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2013年10月19日
10月17日、18日と、新藤義孝(しんどうよしたか)総務大臣をはじめとする与野党の議員総勢159人は、秋季例大祭に合わせて、東京・九段北の靖国神社を参拝した。
安倍晋三首相は参拝しなかったが、内閣総理大臣名で供え物の「真榊(まさかき)」を奉納した。
真榊(まさかき)とは、神事の場で祭壇の左右に立てる祭具であり、緑・黄・赤・白・青の五色絹の幟の先端に榊を立て、三種の神器を掛けたものである。(左図)
向かって左側に剣を掛けたもの、右側に鏡と勾玉を掛けたものを立てる。
鏡、玉、剣の三種の宝をかけて、天の岩戸から天照大神(あまてらすおおみかみ)の出現を祈った古典によるものらしい。
小泉純一郎氏が首相になる前のことだったと思うが、彼は、鹿児島県川辺郡(現・南九州市)知覧町にある「特攻隊記念館」で、当時の特攻隊の若者の遺書を見て涙を流したことが報道されたことがあった。
小泉純一郎氏は、特攻兵の遺書を見てガラスケース越しに涙をぽとぽと落としてしばらく佇んでいたらしい。
小泉氏の知覧特攻平和会館におけるたたずまいと、彼が総理大臣になってから竹中平蔵氏とタッグを組んで、郵政民営化や聖域なき構造改革などの国家解体政策を断行した行状は、個人史として眺めてみても、完全な分裂状態にある。
戦争という時代の激流に翻弄された人々は、戦局が危うくなったとき、それでも家族や郷土を守るために殉死した人々がいた。
これらの英霊たちは、少なくとも日本の永続的な安泰と繁栄を望んで敵に突撃したわけである。
この行為を狂気の洗脳の産物などと考える人たちも多いが、人間であるのなら、まず最初に彼らの殉死行為を悼(いた)む思いを持つのは当然である。
特攻は国家による野蛮な洗脳による強制死だなどという言い方は、死んだ人たちに対する侮辱であろう。
特攻死をどうとらえたにせよ、人間の死そのものは普遍的に厳粛なものである。
その死に対し、簡単に狂気だとか、洗脳だなどという言葉で記号化し、ゴミ箱に吐き捨てるような物言いは人として軽薄の極みであり、故人に対する侮辱であろう。
靖国神社の成り立ちやその政治的な背景はともかく、わずか68年前に実際にわれわれのために散華された先人たちがいたという事実に対しては、謙虚に冥福を祈るのが心情というものだろう。
戦争末期、もう挽回の余地がない局面で、大日本帝国海軍中将・大西瀧治郎は神風特別攻撃隊を創設し、不帰の特攻兵を送り出した。
戦局悪化の終端に来ても、乾坤一擲(けんこんいってき)の望みを特別攻撃にかけたのである。
誰でも戦争行為の自死作戦を許容する者はいない。
それでも海軍本部は、そういう本筋からそれた作戦をとるしかなかったという時代の奔流があった。
大西中将は、海軍本部が特攻作戦を立てなければならなかった事態にいたったことを本心ではかなり怒っていた。
ここまで追い込まれたのは本部の作戦の拙さであるという思いがあった。
自分が慈しみ、手塩にかけて育てた若いパイロットたちを特攻死させることは忍びなかったのである。
だから、彼は特攻を“統率の外道だ”とはっきりと言いきっている。
それでも特攻作戦は決行され、尊い若い命が失われている。
この全体の出来事を後世の人間がどう評価しようとも、家族や郷土、これらを包摂した国家のために散華した行為を、狂気とか洗脳などという言葉で貶め、卑しめる意識は人間として間違っている。
あの激動の時代を形成した人々をどう思おうと勝手だが、若い命が散った出来事に対しては、同胞として、また、それに連なる歴史的な存在として、われわれが虚心坦懐に鎮魂の気持ちを持つことは、人として、また日本人として当然だと思う。
ざっくりいえば、先祖のお墓参りと同じことなのである。
すべての人々は多くの先祖たちが存在したから、今現在、存在し続けている。
各戸にはそれぞれのお墓があり、多くの宗教形式がある。
国家も一つの大きな有機体として眺めれば、戦争で亡くなった方々をお参りする大きなモニュメント、供養塔があってもおかしくはない。
これを軍国主義の記念碑として、忌まわしいもののように捉える人たちも思考や心の在り方が薄っぺらである。
靖国神社を国家神道というカルト宗教の残滓として眺めている人々も同類である。
八百万(やおよろず)の神々を受け入れてきた日本人が、靖国神社だけは悪しき皇国史観の恥ずべきモニュメントだなどととらえること自体がおかしいのである。
日本人らしく、もっとおおらかな心を持とうではないか。
靖国神社は明治の招魂社以来の歴史を持つ国家の供養塔と考えてもいいのではないのか。
さて、くどくどというつもりはないが、本記事の主旨を簡単に説明するとこうである。
靖国神社の秋季例大祭に合わせ、安倍晋三首相は真榊(まさかき)を奉納し、新藤義孝総務大臣は本殿を参拝して英霊の冥福を祈った。
英霊たちはその殉国に際し、国家の永続的な安寧と弥栄(いやさか≒繁栄)を祈った。
神州の泉は腹が立って仕方がないのだ。
安倍首相はTPP(環太平洋経済連携協定)という国家破壊の経済協定に猪突猛進している。
新藤義孝総務大臣は、これもまた国家解体の「国家戦略特区」を率いている。
小泉純一郎元首相は、郵政民営化と小泉・竹中構造改革で日本をずたずたに切り裂いた。
これらの政治家が行っている所業は国際金融資本の意志を反映してのものである。
彼らの政治信条は新自由主義(フリードマン主義)で貫かれていて、日本の完全解体を目指しているのだ。
彼らは、日本の永遠なる安泰(護国祈念)と繁栄を心の底から願って死んでいった英霊たちに、ことごとく泥を塗る政治姿勢で一致する。
否、泥を塗るどころか、日本国の壊滅作業を嬉々として行っているのだ。
これら国賊政治家たちは、いったい何のために靖国神社にお参りするのだろうか!?
境内に足を一歩踏み入れただけで、彼らは不浄の存在なのに・・。
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