14. 2013年12月02日 22:01:59
: LG0FUtT49g
テロは暴力を伴う体制転覆である。どこからの行為がテロなのかは厳密に定義はできないが、その行為が社会に相当な影響を与えるものでないとテロではなく、単なる暴力行為である。オウム真理教の地下鉄サリン事件は、その教義、規模だけでなく、サリンを使用したことによりテロであるのは間違いない。 新左翼最大党派の中核派は、自らを赤色テロと言っていたのでテロリストと言えば言えるだろうが、俺のマニアックな感覚ではテロ組織ではないのである。中核派は60年代過激派の代名詞であったが、武装闘争ということでは一定の歯止めを掛けていた。中核派は街頭実力闘争に重点を置いていた。基本は肉弾戦であった。もちろん、騒乱罪や、破壊活動防止法を適用されたのだからテロ組織と言われればそうかも知れないが、今、国際社会で言われているテロからするとレベルが違うのである。 中核派の武器はゲバ棒であり、70年代に入り革マル派との党派間戦争では鉄パイプや、バールなどであったが、銃や爆弾は使用しなかったのである。爆弾は一時製造はしていたが、実戦には使わなかった。また、中核派は70年代に入り鉄の軍事組織を持っていたが、それも対権力ということではなく、ほとんどが革マル派との党派間戦争のためであった。一時は、三里塚闘争でも軍事組織が活動していたが、いくら二重対峙とはいえテロ組織としては対権力闘争が手緩かったのではないだろうか。 新左翼の中でテロ組織の先駆けとなったのは赤軍派であろう。赤軍派は関西ブント系であったのだが、69年4.28沖縄闘争敗北の総括を巡り、関西ブントはより武装闘争による革命を掲げ、ブント中央とのヘゲモニー争いをし、赤軍派はブントから独立したのである。議長の塩見隆也の過渡期世界論と、前段階武装蜂起を基に、銃による革命を行うべく69年大阪戦争を企てたのだが、今から見ると非常に幼稚な計画で鎮圧されてしまったのだ。 赤軍派の特徴は、いい意味でも悪い意味でも論理的でなく夢想集団であり、かつ、関西気質なのか知らないが、めげない。大阪で失敗したすぐ後に東京戦争を起こしたのだが、こっちも大したこともなく失敗したのだ。大体、大した計画でもないのに、「戦争」と名付ける辺りが誇大癖があるのだ。 その後、捲土重来を期し、首相官邸と警視庁襲撃のために大菩薩峠の福ちゃん荘で軍事訓練をしたのだが、追跡していた公安に踏み込まれ赤軍派の部隊の大部分は逮捕されてしまったのである。大阪戦争、東京戦争、大菩薩と連敗を重ねてもめげないのがスゴい。塩見は何の根拠もなく、国際根拠地論を掲げ世界同時革命に打ってでたのである。 それが日航機よど号ハイジャックになり、北朝鮮に飛んで行ったのだが、当初目指していたのは北朝鮮でなくキューバだったのだが、大使館であっさり断られ、北朝鮮にハイジャックして向かったのだ。当初は金日成をオルグして半年ぐらいして日本に戻り革命を起こす算段だったのだが、あっけなく逆にオルグされて北朝鮮の本物のテロリストになり、日本人拉致の関与も取り沙汰されて未だに北朝鮮にいる。 赤軍派の中で世界に名を轟かせたのは、71年に日本を出国し、アラブへ旅立った重信房子である。重信は現地で日本赤軍を結成したのである http://m.youtube.com/watch?v=WdSQxIYP-Qo&desktop_uri=%2Fwatch%3Fv%3DWdSQxIYP-Qo 。日本赤軍は、それまで日本国内で世界革命を観念的に唱えていた新左翼の中で、初めて世界での革命闘争に参加したと言っても過言ではない。 まず起こしたのが、72年のテルアビブ空港銃乱射事件である。これは、日本赤軍がマルクス・レーニン主義のアラブ過激派PFLPと共闘関係になり、最初に起こした事件である。当初より銃を乱射した後に手榴弾で自爆するはずだったのだが、奥平剛士、安田安之は死んだのだか、岡本公三は手榴弾が不発で生き残ってしまった。イスラエル政府に捕まった岡本は今でも精神障害が残るほどの拷問を受けたのだが、アラブの英雄として、イスラエル兵の捕虜と交換となり、レバノンでアラブ人の丁重な世話になってるという。 テルアビブ空港銃乱射事件、日本赤軍側はリッダ闘争と呼ぶが、実はこの事件は、その後のイスラム過激派の戦い方に大きな影響をもたらしたのである。それは、この事件を見て自爆テロを始めたのである。今のテロ、特にイスラム過激派のテロは、自爆テロが一つの特徴であるが、それは、この事件によるものである。イスラム教とて自殺は本来禁止されている。それが、どのようなイスラム解釈で推奨されているのか知らないが、今や自爆テロは聖戦なのである。日本赤軍はその後、数々のハイジャックをやり、アメリカ政府も国際テロ組織に指定したので本物である。 日本の新左翼の流れでのテロ組織と言えば、東アジア反日武装戦線がある。これは、70年代に入り、本格的な爆弾事件を起こしたのである。敢えて新左翼に「系」を付けたのは、メンバーは元々ノンセクト系の新左翼であったが、その後の理論はマルクス主義からは離れて、日本が歴史的に琉球や、アイヌなどを侵略した侵略民族であるから、日本人は全て侵略民族の血を受け継いでおり、贖わなければならない。だから、日本人に無差別テロをするのだという、まさにテロリストなのである。 その思想的影響は、赤軍派の爆弾の教祖と言われた梅内恒夫が地下に潜伏中、72年に地下から「映画批評」に寄稿した論文、「共産主義者同盟赤軍派より日帝打倒を志すすべての人々へ」によるとされている。これは、窮民革命論・反日亡国論・日本原住民論などによる反日論であり、また、マルクス主義と決別した歴史観によるものである。もっとも「共産主義同盟赤軍派」と名乗ってはいるが、議長の塩見は監獄、軍事委員長だった田宮高麿らは北朝鮮、重信はアラブ。残った森茂らは、山岳ベースキャンプでの同志殺しや、あさま山荘事件で組織は散々であり、梅内論文は赤軍派としての組織決定ではない。 東アジア反日武装戦線は、テロそのものを目的としたものであり、通常、左翼なら周辺の人間をオルグするものだが、そのような中途半端なことをすると足がつくとして、完全な秘密を重視したのである。もっとも、テロ教本の「腹腹時計」を作成し、新宿模索舎などに置いたものだから、そこから足がついて、一人の指名手配を除いて、全員検挙されてしまったのである。 東アジア反日武装戦線のテロと言えば、74年の三菱重工爆破事件である。おそらく自家製爆弾としては国内では最大の殺傷能力だったと思う。何しろ死亡者8名、重軽傷者376人である。それまで、権力に対する暴力は当然としても、大衆に対する暴力は許されないというのが左翼の倫理であった。それを東アジア反日武装戦線は、あっさりと破ってしまったのだ。まさに、今の一般市民を巻き込むテロそのものである。それを良しとした思想的影響は、先程の梅内論文などによる反日なのである。当時、新左翼内でも大衆へのテロに対しては批判もあった。 少し、日本が関わったテロを振り返ってみたが、テルアビブにおける自爆テロ、反日武装戦線の一般大衆をも巻き込んだ爆弾テロ。それに、世界初のサリンを使ったテロなど、テロの歴史の節目があることが分かる。 手短になるが、戦後の右翼のテロと言えば、1960年、当時の社会党委員長浅沼稲次郎を刺殺した山口二矢と、63年、建設大臣河野一郎の家を焼き討ちにした野村秋介であろう。三島由紀夫はあれはテロではないと思う。 何というのか、こういうのがテロというものであり、石破は本当にどっかがおかしいんじゃないのか。
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