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2013年11月06日
IWJが中継録画している、≪「山本太郎議員の天皇への手紙に対する下村文科相の発言、日本の現状を考える」 福井康太教授 大阪大学法学研究科、安冨歩教授 東京大学東洋文化研究所の対談は、多くの基本的問題整理に貴重な示唆を与えている点で、非常に興味深かった。本日なら、おそらく無料で視聴可能と思うので、この場を借りてお薦めしておく。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/109905
この両氏の対談の面白いところは、下村博文文部科学相(右傾化の安倍内閣内において最右翼的存在)の“山本太郎議員の行為”に対する発言が、民主主義や民主主義的を論ずる起点としている点からして面白いのだ。論点は、自由闊達に拡がりを見せ、天皇の政治利用について、制限があるものの、憲法に規定される“国事行為”自体が「天皇の政治利用」そのものであることを指摘している。また、憲法上の天皇の国事行為は“内閣の承認による”となり、内閣が“天皇”を管理支配している事実関係も指摘する。日本の政治家が、このレベルまで、デモクラシー、デモクラティックなる概念を把握し、咀嚼しているとは思われない。そのことは、日本国民自体にも当て嵌まるわけで、もう一度、我々自体が、「民主主義や民主主義的」と云う問題を、深く見つめなければならない、と指摘されているようだった。
≪ 「議員辞職もの、政治利用そのものだ」下村文科相 「田中正造に匹敵する」
山本太郎参院議員(38)=無所属=が10月31日に東京・元赤坂の赤坂御苑で開かれた秋の園遊会で、陛下に直接、手紙を渡した問題について、下村博文文部科学相は1日の閣議後会見で「議員辞職ものだ。政治利用そのものだ」と批判した。
下村文科相は「これを認めれば、いろんな行事で天皇陛下に手紙を渡すことを認めることになる」と指摘した。
明治時代の足尾銅山鉱毒事件を引き合いに出しながら「田中正造が(明治天皇に)直訴して大問題になったことに匹敵するようなこと。こういうことを安易に看過するようなことがあってはならない。非常に重いことだ」と述べた。 ≫(産経新聞)
下村博文と云う人は、早稲田の雄弁会の幹事長を歴任した男なのだが、早稲田の雄弁会が“田中正造の民権運動”に呼応して生まれた歴史さえ知っていなかったか、田中正造をリベラルの“巨星”と見做し、自分と対峙する関係にあると妄想し、“田中正造は不敬な奴”と云う存在であり、世間もそのように捉えているに違いないと云う、まったくの思い込みから、上記のような発言をしたのだろう。しかし、この下村の発言は、安倍内閣の閣議直後に行われた“ぶら下がり”での発言だけに、閣議に集まる連中の資質が似たり寄ったりである証左に思われる。
田中正造は、歴代の日本の政治家ベストテンを考えた場合、ベスト5に顔を出しそうな稀有の政治家であり、小さいのだが、汚れないきら星のように見える存在だ。田中正造と云う政治家は、徹底的に弱者の立場に立った民権主義者であり、聖書の引用の多い人物だったが、意外にも、日本の文化や伝統、土着に関して、深い愛情が根底にある点で、単なるキリスト教的思想の持ち主とは距離がある点も、考えておく必要がありそうだ。そのような歴史的に偉大な政治家を向こうに回し、対峙するような安倍内閣の精神性こそが、日本にとって有害であることは、言うまでもない。今夜は会議があるので、この辺で終わる。以下に田中正造の概略を参考引用しておく。
「田中正造」
≪ 田中正造(たなか しょうぞう、天保12年11月3日(1841年12月15日) - 1913年(大正2年)9月4日)は、日本の政治家。日本初の公害事件と言われる足尾銅山鉱毒事件を告発した政治家として有名。衆議院議員選挙に当選6回。幼名、兼三郎。下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)出身。
初期の政治活動
1878年(明治11年)、区会議員として政治活動を再開。栃木新聞(現在の下野新聞)が創刊されると、翌年には同紙編集長になり、紙面上で国会の設立を訴えた。また、嚶鳴社や交詢社に社員として参加している。
1880年(明治13年)、栃木県議会議員。1882年(明治15年)4月、立憲改進党が結党されると、その年の12月に入党している。
県令(現在の知事)だった三島通庸と議会で対立。自由民権運動のなかで、加波山事件に関係したとして1885年(明治18年)逮捕されるが、三島が異動によって栃木県を去ると年末に釈放された。1886年(明治19年)、県会議長。
衆議院議員
1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に栃木3区から出馬し、初当選する。田中は帝国議会でも当初は立憲改進党に属していた。この年渡良瀬川で大洪水があり、上流にある足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され、騒ぎとなった。
1891年(明治24年)、鉱毒の害を視察し、第2回衆議院議会で鉱毒問題に関する質問を行った。1896年(明治29年)にも質問を行い、群馬県邑楽郡渡瀬村(現・群馬県館林市)の雲龍寺で演説を行った。
1897年(明治30年)になると、農民の鉱毒反対運動が激化。東京へ陳情団が押しかけた。当時このような運動には名前がついておらず、農民らは「押出し」と呼んだ。
田中は鉱毒について国会質問を行ったほか、東京で演説を行った。農商務省と足尾銅山側は予防工事を確約、脱硫装置など実際に着工されるが、効果は薄かった。
1900年(明治33年)2月13日、農民らが東京へ陳情に出かけようとしたところ、途中の群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣村(現・明和町川俣)で警官隊と衝突。流血の惨事となり、農民多数が逮捕された(川俣事件)。
この事件の2日後と4日後、田中は国会で事件に関する質問を行った。
これが「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」で、日本の憲政史上に残る大演説であった。
2日後の演説の途中で当時所属していた憲政本党を離党した。当時の総理大臣・山縣有朋は「質問の意味がわからない」として答弁を拒否した。
この年の川俣事件公判の傍聴中、田中があくびをしたところ、態度が悪いとして官吏侮辱罪に問われ、裁判にかけられた。
なお、川俣事件は仙台控訴審での差し戻し審で、起訴状に担当検事の署名がないという理由で1902年(明治35年)に公訴不受理(一審で無罪だった者については控訴棄却)という判決が下り、全員が釈放された。
議員辞職 - 直訴
1901年(明治34年)10月23日、田中は議員を辞職[1]したが、鉱毒被害を訴える活動は止めず、主に東京のキリスト教会などで鉱毒に関する演説をたびたび行った。
12月10日、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行う。
途中で警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗したが、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。
直訴状は、幸徳秋水が 書いたものに田中が加筆修正したと伝えられる。田中は即拘束されたが、政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけだとして不問にすることとし(田中本人の 言及による)、即日釈放された。
田中は死を覚悟しており、釈放後、妻カツ宛に自分は(12月)10日に死ぬはずだったという意味の遺書を書いている。
また 直訴直前に迷惑がかからないようにとカツに離縁状を送っているが、カツ本人は離縁されてはいないと主張している。 1902年(明治35年)、川俣事件公判の際にあくびをした罪で重禁固40日の判決を受け服役。
このとき聖書を読み、影響を受けた。この後の田中の言葉には「悔い改めよ」など、聖書からの引用が多くなる。ただし、キリスト教への改宗はしなかった。
正造の最期
土地の強制買収を不服とする裁判などがあり、この後も精力的に演説などを行ったが、自分の生命が先行き長くないことを知ると、1913年(大正2年)7月、古参の支援者らへの挨拶まわりに出かける(運動資金援助を求める旅だったともされる)。
その途上の8月2日、足利郡吾妻村下羽田(現・佐野市下羽田町)の支援者・庭田清四郎宅で倒れ、約1ヵ月後の9月4日に同所で客死した。
下野新聞によれば、死因は胃ガンなど。 財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったという。死亡時の全財産は信玄袋1つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであった。
なお、病死前の1月22日に、小中の邸宅と田畑は地元の仮称旗川村小中農教会(現・小中農教倶楽部)に寄付していた。
邸宅は現在、小中農教倶楽部が管理している。
雲龍寺で、9月6日に密葬が行われ、10月12日に佐野町(現・佐野市)惣宗寺で本葬が行われた。参列者は数万人ともいわれる。
田中の遺骨は栃木・群馬・埼玉県の鉱毒被害地計6箇所に分骨された。このため、墓は6箇所にある。なお、このうち1箇所は1989年(平成元年)に公表されたもので、それ以前の文献では5箇所とされていた。 足尾銅山は1973年(昭和48年)に閉山となったが、現在でもその跡は残っている。 ≫(以上、ウィキペディア引用)
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