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【角栄の流儀―田中元首相没後20年(上)】「決断と実行」「懐の深さ」「人情」はいま…
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131129/stt13112916030005-n1.htm
2013.11.29 16:03 産経新聞
28日昼、東京・永田町の全国町村会館の事務所で開かれた自民党額賀派(平成研究会)の定例総会。約30人の所属議員を前に、会長の額賀福志郎は元首相、田中角栄について語った。
「派閥というのはいろんな人脈を形成して政策の大道を築いていく。そういうことを田中先生を思い出しながら感じた」
額賀派にとって田中はいわば派閥の始祖。「金権政治」と指弾され、ロッキード事件で刑事被告人になったが、首相時代に列島改造論をぶちあげ、日中国交回復を行った田中のキャッチフレーズ「決断と実行」は今も同派の手本とするところだ。
新党大地代表、鈴木宗男は昭和45年、地元の陳情団とともに自民党幹事長だった田中に面会した。鈴木は当時、「北海のヒグマ」とあだ名された衆院議員、中川一郎の秘書で、2年目の駆け出しだった。一行を目に留めるなり田中は、
「わかった、わかった、わかった!」
と、独特のだみ声で連発した。
「われわれ、まだ何とも言ってませんが」。鈴木が返すと、田中は「おお。そうだ。何だ」と大笑いした。
陳情を終え、鈴木が事務所に戻ると、田中から電話が入った。鈴木が出ると「この件よろしく、と署名した紙を渡すから役所にもっていきなさい」。
× × ×
田中が最も重視し、頼みにしたのは「数」だった。多数派を握ることは政策実現はもとより、政局を自在に動かす力の源だからだ。
選挙での勝利に特にこだわった。若手には地元選挙区を徹底的に回れと指示した。額賀は58年の衆院選出馬にあたって田中から「有権者の3分の2と握手してこい」と厳命され、初当選直後には「2回生になるのがキミらの仕事だ」とハッパをかけられた。
指導内容も細やかだった。集会では「『私なんか手を握ってもらえない』と思っている隅っこのおばあちゃんとだけ握手しろ」。訃報があれば「初七日にも花を出せ」とも。「葬儀は慌ただしくて親族は悲しさがわからない。みんながいなくなって『ああお父ちゃんが死んだんだ』と悲しさを実感する。花はその時に出すんだ」
田中の人の心をつかむすべは「天才的」といわれた。
自民党幹事長の石破茂は「田中イズム」の伝承者を自任する一人だ。
銀行員を辞め、田中派の事務局員時代には「衆議院議員田中角栄」の名刺を手に「田中がよろしくと申しております」と同派所属の地元を駆け回った。
学んだのは「歩いた家の数、握った手の数しか票は出ない」ということだ。自身が初当選した61年の衆院選で、改めて実感した。地元の鳥取県内の5万4千軒を回り、得た票は5万6534だった。
それから四半世紀。昨年の衆院選と今夏の参院選で、石破は「田中派流の選挙に徹すること」を自身に課した。候補者には「おごるな」「一切手抜きは許されない」と口うるさく繰り返した。
◇
■懐の深さ 多くの人が心酔した
元首相、田中角栄は「人情」の人でもあった。
自民党幹事長、石破茂は昭和58年9月に結婚した。仲人を頼みに行くと、田中は即座に言った。
「何を言うんだ。お前にはおやじがいないじゃないか。オレはお前の親代わりとして、お袋さんの横に立ってやりたいんだ」
2年前に亡くなっていた石破の父、二朗は鳥取県知事や参院議員を務め、田中の盟友だった。田中は結婚式に「父親」として出席、びょうぶの前で石破の母と客を一人一人出迎えた。
ロッキード事件をめぐり東京地裁で懲役4年の実刑判決が出る20日前のことで、田中への批判は増幅していた。石破は「田中先生はお金だけで首相になった人ではない。思いやりや懐の深さがあったからこそ心酔する人がいっぱいいた」と振り返る。
平成23年の東日本大震災後、「もし田中ありせば」とメディアで注目が集まったことがある。民主党政権の対応は後手続き。被災地はもちろん、日本全体がいらだちに包まれていた。
石破は言う。「田中先生ならば直後に被災者が何を望んでいるかを素早く見抜き2割増し、3割増しで実現しただろう。そして恐ろしく批判され、真の評価は後世に委ねられたのではないか」
◇
平成5年12月16日、田中角栄が75歳で息を引き取って今年で20年になる。尋常高等小学校卒から首相に上り詰めた田中への人気は今も衰えない。日本が抱える多くの課題に、田中の「流儀」は通用するのか。(敬称略)
【角栄の流儀―田中元首相没後20年(中)】官僚ひきつけた操縦術
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131130/stt13113008350002-n1.htm
2013.11.30 08:24
昭和46年に53歳で通産相に就いた田中角栄は、通産官僚たちをこんな就任スピーチで笑わせた。
「私は東大を出ていない。しかし、仮に東大を出ていれば卒業年次は(昭和)16年前期だ。今の次官は16年後期。私は大臣として初めて後輩の次官と相まみえることになった」
田中は尋常高等小学校しか出ていない「たたき上げ」が売りだ。その田中に東大などそうそうたる大学を出たエリート官僚たちが数多くひきつけられた。
田中の持つ権力、発想力、資金力…。しかし、理由の一つは間違いなく巧みな官僚操縦術だ。
田中の通産相、首相時代に秘書官を務めた元通産事務次官の小長啓一は「就任スピーチは『役所が入省年次を重視する社会だということは、ちゃんとわかっているぞ』という意思表示だった」と解説する。
田中は官僚の名前と顔をこまめに記憶していた。「顔色が良くないぞ。昨晩徹夜したのか。わるいな」などと声をかけた。せっかちで知られる田中だが、プライドの高い官僚たちに細かく指示したり、怒鳴りつけたりせず、遠回しな物言いで自発的に取り組むよう仕向けてもいた。
従わない官僚がいれば肩書の上では出世させ、本省から地方に飛ばしたこともある。そんな人事が一例でもあれば、よほどのことがない限り閣僚の影響力が強まるのは当然だ。
自民党の野田毅税調会長は田中蔵相時代の39年に大蔵省に入省した。田中のライバル、福田赳夫との「角福戦争」の影響は省内にも影を落とし、「田中派、福田派があり、次官レースにも大きな影響があった」と証言する。
新党大地代表、鈴木宗男は田中にこう教えられたことがある。「いいか。世の中は三すくみだ。役人は政治家に弱い。政治家が人事を握っているからだ。しかし、役人は国民に強い。国民は政治家に強い。だから世の中はうまくいっている」
◇
小長の記憶に今も鮮やかに残る逸話の一つが、46年に通産相として臨んだ日米繊維交渉だ。米国は態度を硬化。沖縄返還交渉が大詰めを迎えた時期で早期決着が望まれていた。
「事態が悪化しているが、これで良いのかね」
田中は次官らにこう述べ、複数の解決策を練らせた。輸出規制を決め、打撃を受ける国内繊維業者向けに約2千億円の対策費が必要と見定めると、すぐに首相の佐藤栄作に電話。予算折衝のため、名刺に「主計官殿2000億円よろしく頼む」と手書きし、大蔵省の担当者に届けさせた。
その場に居合わせた小長は「『すごい大臣だ』とみんなが思った。米側との交渉では官僚のレクチャー以上の議論をしてくれ、誠に頼もしかったが、収拾段階のさばきも見事だった」と回想する。
繊維交渉は「決断と実行」を旨とする田中の成果のひとつといえる。一方で、竹下登政権の牛肉・オレンジ交渉対策費、村山富市政権のウルグアイ・ラウンド対策費など、その政治手法は受け継がれ、財政悪化への扉を開いた。
◇
田中が47年に出版した「日本列島改造論」は90万部のベストセラーになった。人口と産業を大都市から地方に分散すべきだとし、工業の再配置、交通や情報通信のネットワーク形成の必要性を説いた。そこには田中の現場感覚から派生した都市から地方への「富」の再分配という“思想”がある。
ロッキード事件で田中の弁護団の一人だった元法相、保岡興治は「今は現場主義の政治主導より国家経営というレベルに高度化しなければいけなくなった時代。新たな事態に対処するため、政治が優秀な官僚に目標を与え、理念を認識させなければいけない」と指摘する。
田中の首相秘書官だった元駐仏大使、木内昭胤(あきたね)は「今の政治家にはビジョンがない」と嘆く。
ただ、こうも付け加えた。「日本は非常に良い国になった。だから中長期的なビジョンを持ちにくくなっているのではないか」。その言葉は、現役世代をかばうようにも聞こえた。(敬称略)
【角栄の流儀―田中元首相没後20年(下)】功と罪 評価は今も定まらず
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131201/plc13120110260003-n1.htm
2013.12.1 09:03
田中角栄語録
http://sankei.jp.msn.com/politics/photos/131201/plc13120110260003-p1.htm
東大在学中から政治家を志していた元総務相の鳩山邦夫は、田中角栄の秘書を2年間務めた経験を持つ。
昭和46年夏、鳩山は田中の門を叩(たた)いた。7年超の長期政権だった佐藤栄作の後継レースの渦中であり、田中は自身も後継候補の一人であるにもかかわらず、まだ大学生だった鳩山の相手を2時間もしてくれた。
「どなたかの秘書になりたいんです」
鳩山が希望を告げると、こんな答えが返ってきた。
「ペーペーの議員の秘書をやるな。つまらんことを覚えるし政権中枢の話は聞けない。私設秘書でいいから首相の秘書をやれ。わしが請け負う。佐藤さんがもう1回やるなら佐藤さん。福田赳夫君がなったら福田事務所に入れてやる」
その上で田中は、少し声を落としてこう続けた。
「わしがなれば、もちろん引き受けてやる」
田中としては政界の名門、鳩山家の御曹司を囲い込む打算もあったかもしれない。ともあれ鳩山は田中に魅入られ、翌47年、約束通り首相に就任した田中の私設秘書となった。
■辞めない秘書たち
田中の気配りは、秘書も例外ではなかった。23年間仕えた元秘書の朝賀昭(70)は「辞めた秘書はほとんどいなかった。給料はよくないのに」と語る。
44年8月。朝賀は、田中の金庫番で“越山会の女王”と称された佐藤昭子に、公設第2秘書から私設秘書になるよう指示された。降格かと不満顔の朝賀に、佐藤はそっと理由を教えた。
「先生が『朝賀は子供が生まれて大変だろう。私設にして給料上げてやれ』とおっしゃっていたわよ」
田中が病に倒れ、事務所を閉めた後も、朝賀は佐藤とともに田中の復帰を待った。朝賀はいう。
「そうさせたのはオヤジだからこそ。宿命みたいなものだ」
■番記者にも影響
田中を夜討ち朝駆けで追いかけた番記者たちも、大なり小なり影響を受けた。田中は夜、私邸で取材に応じるときは風呂を浴びた後でもスーツにネクタイだった。着物姿で現れたときは開口一番「こんな格好で失礼」と頭を下げたという。
産経新聞の元政治部長、山元勉(74)は、番記者を2年余り務めた。田中が党幹事長として権勢を振るっていた頃だ。
最初は好きになれなかった。3週連続で土曜に私邸に行くと、田中が「何で来るんだ」と出てきた。山元が「こっちだって好きで来ているんじゃない」と言い返すと、こう怒鳴られた。
「土日も休まず働くから日本人はバカになる」
だが、徐々に教わることの多さに気づく。総裁選予備選で、田中が議員たちの動向を三重にチェックしているのを見聞した山元は、「さまざまな見方を考え、昼に聞いた話を夜に見直して、自分でも見習うようにした」と振り返る。
■今太閤の涙の理由
テレビ朝日に所属し、佐藤栄作政権発足前後から番記者だった瀬川賢一(72)は、田中が流した2回の涙を鮮明に覚えている。
佐藤の後継は、佐藤自身の裁定で決まるとの情報が流れ、記者団が田中に「裁定はあるのか」と質問したときのことだ。
国会の廊下をいつも通りせかせかと歩いていた田中はピタリと立ち止まり、涙を流して声を荒らげた。
「君ね。これだけ付き合っていて、まだ僕の気持ちが分からないのか」
田中はすでに総裁選で福田と争う決意を決めていたのだ。瀬川はその時、田中は「番記者に親近感を持っている」と感じた。
次は、田中にテレビ番組のタイトル「新書太閤記」の題字を頼んだときだ。今太閤と称された田中だが、「閤」を「閣」と書き間違えた。直しを頼むと、田中は秘書らに「お前たちが指摘しないからこんな恥をかいた」と泣き顔を見せ、瀬川を驚かせた。
「官僚をあれだけ利用していても、学歴コンプレックスは大きいのか」
産経政治部で番記者を務め、田中と約18年間向き合った中村啓治(78)はその時代をこう回想する。
「優秀な者にポストやカネを与えて育て、夜には私邸に大物官僚を集めて『目白省議』を開いた。田中の一言で方針が決められた」
中村は、業者や団体に補償金を大盤振る舞いして政治決着させる田中の政治手法について、迅速さの点では評価する。一方で、「ゆがみは現在もあちこちで出ている」とも指摘する。
功罪どちらが大きいのか。没後20年を迎える今も田中の評価は定まらない。=敬称略
(この連載は力武崇樹、豊田真由美、沢田大典、佐々木美恵が担当しました)
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