その慶喜は、4月22日に京を出発したのですが、わざと時間をかけて江戸に向かっています。前にも触れましたが、彼の悪い癖で、責任をとるような行動はしたくないのです。彼としては、不在の間に賠償金の支払いがおわり、彼がその非を責めるが後の祭り、という形が好ましいわけです。 4月21日の決定の連絡を、慶喜は4月26日に、愛知県の熱田で受けています。賠償金を支払いたい、という連絡に対し、慶喜は、自分は攘夷決行の命令を朝廷から受けているので、そのような決定を認めるわけには行かない、中止せよ、異存を申す場合には手打ちにする、というむちゃくちゃな返事をします。 こんな返事を受けては、部下としては時間稼ぎをするほかはありません。長行は、自分が病気になったので、3日間、賠償金の支払いを延期してほしい、と称して、改めて部下に英国側と交渉させます。しかし、仮病と読んでいるニールは、激怒したふりをして、約束通り賠償金を支払わないなら、艦隊行動を開始する、と回答します。もちろん脅しですが、実力を背景にしているだけに無視できません。 そこで、期限を過ぎた5月4日の閣議は揉めに揉めました。しかも、その閣議の最中に、慶喜が再び浜松から、賠償金は支払うな、拒絶交渉をしろ、という命令を送ったのが届きました。これではどうしようもありません。尾張慶勝はすでにこの前日、京に行って賠償金支払いの必要を上奏する、と称して江戸から逃げ出し、名古屋城にこもってしまいました。ほかの閣僚達も、この翌日からは登城してこようとはしません。 5月5日には、横浜にフランス海兵隊が上陸します。なお、このフランス海兵隊は、その後、数年間横浜に駐留し、横浜外国人居留地の租界化を図ろうとします。翌5月6日には英国海軍司令官が各国公使に対して軍事行動に出ることを予告します。 この時期の江戸市民の反応については、福沢諭吉の『福翁自伝』に活写されています。福沢諭吉も含めて、江戸市民が英艦隊の攻撃開始必至と覚悟して、様々なドタバタ喜劇を繰り広げていたようです。 ここにいたって、長行は覚悟を決めます。5月8日の朝、起きると彼は船に乗ります。この後の彼の行動について、福沢諭吉は次のように描写しています。 「いよいよ今日という日に、前日まで大病だと言って寝ていた小笠原壱岐守がヒョイとその朝起きて、日本の軍艦に乗って品川沖を出ていく。スルト英吉利の砲艦が壱岐守の船の尾について走る。というのは、壱岐守は上方に行くといって品川湾を出発したから、もし本当にその方針をとって本牧の鼻を廻れば英人は後から砲撃するはずであったという。ところが壱岐守は本牧を廻らずに横浜の方に入って、自分の独断で即刻に償金を払ろうてしまった。10万ポンドを時の相場にすれば、メキシコドルで40万になるその正金を、英公使セント・ジョン・ニールに渡してまず一段落を終わりました。」 江戸市民から見て、彼の行動がどんな風に映ったかが判っておもしろいと思います。 もっともこの記述、記憶に頼っているため、あちこちが不正確です。すなわち、横浜に行った8日には、長行は、最後の交渉に自身で駆け回っただけで賠償金の支払いはしていません。しかし、これだけこじれた後ではいかんとも手がなく、翌9日に支払った、というのが正しい事実です。また、支払ったのは、44万ドルです。すなわち、この時、生麦事件の賠償金40万ドルに加えて東禅寺事件の賠償金1万ポンド、すなわち4万ドルも同時に支払っているからです。当時の邦貨に換算すると、26万9066両2分2朱ということになるそうです。ついでに言えば、この時点では長行は壱岐守ではなく、図書頭(ずしょのかみ)でした。彼が壱岐守になるのは、翌元治元(1864)年9月のことです。 この支払いは、神奈川運上所(現在の神奈川県庁所在地)から英国公使館まで馬車で運ぶ、という方法で行いました。小判だと千両箱というのに入れますが、メキシコドルの場合には2000ドル入りの箱を使っていたそうです。割算すると、220箱と言うことになります。この大量のドル箱を馬車を22台連ねて運んでいったわけです。英国側では、中国人の貨幣鑑定人をあちこちから借り集めて貨幣の検査と鑑定にあたらせました。アーネスト・サトーの書き残している所によると、鑑定が終わるまでに丸三日かかったそうです。幕府に対する英国側の不信感がよく判る話です。 ここで二つ疑問が生ずると思います。一つは、なぜこれだけ大量のメキシコドルが、この時の横浜にあったのかということです。原資は、言うまでもなく、横浜貿易の関税収入です。予め江戸から運んであったのだ、という説もありますが、これほど大量の資金を密かに江戸から運ぶことは不可能です。しかも、運上所に入った関税をいったん江戸に運んで、また戻すのは無駄なことです。私は、ニールから賠償金の支払い要求が出た段階から、長行がそれ以降の関税収入を意図的に運上所に蓄えておいたのだと考えています。 今ひとつは、なぜ運上所役人は、長行の命令に従ったのか、ということです。この時点では、長行はまだ老中格であって正規の老中ではありません。格がとれて正式の老中になるのは、慶応元(1865)年になってからになります。しかも外国係であって勝手係ではありません。したがって幕府の命令系統的に言えば、公金の支払いを命ずる権限は持っていないのです。 前に江戸幕府財政改革史で、幕府における財政制度整備の歴史を詳しく説明しました。簡単に言えば、この時点における幕府財政制度は、同じ時代の米国や英国よりも遙かに近代的なもので、ほとんど今日の財政制度と遜色がないのです。仮に現代において、どこかの省の出先事務所に、ある日突然他の省の大臣がやってきて、金庫の中の公金を支出するように命令したからと言って、おとなしくそれに応ずる官僚がいるでしょうか。 この時の運上所の係官は、それと同じ立場にあります。したがって、いくら長行が責任をとる、と言っても、命令系統にない者の言うままに動いたのでは、幕府の官僚制度の下においては、当然の結果として、運上所の責任者も連帯責任になってしまいます。 つまり、長行のこの日の行動は、巷間言われているほどの個人プレーではないのです。確かに慶喜の承認を得ないで行った違勅の行動ではありますが、幕府の官僚機構的には完全に承認され、事前に彼の命令に従うように、という通達が届いていた、と考えるのが正しいのです。 また、実はこの時、水野忠徳が同行しているのです。このことも、決して長行が衝動的に屋敷から飛び出してきたわけではなく、ちゃんと関係者と連絡した上で行動したという事実を示しています。水野忠徳は、この前年の久光の武力を背景とした政変に際し、いち早く隠居してこの時期、痴雲(ちうん)と号していました。が、春嶽の失脚とともに再び勘定方ににらみを利かしていたわけです。その彼が同行している、という事実は、これが正規の勘定方に属する行動である、ということの証左になるわけで、たからこそ、運上所役人は、素直に公金の支出を認めたのだと思われます。 受け取った英国側では、これほどの大金を公使館内においておくことに不安を覚えたのでしょう、英国艦隊の旗艦、ユーリアラス号に載せることにしました。ユーリアラス号でも、これだけの大金を置く場所はありません。そこで、艦底の火薬庫の前に積み上げました。つまり、このお金をどうにかしない限り、ユーラリアス号は大砲が撃てない状態になったわけです。このことが、同艦の薩英戦争における悲劇を引き起こします。 一橋慶喜は、のんびりと東海道をやってきて、まさにこの5月8日の朝に、横浜とは目と鼻の先の神奈川宿につきました。宿場にはいると、神奈川奉行を呼んで江戸の状況を聞いています。おそらく、賠償金交渉の進捗状況次第では、ここで仮病を使って長逗留するつもりでいたのではないか、と私は疑っています。そうでなければ、さっさと通り過ぎて江戸に急ぐ方が自然な行動だからです。そうしていれば、生麦事件でも判るとおり、楽にその日のうちに江戸に入れます。 こうして江戸の情報収集をやっている最中に、長行の乗った幕府の軍艦が横浜湾に入ってくるのを、ひょっとすると慶喜は自分の目で見たかもしれません。繰り返しますが、慶喜はこの時点における幕府政治の最高責任者です。そして、賠償金の支払いを禁ずるということは、長行が京都を出発するときに口頭で命じたばかりでなく、道中の熱田と浜松からも重ねて命じています。長行が最後の交渉をしているのは判ったはずですから、この命令を本当に遵守させるつもりなら、当然、船を出して慶喜自身が長行のいるところに向かうか、逆に長行を呼びつけるか、という行動にでたはずです。 しかし、慶喜のしたことはその正反対の行動でした。それまでの鈍行ぶりからは想像もできない話ですが、夕方の4時くらいという、普通なら宿に入ろうという時刻に、馬を出させて、急いで江戸に向かったのです。江戸に着いたのは夜の10時くらいといいますから、暗い中をずいぶん長時間走らせての強行軍をしたことになります。 もしそうせずに神奈川宿にそのまま泊まれば、当然神奈川奉行がそのことを長行に報告しますから、長行が指示を仰ぎに来るはずでしょう。すなわち、この不自然な時間の出発は、明らかに、慶喜が長行に会うことを避けて江戸に逃げた、という以外の解釈を許さないと思います。会えば、その翌日の賠償金支払いの責任をとらねばならないことになるからに違いありません。 こうして、翌9日に長行が自分の責任で英国に賠償金を支払ってくれた結果、事態は、慶喜としては理想的な形に落ち着きました。すなわち、彼自身は勅命を忠実に守って、再三賠償金の支払いを禁じたにも関わらず、部下が勝手に支払ったのです、と胸を張って?天皇にお答えすることができる状況になってくれたわけです。 5月14日に、慶喜は後見職辞職を願い出ます。攘夷の勅命を受けていたにも関わらず、部下が勝手に賠償金を支払ったのが申し訳ない、という趣旨の文書だったそうです。 福地源一郎は、この時期以降、幕臣が慶喜に不信感を持つようになった、と『幕府衰亡論』の中で書いています。すなわち、もともと慶喜は心情的には開国派です。それなのに、やたらと攘夷を実行しろと言い立てるのは、これを利用して将軍家茂を失脚させ、自分が取って代わろうという野望を持っているためではないか、と幕臣は一般に疑うようになった、というのです。 この疑いの当否はともかく、この時点以降、江戸にいる官僚達が、実行不可能な攘夷というものを安請け合いし、その尻拭いだけを要求してくる、上方に駐在している幕閣に対して大きな不信感を持つようになったことは間違いのない事実です。このため、官僚達は、長行を担いで大変なことを始めるのです。 3. 率兵上京 小笠原長行が、横浜で英国に賠償金を支払ったその翌日、5月10日こそ、慶喜が朝廷で攘夷決行期限として公約した日です。そこで、5月9日、賠償金支払い業務を行う一方で、長行は勅令に忠実に、各国公使に対し、鎖港を通知する文書を発しています。もっとも、各国公使からの問い合わせに対し、外国奉行は口頭で、これは形式だけのことだ、と返事をしています。 そこで、各国公使の方では、強硬な抗議を申し入れていますが、その抗議文の中で、幕府に対する資金援助等を匂わせるという微妙なものとなっています。これは、各国ともに、幕府の鎖港通知が朝廷に対するポーズであることを承知しており、したがって日本との通商関係を維持するためには、朝廷支配を打倒する必要がある、と考えるようになったこと、そのためには資金援助等を考えるようになったことを示しています。 ただし、忠実に?勅命を守って攘夷活動を始めた藩もあります。長州藩ではこの日から、関門海峡を通過する外国船に向けて砲撃を開始しました。もっとも、後に詳しく説明しますが、狙いが不正確な上に、射程距離が短いものですから、何の被害も与えていません。 そのニュースがわが国の朝野を震駭させた余韻も冷めやらぬ5月26日、小笠原長行は、彼の名を歴史の上に刻む第二の行動に出ました。率兵上京事件です。 前章で、春嶽政権の下で、幕府が洋式軍隊を創設したことを説明しました。この時点における、そのほとんど全員を引き連れて、彼は幕府海軍の船を使って上京したのです。具体的に言うと、連れて行ったのは騎兵奉行及びその指揮下の騎兵隊150名、歩兵奉行及びその指揮下の歩兵方100人、歩兵1200人、外国御用出役150人、計1600人という大部隊です。 1600人という人数そのものは、戦国時代の軍勢を考えると、そう多いものではありません。しかし、長きにわたって平和の支配した徳川時代には、これは大変な大部隊です。島津久光が700人の兵を率いて江戸まで来たおかげで、日本史の書き換えに成功したことを考えてください。 しかも、単に頭数が多いだけではありません。1年間とはいえ、洋式訓練を受けてきています。慶応2(1866)年に起こった第二次長州征伐の際、幕府軍は四方面から長州に攻め込みましたが、三方面まで撃退されました。ただ一つ、撃退されるどころか、長州軍を押しまくったのが芸州口で、そこの主力部隊が、この洋式歩兵隊だったのです。したがって、この時代における日本最強の軍といっても過言ではない存在でした。これが完全武装して小笠原長行にしたがって上京したわけです。 幕府海軍の蟠龍、朝陽、鯉魚門の3隻及び英国の民間汽船エルギン号及びラージャー号の2隻の計5隻にこれらの兵を分乗させて紀州の由良まで行き、ここで大阪から迎えに来た幕府軍艦順動と合流し、英国汽船に乗っていた兵をあらためて幕府軍艦に移譲させて、幕府軍艦だけで大阪まで行きました。 この事件について、長行自身がどのような意識を持っていたかははっきりしません。しかし、例えば小笠原クーデターなどと呼んだりして、日本史学者は一般に長行自身の主導と考えるようです。 私は、この事件が長行自身の主導で起きたと考えるのは無理だと思っています。これだけの軍隊を京まで移動させようとすれば、大変な準備作業が必要です。前節に、詳しく時系列を示しつつ、生麦事件の賠償金支払いにおける長行の活動を紹介しました。これを簡単に要約すれば、彼は慶喜にしたがって長く上方におり、江戸に戻ってからは賠償金支払い問題に全力投球をしていたのですから、とてもこの事件の下準備をする時間的余裕はなかった、と断定できます。 また、幕府の官僚機構上の問題もあります。彼は老中格の外国係であり、それ以上の独裁権は持っていません。彼が命令したからと言って、騎兵隊や歩兵隊が動くわけはないのです。同様に、幕府海軍を動かす権力も持っていません。さらにこれだけの兵を動かすには莫大な資金が必要ですが、その資金は勘定方が握っていて、長行の自由になるものではないことは、前節でも強調したところです。 長行自身、事後になせ兵を率いて上京したかと聞かれて、自分としては賠償金支払いにいたる経緯を説明するために上京しようとしたところ、兵が是非一緒に連れて行ってくれ、というので、つれてきただけだ、という趣旨の答弁をしています。私は、実際にもこれが真実だと思っています。つまり、兵が上京する事前準備はこの時までに整っていて、名目上の司令官として長行が担がれた、と見るのが自然と思われます。 では、いったい誰が何のためにこの事件を企画したのでしょうか。 背景にあるのは、在江戸幕府官僚の総意であろうと思います。すなわち、将軍上洛の留守を預かる幕府高級官僚は、朝廷を操る過激派の横暴と、テロルの恐怖におびえて唯々諾々と幕府や日本の利益を無視した命令を発してくる幕閣に対し、憤懣やるかたない状態であったわけです。 具体的にこの計画に参加したメンバーを見ると、そのことがよく分かります。 英国汽船を借り上げる交渉をしたのは、若年寄酒井忠ます(ますと言う字は田偏に比と書きます)です。彼は5月17日にフランス艦セミラミス号上で英仏の公使や提督と会談し、英国汽船の借り上げ交渉をまとめています。外国側は、これは前の抗議文で匂わせた物的援助の申し出に対する幕府の回答であり、したがって派兵は幕府による朝廷に対するクーデター計画を意味する、と理解していました。そして、クーデター成功の暁には、かねて幕府と諸外国との間で懸案となっていた大阪や兵庫の開市・開港、横浜居留地の租界化などが実現できる、という言質をもらったという意識であったことは確実です。 同じく外国側の理解では、このクーデターは、慶喜を担いで行う、というものでした。慶喜が実際に関与していたかどうかは全く判っていません。慶喜は、『昔夢会筆記』の中で、この事件は「余の関知するところにあらざるなり」と明言していますが、平気で嘘をつくことでは定評のある人ですから、あまり信用できません。たぶん計画の進行については十分に承知していながら、土壇場でいつものとおり、朝敵の汚名を着るのが怖くなって逃げたと理解する方が妥当と思います。 小笠原長行の供をして上京した主要官僚は、勘定奉行や外国奉行を歴任した水野忠徳であり、この時点では江戸町奉行であった井上清直であり、そして目付である向山一履、同じく土屋正直でした。水野忠徳と井上清直が勘定方を代表する実力者であることは皆さんもご存じのとおりです。つまり、幕政を動かす上での実力を有する二大派閥である勘定方と目付が手を組んで行った計画であることが、この顔ぶれに端的に示されていると思います。 小笠原長行が横浜を出発したのが前に述べたとおり、5月26日です。4隻の幕府軍艦が大阪に入ったのは6月1日でした。途中、由良で外国船から幕府軍艦に乗り換えるのに2日もかけて、なおこの日数ですから、陸上行軍に比べて汽船利用の軍隊移動がいかに迅速かがよく判ります。 軍が全員上陸し、出発準備が完了した時にはもう午後4時になっていました。しかし、徹夜で行軍して6月2日の朝には枚方に着いていました。この時、彼らの上京の報に驚いた幕閣が派遣した若年寄稲葉正巳が馬で駆けつけ、入京の差し止めを命じました。しかし、長行は構わず橋本までさらに進みました。ここで将軍の使い番である松平甲太郎が駆けつけ、「しばらくそこに止まるように」と説きました。しかし、そこでは宿がとれなかったため、長行はさらに進軍を続け、淀まできて、初めて兵を分宿させました。 淀というのは、今では京都市伏見区になりますから、京都市内に入っていますが、当時は、京都の郊外であって、決して京の市内ではありませんでした。こうして完全に入京せず、ここで停止したことが、このクーデターの成否を分けました。 朝廷はもちろんこの露骨な力の威嚇に震え上がりました。天皇は守備兵に戦闘準備を命じましたが、もちろん歯が立つものではないことは明らかです。そこで、ヒステリックに将軍家茂に対し、小笠原長行を何とかするように命じました。 6月4日になって、老中首座である水野忠精自身が駆けつけ、勅命及び台命による入京の禁止を説得しました。翌5日には、将軍家茂の親筆で入京の禁止を命じてきました。ここで、幕府としてのクーデターは、その命運が決まったのです。 幕閣は、6日には今一人の主席閣僚である板倉勝静が駆けつけてなおも説得に当たる一方、関係者に処罰を申し渡しました。長行に免職を申し渡すとともに、水野、井上ら、随行した主要官僚に差控(さしひかえ)、すなわち謹慎を申しつけました。軍は江戸に返すことを命じました。 しかし、だからたちどころに軍が消えてなくなるわけではありません。 震え上がった朝廷は、将軍家茂が江戸に帰ることを7日に承認しました。家茂は、9日に二条城を出発し、13日に、長行らが乗ってきた幕府軍艦に座乗し、江戸に帰りました。こうして、小笠原率兵上京事件は、具体的には京都に軟禁状態にあった将軍家茂の救出という効果だけを上げたことになります。 当初は、切腹を命じられるのではないか、といわれたりしたのですが、結果として、長行に対する処罰は非常に軽いものに終わりました。翌元治元年9月まで謹慎を命じられただけで済んだのです。さらに慶応元年には老中格に再び返り咲き、そのわずか1ヶ月後には格がとれて正規の老中となりました。 いくつもの違勅を重ねたにも関わらず、このように軽い処罰で済んだことに対する明確な説明は存在していません。おそらく彼の背景にある勢力、特に軍部クーデターに対する恐怖が、朝廷及び幕閣にもあったためではないかと私は思っています。 なお、この事件が水野忠徳の最後の公的活動となりました。以後は本当に隠居生活に入り、世に出ることはありませんでした。慶応4(1868)年7月9日に死亡しています。享年58歳。まだ死ぬ年齢ではない、と思いますが、徳川家に尽くし続けた彼としては、その滅亡を見て生きる気力を失ったのでしょう。なお、その死の直後の7月18日に江戸が東京に、また、9月8日に、年号が慶応から明治に、それぞれ改まっています。彼は最後の江戸人として死んだのです。 この事件は、評価の難しい事件です。もし成功していれば、幕府と英国やフランスの結びつきがより強くなり、悪くすると、わが国が植民地化したかもしれません。しかし、うまく行けば幕府が貿易の実利を独占する形で、より強大になり、幕府主導かで明治維新が実現していたかもしれないのです。 とにかく、事件当時、京都は軍事的空白状態にあり、長行が連れて行った強大な武力を背景に、幕閣が腹をくくって朝廷の支配に乗り出せば、成功していた可能性は非常に大きいと言わねばなりません。その意味で、幕府が滅亡しないで済む最後の機会であったことは間違いのないところです。 小笠原長行の生涯における2回の失敗ということを冒頭で述べましたが、その一つはこの時です。水野忠精及び板倉勝静を排除して、自分で政権を握るほどの覇気が長行にあれば、この時、日本史は確実に大きく変わっていたはずなのです。水野忠徳は、後々まで、この時、決行しなかったことを悔しがっていた、ということです。 4. 薩英戦争 文久3(1863)年6月22日(西暦だと8月6日)に英国極東艦隊は横浜を出港し、鹿児島へと向かいました。 この艦隊行動は、理屈から言うと奇妙なものです。そもそも民間人が殺傷された事件で、遺族等に対する賠償金請求はともかく、政府として要求するというのは奇妙なものですし、いろいろ紆余曲折があったにせよ、幕府が賠償金の支払いを行ったのに、それに重ねて薩摩藩から2万5千ポンド(10万ドル)も取り立てようというのはさらに奇妙な話です。 この裏にはニール代理公使の政治的判断があります。すなわち前節で、横浜の鎖港通知に対する抗議文が、同時に幕府に対する援助申し出でになっていた、と述べましたが、おそらくニールはこの機会に日本の国内政治に英国として直接介入することを狙ったのだと思われます。 その結果、この遠征隊は非常に大規模なものになりました。当初、極東艦隊のキューパー提督は2隻以上の艦の派遣に難色を示しましたが、ニールはこれを押し切って、この時点で横浜にいた全英国艦を派遣することにしました。具体的には旗艦ユーラリアス号(2371トン、砲35門)、パール号(1469トン、砲21門)、アーガス号(981トン、砲6門)、パーシューズ号(955トン、砲17門)、レースホース号(695トン、砲4門)、コケット号(677トン、砲4門)のほか、砲艦ハヴォック号(233トン、砲3門)の計7隻です。ハヴォック号は小型のため、横浜から鹿児島までの全行程をほかの艦に曳航されていきました。 ニールは、日本人は艦の数さえ見せれば腰が砕ける、という固定観念を持っていたのだ、ということが、この足手まといのハヴォック号までもつれていった、ということによく示されています。 すなわち、ニールは薩英戦争を予想していたのではありません。艦隊の脅威を示して、薩摩を屈服させ、薩摩との直接交渉の道を開くことを狙っていたのです。このため、艦隊には、ニール本人だけでなく、末席の通訳生であるアーネスト・サトーに至るまで、この時点における在日英国公使館の全職員(といっても8名ですが)も同行したのです。 このニールの楽観的な期待は、キューパー提督以下の海軍側にも伝染して、航海には物見遊山的な雰囲気が支配していました。鹿児島湾に入ってもその雰囲気は続いていました。鹿児島湾というところは、桜島を作った火山の火口湖ですから、湾の中央では深すぎて碇を降ろすことができません。だからといって、沿岸砲台の射程距離内に全艦が碇を降ろした、というのは戦闘部隊としては信じられないような失態です。 ニールは、いつもの幕府との交渉方法、すなわち居丈高に相手を恫喝する、というやり方で薩摩藩との交渉に入りました。生麦事件以来、ひたすら戦争を覚悟して準備を進めていた薩摩藩に通用する交渉技術とはいえません。交渉が全く進捗しないのに業を煮やしたニールは、キューパー提督に強硬手段を執るよう要請しました。そこで、キューパー提督は、薩摩藩が所有していた3隻の洋式汽船を拿捕することにしたのです。 信じられない話ですが、このような強硬手段の採用は単に交渉の一手段のつもりでした。そんなことをしたら、薩摩側としては、これを開戦行為とみなさざるを得ない、ということが、ニールにもキューパー提督にも全く認識されていなかったのです。 英国側が3隻の汽船を拿捕したのが7月2日(西暦8月15日)の朝9時のことでした。これに対して、薩摩側は同日の正午ちょうどに轟然と英国艦に対する砲撃を開始しました。英国の側の緊張感の欠如は、これが正午であったため、最初のうち、正午を知らせる時砲だと思っていたことに、よく現れています。しかし、沿岸砲台のまっただ中に停泊しているのですから、数分のうちに周り中から砲弾が飛んでくるようになりました。特にパーシューズ号は位置が悪く、逃げ出すため、碇綱を切り捨てるほかはありませんでした。 もう一つ、緊張感の欠如を示す挿話がユーラリアス号にあります。前にちょっと触れましたが、幕府からむしり取った44万ドルの入ったドル箱が、この時点でも、ユーラリアス号の弾薬庫の入り口の前にうずたかく積み上げられていたのです。その結果、英国艦隊の最大、最強のこの艦は、開戦後2時間というもの、1発の弾も打たなかったのです。弾丸がどんどん飛び来る中で、まずドル箱の撤去作業をしなければならなかった水兵達が何を考えていたか、知りたいものです。 当然のことながら、拿捕した3隻の汽船を持ち逃げするような余裕はありません。これについてはもったいない話ですが、火を放って沈没させることになりました。キューパー提督がこの命令を下すと、手近にいた兵員達は一斉にこれらの船の備品の略奪に走ったと言います。まさに火事場泥棒も良いところです。この当時の英国海軍の人的レベルの低劣さがよく判る挿話です。こうしたことから来る英国側の動きの鈍さも薩摩側に味方したわけです。 英国艦隊はいったん砲台の射程距離から逃げ出して、艦隊を再編成すると、改めて薩摩側の砲台との交戦を開始しました。特にアーガス号は最新型の100ポンドアームストロング砲1門を備えていて、これは大きな威力を発揮しました。しかし、薩摩側の攻撃もすさまじく、その砲火は特に旗艦ユーラリアス号に集中しました。その結果、艦長ジョスリング、副長ウィルモットその他数名の士官や兵員、計9名が戦死しました。 結局、キューパー提督はそれ以上の戦闘継続をあきらめ、横浜に退却しました。艦隊の誰もが戦闘の継続を臨んだのですが、それが不可能な事情があったのです。すなわち、この艦隊はすべて蒸気艦だったのですが、石炭が欠乏してきてしまったのです。蒸気艦で戦闘中に燃料がなくなって漂流を始めれば沿岸砲台のいいカモになるのは、判りきった話です。 薩英戦争については、薩摩の負け、というような説が存在していますが、要求をすべて拒んで撃退に成功したという点だけからみれば、むしろ薩摩側の完全勝利といってもよい結果だったわけです。 では、なぜ薩摩側の負け、という説が存在するのでしょうか。それはパーシューズ号が、鹿児島市街をロケット攻撃し、大きな被害を与えたからなのです。 ロケットというと、我々が現代科学の粋のように思いますが、その歴史は意外に古いのです。英国でロケットを発明したのはサー・ウィリアム・コングリーブという人物です。その発明になるロケットを装備した部隊を、英国は第2次独立戦争ともいわれる1812年の米国との戦いに投入しています。その結果、米国国歌の一節には「ロケットの赤き炎the rocket's red glare」という言葉が今も残っています。 第二次世界大戦中の日本やドイツの市街地に対する無差別爆撃を知っている我々には信じ難い話ですが、英米では、直接戦闘に関係のない一般市民に対する戦闘行為は、今も昔も非常に強く非難されます。例えていえば、ボクシングの試合の最中に突然相手の下腹部を殴りつけるような、ルール違反の行為と評価されるわけです。 例えば湾岸戦争の際にも、米国がイラクに投下した爆弾が軍事施設以外を破壊した、という報道が盛んに行われたことをご記憶と思います。そこで、この薩英戦争の結果がが英国本国に伝えられると、この鹿児島市街を破壊した行為は世論の激しい非難を浴びることになります。 これに対して、英国政府は、鹿児島市街の破壊は、強風の吹き荒れる中、沿岸砲台と交戦しなければならなかったという事情の下で起きた偶発的な出来事であった、と釈明しました。もちろんこれは嘘です。砲台を狙った砲弾がそれて市街に飛び込んだのではなく、はじめから市街を狙ってロケット攻撃をしているからです。ロケットは、砲台のような防備の堅いところには役に立たない武器なのです。薩摩側の砲台の攻撃の激しさに手を焼いて、牽制のためやった攻撃と思われます。 結局、英国議会は、政府は「鹿児島の街を焼いたことに遺憾の意を表明し、英国の鹿児島での攻撃は、文明国の間で行われる通常の戦争に違反するものであり、キューパー提督の個人的な責任を問う」べきである、と議決したのです。 しかし、結果としてこの鹿児島市街への攻撃が薩摩側の態度を変えることになります。日本では、戦国の昔から、戦闘にあたっては付近の民家に火を放つというのは普通の戦術ですから、火を放たれたこと自体はあまり怒りません。むしろ、その威力に感心したわけです。 薩英戦争から3ヶ月後の9月28日から、横浜で薩摩と英国の話し合いが始まりました。この時の会議、および10月4日の会議では、薩摩側は自分たちの正義を主張し、英国側の非を唱え、英国側はその正反対の主張を繰り返したので、議論は全く進展しませんでした。ところが10月5日の第3回の会議で、薩摩側は突然態度を変えます。薩摩としては軍艦を購入したいので、英国側がその周旋を行ってくれるなら、生麦事件の賠償金の支払いに応じてもよい、といいだしたのです。つい最近、戦火を交えた相手に武器を売ってくれ、というのは、完全に英国側の意表をついた提案でした。 ニールは最初断ったのですが、その後で、英国としては薩摩側が懇親の意を表せば軍艦購入の斡旋を引き受けてもよい、と付け加えました。これに対して、薩摩側は軍艦購入の周旋を依頼すること自体が懇親の現れである、と述べたため、会談はその後、にわかに順調に進みだし、希望する軍艦の型、その代価、建造に要する日数、さらには船を操縦する技術を教える教官の派遣というようなことにまで話が進んだのです。 ここから、以後の幕末の歴史を支配する薩摩と英国の協調体制がスタートすることになります。そのために幕府はさんざん苦労し、最後には滅亡することになるわけです。 そのことを思うと、こうして交渉が妥結した後で、薩摩のやった行為は実に人を食っています。薩摩藩は、手元不如意のため資金がないとして、賠償金を貸してくれ、と幕府に申し込んだのです。なんといっても鹿児島市街が全焼しているのですから、これは嘘ではありません。そこで、幕府が、薩摩の賠償金を全面的に肩代わりすることに決めたのは10月28日のことです。そして、11月1日に賠償金10万ドルが幕府から英国に支払われました。結局、生麦事件の後始末のために幕府が英国から搾り取られた額は54万ドルという巨額に達しました。 5. 8月18日のクーデターと参与会議 幕府が、この時期薩摩藩に好意的な態度を示したのには訳があります。この年の後半、幕府と薩摩藩は非常に緊密な協力関係にあったのです。 実は薩英戦争が始まる以前の文久3(1863)年5月20日、尊王攘夷派のリーダー格であった姉小路公知(きんとも)が暗殺されました。この事件の真犯人は今日に至るも謎ですが、殺人現場に薩摩藩の田中新兵衛の刀が落ちていたことから、彼が犯人ではないかと疑われました。 田中新兵衛は、人斬り新兵衛の異名で知られる幕末有数の暗殺者ですから、疑われるのは無理のないところがあります。しかし、彼のような熟練した暗殺者が、現場に自分の愛刀を落として逃げる、ということは常識的に考えられません。そのため、彼はこの件に関する限り無実だ、と今日では考えられています。しかし、新兵衛は取り調べられた際、一言も抗弁せず、取り調べ側の一瞬の隙をついて自殺してしまいました。 このため、この当時は、彼が真犯人と断定され、したがってそれは薩摩藩自体の意思であったと考えられたので、薩摩藩が御所への出入りを禁じられる、という事態に発展しました。この結果、京都は長州藩の天下となりました。ここから逆に、おそらく姉小路暗殺事件の黒幕は長州ではなかったか、というように思えます。 そこで失地回復を目指した薩摩藩は、思い切った手段にでました。京都守護職を務める会津藩に接近したのです。薩摩藩は、こういう政治的寝技が得意なことでは知られた藩ですから、長州側でもある程度の警戒はしていたに違いありません。しかし、この時、薩摩藩が陰謀の主役として起用したのは、西郷隆盛でも大久保一蔵でもありません。明治維新後には明治天皇の和歌の師として有名になる高崎正風(この時点では高崎左太郎)です。この時以前に全く政治的活動歴がない人物です。ついでに言えば、この時以後も全く政治的活動を行っていません。そういう非政治的な人物が動いたために、長州藩の意表をついたことになるわけです。 狙いは、この特定の時点において、会津藩が偶然にも握ることになる予定の巨大な兵力です。会津藩では、京都守護のため、1000名の藩兵を京都に常駐させていました。しかし、兵達にとって、故郷と気候・風土・方言の大きく異なる京都に長期にわたって滞在するのは苦痛です。そこで、会津藩では、時々国元から交替の兵を呼び寄せていたのです。そして、この時点で、現に京都に駐留する兵に代わるべく、1000名の兵が上京してきました。したがって、この交替のための事務引継期間だけは、会津藩は普段の倍の2000名の兵を保有していることになります。これに薩摩藩が京都においている兵を合わせれば、無敵の力を持つことになります。 会津藩は、およそ政治的活動が苦手で、だからこそ、京都守護職のような損な役割を押しつけられたくらいです。したがって、薩摩に言われるまで、この兵の交替に伴う軍事力の増大には気がついていませんでした。しかし、長州の横暴を苦々しく思っていた点では、直接に京都市内の治安維持のため、大変な苦労をさせられているだけに、薩摩藩の比ではありません。長州を追い落とす、ということに全く異存はないわけです。こうして、幕末最大の奇現象である薩会秘密同盟が成立したのです。 文久3年8月18日、クーデターの幕が切って落とされます。この日の深夜1時に中川宮朝彦親王が突如参内すると、それをきっかけに守護職松平容保、京都所司代(淀藩主)稲葉正邦らが武装した兵とともにぞくぞく入門し、あっという間に京都御所を内側から固めてしまったのです。薩摩藩士は、わざと長州藩が警備を担当している堺町門に集結し、門を固め終わると、その合図に大砲を一発撃ちました。午前4時のことです。 急を聞いた長州藩では、堺町門の正面にある鷹司邸に集結しました。長州兵数百のほか、三条実美の命により、32藩から計約1000名の兵の動員に成功しました。しかし、両軍の兵力の落差は大きく、ここで開戦するのは不利という判断から、結局、長州藩兵は三条実美ら、7名の公家を守って国元に退くことになりました。有名な七卿都落ち事件です。 なお、中川宮はこの事件の主役になったことで、長州の深い憎悪を一身に浴びることになりました。その結果、明治維新と同時に官職を剥奪され、広島に幽閉されることになります。明治8年になってようやく許されて、新たに久邇宮(くにのみや)家を起こし、伊勢神宮の祭主とされました。明治24年に死亡しました。 こうして、会津と薩摩は、一気に京都から攘夷派の勢力を一掃するのに成功したのです。だから、薩英の和平交渉の時期には幕府と薩摩は蜜月関係にあったわけです。 孝明天皇が基本的には佐幕派的思想の持ち主であることは、先に紹介したとおりです。天皇の招集により、まず10月3日に島津久光が上京してきました。彼は、今度はおおっぴらに大砲隊2隊、小銃隊12隊、計15,000人という大部隊を率いてきました。前回の上京時同様、この軍事力を背景に政治の流れを変えようと言うのが彼の狙いです。10月18日には政治総裁職を勝手に辞めて逃げ出していた松平春嶽が、そして11月3日には伊達宗城(むねなり)が、それぞれ上京しました。一橋慶喜その人が京都に来たのは11月26日のことでした。 山内容堂は、8月18日のクーデターにより、天下の流れが公武合体派の方向に決まったと見極めると、9月21日、当時土佐藩を牛耳っていた武市瑞山をはじめとする土佐勤王党の幹部を一斉に逮捕投獄し、藩内過激派の大掃除を断行しました。このため、少し遅れて12月28日になってようやく上京してきました。これで、久しぶりに一橋派の有力諸侯が京都に集まったわけです。 島津久光は、一橋派の諸侯を説得し、彼ら有力諸侯に、クーデターの主役として一気に人気の高まった松平容保(かたもり)を加えたメンバーを、天皇が参与に任命し、この参与会議で国政を動かそうという体勢を作り出したのです。正式発令は12月晦日、この年最後の日になされました。さらに、翌年1月13日に久光自身にも官位が与えられ、同時に参与に任命されました。 孝明天皇は、この参与会議の発足をことのほか喜び、家茂を何度か呼んで、長州を排撃し、幕府中心に軍備の増強を命ずるなど、この時期、幕府と朝廷の政策は完全に一体となっている観がありました。 この参与会議が、しかし、2月中旬には早くも空中分解してしまいます。たたき壊したのは、一橋慶喜その人です。一橋派の諸侯は、そろって基本的に開国派の思想の持ち主ですから、朝廷の実権を手に入れたのを機会に、鎖港攘夷の国是そのものを改正しようとしました。ところが、その中心となるべき慶喜が、一人だけ鎖港攘夷論に固執して、会議を邪魔したのです。 さらに、その翌日、2月15日、今度は中川宮朝彦親王の屋敷で、島津久光が松平春嶽や伊達宗城と善後策を相談しているところに、わざと酒に酔って現れ、朝彦親王に向かって、久光達「この三人は天下の大愚物、天下の大奸物にござ候ところ、いかにして宮は御信用あそばされ候や」といったのです。その場に、その三人が同席しているのですから、これは面と向かってののしったのに等しい行動です。当然彼らは激怒し、ここに参議会議は完全に暗礁に乗り上げます。 慶喜は、さらに念の入ったことに、別途、孝明天皇には2回も奉答書を提出し、鎖港に向けて努力中である、と報告したのですから、天皇はもちろん、それを信用します。 なお、この点は嘘ではありません。幕府は鎖港交渉のための遣欧使節をこの前年の暮れも押し詰まった12月29日に再び送り出していたのです。天皇が慶喜のいうことを信用すれば、外国との交渉を認めようなどという話に耳を貸すわけがありません。こうして参与会議は、完全に機能を止めてしまったのです。 せっかく国元の大掃除を断行して、全面的に協力できる体制を作ってきた山内容堂は、この有様に絶望し、2月28日、辞表をたたきつけて帰国してしまいます。残るメンバーも、3月9日には全員辞表を書いて、ここに参与会議は正式に消滅することになったのです。 なぜ慶喜がこのような行動にでたのかについて、慶喜は『昔夢会筆記』の中で、攘夷といったり、開国といったりしたのでは国是不確定で、幕府の権威が失墜するからだと自己弁護しています。しかし、これは例によって彼の虚言と見るべきでしょう。 真意は、容易に想像できます。参与会議が成功する、ということは、それを実現させるにあたり、最大の功績者であった島津久光の権威がいやが上にもあがり、慶喜の存在が薄れてしまうということを意味します。先に本稿第2章で養君擁立問題で幕府が揺れた際に、慶喜が幕府のリーダーシップを考え、雄藩連合の形で政局を運営することを嫌って、自らも辞退の姿勢を崩さなかったということを述べたことがあります。その意味では、この時点での慶喜の行動も首尾一貫しているということができます。 慶喜の考えでは、クーデターによって長州勢力の京都からの追い落としに成功するまでが薩摩の協力の必要な部分でした。ひとたび政治の実権を握ってしまえば、もはや薩摩その他の諸侯の協力は不要、というのが彼の本音と見て間違いないでしょう。そのための手段として、病的な虚言癖のある慶喜としては、天皇に対して攘夷の断行などと本音とは全く違うことを奏上するくらいは何でもないことであったわけです。 先に紹介したこの前年5月の小笠原長行率兵上京事件が、幕府にとって惜しまれる理由はここにあります。もし、あれに慶喜が乗る勇気さえ持っていれば、何も攘夷鎖港などといわなくとも、きちんと開国路線のままで、この時と同様に強力な政権のリーダーシップがとれたはずなのです。 それをやる勇気がなかったばかりに、そのわずか3ヶ月後の8月18日にクーデターを会津が行う羽目になったわけです。ところが、このクーデターは薩摩との共同活動であったために、慶喜としては、政局の主導権を執る手段として、鎖港攘夷路線をとらざるを得なくなったわけです。そのため、以後、幕府は鎖港攘夷という基本線を守るために、高価な犠牲を払う羽目になり、また、本来彼の与党であるはずの一橋派全員を敵に回すという暴挙まで必要になった訳です。 歴史のイフはともかく、この時点では、孝明天皇が気に入りそうなことをしゃべりまくった慶喜が、3月25日、禁裏守衛総督に就任しました。さらに4月20日には、改めて庶政を将軍に委任する旨の沙汰書が出されています。 こうして、慶喜は政治の主導権を握るのに成功したのです。かっての一橋派は、彼を見限って国元に引き上げて、ここに完全に分解することになります。 なお、参与会議が今まさに崩壊しようとしていた2月20日、朝廷は年号を文久から元治へと改めました。 6. 禁門の変 この元治元年3月27日、筑波山に水戸天狗党約2000人が挙兵しました。すなわち、慶喜のお膝元である水戸藩の内紛が火を噴いたのです。天狗党は、初期においては、勤王のための義挙という自らの大義に自己陶酔して、周辺の町村で金穀強奪などを繰り返したので、農民の激しい反発にあい、崩壊します。 しかし、約1000人の残党は、慶喜を頼って、西へ向かいました。その勢力はきわめて強く、ほとんど向かうところ敵なしの進軍を行いました。また、幕府側が迎撃のため、ある程度強力な部隊をその行く手に集中した場合には、島崎藤村の名作『夜明け前』に描かれているように、同じく勤王の思想を持つ地方の有力農民の助けを借りて間道を抜けるなどしたため、この年12月27日にははるばる福井県にまで到達したのですが、そこで力尽き、加賀藩に投降しました。その彼らを、慶喜は、寒中にニシン倉に裸で放り込むというような虐待をしたあげくに斬殺に処する、というきわめて過酷な扱いをしたのです。というのも、彼らの騒動が引き金となって、禁門の変という大変な事件が引き起こされたため、慶喜は怒り心頭に発していたからなのです。 すなわち、文久3年8月18日のクーデターで京都から追い落とされた長州藩過激派は、参与会議の崩壊と天狗党の乱に、付け入る隙があると見て、京都を武力で回復しようと企てたのです。幕府もこれを知って軍を集めます。両軍併せて5万の大軍が対峙しました。 おそらく、この時こそが、慶喜の生涯の中でもっとも輝いていた時です。すなわち、彼の不退転の決意こそが、この困難な闘いで幕府を救ったからです。これ以前も、これ以後も、常に彼の決意がぐらつくのが原因で、幕府が衰退を重ねていったことを思うと、この時の彼は、異常としか言いようがありません。 7月18日から19日にかけての深夜に長州軍が京都市中に突入を開始しました。これを聞いて深夜の2時に朝廷に参内した慶喜は、おびえて逃げ回る公家や親王を叱咤激励して、長州軍討伐の勅許を要請し、それと同時に会津軍、桑名軍に出動を命じます。3時にようやく勅許がおりました。その時にはもう戦端は開かれていたわけですから、彼が勅許を待って命令を下していたら、長州軍はそれだけでかなり有利になっていたはずです。 長州軍は激闘を繰り返しつつ、最終的には御所内にまで突入してきました。特に主戦場になったのが、蛤御門(はまぐりごもん)だったので、この事件のことを禁門の変とか、蛤御門の変と呼ぶわけです。長州軍をここで迎え撃ったのは会津軍ですが、最初、会津軍は長州軍の勢いに押されてばたばたと倒されたのです。何とこの時、慶喜は手兵400名を率いて自ら会津軍の救援に駆けつけたのです。一橋家の兵は弱兵でしたから、その兵力が戦場に現れたこと自体は、戦況に何の影響も与えませんでした。しかし、総指揮官自らの督励に発憤した会津軍が、ここをしっかりと支えます。 慶喜はさらに、御所内に銃弾が飛び込み、公家が浮き足立って、長州を許せ、と言い出していると聞くと、御所内に駆け戻り、天皇に拝謁し、あるいは公家に対して、戦は勝っている、と怒鳴り散らして動揺を抑えたのです。とにかく、ここで長州を是とする勅語がでたら万事休すだったわけで、彼の機敏な措置がこの日の幕府を救ったことは間違いありません。 最終的に蛤御門の戦いで、幕府を救ったのは西郷隆盛の指揮する薩摩軍です。本来、薩摩軍の部署は蛤御門ではなかったのですが、西郷は戦闘の趨勢を素早く見て取り、独断でここに向かったのです。会津軍との間に、ぎりぎりの死闘を展開していたところに、薩摩軍の強烈な横撃を受けた長州軍は、一瞬にして壊滅することになります。その後、全軍総崩れになって西に逃げますが、幕軍の追撃にあって多数が殺され、ほとんど生きて帰れませんでした。この時、京都市内にいた長州方の著名人では、わずかに桂小五郎一人が脱出に成功したに止まります。 長州軍を迎え撃つために動員された会津、桑名、大垣など諸藩の財政負担はきわめて大きかったはずで、とうてい疲弊しきっている当時の各藩が、自分でそのすべてを負担することが可能だったとは思えません。賜与の形を取るか、貸し付けの形を取るかはともかく、幕府としてかなりの支出を必要としたはずです。 また、破れた長州藩は、京都の長州藩邸をはじめとして各所に放火したため、火が市中に燃え広がり、鎮火したのは21日になってからでした。このため、公家の屋敷だけでも数十戸、一般民家の罹災は2万8000戸に達し、鴨川の河原や諸街道は避難民であふれたと言われます。 こうした被災者を放置しておいたのでは、社会不安が拡大しますから、これらに対しても何らかの手当が必要だったはずです。 したがって、この禁門の変前後に相当の経費を幕府は必要としたはずですが、それがどの程度の額で、どうやって捻出したのかは、はっきりしません。おそらく、京都や大阪の豪商からの借り入れ、という形で現地で処理したことは確かです。この年、大阪市中にあったという張り紙の文章が今に残っています。次の文です。 「公儀において何の恩か為る 今衣食は日月の恩 当今の公儀は万民の寇也 公儀へ御用金を出す馬鹿はなし 仮令権威を以て用金申付候共、怨る計也 十分の一にねぎって出すなれど、 捨るより惜し也」 幕府から御用金と称して、強制的に借り上げられる分限者の悲鳴が聞こえてくるような文章ではありませんか。また、こういう張り紙を取り締まる力のなくなった幕府の実力もよく判ります。 7. 下関戦争 一橋慶喜が、朝廷で責め立てられ、苦し紛れに攘夷の決行期日として公約したのは、前に述べたとおり、文久3(1863)年5月10日のことでした。もちろん、慶喜自身はこのような公約を守るつもりはなく、幕府では、これは単なるポーズであると外国公使に向かって明言したことも、先に紹介しました。その他のほとんどの藩も、攘夷決行などという幕府の命令を守るつもりはなかったという点については、幕府と同様でした。 しかし、ただ一つの例外がありました。長州藩です。同藩では、まさにこの日を期して攘夷を開始すべく、下関海峡を通過する外国船に対する砲撃を開始したのです。 攘夷を呼号する藩としてはまことに矛盾したことですが、当時のわが国の技術で、砲台を作ることは不可能でした。そこで、長州藩では高島秋帆の下でオランダ流兵学を学んだ技術者である中島名左衛門を高禄で招いてきて、この攘夷のための砲台を作ってもらったのです。かわいそうに、この中島は、攘夷活動の一環として後に暗殺されています。 問題は、この砲台がオランダの本から学んだ技術で作られた、という点にありました。ご存じの通り、オランダは国土の過半が埋め立てで作られた、といわれる国ですから、当然、沿岸防備のための砲台も、海を埋め立てて作りました。この中島という人は、同時代の蘭学者、例えば村田蔵六(後の大村益次郎)や福沢諭吉と違って、あまり想像力のなかった人らしく、手本から一歩もはみ出そうとはしませんでした。つまり、長州藩の砲台は、わざわざ海を埋め立てて作ったのです。 もちろんこれは馬鹿げたことです。沿岸砲台は、欧米の常識としては、切り立った断崖の上に作るものです。砲台の位置は高いほど好ましいのです。なぜなら、砲台の位置が高くなればなるほど、当時の黒色火薬を使用した大砲では、射程距離がぐっと伸びるので、船の方から打ち返される心配無しに弾の雨を降らせることが可能になるからです。その上、切り立った断崖は、軍艦から海兵隊が砲台を攻め落とそうと攻め上ってくるのも、非常に困難にします。ところが、長州の砲台は、海を埋め立てて作ってあるのですから、射程距離は短いし、海兵隊の上陸もきわめて容易です。 今、ドイツのライン河を船で旅すると、どうやって登ったのだろうと心配になるような断崖の上に古城の廃墟が数多く見られます。あれらの古城が廃墟となったのはナポレオン戦争の時代ですから、本稿で取り上げている時代より半世紀ほど前です。しかし、欧州の戦争技術は、この時期までは大した進歩を示していませんでしたから、本来であれば、ああいう感じに沿岸砲台を作るべきだったのです。 ところが、長州藩はわざわざ水上に砲台を作りました。しかも、普通であれば沿岸砲台は、艦載砲よりも大きいものを使うのですが、長州のはむしろ小振りなぐらいです。また、相手は木造帆船ですから、威力を増大させるために弾を熱して撃つ、というのが沿岸砲台の常套手段ですが、そういうこともやっていません。このため、撃てども撃てども、大した威力はありません。しかも、対岸の九州側の諸藩は、砲撃などやらない、と明言しているものですから、長州の短い射程距離からはずれた九州よりの航路を通れば、ほとんど危険はない、ということになります。 それどころか、この脆弱な水上砲台は、怒った外国軍艦から逆に撃ち返されて、無造作に壊滅してしまう始末です。すなわち、6月1日には米艦ワイオミング号が各地の砲台をその砲火で破壊したばかりか、長州藩の虎の子の洋式軍艦庚辰(こうしん)丸、壬戌(じんじゅつ)丸を撃沈し、癸丑(きちゅう)丸を大破させています。5日には、フランス艦セミラミス号及びタンクレード号が猛攻を浴びせ、250人もの陸戦隊が上陸して、砲台を焼き払ったばかりでなく、武器や甲冑が強奪されています。 それでも長州藩の戦意は旺盛で、攻撃隊が去ると早速砲台が再建され、再び下関海峡を通過する外国船に対する砲撃が始まるのです。したがって、単なる報復攻撃ではなく、抜本的な対策を講ずる必要があることは明らかです。 文久4(1864)年=元治元年3月にロンドンから帰任したイギリス公使オールコックは、列国に呼びかけて連合艦隊を組織することにしました。ちょうどこの時期は、前節に述べたとおり、慶喜が参与会議をつぶすために強硬に攘夷鎖港を唱えていた時期でした。慶喜は、このポーズを少しでも朝廷に信用してもらうために、江戸に命じて、主力輸出品である生糸の貿易統制を強化していました。そのため、この時期、横浜の貿易はすっかり沈滞していたのです。そこで、オールコックとしては、長州藩の攘夷を徹底的に叩くことで、同時に幕府に対する列強軍事力のデモンストレーションを行うことも狙ったわけです。 英仏米蘭4カ国の間で話がまとまり、まず4月末に議定書が取り交わされ、ついで6月に共同覚え書きを作成して、条約上の権利を確保し、将来の安全保障のために、断固たる措置をとる、という旨を幕府に通知しました。 本来ならば、幕府は、国内問題は幕府の責任で処理するから、時間をくれ、と交渉すべきところです。しかし、前節に述べたとおり、時あたかも、禁門の変の前夜です。幕閣の首脳は皆京都にいるのですから、適切な対応をする能力が江戸の留守部隊にはなかったのです。 日本史学者の中には、長州藩が、連合艦隊の来襲に備えて国元の防備を固めるならば、大いに結構とばかり、これを受け入れた、という説を唱える人がいるのですが、これはちょっと信じられません。これまでの幕末の歴史に明らかなとおり、列強が動けば、必ず最後は幕府に賠償請求が来ることはわかりきっており、それがわからないほど暗愚な幕府ではないからです。事実、後に詳述しますが、ぎりぎりの段階で、攻撃の中止を慶喜は申し入れています。 このように下関攻撃の時期が切迫していることは、当然長州藩も情報をつかんでいたはずですが、驚いたことに、長州藩は国元の防備を固めようとはしませんでした。それを完全になげうって、動員可能なすべての軍を京都に向けて進発させたのです。というより、これは一種の熱病のようなもので、組織的に軍が送り出されたのではなく、かってに各隊が上京していってしまった、という方が正しいでしょう。国元の防備などという発想は、当時の長州藩兵士には、ほとんどありませんでした。こうして京に集中した長州藩兵力と、会津、薩摩連合軍の戦いという形で起きたのが、先に紹介した禁門の変というわけです。 他方、4カ国連合艦隊は着々と準備を進め、7月18日に、連合艦隊の出撃を正式に幕府に通知しました。前に述べたとおり、この日の夜に、禁門の変が起こるのですから、この日はまさに運命的な日といえます。 今一つの歴史の偶然ですが、この同じ日、前年暮れに幕府が鎖港条約交渉のために派遣した遣欧使節が帰ってきました。彼らは鎖港交渉をするどころか、下関海峡通過時に破損した船に対する賠償とか、将来に向けての下関海峡通行権の確認、輸入関税の低減などを盛り込んだパリ約定をフランスで押しつけられ、イギリスに行くこともできずにあわてふためいて戻ってきたのでした。 正使池田長発(ながのぶ)以下の面々は、欧州軍事技術の優越を説き、攘夷決行の危険性を説きましたが、これはいわば釈迦に説法です。慶喜はそんなことは百も承知で、政治的な賭として攘夷論を唱えているのです。聞く耳を持つわけがありません。 このように情勢が緊迫している中で、形だけでも攘夷の実績といえるような結果をもってくるどころか、逆に厳しい内容を盛り込んだパリ約定などというとんでもない土産をもって帰ってきたのですから、厳しい処罰を科さないことには示しがつきません。そのため、池田長発は家禄600石を召し上げの上、隠居・謹慎を命ぜられるなど、全員に重罰が申し渡されました。長発は、幽閉中に発狂したということです。 連合艦隊の方では、最終通告に対して幕府が何か建設的な返事を寄越すか、と待っていたところ、24日になって、パリ約定の破棄通告が幕府からなされました。前に述べたとおり、慶喜は参与会議をつぶす、というただそれだけの目的で、攘夷鎖港を打ち出したのですが、打ち出した以上はそれで頑張らねばなりません。したがって、これはその建前から来る必然の回答です。 連合艦隊は、そこで、もはや実力行使以外にはない、と横浜を出港しました。艦隊の内訳は、イギリスが9隻でそれに積載する大砲が合計164門(以下同じ)、フランスが3隻64門、オランダが4隻56門、米国が1隻4門、合計17隻288門です。単艦の報復攻撃ですら壊滅させられていた砲台を破壊するためだけであれば、これほどの軍事力を動員する必要はもちろんありません。これはあくまでも幕府も含めた全日本に対する軍事的デモンストレーションなのです。 この時、長州軍は禁門の変に破れたため壊滅状態にありましたが、それでも下関砲台の周りに奇兵隊を中核に支藩の兵や農民兵をかき集めて、なんとか約2000の兵をそろえていました。これに対して、連合艦隊の用意した陸戦隊は、イギリスだけで2000人、そのほかにフランス350人、オランダ200人、米国50人、計2600人ですから、人数だけでも長州側を上回る大兵力です。 8月2日、連合艦隊は豊後水道の姫島に集結しました。他方、禁門の変で怒り心頭に発していた孝明天皇は長州追討の勅命を幕府に下していたのですが、この同じ日、諸大名に総登城を命じ、正式に長州征伐の開始を宣言したのです。これにより、ようやく長州の問題は国内で処理するので、外国は手を出さないでもらいたい、といえる状態になったわけです。そこで、幕府では、5日に攻撃延期を連合艦隊側に申し入れました。が、実はこの5日が下関戦争の開戦の日で、申し入れは完全に手遅れでした。 この時期になると、長州藩も海上に砲台を作るのは馬鹿げていることに経験から知り、各地の断崖の上に砲台を作り直していました。連合艦隊の猛火に、位置の知られている砲台は一瞬にして破壊されたのですが、新たに建設され、隠されていた各地の砲台が激しく抵抗しました。連合艦隊の軍艦の周りは海面に落下する砲弾のため、白くなった、といわれるほどの激しい攻撃ぶりを示したのです。もっとも余り威力はなかったようです。 翌6日にも激しい戦闘が続けられましたが、火力、陸戦力ともに連合軍が圧倒しているのですから、長州側に勝ち目はありません。二日間の戦闘で、下関近辺の長州軍はほぼ一掃されました。それでも8日まで小競り合いが続きました。もし、長州藩が禁門の変を起こさず、主力部隊を下関防衛に投入していたら、陸上戦についてはおそらく戦況が逆転していたことでしょう。しかし、この時の守備軍は奇兵隊などが奮戦しただけで、後の寄せ集めの軍は、敵兵の姿を見るなり逃げ出す始末でした。敵味方4000を越える兵力がぶつかっていながら、双方、数十名の死傷者で済んでいることが、長州側のこの時点での戦意の低さをよく示しています。 8日に、高杉晋作が使節に立って、長州藩と連合艦隊の間で和平交渉が始まりました。通訳は伊藤博文と井上馨が務めました。 長州藩の一筋縄ではいかない点は、下関海峡砲撃の始まる直前に、藩命により5人の藩士をイギリスに留学させていたことに良く現れています。オランダ式砲台を築いて攘夷を行おうとしたのと同様に、戦う相手を研究するのは武士として当然の心がけですが、それにしても良く留学志願者がいたものです。 伊藤と井上はロンドンの地で戦争必至と聞き、学業をわずか半年でなげうって駆け戻ってきていたのです。この時、残り3人の留学生は、学業優先とイギリスに残りました。3人ともそれぞれ、その選んだ学問分野ではわが国の先駆者と考えられているようですが、一般に知られる人名とはなっていません。ちなみにその3人の名は、山尾庸三、野村弥吉、遠藤謹助です。 命がけの危険と大変な苦労をして英国に着いたばかりなのです。私なら、たぶん躊躇うことなくイギリスに残ったと思います。この時点で万里の波濤を越えて日本に馳せ帰る、という決断を迷うことなく下せたという点に、彼らの政治家としての力量がよく現れています。伊藤博文が維新の元勲となり、お札にまで顔を残しているのは、単に時勢に乗ったのではなく、自らの意思で時勢を動かすだけの器量があったからです。下関戦争講和という大舞台で、彼ははじめて青史に登場することになります。 長州藩は、禁門の変と下関戦争というダブルパンチにより、壊滅的な打撃を受けていたにも関わらず、過激な攘夷派はなお戦争継続を主張してやみませんでした。そのため、危険を感じて高杉や伊藤達が一時姿を隠す、というようなことがあったりして、交渉は難航しました。が、14日に条約がまとまりました。長州は、今後、外国船の下関海峡通過を認めること、したがって、砲台の再建は行わないこと、石炭や薪水など必要なものは売ること、の三つだけが、この条約によって発生した長州藩の義務です。 この事件の賠償金交渉は江戸で行うこと、という条項が入っていますが、幕府と戦闘状態にある長州が江戸で交渉できるわけがないので、これは例によって幕府に後の始末を押しつけた、というわけです。薩英戦争と同じ結果になったのです。つまり、この条約は、長州藩側としては、戦争に負けたという自明の事実を確認し、戦前において負担していた義務を間違いなく履行することを宣言しただけで、新たな責務が全く含まれていないのです。高杉晋作の交渉力の高さを如実に示しています。 交渉の中で高杉は、長州藩による砲撃は、幕府の命令によるもので、長州藩の本意ではない、と主張し、その証拠として朝廷や幕府からの文書の写しを示しました。皆さんもご存じの通り、この文書は間違いのない本物ですから、高杉晋作の議論が強い説得力を持つのは当然といえます。これにより、列強は幕府に対して強い不信感を持つに至りました。その意味で、この下関戦争は、幕府の滅亡に至る道程での決定的な里程標ということができます。 連合艦隊は、この不信感を慶喜に対してアッピールする手段として、帰途、わざと摂海に侵入して天保山沖で一泊し、京・大坂を恐怖にたたき込むという強烈なデモンストレーションを行いました。 こうして、賠償金交渉は、長州などそっちのけで、幕府との間で行われました。オールコック等は、9月22日、艦隊が帰ってくるのを待ってから、幕府に対して、下関開港か、300万ドルという天文学的な賠償金のいずれかを選べ、と詰め寄ったのです。この二つを並べれば、誰が考えても、開港の方を選ぶはずだ、というわけです。 しかし、この時点では、まだ長州は降伏していませんし、下関のような幕府がコントロールできない港を開港したのでは、妥当すべき相手である長州を富ませるおそれがある、ということも確かでしょう。が、それだけのことであれば、例えば博多など、別の港を代替案にして交渉する余地もあったはずです。 交渉できなかった最大の原因は、ここでも慶喜が鎖港攘夷をその基本政策としていることです。それが、幕府から選択の余地を奪いました。幕府は300万ドルの方を選んだのです。さすがに、一度には払いきれず、後に詳述するとおり、慶応元年から3年に掛けて、半分の150万ドルを支払ったところで、幕府は滅びました。残り半分は明治政府が引き継いで支払ったのです。国内政治で一時的に支配権を握る代償として、日本にこれほど大きな負担を掛けた慶喜という人物をほめる人の気が知れません。 この賠償金の明治政府の履行状況を簡単に説明しておきましょう。明治政府は明治7(1874)年に、英国に対して64万5000ドル、仏、米、蘭各国にそれぞれ78万5000ドルを支払いました(延滞利子を含む)。明治7年といえば、佐賀の乱があり、また、台湾出兵を強行した年です。財政の厳しい中で、さぞ辛かったろうと思うのですが、それ以上に、この厄介な負債のけりをつける方が、明治政府として急務だったわけです。 なぜかというと、オールコック達は、この時、同時に、横浜防衛軍の常駐施設を幕府の負担で建設することも要求したからです。要するに、横浜の租界化です。これを以前からオールコックが狙っていたことは、ヒュースケン遭難事件の際に説明したとおりです。しかし、今度は、長州の攘夷行為そのものが幕府の命令によるものだ、という動かぬ証拠と、巨大な艦隊という背景がありますから、絶対に強い立場です。 結局、幕府はおれて、英軍基地として2万坪、フランス軍基地として3000坪の施設をそれぞれ建設する羽目になりました。英軍基地の場所は、今現在、港の見える丘公園として知られる場所です。日本の海の玄関横浜港を一望する景勝の地ですが、これを軍事的面から見ると、この地を握るものが港の生殺与奪の権を握っている、ということを意味します。明治政府は、幕府から引き継いだ賠償金を支払うことで、ようやくこの要衝の地を返してもらったのです。英国基地の返還は、翌明治8年、フランス基地の返還はさらに遅れて明治9年のことでした。 下関戦争は、もう一つ、予想外の置き土産を残しました。オールコックが、日本の内政に勝手に干渉したとして、その責任を問われて本国に召還されたのです。薩英戦争で、海軍当局をあれほど厳しく指弾したイギリス世論をおもんばかってのことに違いありません。 オールコックには、上記のようなひどい目に遭わされているにも関わらず、幕府は彼の離日を惜しんで、彼の行動が正当であったという公文書を持たしてやりました。その甲斐あってか、オールコックは、翌年には駐清国公使という日本公使より一段上の地位に返り咲いてアジアに戻ってきました。しかし、二度と日本に来ることはありませんでした。 日本公使としては、すでに彼の後任として清国育ちの、あくの強い行動で知られるハリー・パークスSir Harry S. Parkesが赴任してきていたからです。パークスは前任が上海駐在領事で、ある程度日本の事情を承知しています。長崎に着いたのは慶応元(1865)年閏5月2日でしたが、彼は、そこで精力的に諸藩の代表と会って日本の情勢をつかみ、さらに下関にも寄港して、桂小五郎や伊藤博文と会談しています。そのため、横浜公使館に着任したのは同26日のことでした。以後、幕末史は、パークスと、この前年に着任していたフランス公使レオン・ロッシュLeon Rochesとのつばぜり合いという新しい局面に入ります。 8. 第1次長州征伐 下関戦争と同時進行の形で展開されていた第1次長州征伐は、総督として尾張慶勝(よしかつ)、副総督として越前藩主松平茂昭(もちあき)を頂き、35藩15万人という大兵力で、長州を包囲し始めていました。もっとも積極的に戦意に燃えているのは薩摩軍ぐらいのものでした。どこの藩も、財政逼迫の折から、長州まで軍を送るだけでも大変で、とても戦闘の用意があるとはいえません。だから肝心の総督である慶勝自身からして戦意旺盛とは言えません。再三辞退し、全権委任を条件にようやく引き受けたという状態でした。正面から戦闘をして長州藩を滅ぼすつもりなら、全権委任などという条件を取り付ける必要はありませんから、彼の腹としては、できるだけ早くに謝罪降伏させて、戦闘には入らないようにしよう、ということだったと考えられます。そのことは、その後の経緯からも明白です。 しかし、慶勝の参謀として控えていた西郷隆盛は、この機会に長州藩をどこか東国にでもお国替えして、長州という国が将来ともに禍根とならないようにしようという腹でした。少なくとも9月7日の段階で彼がそう考えていたことは、複数の証拠が残っていて、確かです。そして、慶勝は、その指揮下にある唯一の期待できる戦力を率いている西郷に全面的な信頼を置いていたのです。したがって、このまま事態が推移すれば、日本史のその後の流れが大きく変わっていたことは間違いありません。 長州藩の方は、といえば、禁門の変、下関戦争と相次ぐ連敗で、疲弊しきっていました。こういうときに得てして起こりがちなことですが、激しい内紛を起こして、門閥派が、家老の周布政之助を自害に追い込み、それまでの過激派に代わって政権を握り、幕府に対してひたすら恭順という姿勢を示し始めていました。したがって、特に戦闘を行わなくとも、西郷の狙い通りの事態となっていたはずです。 この時、歴史の上に突然現れて、幕末史を大きく変えたのが勝海舟と坂本龍馬の二人です。 坂本龍馬は、幕臣である勝海舟の弟子でありながら、革命思想家であり、不倶戴天の敵として互いに憎悪し合っている薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎のいずれとも親友という不思議な人物です。その彼が、9月11日に、勝と西郷の最初の会談をお膳立てしたのです。 勝海舟を斬ろうとして彼を訪ねた坂本龍馬が、その人物に魅せられて直ちに弟子になったという話に象徴されるとおり、勝海舟という人物はカリスマ的魅力を持っていました。西郷も勝の魅力に屈した一人でした。この9月11日の会談時に、勝が西郷に何を話したのかは記録にありません。しかし、容易に想像はつきます。8月18日のクーデターで政権を握った慶喜が、ひたすら幕府権力の肥大化と自らの独裁権力の確立を狙って、日本という国家の利益を犠牲にしている、ということであったに違いありません。したがって、その幕府の言うなりに長州を締め付けるのは長い目で見れば、決して薩摩の利益にはつながらない・・。 もっともこの会談については、その後、西郷も勝も一言も触れておらず、江戸城無血明け渡しで有名な三田会談が、両者の最初の出会いであるかのように終生振る舞い続けました。勝海舟という人は、この三田会談の前後にも、間違いなく彼がやったのに違いない秘密の行動をいくつもやっていることは証拠があって確かですが、やはり生涯認めませんでした。 が、この会談そのものが伝説に過ぎないとする学者も多くいます。司馬遼太郎もその説をとったのでしょう、彼の代表作「龍馬が行く」にも、この会談は触れられていません。 私は、幕臣としての勝の立場上、この会談の存在を認めることもまた、適切でない、と考えて一生認めなかったに過ぎず、会談はあったと考えています。そうでないと、西郷の意見がこの日以降、突然180度変わった理由が説明できないからです。 とにかく、確かな事実として、西郷は突然意見を大きく変えました。長州に形式的に降伏させたら、それ以上何もすることなく、長州征伐は終わりにしよう、というのです。慶勝には、もちろん否やはありません。 もっとも、力任せに攻めるというのと違って、こういう政治性の強いやり方は、相手方を得心させるのに少々手間がかかります。ですから、一連の事件の責任者として、長州藩の三人の家老に切腹させ、首を出させて、長州征伐にけりを付けることができたのは、この年、12月27日のことでした。 長州征伐のこのような竜頭蛇尾の結果に慶喜は驚き、慶勝が西郷にたぶらかされた、と嘆く手紙を書いています。 前に述べたように、この同じ日に、水戸天狗党は福井で加賀藩兵に投降しています。最初1000人ほどいた軍勢がだんだんに減って、投降の時点では776人でした。加賀藩が預かっている間は、同藩は、彼らを赤穂浪士の先例に倣って士道を以て遇しました。しかし、慶喜がわざわざ福井まで出向いていって受け取った後は、待遇が激変します。幕府では彼らを敦賀に監禁しました。これほど大量の犯罪者を収容する施設は、日本のどこに行ってもあるわけがありません。そこで海岸に並んでいるニシン倉の明かり窓などを土で塗りつぶして逃げ口を塞ぎ、臨時の監獄としました。北国の寒中だというのに、衣類はおろか、下帯まではずした素っ裸で放り込んだ、というのだからすさまじい話です。しかも、一日の食事は一人握り飯2個ずつだったというのです。これでは生き延びるためには、よほど頑健でなければなりません。最終的には、全員に死刑判決が降りて、斬首になっていますが、その数は352人です。つまり半分以上は獄死したわけです。 こうした必要以上に過酷な処遇には、明らかに、慶喜の意思が読みとれます。天狗党の面々は、禁門の変、下関戦争、第1次長州征伐と、この年立て続けに起きた事件で溜まりに溜まっていた慶喜の鬱憤の吐け所とされたのだと思います。彼らが水戸藩士で、しかも慶喜を頼って嘆願に行く、という名目で、本州のもっとも幅広いところを武装横断する事に成功して徹底的に幕威をさげたという事実が、いよいよ慶喜の憎悪を呼んだのに違いありません。が、もし、外に何の事件もない年なら、慶喜もあれほど過酷な処遇はしなかったのではないかと思います。 私は、現在、茨城県南部に住んでいます。ちょっとした用があって、昔からの土地の人に、県庁に行くと言ったところ、「天狗党の昔から、最後には裏切るから、水戸っぽは信用するな」といわれてびっくりしたことがあります。よく聞いてみると、天狗党が何を意味するのかは知らないで、単に水戸の県庁は信用するな、という表現の強調型として、このフレーズが使われていることが判って、2度びっくりしました。県南と県北の対立心もさることながら、そういうちょっとした表現に、百年以上たった今日でさえ天狗党が生き残っているほどに、当時この惨殺事件は、茨城県民に強いショックを与えた、ということが判ります。 9. 横須賀工廠の建設 元治元(1864)年からその翌年にかけて、わが国を取り巻く情勢はいよいよ加速します。これまでもある程度そうでしたが、これからの各節は、ほとんど同時進行の事件となります。なお、元治2年は4月7日に慶応と改元されますが、混乱を避けるため、改元以前についても、同年の出来事は慶応元年と、以後、表記します。 下関戦争の責任を追求されて、英国公使オールコックが不在になると、俄然元気を出したのが、フランス公使レオン・ロッシュLeon Rochesです。この機にフランスの日本における権益を確立しようと考えたのです。 下関戦争の少し前、元治元年3月に日本に着任したロッシュは、その直前の職が、フランスにとって最も重要な植民地であるアルジェリアの総督だった、という、幕末にわが国に駐在していた各国公使の中では、超弩級の大物外交官です。年齢もこの時54才で、在日外交官中では間違いなく最長老でした。 前職が出稼ぎ商人に過ぎなかった米国公使ハリスは少々ひどすぎるとしても、オールコックにしても、もともとは中国で開業していた外科医で、リュウマチのため手が使えなくなって外交官に転じたという人物です。日本に着任する以前に、10年以上外交官としての経験を積んでから日本に赴任したので、決してハリスのような素人ではありませんが、間違っても生粋の外交官とはいえません。日本で最大の権益を持つ両国がこんな調子なのですから、後の国も似たり寄ったりという状況でした。 その中に、突然フランスだけがこのような超大物を送り込んできたわけで、そこには本国政府の強い決意が認められます。すなわち、当時フランスは世界最大の絹織物工業国であり、フランスとしては、きわめて切実に原料の生糸や、さらにはその元となる蚕種を求めていたのです。ところが、当時世界最大の生糸生産国である清国市場では、フランスは完全に後塵を拝してしまって、食い込む余地がありません。 そこに突然、彗星のように、清国よりも優秀な生糸を輸出する日本が出現したわけです。この有望な新市場で、何とか英国を出し抜くことができれば、フランス絹織物産業の未来は明るいといえます。さらに、アルザス地方などで勃興しつつある機械化された綿産業の製品の販売市場としても、日本は大いに当てにできます。 とはいうものの、この時点におけるフランスの日本市場における比率はわずか1.7%に過ぎず、正気の人間であれば、これほどの数値からの挽回などは普通考えません。フランスがこのような大変なばくちに踏み切ったのは、この時、フランスを動かしていたのが、ナポレオン3世という稀代の山師であった、という側面を無視することはできません。彼は大ナポレオンの甥という血統だけを頼りに、皇帝の地位にまでのし上がった人物です。メキシコの銀に目を付けると、南北戦争で米国が手を出せないのを良いことに、ここを自国の勢力圏に入れようと画策し、また、ベトナムを植民地化しようと画策するなど、フランスの政策全体として、きわめて投機的な傾向が目立つ時代なのです。 しかも、ロッシュには、ちゃんとその意志を直接に幕府に伝える手段がありました。開国直後の頃は、日本と外国との意思の疎通はオランダ語だけが頼りであり、そのため、ハリスが連れてきたヒュースケンにどこの国も頼らざるを得ない、という奇妙な状況が生まれていたことは、先に紹介したとおりです。が、この頃になると、ちゃんと日本語が使える外交官が生まれてきました。英国の場合、それが有名なアーネスト・サトーです。フランスでは、カトリック僧のメルメ・ド・カションという人物が公使館付き通訳官として、見事な日本語を使って活躍を始めたのです。 カションは特に栗本鋤雲(じょううん)と親しく、互いに言葉を教えあったりした中です。鋤雲は、カションに和春という字をあてています。そして、その栗本鋤雲は、この時期軍艦奉行並の地位にありました。したがって、交渉相手としてはもってこいの地位です。なお、鋤雲は、慶応元年11月には外国奉行に栄進していきます。 また、文久の改革で忌避されて、寄り合いに放り込まれていたタカ派の小栗忠順が、勘定奉行に返り咲いたのが元治元年8月13日、すなわち8月18日のクーデターの直前です。彼は、以後、この年の暮れまで、きわめて出費の多い幕府財政をしっかりと支えます。彼が対馬事件では、地元で顰蹙を買うような事なかれ主義的体質を示したにせよ、単なる門閥上がりのお坊ちゃんではなく、能吏であったことは明らかです。その才能を買われて、元治元年12月18日に軍艦奉行に転じていました。軍艦奉行及びその並として、この小栗忠順と栗本鋤雲は密接な協力関係にありました。 小栗忠順から見ても、フランスからの急接近は大いに歓迎するところです。日本市場で圧倒的な存在である英国を掣肘する武器として、フランスとの関係を使えるからです。 例えば、英国は、日本に積極的に武器を売りましたが、その場合、必ず時代遅れのものを売るように努めました。すなわち、日本を中古品の売却市場として活用はするが、日本が自国の脅威となるような武器は間違っても提供しようとしなかったのです。代表例がアームストロング砲です。薩英戦争の時に猛威を振るったこの最新鋭の施条砲を、英国は決して日本に売ろうとはしませんでした。そこにつけ込むチャンスを見つけたロッシュは、最新鋭の艦載用銅製施条カノン砲16門を日本に売却しています。長州征伐に向けて風雲急を告げつつある慶応元年5月に、これは日本に届いて、幕府を非常に喜ばせました。 こうした一連の努力の中で、ロッシュが挙げた最大の成果が、本節のタイトルとして掲げた横須賀海軍工廠の建設です。幕府との間の契約では製鉄所となっており、日本史の本では普通そのままそう書かれることが多いのですが、その実体は単なる製鉄所ではなく、総合的な海軍工廠です。 慶応元(1865)年1月29日に、フランスと幕府の間に締結された契約は次のような内容を持っています。すなわち、総計9万坪に達する敷地に、フランス海軍の中枢的軍港であるツーロンにある工廠と同規模の工廠を建設するというのです。具体的には4カ年で、横須賀の地に、製鉄所1、造船所1、修船所2を建設し、また、横浜に訓練用の小製鉄所1を建設する、とされており、事実その通りに建設されました。これこそ、後に明治政府に引き継がれて、横須賀鎮守府の命脈となった海軍工廠の起こりです。米海軍及び海上自衛隊の中枢的施設として、今日も機能しています。 この巨大施設の建設代金は240万ドルで、これは総額がフランスからの借款になります。借款には当然担保が必要です。この場合、担保になったのが、生糸貿易です。すなわち、日仏それぞれに少数の豪商からなる公益組合を設立し、これが生糸と貿易を独占し、その貿易の利益から借款を返却する、というのです。まさに、フランスの日本市場での出遅れを一挙に回復する起死回生ともいうべき一手で、辣腕家ロッシュの面目躍如というところです。事前に英国に知られていれば、どんな横槍が入ったか判ったものではなく、その意味で、ちょうどその時期に起こったオールコックの召還という事件は、ロッシュにとり、まさに天の助けであった、ということができます。 なぜこのような財政の厳しい時期に、幕府はこうした巨大施設の建設に踏み切ったのでしょうか。理由は、まさに財政問題、すなわち経費の節減にあります。幕府は、先に紹介したとおり、外国から次々と軍艦を買って海防力の強化に努めてきました。しかし、軍艦というものは、その最善の能力を発揮できるようにするには、点検修理を怠ることができません。 例えば、現在のわが国海上自衛隊の自衛艦の場合、だいたい1年に3ヶ月程度は定期検査のため、ドック入りしています。つまり、軍艦というものに、フルにその持てる能力を発揮させようと思ったら、1年間の4分の1の時間は戦力にならない、というほどのしっかりしたメンテナンス作業を毎年続けねばならないのです。 当時は、そんなに長期間はドックに入れなかったはずですが、それでも基本的には戦闘艦である以上、定期的なドック入りは必要でした。多分、その頃の幕府はそういうことは判っていなくて、故障するまで使い続ける、というやり方をとっていたはずです。幕府が買った船は、咸臨丸のような新造船もありますが、大半は中古船でした。船は、古くなれば、急速に故障をおこす頻度が高くなり、実際に故障するまで酷使すれば、その修理に要する費用が高くなり、期間が長くなります。ところが、当時、わが国にもっとも最寄りのドックは上海のものでした。したがって、そこへの往復だけでも結構時間がかかります。しかも支払いは外貨です。また、上海まで行けないほどの故障をおこしてしまったら、虎の子の船が使えなくなってしまうわけです。 そうしたことから、幕府では、海軍が充実するにつれて、その維持・修理費用が急激に増大していたのです。海舟が残した『海軍歴史』という書に、慶応3年、つまりこの工廠建設に踏み切った翌々年の、1ヶ年の海軍維持経費の記録が残っています。年間合計で92万800両とあります。つまり国内にドックがない状態では、維持管理費、つまり軍艦を単に海に浮かべ続けておくだけで、毎年100万両程度の巨大な費用が必要になる、というわけです。この巨額の出費を抑える方法はただ一つ、早急に国内にドックを建設することです。幕府財政が火の車である状態下で、あえて巨大施設の建設に踏み切った理由が判ると思います。 それにしても、下関戦争で、払わなくとも済む300万ドルの賠償金は、この巨大施設の建設費を上回るわけで、それを支払う方を選ぶというというのは本当に馬鹿げた話という外はありません。 10. 条約改定 第1次長州征伐は、実際の戦闘には入りませんでしたが、15万人という大変な人数を長州との国境地域に集中させたのですから、幕府として、自ら動員した兵力に要した費用として直接に、あるいは動員した諸大名に対する交付金という形で間接に、かなり多大な費用が必要になったことは間違いありません。 それがどの程度に達したのかは判りませんが、とにかくこのために、下関戦争の後で列強に支払うと自分から約束した300万ドルの賠償金を捻出することが、幕府はできなくなりました。そこで、幕府は、慶応元年3月、4カ国の公使に対し、償金の第1回分50万ドルは本年6月に支払うが、第2回分については1カ年の猶予を得て、明年6月に支払いたいこと、その後は約定通り3ヶ月ごとに支払うということを申し出ました。 きわめて巨大な額の問題だけに、各国公使はいずれも自分で諾否を決められず、本国政府に請訓しました。オールコックが本国から召還された後、英国代理公使を務めていたウィンチェスターCharles A. Winchesterは、幕府としては、諸侯が直接貿易するのを妨げるため、諸侯の領土内に新港を開くよりも、償金の支払いを選ぶであろう、と正しく判断した後、ここで償金の支払いを強制すれば、幕府はその捻出手段として新税を導入するであろうし、そうなると、貿易発展の障害となるので、この機会に兵庫の開港と通商条約の改定を迫るべきである、という趣旨の報告を本国に送りました。 パークスは、この請訓に対する訓令を持って日本に赴任してきたのです。内容は、賠償金の3分の2を放棄する代わりに、兵庫又は下関の開港と、条約に勅許を得ること、輸入税を低減することというものでした。 フランス公使ロッシュはこれに反対しましたが、圧倒的な権益を握っている英国には勝てません。そこで、ロッシュは妥協策を講じました。結局、4カ国共同で、賠償金のうち6分の5にあたる250万ドルを放棄する代わりに、前記三条件を飲むように要求することになりました。つまり、この年に第1回分として支払った50万ドルは返さないが、後は棒引きにする、というきわめて幕府に有利な線までロッシュは英国から譲歩を取り付けてくれたのです。 また、幕・長戦争における厳正中立の厳守という条件の取り付けにもロッシュは成功しました。詳しくは次節に述べますが、この時期、すでに長州は第二次長州征伐に立ち向かうため、大車輪で上海などから武器を輸入していました。対幕戦の総司令官である大村益次郎自身が上海まで密航して武器の買い付けにあたっていた、といわれます。このため、列強の厳正中立という事態は、長州を非常に苦しめることになります。 この時、将軍家茂は三度目の上京をしていました。これもまた、第二次長州征伐のためです。 下関戦争の帰り道に行った摂海侵入が、京・大坂に与えた衝撃の大きさに味を占めていた列強は、直接将軍と交渉するため、再び連合艦隊を組織すると、各国公使はこれに搭乗して大阪湾に向かいました。前回ほど大規模ではありませんが、英国艦4隻、フランス艦3隻、オランダ艦1隻、計8隻というのは、ペルリの浦賀来航時の倍の勢力で、はっきり示威を狙ったものということができます。公使一行が兵庫沖に到着したのは、慶応元年9月16日のことです。 9月23日に幕府老中の一人である阿部正外(まさとう)が英国艦を訪れました。米国及びオランダ公使同席の下で、パークスは前記3条件を突きつけました。阿部は、国内の事情から条約勅許が未だ得られず、また、兵庫の即時開港も困難なことを述べました。これに対してパークスは、長州その他の大名が外国に友好的になっていることを引き合いに出し、将軍が日本の主権者であるというならば、条約の遵守を国内に強制できるはずだ、と主張しました。阿部は即答できないとして、9月26日に改めて回答すると答えました。 ロッシュは、あえてそこに同席せず、英国艦からの帰途の阿部を招いて、幕府と英国公使との艦に、斡旋の労を執る用意がある、と伝えました。 幕府では将軍臨席の下に25日に、大阪城内で閣議を開きました。実は、この時期、薩摩藩は外国の要求で幕府が苦況に陥っているのに目を付け、慶喜によってつぶされた参与会議、すなわち有力諸侯会議をもう一度復活させ、外交問題などに関する決定権を幕府から奪って、諸侯会議の手に取り戻そうと画策していました。 この時期、パークスの腹心の通訳官、アーネスト・サトウはかなり薩摩に接近していましたから、その辺りの情報はかなり正確に把握していました。パークスの発言も、こうした国内情勢を把握した上での揺さぶりだったのです。 そこで、閣議の場で、阿部は、幕府の権威を確立する上からも、兵庫の開港に踏み切るべきだ、と論じたのです。老中松前崇広(たかひろ)もこれに賛成し、幕閣はいったん兵庫開港に決定しました。 一橋慶喜は、自分が出席していなかった閣議でそのような重大な決定がなされたのを不愉快に思い、公家を扇動して阿部正外及び松前崇広の2名を、兵庫の無断開港を図ったとして、官職剥奪の勅命を下させたのです。彼の人物の小ささあるいは独裁志向がよく判ります。 老中に対するこのような一方的な処分は前例のないことで、家茂は激怒し、将軍位の辞表を朝廷にたたきつけ、10月3日に、江戸に帰ると決定しました。将軍が辞表を朝廷にたたきつけるということは、将軍として政治を執り行うことをやめるということですから、これはまさしく大政奉還です。大政奉還に関する慶喜の決断を褒め称える人がいますが、このように、大政奉還というカードは、この時期、既に幕府の念頭にあったということができます。慶喜は、むしろこの最強のカードを切るのが遅れて幕府を滅ぼしたことが非難されるべきなのです。 このままでは、長州征伐どころか、幕府政権の行方そのものがどうなるか判りません。一橋慶喜と松平容保は驚いて、将軍を慰留していったん二条城に迎えるとともに、自ら参内して条約勅許及び兵庫開港の切迫していることを天皇に告げて説得しました。 長時間の会議というのは慶喜の得意技です。その間、脅したり賺したりしながら、会議参加者がへばって、慶喜の言うなりになるのを待つのです。この時も、長時間にわたって弁舌を振るった結果、結局、5日の夜8時になって天皇が折れ、条約については勅許を与えるが、兵庫開港は認めない、という妥協案を飲んで話がつきました。 老中本荘宗秀は、英国艦にいってパークスに、条約勅許が得られたことを告げ、しかし、兵庫開港については許可のなかったことは告げずに、これは予定通り将来のことと述べました。ところが、ここで本荘はパークスの恫喝にあって、本来の条件であったはずの賠償金の残金支払いを免除する、という条件を自ら放棄しました。結局、条約勅許だけをただ取りされた結果となりました。 この事件は、諸外国に対し、幕府の権威の低下と朝廷の実力に対する認識を新たにさせました。親幕派のロッシュが、本国に次のように書き送っていることは、その典型です。 「余は、条約勅許の重大性については、既に感知していたが、今、兵庫沖の談判に当たって、その意義の重大なることに驚嘆せざるを得ない。それは数百年来、政治の実権を将軍に委任された結果、当然衰微したものと考えられた天皇の権威が少しも衰微していなかったことである。」 幕府と馴れ合うことで利権を確保しようと狂奔しているロッシュでさえ、このような感想を持ったのであれば、より冷めた目で幕府を見ていた英国側が、これ以降、より幕府離れをした行動をとるようになるのも無理のないところです。 この後、慶応2(1866)年4月に、幕府と列強の間で関税率の改定交渉が始まり、5月13日に老中水野忠精と4カ国の間に改税約書が締結されました。その要旨は、輸出入税ともに、5%の関税率を原則とし、生活必需品、例えば米については無税とする、というものでした。しかも従来は従価税であったものを従量税に変えました。 すなわち原価の5%とされていたので、原価の認定を通じて幕府側のコントロールが可能であったのです。ところが、今回は平均価格の5%ということになったので、幕府側の裁量の余地は全くなくなりました。これは、従来清国との間で列強が有していた権利と同じものです。明治政府が鹿鳴館のような国辱的な外交を展開することによって撤廃を目指した不平等条約は、この時、その全体像を見せたのです。 もっとも、経済学者の説によると、明治維新によるわが国経済の著しい発展は、この自由貿易のおかげだということですから、治外法権と異なり、これは決してわが国に害をなしたということではありません。 11. 第2次長州征伐 (1) 開戦まで 第1次長州征伐が元治元(1865)年12月27日に、不徹底な形で終わったことは前述したとおりです。しかし、不徹底であれ、こうして長州が降伏した以上、あとは戦後処理が始まるはずでした。ところが、実はその時、長州では大変な事件が起きていたのです。 高杉晋作は、下関戦争で連合艦隊との講和条約を首尾よくまとめた後、藩内過激派に命を狙われ、藩外に亡命していました。しかし、元治元年12月、単身下関に現れると、伊藤博文率いる力士隊を巧みに扇動して、16日に挙兵させるのに成功しました。それまでの長州藩の戦いには、一部農民層が加わっていたにせよ、武士層を中心としたものでした。それに対して、彼の呼びかけは、直接農民層に向けられた点に、大きな特徴がありました。 彼の呼びかけに応えて各地で農民兵が決起し、見る間に巨大な勢力となりました。特に、奇兵隊が、絵堂の戦いで門閥派の軍を撃破したのが決め手となり、翌慶応元年2月5日には、過激派が再び藩の政権を握るに至るのです。つまり、第1次長州征伐軍と長州藩との降伏交渉中、実は同時並行で藩内では内戦が継続しており、慶勝などが、討伐の目的を達成したと喜んで引き上げた後、すぐに、再び過激派が政権を奪取していたのです。 当然この情報は、幕府の諜報網のキャッチするところとなります。 慶喜は、このような状況は、幕府の権威を低下させるもので、黙過しておくことはできない、と考えます。江戸の留守部隊も、その点では全く同意見です。こうして、第2次長州征伐が始まることになりました。 4月19日、幕府は、長州征伐のため、将軍自らが進発する、と発表しました。そして、5月16日、家茂は馬上の人となりました。これは彼の将軍としての3度目の、そして最後の上洛となりました。彼は大阪で病に倒れ、2度と江戸に戻ってくることはありませんでした。 これに対して、長州藩は、表面上は徹頭徹尾、恭順という姿勢を崩しません。その結果、表面に現れているところだけを見ると、まるで無抵抗の相手を幕府がかさに掛かっていじめているようにしか見えません。 そこで、例えば、第1次長州征伐では主力となった薩摩藩は、これを無名の帥(むめいのすい=大義名分のない戦)と評して、もはや協力しようとはしません。アームストロング砲を自力で国産化に成功するなど、強大な軍事力を誇る佐賀藩も同様に動こうとはしません。黒田藩にいたっては理由を述べることすらせずに、不参加の意思を明らかにしています。 実はこの裏で、再び坂本龍馬が動いています。幕末史を大きく転回させた大事件、薩長同盟が正式に成立するのは、このしばらく後、慶応2年1月21日のことです。しかし、慶応元年閏5月には、ほぼ薩長が互いに援助するという話を彼はまとめてしまっていたのです。すなわち、正式には同盟はできていませんが、この時期以後、薩摩は全面的に長州に協力するようになってきます。 前に述べたとおり、列強が厳正中立の立場を決めたため、長州藩は、来るべき対幕戦争に欠くことのできない新式の洋式武器の購入ができずに困っていました。そこで、坂本龍馬は、彼が長崎にいるグラバーなどの英国商人から、長州藩のためにそれら兵器を購入するに当たり、薩摩藩の名義を公然と使うようになったのです。これにより長州は軍備を着々と充実させるのに成功しました。また、薩摩は、京都で、得意の朝廷工作により、名分なき長州征伐に勅許を与えるべきではない、と運動したのです。このために、なかなか勅許は降りず、派手に江戸を出発した家茂は、いたずらに長い日々を大阪城で送ることになりました。 こうなると、幕府としては人材不足を痛感せざるを得ません。人材と言うことになると、すぐに思い出されるのが率兵上京事件の責任をとって老中格から降ろされていた小笠原長行です。慶喜が反対したのを、主として松平容保が説得し、7月26日に長行に上京命令が下りました。長行は8月16日に江戸を出発、31日に大阪に到着すると、9月4日には再び老中格として勤務に就きました。 ここで、前節で述べたとおり、下関戦争の賠償金支払いのもつれから、連合艦隊の再度の摂海に9月16日に侵入してくるという事件が起こりました。小笠原長行は、早速その交渉に当たることになります。 禁門の変の時にも述べましたが、公家というのは、むき出しの暴力に対して必要以上に怯える体質を持っています。そこで、幕府は、この列強勢力の摂海侵入を背景に、朝廷に激しい圧力をかけて、長州征伐の勅許をとることにも成功したのです。9月21日のことでした。 朝廷がその意趣返しに老中2名を罷免すると騒ぐと、それを利用して、さらに長年の懸案であった条約勅許も取り付けたことは前節に紹介したとおりです。 これにより、ようやく戦争を開始できることになったのですが、大名の間には厭戦気分があって、なかなか兵が動きません。さらに列強との改税約書の締結に手間取ったりしたため、実際に従軍を命ぜられた計32の諸藩に、その部署を発表することができたのは、ようやく11月になってからでした。 その後も、長州側は恭順という姿勢を表面上は崩さず、幕府の側は、相手から開戦させることで戦争の大義名分を勝ち取ろうと、互いに模様眺めをしながら時間が過ぎました。 その間、長州側の問責のため、という名目で、大目付永井尚志が広島に派遣され、偵察のため、新撰組組長の近藤勇等も随行しました。この偵察隊の調査結果は、とても幕軍に勝ち目がない、というものでした。幕軍の戦意は低いのに対して、長州軍は、全市民が戦争準備に向けて邁進しているからです。 そこで、永井尚志は、寛大な措置という名目で幕府は名を取り、実を長州に与えるという形で幕府の威信を保ちつつ和平に持ち込む以外にない、という意見を具申しました。 しかし、一橋慶喜は、第二、第三の長州がでないようにするには、ここで徹底的に叩く外はない、と主戦論を唱え続けて譲りません。繰り返しますが、慶喜は将軍後見職であり、幕閣の最高責任者なのですから、彼が意見を変えない以上は、どれほど勝ち目がなくとも、戦争になだれ込む外はないのです。 このため、幕府軍はできるだけ開戦を遅らせようとしました。最終的に開戦したのは、翌慶応2年6月のことで、家茂が、江戸を出発してから丸1年以上たってからです。 しかし、家茂自身が既に大阪城まで出張ってきている以上、この間、幕府軍はすべて臨戦態勢に入っているわけです。彼に随行した諸大名、幕臣の総数は10万人を超えました。これだけの軍を維持するには、大変な費用がいります。 これだけの人口が突然増えて、しかも全く生産に従事しないままに長期に滞留している、ということになれば、大阪やその周辺の消費者物価を一気に押し上げたのは当然です。したがって、滞在期間が長くなればなるほど、必要経費の額も急激に上昇していくわけです。 つまり、戦争するつもりでの長期滞陣は、財政的には実際に戦争をしているのと変わらないほどの莫大な費用を要する、ということです。それが実際にどの程度であったか、ということは、本節の最後にまとめて紹介したいと思います。 (2) 民衆の蜂起 幕府軍の長期滞陣が原因で、京・大坂の物価が急上昇した、と述べました。それ以外にも、人夫その他の軍役が地元民には降りかかってきます。こうした諸々の地元に対する負担が、長逗留のため、耐えられる限度を超えるようになった時、民衆の蜂起が始まりました。 慶応2年5月に摂津西宮で貧家の主婦が米の安売りを米穀商に強要したのが皮切りで、米穀商が安売りに応じない場合には、民衆が押し掛けて打ち壊しをする、という事態が巻き起こり、あっという間に畿内全域に広がりました。慶応版の米騒動です。 打ち壊し勢は米1升で、時価700文のところを200文に負けろと交渉するのですから、米穀商などではとても飲めません。貧民と商家の衝突は必然となりました。 おかしなことに、たたき壊される豪商は、いずれも、幕府が戦費のため求めた上納金を拒否したり、値切ったりしたところばかりです。そこで、打ち壊しの首謀者は将軍その人である、というようなデマまで流れる始末です。暴れている貧民を逮捕して、首謀者を聞くと、その人はお城にいるから、お城で吟味してくれ、という答弁が横行して幕府は取り締まりに手を焼きました。 この打ち壊し騒動はさらに幕府のお膝元の関東にも飛び火し、武蔵の国などで大規模な一揆が勃発しています。 こうした不穏な情勢を鎮めるために、かなりの出費を幕府としては余儀なくされました。これは戦費ではないので、後述する戦争経費の中には含まれておらず、どの程度の額であったのかは判っていません。 とにかく、こうして、幕府としては、早く戦争を始めないと、足元から危ない、という事態が生じてきたのです。このため、結局、第2次長州征伐は幕府側から始めることになりました。 (3) 開戦 慶喜以外は誰も望んでいなかった戦争が始まったのは、慶応2年6月7日のことです。 幕府海軍が周防大島を砲撃した後、陸戦隊が上陸して、同島を占領しました。ここは本格的な侵入拠点とする、というより、艦隊行動の拠点という程度の意味しかないことは明らかでしたから、長州軍司令官の大村益次郎は、同島については放置しておく方針でした。 が、高杉晋作は、この知らせを聞くと、なんとわずか200トンの丙寅丸で、1000トン級の軍艦をずらっとそろえている強大な幕府海軍に夜襲をかけました。この時期、海戦の夜襲は常識的に不可能とされていました。そこで、幕府側は何の警戒もしていませんでした。晋作は平然とこの軍事常識を破ったわけです。 丙寅丸は小さな船ですし、戦闘は短かったので、幕府側に被害はほとんどでなかったのです。が、夜襲されたという事実に怯えて、驚いたことに幕府海軍は、そのまま逃げ去ってしまいました。その結果、島に残された部隊は孤軍となり、長州軍の攻撃に壊滅しました。 広島方面からは、幕府の伝統にしたがい、井伊軍団が先陣を切って攻撃を開始しました。不幸なことに、井伊軍団は武装も伝統にしたがい、赤備えの鎧に槍、刀、それに火打ち銃で攻撃しましたから、最新型のミニエー小銃を装備した長州軍の前に一瞬にして壊滅しました。ライフル銃弾は面白いように古式豊かな鎧を貫通します。これに対して、井伊軍の主力兵器である火縄銃からの銃弾は、ミニエー銃の半分の距離も届かないのですから、戦闘というより殺戮という方が正しいような状況だったようです。 壊滅した井伊軍に代わって、幕府自慢の洋式歩兵が前進しました。この部隊は予想通り強く、長州軍を押しまくりました。が、長州軍は地の利を生かしてじっと耐え抜き、結局この戦線は膠着状態になりました。 島根県側からは山陰地方の諸藩の兵に、紀州藩兵が加わって攻め込みました。紀州藩は早くから洋式軍を作っており、決して弱い兵ではありません。が、こちらの方面は、長州軍の総司令官の大村益次郎自身が出陣して采配を振るったため、ほとんど鎧袖一触という感じで幕府軍は壊滅し、長州軍は遠く浜田城をも攻め落とす、という大きな戦果を挙げました。同城が落ちたのは7月18日のことです。 残る方面は下関海峡を挟んだ小倉です。海峡は、強力な幕府艦隊が制海権を握っているのですから、長州側から攻め込むことは不可能で、その意味で間違っても幕府側が負けようのない戦線です。しかも、この方面の総司令官に幕府はエースを起用していました。老中、小笠原長行です。 小笠原長行は、率兵上京事件で老中格から罷免されていましたが、この前年の9月4日に老中格に復帰し、10月9日に「格」がとれて正式の老中に昇格していました。小笠原藩は相変わらず年下の義父が藩主ですから、彼は藩主としての身分を持たない最初で最後の老中となりました。 彼がこの方面の拠点とした小倉城は、そもそも小笠原本家の城です。小笠原本家は二つあります。そのうち、すなわち長行の小笠原家は、前に紹介したとおり、日本中あちこち転封になったあげく、この時期肥前唐津を領有していました。それに対して、今一軒の小笠原家は寛永9年という遠い昔から一貫して小倉城主なのです。英明をもってなる長行の指揮下に、この2軒の小笠原家や、強兵で知られる肥後熊本藩兵などを配しているのですから、陸上勢力から見ても、負けようのない陣営といえます。 ところが、長州側は機略縦横で有名な高杉晋作の総指揮の下、海軍は坂本龍馬自身が指揮し、圧倒的強さを持つはずの幕府海軍を翻弄します。そして、制海権に生じたわずかの隙をついて、山県狂助(後の有朋)率いる奇兵隊が海峡を越えて繰り返し小倉側に侵入しては、痛撃を加えます。 こうして圧倒的な大軍を誇る幕府軍が、一握りの長州陸海軍に翻弄されている最中に、大阪で事件が起こりました。将軍家茂が死亡したのです。7月20日のことでした。享年21歳。歴代の徳川将軍の死亡原因の例に漏れず、彼の場合も心臓脚気が原因でした。徳川の将軍家の食事はよほど栄養が偏っていたものと見えます。 この家茂の死は、幕府は堅く秘密にしていたのですが、7月30日には小倉に届きました。 家茂という人は、狷介な性格で知られる勝海舟のような人物が、この人のためなら命も惜しくない、と熱心に奉公していた、という独特のカリスマ性のある人物でした。百才あって一誠足らずといわれ、信服する幕臣がほとんどいなかった慶喜との大きな相違です。 この家茂のカリスマ的魅力が、この時期の幕府を支えていました。そのために、その死の知らせは、一瞬にして幕府軍を自壊させることになりました。 まず、小倉方面軍の主力部隊である肥後藩兵は、それを聞くと同時に、戦場を離脱して帰国してしまいました。 いろいろ考え併せてみると、小笠原長行も、家茂のカリスマ性の虜になっていた人の一人なのだろうと思います。その証拠に、彼が最初の越権行為である率兵上京事件を引き起こしたのは、事実上朝廷の虜となっていた家茂を救うためでしたし、彼が進軍を止めたのは、家茂自身の命令が届いたときでした。 今回、長行は、家茂の死の知らせを聞くと、誰にも告げずに一人福岡城に退いて、喪に服してしまいました。よほどのショックだったのでしょう。 しかし、そういう自身の感情におぼれた行動を総指揮官がとるというのはもってのほかです。これが本章の冒頭で触れた、長行の生涯における2度目の過ちです。 長行がいなくなると、肥前唐津藩も戦場を離脱してしまいました。この時、唐津藩の支配者は、長行より2歳年下の義理の父!です。その父を差し置いて、老中に上った子が総指揮官で、仮にも父である人を命令するのですから、両者ともに実にやりにくい立場にいたわけです。その長行がいなくなったのですから、これ幸いと唐津藩が戦場を離脱したのも無理のないところです。 この結果、小倉小笠原家は、独力で長州藩と向き合わざるを得なくなりました。それは無理と考えた同藩は、自ら城に火をつけて退却しました。ゲリラ的な攻撃を仕掛けて、幕府軍の進撃を阻んでいたつもりの長州としては、狐につままれたような勝利となりました。 しかし、これで膠着状態になっている広島方面をのぞいて、すべての方面で完全に長州が勝利することになったわけです。 (4) 戦い済んで 7月20日に、将軍家茂の臨終に立ち会った一橋慶喜は、その後1ヶ月ほどの間、大変な興奮状態にありました。水戸家が徳川300年の間、願いながら実現しなかった将軍位が、これで彼のものとなったことは、当時の徳川家の状況を考えれば確実といえます。 そこで、将軍位就任を華々しい戦果で飾ろうと考え、「長州大討込」ということを言い出します。みずからランドセル、つまり歩兵の背嚢を背負って、幕府自慢の洋式歩兵隊を率いて山陽道から長州に攻め込もうというのです。 そこで、参内して孝明天皇にもそう申し上げ、朝敵を征伐するにあたっての最高の儀式である節刀を賜る、という儀式までやっていただいたのです。これは皇室相伝の御剣「真守(まもり)」を官軍総督の印として拝受する、という儀式です。 そこに、8月1日には小倉城がすでに陥落していた、という知らせが8月11日に大阪に届きました。 この時、幕府軍は依然として山陽道では戦っており、しかも前に述べたとおり押し気味に戦いを進めているのですから、その山陽道から、自ら攻め込もうという慶喜の戦略には、本来なら影響を与えないはずの知らせです。 けれども、不思議なことに慶喜はこれにより突然考えを変えます。おそらく彼の弱点の一つである責任回避癖が頭をもたげたのでしょう。自分が引き受けている戦線だけしか残らない状態で、戦争をして負ければ、敗戦は間違いなく彼の責任ということになるからです。そこで、突如「大討込」はやめる、といい出しました。 閣僚達は仰天しました。翌12日には広島まで幕府の大本営を進めることになっていて、そのための準備がすべて終わっている段階での、突然の変心だからです。 しかし、一度責任回避癖が頭をもたげると、慶喜は頑固です。結局、朝廷に対しては慶喜自身が15日に上京して八方奔走し、つい先日、強引に自分が取り付けた勅旨を取り下げてもらい、代わりに和平を命ずる勅旨を下してもらいました。 8月20日に、家茂の死と、慶喜の徳川宗家相続が発表されました。天皇の思し召しにより止戦、すなわち戦争をやめることになった、と発表され、幕府側が一方的に戦闘行動を中止する、という形で、この第2次長州征伐は終わったのです。 敗戦処理は、例によって勝海舟が押しつけられました。彼は、家来も連れず、文字通りただ一人で厳島まで出向いて、21日、長州との間に止戦の約定を取り交わしました。 さて、この第2次長州征伐に関する幕府の経費ですが、これについては勝海舟が、「外交余勢」と題する本の中に記録を残しています。 それによると、家茂が江戸を出発した前年5月からこの年5月までの大阪での滞陣経費が毎月17万4235両3分です。内訳として目立つのが、お供に対する手当などが毎月5万3790両あまり。今の言葉で言えば出張手当というところでしょうか。また、武器の維持管理費が1万3807両とあります。これとは別に食糧として毎月4368石4斗の米を必要としています。これも現地で調達しなければなりません。閏の月がありましたから、14ヶ月分で、合計315万7446両が開戦前の総経費とされています。 6月に開戦したわけですが、それから戦闘を経て、敗戦処理が終わる同年12月までの7ヶ月間の総経費が121万9650両1分となっています。したがって、戦費は、合計で433万7096両余りということになります。 他の文書でも、戦費は500万両程度と書いてあるものがあり、海舟のこの記録は正しいものと考えられています。 そこで問題は、これほどの巨費を幕府はどうやってやりくりしたのか、ということです。 従来、幕府が財政危機に陥ったときに常に愛用されていたのは、通貨の改鋳です。しかし、今回はやっていません。改鋳というのは、大規模な国家事業ですから、戦争の片手間にやれることではないのです。おまけに、通商条約のおかげで、当時のわが国経済は国際経済の中に組み込まれていますから、改鋳がどのようにわが国経済に跳ね返るかを慎重に検討しない限り、実施は不可能な時代になっていました。 もちろん、先に、内外における金貨・銀貨の交換レート調整の一環として実施された万延改鋳は、明治になるまで一貫して続けられており、したがって、この時にもある程度の差益は生み出し続けていました。しかし、この慶応2年という時点では、もうほとんど旧通貨の回収は終わっており、したがって出てくる差益も微々たるものになっていたはずです。 次に幕府のお家芸が、年貢米の増徴です。これについても、この当時も積極的に展開されたことは間違いありません。 しかし、戦争で特に国内で最も重要な回船ルートである瀬戸内海が自由に通行できなくなっている影響は大きく、大阪に米が集まってきません。先に、開戦前夜に米の安売り強要から打ち壊しに発展したと紹介しましたが、それほどに、京・大坂の米不足が深刻になっていたわけです。 米を大阪の市場で販売しなければ、現金収入を得ることができない、という点では米将軍とあだ名された吉宗の昔から、この時に至るまで、事情は少しも変わっていません。したがって、年貢米収入に関する限り、この時点では、むしろ従来よりもかなり減っていた、と考えるべきです。 曖昧な書き方をしていますが、実は幕府の年貢米収入記録がこの時期、残っていないため、そもそもどの程度の年貢米徴収量があったかさえも判らないのです。まして、その換金額は判りません。 この時代の重要な財源として、関税収入があり、井伊政権以降の大事な柱になってきた、ということは既に紹介しました。幕府に関税自主権があれば、戦費獲得のため、増税したいところですが、実際には列強の摂海侵入による脅しから締結させられた改税約書により、関税収入は逆に減っています。とはいうものの貿易量は順調に伸びていますから、確実に期待できる財源です。 しかし、戦争の間にも、既に注文してある軍艦その他の兵器は次々と届いています。海軍は海に浮かべ続けるだけで、年に100万両もの費用を要します。さらに、下関戦争の賠償金の分割支払いも続けねばなりません。そうしたあれこれを考え併せると、戦費の原資として機能する余裕があるほどの財源であったとはとても思えないわけです。 もう一つ、幕府が苦しくなると使うのが、民間からの借り入れです。つまり御用金を申しつける、というやり方です。実際、この第2次長州征伐時に京・大坂の商人に申しつけた御用金は、総額250万両に上っています。これが実際に取り上げるのに成功していれば楽なのですが、第1次長州征伐時にさえ、激しい抵抗を商人が示したことは、紹介しました。したがって、たぶん、その半分も入ってくれば上等という程度であったと思われます。しかし、これが大きな戦争の財源の一つであったことは間違いありません。 こうして、幕府としては、それまでになかった数百万両規模の全く新たな財源を、この時、必要としていたわけです。 窮すれば通ず、ということわざ通り、幕府の優秀な官僚たちは、新しい財源を考え出すのに成功しました。その新財源の名を兵賦金といいます。 (5) 兵賦金 勝海舟が書いた「解難録」という書の中に、次のような趣旨の文章があります。 「長州征伐をはじめて以来、国家財政を空費したため、城内の金庫はすべて空になってしまっている。年貢は既に集めてなくなってしまい、残るは兵賦金のみである。それによる収入が350万〜60万両ある。これは本来、兵隊や軍艦のために使うもので、その他の用途に使用することは許されないものだが、京・大坂の情勢が不穏なので、その用途が実に多く、使ってしまった穴を補填して、兵を集めたり、弾薬を買ったりするために使うことができない・・。」 前に述べたとおり、直接戦費が約434万両。仮に100万両程度を御用金で確保できたとすると、残り300数十万両の収入があれば、第2次長州征伐が財政的に可能になります。兵賦金でそれが得られたというわけです。 この兵賦金というのはいったいなんなのでしょうか。 前章で、春嶽が、文久の改革の一環として幕府に洋式歩兵隊を設けた、という話を書きました。 そこでは、最終的に2万人の歩兵隊を作る予定で、文久2年12月1日に、江戸市中の浪士や町人、農民から兵士を公募したが、応募者が少なく、最終的に3,500人程度の規模に終わった、と書きました。 本来ならば、公募するまでもなく、旗本や御家人を召しだして訓練し、歩兵隊とすれ済むはずです。彼らはそのために300年間、無為徒食をしてきたのですから・・。しかし、現実問題として、旗本や御家人は軟弱で使い物にはならない、ということは、自他共に認めるところだったので、公募ということが行われたわけです。 しかし、旗本や御家人自身でないまでも、彼らにその石高に応じて、一定数の兵隊を出させるノルマを負わせてもよいのではないか、ということが考えられます。 俗に旗本八万騎といわれますが、これは旗本や御家人の総数が8万人いるということではなく、彼らに給している石高に応じて引き連れてくるべき家来の数をも合計すると、約8万人になる、という意味です。 この古い建前を復活させたのが、兵賦令という名の命令です。最初に出されたのは公募直後の文久2年12月3日でした。 江戸財政改革史で、5代将軍綱吉が実施した元禄地方直しという政策を紹介しました。そこに述べたとおり、500石取り以上の旗本は、必ず知行地を持っています。そこで、500石取りは1人、千石取りは3人、三千石取りは10人という調子で、その知行地内から、15歳以上45歳以下の強壮な男子を選んで兵士として差し出せ、という命令が兵賦令です。兵役を賦課するので、こう呼ぶわけです。先に述べた建前は、提供した兵士の装備や、さらに月々の維持費等もすべて主人側が負担することを求めています。昔はいざ知らず、この時代の洋式歩兵の装備を維持していくには、だいたい月に10両程度を必要としたようです。したがって、旗本は、この人員の確保プラス月兵士一人当たり10両の負担をする義務が、先祖代々伝わっている、ということになります。それを明文化したのが兵賦令というわけです。 確かに理屈としてはその通りです。しかし、実際問題として、旗本とその知行地の関係は差し出せ、といったから兵がでてくる、というような緊密な、あるいは甘いものではありませんでした。 勝海舟の父、小吉は「夢酔独言」という書の中で、知り合いの旗本のために、その旗本の知行地から若干の金を引き出す際の苦労話を書いています。金を出させるために、小吉は切腹のまねごとまでしなければならなかったのです。 金を出させるだけでさえそんな調子なのですから、まして死ぬ確率の極めて高い兵を出させるなど、論外というべきだったでしょう。したがってあまり実効性のある布告ではなかったようです。 そこで元治元年に兵賦督促令というものがでて、速やかに兵を差し出すように、と督促しています。その中で、始めて金のことに触れています。すなわち、遅滞した部分については金で補填しろ、という命令が入っています。その後も繰り返し、督促が行われます。 慶応元年になると、より多くの直属軍を幕府が必要としたために、兵賦の範囲が、旗本領だけではなく、天領にまで拡大されました。 そしてとうとう、慶応2年正月には全面的に金納制度に切り替わったのです。これが兵賦金です。兵賦一人当たり20両を提出しろ、といっています。しかもこれを向こう10年間の軍役費として一度に前納しろと命じています。 幕府の直轄領に、旗本の知行地を加えた、幕府の支配領地は、新井白石の計算に依れば約700万石でした。おそらくこの時代にもたいして変わっていない、ということを前提にして、先の兵賦令の数値に基づいて計算してみると約30万両という答えがでてきます。したがって、その10年分を前納させれば、勝海舟が述べていた300数十万両の収入が得られることになります。 現実に戦争をしてみて、兵を確保するよりも軍資金を確保する方が、よほど重大である、と判っての苦肉の策ということができるでしょう。 したがって、その法的性格は、天領に対する場合と旗本に対する場合とでは違います。 天領の場合には、単純に戦争目的税ということができるでしょう。どこの国でも、戦争ということになると、その軍資金に充てる目的で、その期間だけの特別税を課しますが、幕府領内では、これがはじめてです。もっとも幕府としては、綱吉が富士宝永山被害救済のため、という名目で、大名領も含めて全国一律に固定資産税を徴収したという例外がただ一つあります。 この、兵賦金という名の増税が、戦費調達のため絞られていた天領農民に対する今一層の重圧になったことは当然です。先に対長州戦開戦前夜に関東地方も含めて各地で大規模な一揆が起こったと説明しましたが、兵賦金がその引き金を引いたのです。実は、この慶応2年という年は、江戸時代を通じてもっとも百姓一揆の多かった年なのです。いきなり数百万両という巨額の税金がかかってきたのですから無理もありません。 旗本に対する兵賦金の場合、給料の天引きというような性格があります。江戸時代、どこの藩でも財政が破綻し、手っ取り早い対策として、藩士の俸給をカットする、という方策にでていました。しかし、幕府だけは、これまでそういう策をとらずにやりくりしてきたのですが、我慢の限界を超えた、というわけです。 旗本が十分に実力を持っていれば、この兵賦金は知行地の農民に転嫁されたことでしょう。事実、そう考えている日本史学者もいます。しかし、先に夢酔独言に紹介したとおり、当時の旗本はそれほどの力は持っていません。農民に有無をいわさず転嫁できるだけの力を持っていれば、そもそも兵賦令で話は終わり、兵賦金にまで発展しなかったはずです。ですから、おそらく、実際のこの資金は札差しを拝み倒しての追加借り入れだったことでしょう。これほど多額の追加貸し出しに応じたのであれば、江戸の札差し達が幕府の滅亡の道連れになったのは、いわば必然の成り行きといえます。 12. 幕府の滅亡まで (1) 慶応の改革 徳川慶喜が、老中や諸侯達の懇望の前にやむを得ず、というポーズを取りながら喜々として15代将軍の地位についたのは慶応2(1866)年12月5日のことでした。明治維新後に、「昔夢会筆記」という書で、慶喜は将軍位につくにあたり、すでに「日本国のために幕府を葬るの任に当たるべしとの覚悟をさだめ」ていたと述べていますが、もちろん彼の持病というべき虚言癖の現れと見るべきで、まったく信用できません。 慶応2年7月20日に家茂の臨終に立ち会ったときから、実質的に独裁者としての活動を開始した慶喜は、その後の1年間を幕府の覇権を確立するための全力を挙げており、それを幕府安楽死政策と見ることはまちがってもできないからです。 この時期、幕府軍の戦力で、もっとも強力であったのが、洋式歩兵隊であったことは何度か触れました。「長州大討込」と唱えたときには、自分自身、その一員となってランドセルを担いで走ろうとそのていたほどに、慶喜はこの部隊に入れ込んでいます。そこで、彼の急務はこの洋式歩兵隊の一層の強化と拡充です。強化手段として、ロッシュに対し、8月2日の段階ですでにフランス軍の顧問団の派遣を依頼し、止戦を発表した後の8月27日にも再び書面をおくって催促しています。その中では、明確に将来に向けて幕府の覇権確立のため、努力する旨が述べられています。 そのためには、財源の確保がもっとも重要な問題であることは明らかです。 長州との戦争は一応終わりましたが、慶喜の独裁権力を維持するためには、慶喜のいうがままに動く軍事力を手元に握りつつけている必要があります。そのため、洋式歩兵を中核に、約2万の兵力を慶喜はそのまま畿内においています。第2次長州征伐の際、10万の軍を1年間畿内に置いたことで、300万両が必要になったことから考えると、単純計算で2万の兵力を維持するには年に60万両の費用が必要だ、ということになります。畿内に長期これだけの軍が駐留することによる物価の値上がり及び民心安定のための費用を考えると、これよりもう少し多い財源を、将来に向かって確保しなければなりません。 前節の説明で判るとおり、長州征伐時に役に立った唯一の財源は兵賦金でした。しかし、兵賦金は、一回限りの非常手段です。10年分前払いという名目でかき集めた以上、後10年は兵賦金をとることはできません。 そこで、慶応2年8月、つまり第2次長州征伐が終わった直後に、幕府は軍役令というものを出しています。これは、兵賦とは別に、さらにそれよりも厳しい軍役というものを旗本に課したものです。 すなわち、600石取りは3人、700石取りは4人という調子でどんどん累進的に厳しくなり、3000石取りだと24人というノルマを課した上で、もっとも人数を差し出すに及ばず、一人につき金5両を差し出せ、とあります。 つまり、軍役と名を変えた新しい兵賦金が旗本達の上にのしかかってきたわけです。これはさらに同年9月に若干内容が変わり、兵賦令と一本化されますが、旗本から金を取ろうという点には、まったく違いはありません。毎年、78万8000両あまりの収入が見込める、と計画書に明記されています。まさに旗本受難の時代に突入したわけです。旗本層こそが幕府権力の基盤であり、彼らもまた食うや食わずやの厳しい財政状況にあることを考えると、彼らを搾取することで軍事力を維持しようというこの政策は、蛸が自らの足を食うに似た末期的症状といえます。旗本にとって幸い?なことに、幕府は後わずか1年余りで滅びますから、厳しく搾取される時代が長く続いたわけではありません。もし幕府が長続きしていれば、旗本の倒産が相次いだことでしょう。 幕府はさらに10月には譜代大名領までも兵賦金の対象としようということを検討していますが、これは実施に至りませんでした。 しかし、将来的に幕府の覇権を確立するためには、単に畿内に兵力をおいておく、というような消極的な作戦ではなく、日本全国を転戦しても耐えられるだけの財政力が必要です。わずか長州1藩と戦うために、破産寸前まで追い込まれたことを考えると、より確実な財源を確保する必要があります。 そこで思いつくのがフランスからの借款です。幕閣の中でこの年10月になると真剣な検討が始まりました。これが、逆に幕府の命運を決めることになります。この点については、後に詳述します。 先に横須賀工廠の建設のため、フランスから借款したこと、及びその担保が日仏両国に設置された生糸の輸出入組合を通じてのフランス独占権にあることを述べました。その具体化のための交渉の一環として慶応3年2月になると、追加借款交渉が本格化します。ロッシュは、蝦夷地の鉱山から産出する金銀を担保として、600万ドルの追加借款に応ずる、との態度を示します。 しかし、追加借款を提供するには、幕府の体制がそれなりにしっかりしていなければなりません。そこで、ロッシュは慶喜に西欧行政制度に関する講義をこの2月に行っています。 制度改革は慶応3年5月12日に断行されます。すなわち外国総裁(外務大臣)小笠原長行、会計総裁(財務大臣)松平康英(やすひで)、陸軍総裁(陸軍大臣)松平乗謨(のりたか)、海軍総裁(海軍大臣)稲葉正巳などで固めた内閣を設けたのです。これまでの老中制度は、勝手係と外国係だけが専従制で後は連帯責任制でしたが、全官職を専従制にしたわけです。その次官級ともいえる若年寄に、門閥にこだわることなく、永井尚志などの若手を起用しました。 またロッシュは固定資産税や営業税、酒税などの導入も提案し、幕府はこの線に沿った調査を開始しました。 さらにロッシュは、この慶応3年に開かれたパリ万博に幕府が出展することを提案し、慶喜は弟の徳川昭武(あきたけ)を正使とし、慶喜の股肱の臣である渋沢栄一を添えて、この年1月に送り出しています。 この、いかにも妥当と思われる措置が、結果として慶喜とロッシュの運命を暗転させました。 同じパリ万博に、薩摩藩は琉球国と称して、別途、幕府以上の莫大な出品を行い、幕府の展示活動に大変な妨害をしたのです。 実は、フランスでは、この年すでにロッシュを送り出した外相ドルーアン・ド・ルイEdouard Drouyn de Lhuysが辞任し、外相がムーティエMarquis de Moustiersに変わっていました。ロッシュは自分の実力に自信を持つ余り、本国に余り詳しい報告を送っていませんでした。そのため、ムーティエは英国などからの批判だけに基づいてロッシュの対日政策を判断するようになってしまったのです。例えば、ハリスの後任の米国公使が自分個人の利殖を図ろうとして幕府から不信感をもたれたという話を前に紹介しました。ロッシュも同様の経済活動を行っている、という非難が浴びせられたのです。 さらに、徳川昭武一行に随行してきていた通訳官のカションが、ロッシュに対して不満を持っていたのか、あるいは日本通としての良識ある判断だったのかはともかく、幕府の命運は既に尽き、薩摩が現在もっとも強力であるので、ロッシュの政策は誤っているという趣旨の論文を、ラ・フランスという新聞に発表しました。上述の通り、パリ万博では薩摩の出品の方が、幕府を上回っているのですから、これは説得力を持っています。 その結果、1867年5月8日(慶応3年4月5日)、フランス外務省は、ロッシュの努力によって、対日貿易量が飛躍的に増加していることは高く評価しながら、これ以上幕府一辺倒の政策を採ることは、こうした既に獲得した権益を危うくするおそれがある、として、ロッシュの幕府支持策を否認し、諸藩に接近するパークスの政策を支持する対英協調路線を示した訓令を発したのでした。ロッシュは、この訓令に接すると激しく反発しますが、結局、慶応4年(すなわち明治元年)1月25日に帰国命令を受けて、日本を離れることになりました(実際に離日したのは同年6月です)。 ここに、フランスに全面的に依存していた慶喜の慶応改革も、とん挫することになります。 もっとも、そのわずか前に鳥羽伏見の合戦は起きており、慶喜の方がロッシュを大阪に置き去りにして江戸に脱出する、という形で、両者の連合は壊れていました。 (2) 列候会議 この時期、英仏は世界的に植民地を拡大していましたが、その手段は、対象国内の内紛に介入して、一方当事者に援助を与え、内紛を拡大して双方ともに疲弊させ、最終的に武力介入するという手段でした。アヘン戦争という過酷な教訓が、すぐ隣国の清国で起こっていたため、この英仏の侵略手段は、わが国の知識人の一つの常識になりつつありました。そこで、こうした密議の存在はすぐに日本中に知られ、猜疑の目をもって幕府は見られることになります。 幕府が一日長らえれば、その分だけ日本の利益が危うくなると、多くの人が考えました。では、どうしたらよいでしょうか。 誰でも考えつくのが、先に、慶喜の強引な妨害活動にあってたたき壊された参与会議の復活です。あのときのメンバーは、いずれも雄藩の長で、自前の軍事力を持っています。したがって、彼らがもう一度自らの軍事力を持って上京し、その連合軍事力で慶喜を押さえつければ、ふたたび参与会議の慶応版、すなわち列候会議を開催し、これが日本の支配力を握る、ということが可能になるはずです。 誰でも考えつく、といいましたが、日本国内でこれを文章化した最初の人物は、英国公使館の通訳官であるアーネスト・サトーです。彼は、このアイデアを独自に思いつき、これを横浜で発行されていた英字新聞ジャパン・タイムズに、慶応2年の1月から3月にかけて匿名で発表しました。これを、サトーの日本語の教師であった阿波蜂須賀家の家臣、沼田寅三郎が日本語に翻訳し、その写本が広く流布したのです。これは、発表にあたり上司パークスの許可も取っていない純然たる私的論文なのですが、流布するにあたっては、「英国策論」というなにやら英国の公式態度を書いたものと思わせるような表題になっていました。 パークスは、当初は幕府を支援することで英国の立場を強化できると考えていました。慶応3年1月の時点では、間違いなくそういう路線でした。が、ロッシュに出し抜かれて、幕府は完全にフランスに取り込まれてしまった、ということが徐々に判って来るにしたがって、方針転換を図り、この部下の私的論文に接近した政策を採り始めます。 1866年(すなわち慶応2年)初頭に、薩摩の松木弘安(後の寺島宗則)がロンドンで、こうした動きとは全く別に、同様の提案を英国外相に向けて行っています。これを受けて、英国外務省では、パークスに対し、天皇・将軍・大名の自由討議を勧めるよう、訓令しています。したがって、列候会議の承認は、この時点ではパークスの裁量の範囲に属していたわけです。そこで、英国は列候会議の開催推進に向かって動き出します。 実際に列候会議開催のために奔走したのは、薩摩藩の西郷隆盛と、土佐藩脱藩浪士の中岡慎太郎です。 慶応2年12月25日に、幕府にとって致命傷となる事件が起きます。朝廷内きっての佐幕派であった孝明天皇が突然死亡したのです。疱瘡による病死とも毒殺ともいわれます。代わって即位したのが明治天皇です。嘉永5(1852)年生まれですから、この年12歳です。まだ幼くて、自らの判断では行動できません。幕府では、なんとか慶喜自身が摂政になろうと画策を開始しますが、結局失敗しました。 この幼帝の出現という機をとらえて、反幕派の公家である岩倉具視は、孝明天皇に追われて都落ちしていた三条実美とむすび、列候会議に向けて謀略を展開しはじめました。 こうして、慶応3年4月に、島津久光、山内容堂、伊達宗城、松平春嶽が再び京に集まりました。しかし、この会議は内部対立で再び解体します。島津久光などがこの機会に幕府権力を失墜させようと企んだのに対して、伊達宗城などは、単に国政に関与する機会を欲しただけに過ぎなかったからです。こうして5月21日に山内容堂が帰国声明を出したのを皮切りに全員が相次いで帰藩することになりました。 慶喜はその機をとらえて、朝廷に圧力をかけ、得意のマラソン会議によって、懸案であった兵庫開港に対する勅許を6月25日に獲得するのに成功します。これにより、兵庫は翌年1月1日から開港されることになりました。この成功に、英国公使パークスもしばらくの間、慶喜支持に転向したほどです。これが結果的に見れば、慶喜の対外面での最後の成功ということになりました。 (3) 武力倒幕と大政奉還 こうして列候会議方式では、倒幕は無理と判断した薩摩の西郷隆盛や大久保利通は、武力により幕府を倒すという決意を固めるに至ります。そこでまず薩摩本国に対して、5月29日、兵力を上京させる準備をするように、という指令が飛びました。 それと同時に薩長同盟に基づいて、長州に対しても、兵力を上京させるように依頼しました。9月半ばに、大久保利通自身が長州の三田尻軍港(現在の防府市)に出向いて桂小五郎らと会談して計画を固め、藩主父子と会見することで、正式承認を得て、武力倒幕の計画は着々と動き始めていました。 その同じ頃、坂本龍馬は、出身藩である土佐の、幕末政争の中での地位を一気に高める手段として大政奉還という手段を考え出していました。これは、要するに、徳川家の地位を明確に諸侯の一員に格下げした上で、つい先頃流産に終わった列候会議をもう一度開こうというものです。それだけでは決して画期的なアイデアではありませんが、その列候会議で決定すべき事項まで具体的に指定した点に龍馬の凄みがあります。いわゆる船中八策といわれるものです。これはその後、五箇条のご誓文という形にまとめられ、明治政府の基本方針となっていきます。土佐藩は、これを藩の基本方針と決定し、薩摩との間で交渉します。 武力倒幕にあたっては、土佐の兵力も期待していた薩摩側としては、土佐の提案をむげに拒否することはできません。結局、まず大政奉還の線で打診し、それが失敗したら、直ちに武力倒幕に移行する、ということで、両者の話し合いがまとまります。 薩長が武力倒幕で一致しているというところまでは把握していませんが、長州の動きがおかしいということは、幕府の情報機関はキャッチしています。フランスの協力で幕府再興に向けてちゃくちゃくと布石は打たれていますが、再度の長州征伐を実施する財政力は間違ってもないことは、幕府の要路にいるものは、皆承知しています。何とか時間稼ぎの手段が必要です。 そこで、9月20日、幕府若年寄格永井尚志は、土佐藩の後藤象二郎を招き、早く大政奉還の建白書を出してほしい、と督促しました。これを受けて、土佐藩では、建白書を出すことに対する同意を10月2日に薩摩藩から取り付け、翌3日に老中板倉勝静(かつきよ)に提出したのです。 慶喜は、松平容保らと図った上で、10月14日、奏上し、翌15日、聴許されました。ここに、幕府は形式的には滅びたわけです。実は、薩長の討幕派は、密かに倒幕の勅旨を受けるための運動を展開しており、この日に降りる予定になっていました。その意味で、この日もまさに運命の一日だったのです。きわどく、幕府は討幕派に肩すかしを食わせたわけです。 もちろん大政を奉還された朝廷に実際の行勢力があるわけはありませんから、22日、慶喜に対し、当分の間は庶政を委任するという沙汰書を下しました。 しかも、大政奉還派が期待していた諸侯会議が開けません。朝廷の召集令に何らかの反応を示した諸侯のうち、12月8日までに上京してきたのはわずか12藩に過ぎないのです。そして、上京してきた藩にしても、これまで通り万事幕府に委任しておくことに異論は唱えません。したがって、せっかく幕府を諸侯の地位に落としても、このままでは、従来同様、幕府が国内政治を行っていく、ということに全く違いはないのです。 そうすれば、フランス資本に支えられた形で徳川氏が力を蓄えるのに時間を貸すことになります。徳川氏が力を回復すれば、薩摩や長州は、最終的には滅ぼされることは間違いありません。 そこで、12月9日になって、薩長は京都でクーデターを敢行します。そして、幕府の与党を閉め出した、いわゆる小御所会議で、新政府の方針と組織が決定され、また、慶喜に対しては辞官納地、すなわち官位を辞退し、所領すべてを返納するよう、命令が下ります。 討幕派としても、この路線で押し通せるほどの実力はありません。12日になると、松平春嶽に斡旋させ、慶喜が反省の色を示すなら、これを朝廷政府に迎える、という決定をし、24日になると、さらに慶喜に対する命令から領地返納の文字をのぞき、全国行政に必要な分を調べた上で、徳川家の領地から差し出せ、というような後退した表現となりました。 このように、クーデターを敢行して樹立した新政府の姿勢が後退を続ける理由は、その財政基盤がないことにあります。 仮に、薩長が、そのまま連合政権という形で、新政府に発展していたのであれば、新政府は、少なくとも薩摩藩や長州藩の財力を基礎にして出発することができたはずです。しかし、小御所会議で成立した政府の構成員は、決して薩長ではないのです。 12月9日時点の構成員を具体的に紹介すると、次の通りです。総裁が有栖川宮、その下の会議構成員を議定といい、10人いますが、うち2人が宮様、3人が公家です。残る5人が大名で、薩摩藩島津忠義、尾張藩徳川慶勝、安芸藩浅野長勲、土佐藩山内容堂、越前藩松平慶永となっています。つまり薩摩藩は入っていますが、それもわずか一人であって、薩摩藩が専横できる体制ではありません。そして、長州藩はまったく入っていません。桂小五郎改め木戸孝允は、慶応4年4月に、議定よりさらに下の参与というところに入ってきますが、長州藩主は最後まで入りませんでした。 したがって、新政府としては薩長からは独立した自分の財政基盤を持たねばならないのですが、それが全くありません。丸一年も前に死亡した孝明天皇の葬儀さえも未だに出すことができず、慶喜にその費用を融通しろ、と依頼している始末です。そこで、何とか交渉で慶喜に新政府の財政基盤そのものを提供させようとして、苦労しているわけです。 このまま推移すれば、新政府も、これまでの列候会議などと同じく空中分解して、慶喜の粘り勝ちということになったはずです。 しかし、慶喜はむしろここで一気に薩摩を排除しようと考えました。あるいは、幕府内の強硬派を慶喜が押さえきれなくなりました。そこで1月1日に「討薩表」を朝廷に提出するとともに、諸藩に宛てて、自分の挙兵に応ずるように呼びかけました。その呼びかけの文書を見ると、「君側の悪」を除くために決起するなど、昭和初期の軍部のクーデターにおける文書と似た表現が目立ちます。天皇制の下におけるクーデターの共通性ということなのでしょう。 これは、結果として幕府最後の大博打になりました。しかし、我々は、その結果を知っているので、大博打と考えるのであって、おそらく慶喜自身は、これは十分以上に幕府に勝ち目のある行為でばくちといえるほど危険なものではない、と考えていたに違いありません。 この時期、大阪にいた幕府軍は約1万5000人とも3万人ともいわれます。先に慶喜が握っている兵力は2万人と書きましたが、長期滞陣のため、適当に交替させているので、この特定の時点にどれだけいたかは判らないのです。これに対して、薩長連合軍は3000人とも4000人ともいわれます。確かに全体としてみれば、薩長軍は装備に優れたものがありますが、幕府軍の中核を占める洋式歩兵は、規模的にも装備的にも、薩長軍に匹敵しますから、その面での差はない、といえるからです。したがって、圧倒的な大軍を擁している幕府側の勝ちは動かない、といえます。しかも、京都というところは防衛拠点のないところで、古来、京都によって戦って、勝利したものはいません。その点も、幕府軍の有利といえます。 こうして、慶応4年1月3日、幕府軍は大阪から京に攻め上ろうとします。鳥羽伏見の戦いが始まったのです。この戦い、幕府側の首脳部に全く戦術の判る人間がいなかったのが、薩長側に幸いしました。 もし、幕府軍が大きく展開して、四方から京都を囲むように布陣した上で攻めれば、薩長軍もそれに対してとぼしい兵力を各方面に分散しなければなりませんから、幕府軍の楽勝だったはずです。ところが明確な司令官のいないままに、幕府軍は愚直にも、まっすぐ大阪から京都に押し出しただけだったのです。細い鳥羽街道で両軍がぶつかれば、戦線はきわめて局部的なものとなります。 薩長軍で、戦線に投じられたのは1500人程度といわれます。これ以上いても、戦場が局地的なために邪魔になるだけだったのです。つまり、大軍であることは幕府軍にとって全く役に立たなかったのです。そして、局地戦ということになれば、優秀な装備を持ち、実戦経験の豊富な薩長軍の方に分があるのは当然です。戦闘は連日続きましたが、幕府軍が鳥羽街道に固執するものですから、薩長軍にとっては楽な戦でした。出てくるのを叩いていればよいのです。 その間に、戦闘以外の要素が大きく動き始めました。その第一は、幕府から人心が完全に離れている、ということが誰の目にもはっきりと見え始めた、ということです。官軍は、前に述べたとおり、財政基盤が弱いものですから、戦闘員のための弁当を用意することさえできませんでした。すると、地元の人々が、炊き出しをして戦場まで弁当や汁、酒までも運ぶという光景が現れたのです。戦場になることで、自分の家などを焼かれていた人々がこういう身銭を切っての支持行動をする、というのはよほどのことです。 おそらく、これも兵賦金のもたらした悪影響の一つと見るべきでしょう。幕府の天領は全国に均一に存在しているのではなく、西国に多かったのです。したがって、兵賦金や軍役金の強制徴収は、畿内に強い打撃を与えていたはずだからです。 第二の要素は、諸侯の日和見にありました。戦闘が始まるまで、誰もがまだ幕府の方が強い、と考え、そのために朝廷の諸侯会議への召集にも、はかばかしい反応が返っていなかったわけです。ところが戦闘が始まると、京には味方勝利の連絡が、当然のことながら連日入ってきます。勝てば官軍の言葉通り、ここで諸侯が雪崩を打って、新政府に味方する、という姿勢を示し始めたのです。 そのもっとも象徴的な事件が、淀藩の動向にあります。淀藩は、現役の老中である稲葉正邦の居城なので、幕軍は、戦闘が長引いてくると、当然にこの城を戦闘拠点にしようとしました。ところが何と、淀藩はこれを峻拒したのです。 もっと劇的な転換をしたのが津の藤堂藩です。この時、山崎にあってまだ戦闘に参加していなかった同藩は、新政府から幕軍を攻撃するように命ぜられると、幕軍宛に「徳川氏累代の御洪恩はあえて忘却は仕らざるも、当地出張の者においてはただ涙をふるいて、勅を奉ずるのほか別に処置、これなし」という手切れの手紙を送りつけると、1月6日早朝から、幕軍の側面を攻撃し始めたのです。 しかし、幕府軍は大軍ですから、こうした局地戦でいくら部隊を撃破しても、それが戦争全体の勝敗を決することにはなりません。幕軍全体としては、戦争はまだ決していない、という雰囲気だったのです。 最終的に勝敗を決めたのは、結局、いつも通りの、慶喜の責任転嫁癖でした。楽勝のつもりが、このように戦闘が長引くにつれて、刻々情勢が悪くなってくると、慶喜には嫌気がさしてきました。水戸家に育ち、独特の尊皇思想を骨の髄まで染み込ませていた慶喜は、朝敵という汚名を着るのに耐えられなかった、といわれます。そこで、1月7日に部下を捨てて脱出してしまうわけです。 これについてはよく衝動的に脱出したかのようにいわれていますが、それは渋沢栄一の書いた「徳川慶喜公伝」に依存して書かれるためです。それによると、慶喜は幕府艦開陽を目指したのですが、誰も開陽の艦型を知らず、暗夜をさまよううち、米国艦にたどり着き、そこで拾ってもらった、という記述になっています。が、これは慶喜得意の虚言癖が、腹心といえる渋沢栄一に向かっても発揮された、ということのようです。 今日では、米国政府の記録を見ることができるので、この事件の経緯は、かなり正確に判っています。それによると、これは衝動的どころか、むしろ非常に計画的な事件でした。 すなわち、彼は、かなり早い時点で部下を放り出して脱出すると決めたのですが、悪いことに、この時期、幕府の艦は兵庫沖にいて、大阪城のすぐ外の天保山沖にはいません。しかし、事前に幕府艦を呼び寄せると、慶喜が脱出しようとしていることがばれて、何かと文句を言うやつが出てくると慶喜は考えました。天保山沖には公使達の引き上げ支援のために各国の軍艦が来ていますから、いったんそのどれかに逃げ込んだ上で、幕府艦を呼び寄せればよい、と決めます。 この時、慶喜が下したもう一つの非情の決断が、フランスとの関係を絶つ、ということでした。前に述べたとおり、フランス本国は、これ以前に幕府との関係を絶つという決断を下していましたが、ロッシュはそれに抵抗し、そのことを慶喜には告げていません。しかし、慶喜にも、フランスと幕府の緊密な関係は、わが国の国益を害するものである、という国内からの非難は聞こえていたはずです。それこそが先に列候会議、今、諸侯会議を開かせている原動力だからです。したがって、ここで朝敵の名をおそれて逃げる以上、同時にフランスと幕府の関係も、この際同時に絶つのが最善ということになります。そのためには、フランス艦に逃げ込むわけには行きません。 その場合、英国艦に逃げ込むと、今度は逆の意味で、いろいろと政治的影響が出ます。そこで、この時点で天保山沖にいた外国艦の中では、もっとも日本との関係が薄い米国艦イロクォイ号に逃げ込むことに決めたのだと思われます。 確かな事実だけを述べると、彼は、まず1月6日夜に腹心の部下を米国公使ファルケンバークの所におくって、慶喜がイロクォイ号に乗る許可を求めました。ファルケンバーグは快く許可を与え、艦長に手紙を書いたので、慶喜は安心して、翌7日の夜2時に大阪城から脱出したのです。 7日の夜、逃げることが間違ってもばれないように、慶喜は、戦いが終わって引き上げてきた将兵に対して、感動的な激励演説を行います。将兵が奮い立って、明日こそ薩長軍に一泡食わせようと宿舎に戻ると、幕府軍の中枢部隊である会津および桑名の藩主に供を命じて城外に出て、イロクォイ号に搭乗したのです。イロクォイ号に2時間ほど滞在したところで、兵庫沖から幕府艦開陽が駆けつけたので、こちらに乗り移り、江戸に帰ったのでした。 開陽があまりに突然呼び寄せられたので、開陽の艦長榎本武揚は出港に間に合わず、陸上に置き去りにされた、というのは有名な話です。榎本武揚は、函館までも戦い抜いたほどの主戦派ですから、彼が乗っていれば当然脱出行に文句をいい、おそらく江戸に船を走らせてはくれなかったでしょう。外国公使に予め話を通すほどの周到さを持っていた慶喜であれば、榎本武揚が偶然にも船に乗り遅れたと見るべきではありません。タカ派の艦長がその夜、上陸しているように手配するのは、最高司令官にとって何でもないことですし、そうした配慮を予めしておくのは、江戸への脱出を成功させるためには当然のことだったでしょう。 供を命じられた会津等の藩主達は、最後まで慶喜が何をしようとしているのか判らず、判ったときには手遅れだったようです。彼らが大阪に残っていれば、彼らを中心に会津藩や桑名藩は戦闘を継続したでしょうから、彼らを強制的に同行させない限り、慶喜だけが脱出しても、朝敵の汚名はやはり降りかかってきてしまいます。その意味で、彼らの同行は必須の条件だったのです。 慶喜は、脱出前に行った激励演説のことについて、うまく騙してやった、と後に自慢したそうです。彼のように病的な虚言癖を持ち、彼が尊崇してやまない朝廷に嘘をつくことすら平気だった人間にとって、彼を信じて一命を掛けている部下に対して嘘をつくのは、何ら問題のない行動だったようです。 一番気の毒だったのは、慶喜に自分の威信のすべてを掛けていたロッシュです。脱出するまで完全につんぼ桟敷におかれていた彼の呆然とした行動が、アーネスト・サトーの日記には活写されています。ロッシュは、結局、後の任地もしめされないままにフランス本国に呼び返され、彼の外交官としてのキャリアはそれで終わりました。 慶喜がこうして夜逃げしたとは知らない新政府の方では、同じ7日に、はじめて正式に徳川慶喜追討令を発するとともに、この時点においても日和見を続けていた諸侯に対し、去就を明らかにするように命令しました。その先頭を切って土佐藩が忠誠を誓ったのを皮切りに、あっという間に覇権を確立することができたのです。 これに対して、一夜明けて総大将ばかりか、主要藩主や老中までがいなくなっっていることを発見した幕府軍は自ら総崩れとなり、鳥羽伏見の戦いは終わります。 慶喜を追って江戸に帰ったロッシュは、その後も、幕府に徹底抗戦を勧告しました。が、慶喜から全権を与えられた勝海舟は、これを断って江戸城を無血開城し、ここに徳川家の苦闘は終わったわけです。 以後、彰義隊と官軍の上野の戦争を皮切りに、いわゆる戊辰戦争へとわが国は突入することになりますが、それは決して徳川幕府との戦いではなく、そこからの脱走者との戦いに過ぎませんでした。そうした戦いも、榎本武揚ひきいる幕府艦隊が函館まで戦い抜きますが、彼らが明治2年5月に降伏したのを最後に、組織的な抵抗はすべて終わりました。 小笠原長行は、彼の出処進退における2度の失敗を悔やんだのでしょう、不退転の決意で戊辰戦争を戦い抜きました。まず会津城に依って戦い、会津落城後は最後まで榎本軍と行動をともにしました。函館降伏後は、しばらく潜伏しましたが、もうどうにもならないと見極めがつくと自首しました。が、結局不問に付され、市井の人となりました。 その後、彼の才幹を惜しんだ松平春嶽などが、繰り返し明治政府に出仕するように誘いましたが、がんとして拒み、最後まで市井の人として終わりました。死んだのは明治24年のことでした。西南戦争から明治憲法の公布までを見てから死んだわけで、おそらく世の無常を感じたことでしょう。 [おわりに] これで維新の風雲財政録=幕末編=を終わりにさせていただきます。 例によって、細かな数字のたくさん出てくる堅い話に長いことおつきあいいただき、ありがとうございました。この話、書いている私は非常に楽しいのですが、皆様も楽しんで読んでいただければ、ありがたいと思っております。 こうして幕府は苦しい財政のやりくりを続け、やりくりが限界に達したときに滅びました。あれ以上無理にやりくりを続けていれば、わが国がどこかの国の植民地になっていたことは間違いないと思われ、その意味では滅びる時を正しく得たということができます。 豊臣氏が滅びたときには、莫大な財宝が残され、徳川幕府はその潤沢な資金の上に立って、楽に出発していくことができました。 しかし、以上の通り、徳川氏が滅びたときには、莫大な対外並びに対内債務を残しただけで、新政府が利用できる財宝といえるようなものは、全く残されていませんでした。それどころか、財政関係の書類をすべて焼却してしまったので、国家運営の上で必要な情報さえも、新政府に伝わらなかったため、新政府が勝海舟の協力を得て、非常な苦労をして収集したことは、『江戸財政改革史』の冒頭に詳しく述べたとおりです。 本稿に現れた数字にしても、勝海舟の残した数字に依るところが多いのには、驚かされたことでしょう。彼は決して、単なる「氷川町のほら吹き」ではなく、きわめて堅実な財政実務家だったのです。 余談ながら、勝は、徳川家の資産を明治維新後、一貫して管理しました。生活に困窮した幕臣が相談に来ると、惜しげもなく、貸し与えましたりしましたから、私物化していると悪口を言われたりもしました。が、最後に、自分自身、大変な子沢山であるにも関わらず、徳川慶喜の子供の一人を養子にする、という形を通して、自分自身の個人財産も含めて、すべて徳川家に返還したのです。彼は日本国の利益の前には徳川家の利益を平気で犠牲にした男ですが、彼なりに徳川家の大忠臣として一生を送ったということができます。 さて、明治政府が、この江戸幕府の廃墟の中から誕生することになりました。 薩摩藩主や長州藩主の思惑は、間違いなく自分の藩が明治政府をつくるという点にありました。島津久光は、死ぬまで西郷と大久保に騙された、といって呪っていました。長州藩主の方は少々鈍くて、人々が忘れた頃になって、自分はいつ将軍になるのだ、と聞いて、人々の失笑を買いました。 しかし、明治政府を建設した人々は、藩主達の思惑とは異なり、そうした個々の藩とは絶縁した形で、まったく新しく明治政府を建設する道を選びました。これは、ゼロからの出発、というより、江戸幕府の残した負債を抱えてのマイナスからの出発でしたから、それは財政面においてもまた、大変な苦難の道でした。 我々が習った日本史は、その辺りを全く説明していません。それについても、近いうちに、是非皆さんにお話しする機会を得たいと願っています。
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