http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/391.html
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http://watashinim.exblog.jp/20123862/
ZED氏が、徐勝氏の韓国での講演に関する記事を紹介している(http://roodevil.blog.shinobi.jp/%E6%97%A5%E9%9F%932013%E5%B9%B4%E4%BD%93%E5%88%B6/%E9%98%BFq%E7%9A%87%E5%9B%BD%E3%81%A8516%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD)が、これは非常に興味深いものであった。ZED氏は、徐勝氏の次のような発言を紹介している(強調は引用者、以下同じ)。
「私が憂慮しているのは、朴槿恵大統領がアメリカの斡旋を受け入れて、極右化している日本と第二の韓日協定を結びやしないかという事だ。この話を誰もしていないが、相当に現実性のある話だ」
徐勝氏はそのように考える一つの理由として、強制動員被害の問題に関して「昨年5月の大法院の判決以降、日本の、政財界はもちろんのこと、市民運動陣営からも、ドイツの「記憶・責任・未来財団」式の解決方法が深く議論されており、朴槿恵政府の中でも、日本との妥協案の模索を既に始めている」事実を挙げている。また、この「第二の韓日協定」のような日韓の歴史問題における「和解」が、日米韓の軍事同盟の展開にとって不可欠だとアメリカが認識している点を指摘している。
日本の朝鮮半島関係の市民運動に関係の深い徐勝氏の発言であるがゆえに、非常になまなましい感じがする。問題は徐勝氏が、飲み会などの場以外で、日本で公的にこうした市民運動批判をするのか、という点なのであるが、それはさておくとして、ここで言われている「第二の韓日協定」は、以前私が書いた、安倍政権の進める国家主義的な路線への周辺諸国の反発を糊塗するための、象徴的な形での過去清算そのものであろう。私はその記事で、「ここでリベラル・左派の知識人やジャーナリスト、市民運動が取り込まれていくのではないか、と思うのである。つまり、周辺諸国への過去清算その他において、リベラル・左派のそうした人々を一本釣りし、反発を軽減させる説得役の役割を果たさせる、ということである」と書いたが、これもやはり予想通りになっているようである。この種の動きが今後、活発化していくのではないか。
その関連で、安倍内閣の「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」座長を務める北岡伸一の、以下の発言が興味深い。2013年1月28日付の論説「安倍首相に問われる政治主導の覚悟」の一節である。
http://www.nippon.com/ja/in-depth/a01701/
「中国、韓国との関係安定のためには、歴史対話は欠かせないと考える。第1次安倍内閣は日中歴史共同研究を開始し(私が日本側座長を務めた)、また小泉内閣に続いて第2期の日韓歴史共同研究を開始した。安倍内閣が再びこれらに着手することを期待したい。
私は、日中歴史共同研において、両国の立場を併記するパラレル・ヒストリーを目指したが、さらにこれを進めて、両国の見方を簡潔に対比した小さな副読本を作って、子供たちに読ませたいと考えている。なぜなら、中国、韓国では、日本側の主張はまったく知られていないし、日本側も、中韓の立場を良く知っているとはいえない。例えば日本がなぜ竹島を領土だと考えているかということを、韓国民に知らせることができれば、いわゆるagree to disagreeの段階に進む可能性が出てくる。そこまでを目指すべきである。」
最近、日韓議連や韓日議連が提唱した「日中韓三国共通の歴史教科書」も、まさに北岡が主張しているような意味での歴史教科書だと思われる。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131130/plc13113013580011-n1.htm
この北岡の主張は、市民運動で日中間共通の歴史教科書作りに取り組んでいたような人々(の一部?)も取り込めるものであろう。実際、その種の運動の主張(の一部?)はかなり保守化しつつある(例えば笠原十九司「市民からの東アジア歴史教科書対話の実践」『世界』2013年3月号)。
北岡の主張は、その結論の方向性において、これまた以前の記事で書いた、西岡力の提唱する、歴史認識の一致を求めない点での一致、という主張と同一である。教育の場での歴史というものは所詮は家族アルバムのようなものであり、他国と共有するのは不可能、という西岡の主張にはついていけない市民運動系・左派系の人々のうち、北岡の主張には共感する、という人も多いであろう。「歴史認識の共有」から「歴史認識の相互理解」へ行くわけである。
しかし、そもそも北岡の言うような歴史教科書は、相互の主張の理解という点では機能するはずがないものである。なぜならば、例えば領土問題における中韓の人々の反発の根底には、日本が過去の歴史に関して反省しているならばそれくらい譲歩してしかるべきではないか、という感情があり、日本人の反発の根底には、ナショナリズムに狂った中韓の主張が論理的なものであるはずがない、という認識があると思われるからである。したがって、日中韓の「和解」を切望する教師が現実に共通の歴史教科書を使っても、生徒から反発を浴びるだけで、教師は結局西岡のような結論に行きつかざるを得ないだろう。
北岡の主張は、結局のところ、西岡の主張の補完物であり、また、市民運動や左派の共通の歴史教科書への取り組み・共感を、西岡の主張のようなものに媒介する役割を果たすことになるのではないか。
「第二の韓日協定」またはそれに類するものが現実化するにあたっては、こうした形での「歴史認識の一致を求めない点での一致」への収斂が、並行して進んでいくと思われる。
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