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2013年10月22日
小沢一郎は、前原誠司口先民主党代表時代の「堀江ガセメール事件」でボロ雑巾のようになった民主党を立て直すべく代表選に立候補した時、代表選演説で映画『山猫』の中に出てくるサリーナ公爵の言葉を借りて≪ 最後に、私はいま、青年時代に見た映画『山猫』のクライマックスの台詞を思い出しております。イタリア統一革命に身を投じた甥を支援している名門の公爵に、ある人が「あなたのような方がなぜ革命軍を支援するのですか」とたずねました。バート・ランカスターの演じる老貴族は静かに答えます。「変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければならない。英語で言うと We must change to remain the same. ということなんだそうです。」確かに、人類の歴史上、長期にわたって生き残った国は、例外なく自己改革の努力を続けました。そうなのだと思います。よりよい明日のために、かけがえのない子供たちのために、私自身を、そして民主党を改革しなければならないのです。≫と立候補の際語っている。
筆者も遅ればせながら7年ほど前に『山猫』を観た。筆者自身はヨコシマナ心の持ち主なので、クライディア・カルディナーレの野性味あふれた目の強さにひたすら惹かれたが、あまりに長過ぎる長編映画に閉口した(笑)。記憶には“変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければならない。”と云う言葉があったとは思わなかったが、劇場映画としては、あまりに長いので英語版では、驚くほど短縮されたものになっている。アチコチ調べてみると、オリジナルは≪全てが以前のままであるためには、少々の変化は受け入れねばならぬ。≫と少々無味簡素なセリフになっているのだが、あくまで英語版では、小沢の引用の通りなので、間違いでもないし、オリジナルよりも含蓄のあるセリフに代わっているとも言えるだろう。
2010年の菅との代表選の折にも、小沢は何度か、この言い回しを引用していた。“いつどこで”までは記憶に残っていない。まぁそれは別にして、『日本改造計画』時の世の中と、09年時の世の中と、2013年の世の中は、あきらかに激変しているのだから、“変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければならない。”は小沢一郎にとって、自への苦言のように、座右の銘とは別な抽斗に入れて常備しているのだろう。“小沢一郎はぶれない”と云う評価も、日本に議会制民主主義を定着させたいと云う、政治家の執着を感じるのだが、当初は、それなりに権威的に振舞っていた事実もあるだろう。必ずしも、弱者の味方とか、官僚組織を敵に回すとか、大きな政府を維持し、福祉に手厚い政策を実行しようとしていたわけではない。この辺は、あきらかに“変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければならない。”を実践している。
拙コラムを引用すると『日本改造計画』では、≪新自由主義的な経済改革、自由貿易の推進、地方分権の推進、規制緩和・撤廃、軍事も含めた国連中心主義国際貢献と其れに基づく日米同盟、政権交代のある二大政党制を可能とする政治改革(小選挙区制導入)、などが提唱されている。最後に、このような日本を作り上げるには、国民の自立を前提とする民主主義の確立であり、「改革には常に痛みが伴う」(小泉純一郎がパクる)と断じている。≫と云う事であり、グローバル経済と自由主義から、日本だけが逃げ切れるとは思っていない面が強調されている。
これは筆者の稚拙な想像なのだが、『日本改造計画』が日本の21世紀に向かう政治の羅針盤(方向性示唆)であったとして、当時と現在は隔世の感があるわけで、『続・日本改造計画』の出版の必要性は、筆者は口が酸っぱくなるほど望んでいるのだが、小沢一郎の耳に届かないのか、世界情勢を含む日本の政治課題が、あまりの目まぐるしい変化している今日この頃だけに、今日変えて、明日また変わるような、朝令暮改的言説を語らなければならないジレンマで、加筆変更が繰り返され、出版に至らないのか、その辺のことは詳細には判らない。たしか、大元の原稿は執筆済みと耳に入っているのだが。
ただ、上述のように稚拙な想像として考えた場合、『日本改造計画』で語られた主張が、その後の政権に一部だけ“つまみ食い”され、パクられたことで“ウンザリ感”が小沢を襲っているような気がしてならない。その後の政権が、小沢の『日本改造計画』で語ったような方向に、系統立って“つまみ食い”され、“パクられる”のならいざ知らず、個々の政権が単なる“いいとこ取り”で政策を実行されたのでは、すべてが政策として実行されたとしても、意味を持たないだろう。逆に、意味を持たないどころか、副作用だけが目立つ結果になっている。『日本改造計画』で主張したような事を、小泉や安倍が、しゃかりきに実行しているとなると、自民党や官僚組織の国民不在政治のバイブルになっている皮肉な現象まで見られる。
新自由主義的な経済政策が、格差の拡大に寄与する事実を知った小沢は、『小沢主義(オザワイズム) 志を持て、日本人』において、新自由主義経済の重大な欠点を補う方法論を考え、09年マニュフェストにおいては、官僚組織に中間搾取されない、国民への直接給付策を導入した。一種のバラマキには違いないが、高校無償化政策などは、安倍ファシズム政権においても、アンタッチャブル政策として、世間に定着した。もしかすると、TPPの強引な導入により、死者も出そうな農林酪農漁業者への、直接給付は真似られるかもしれない。勿論、 小沢にしてみれば本末転倒なパクリだが、強く非難するのも難しそうだ。
小沢が『日本改造計画』時に考えていた新自由主義に基づく、グーバル経済とは、所謂、旧来の民主主義や資本主義が機能する前提に立っていた。おそらく小沢の頭の中では、国民主権が、既に英国でも、米国でも、欧州諸国でも、民主主義国家では、一定の範囲で定着していると云う錯覚があったような気がする。隣の芝生は綺麗にみえるものである。『日本改造計画』には、主権者国民の権利や、最低限の文化的生活は確立されたような部分が、各国にあったのである。つまりは、再配分機能が、最低限の範囲では、有効に作用するものと錯覚する程度に定着していた。
この世界を一変させたのが、“マネー”と云う怪物の存在である。それまでは資本家と労働者と云う、搾取の構図が、人間の営みを通して捉えることが可能だったので、実物の経済サイクルが生きていたので、急激な変化は起きない構造になっていた。ところが、強欲な“マネー”は先進国の生活文化は衣食住の殆どを満足させるに至っていたので、成長は自ずと縮小するジレンマに襲われていた。実体的企業の資本家も、そこで働く労働者も、実はそれでも充分満足できる生活を享受していたのだ。その内、発展途上国や後進国が追いついてくれば、市場規模も拡大するわけで、その分先進諸国も成長できると考えていた。ところが、この無機質な、人間性を持ちえない“マネー”と云う代物は、そのような“まどろっこしい”利益の還元に耐えられる人間らしさは兼ね備えていないものだ。
つまり、無機質とも取れる“金融資本主義”にアメリカを中心とする金融勢力・ウォール街が、国家財政を凌駕するような勢力に、国家と国民の生き血をすって肥大化し、今やアメリカ連邦政府さえ配下におくような事態は、修正した『小沢主義(オザワイズム) 志を持て、日本人』の修正を持ってしても、傷口を塞ぐことは出来なかった。今の金融資本主義と云う実体を、小沢一郎は、あらためて検証する必要があるのだろう。真っ当な自由貿易で、汗水流し、より良いものを作れば、正当な配当が得られるような、人間性豊かな資本主義ではなくなったことを、認めるスタンスが必要なのだと思う。
現在のような政治の流れの中で、反原発、反TPP、消費増税反対、雇用の安定化などを旗印にしても、野党の一本化は図れないだろう。逆に、いつまでも並行線を辿る野党の烏合の群れが、夫々に小さな声で、与党に文句を言う破目になるだろう。“山高ければ谷深し”“沈み込んで再浮上する”。それこそ、金融資本主義や、マネーが国家や国民を支配する構図、TPPにせよ、エネルギー問題にせよ、財政問題にせよ、残念ながら一般市民社会は、どん底の、その底を実感しない限り、騙されたと気づかないものだし、気づいてもなお、騙されてなんかいない、と強弁するが如くである。
結婚詐欺に遭った人々、マルチ商法に騙された人々、そう云う人々は、それでも、相手の顔が変わったり、扱う商品が変わることで、同じような罠に嵌るものである。小沢一郎が、野党結集の音頭取りをすることは、小沢が言っているように、マスメディアや既得権益勢力から総攻撃を受けるのは目に見えているので、今度こそ本当の意味で“黒子”に徹した“まとめ役”を演じて貰いたい。ただ、現実を見る限り、一政策への対応でも四分五裂している野党勢力なのだから、ここに四つ、五つの政策を引き込んでしまえば、まとめようはなくなるだろう。現状の安倍政権の周りには、すべての既得権益勢力が屯している情勢なのだから、政治哲学者になったつもりで、“マネー”という魔物に対峙できる“政治思想”を今一度創造して貰いたいものである。ドイツの脱原発への決定プロセスは、その創造をサジェストしている。 (*今後の小沢一郎(3)に続く)
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