11. 2013年10月11日 18:18:40
: S28J8bkdYY
1981年(昭和56年)の主な出来事より抜粋1月20日 - ロナルド・レーガンが、ジミー・カーターの後継として第40代アメリカ合衆国大統領に就任。 1月25日 - 中華人民共和国元最高指導者毛沢東の妻江青に対し、死刑判決が下る。(文化大革命 : 1966年 - 1977年) 2月18日 - レーガン米大統領が経済再建計画(レーガノミックス)を発表。 2月23日 - 教皇ヨハネ・パウロ2世が来日( - 2月26日まで) 3月20日 - 神戸市でポートピア'81が開幕( - 9月15日)。 4月18日 - 日本原電敦賀発電所で放射能漏れ事故の事実が発覚、累計101人の被曝が明らかに。 6月7日 - イスラエルがイラク・フセイン政権下で建設が進められていた原子炉を爆撃(イラク原子炉爆撃事件)。 11月30日 - 鈴木改造内閣発足。 鈴木 善幸(1911年1月11日 - 2004年7月19日)岩手県下閉伊郡山田町出身 ロナルド・ウィルソン・レーガン(1911年2月6日 – 2004年6月5日)イリノイ州タンピコ出身 ・・・・・・・・・ 「東欧革命」の予兆は、1978年にポーランド出身のヨハネ・パウロ2世がローマ教皇に就任したことに始まる。共産主義政権側の人々でさえも尊敬するヨハネ・パウロ2世の存在は、それまで政府と反体制運動との間の力ずくの闘争であったポーランドの民主化運動の大転換を促すものであった。…単なる労働運動でなく民主化運動と化した「連帯」においてはレフ・ヴァウェンサ(ワレサ)議長の指導のもと組織の内部が改革され、組合の下部組織だけでなく指導層でも穏健派により急進派が説得される形で急進路線が放棄されて、「連帯」の穏健路線が確定した。… イギリス・ロンドンの生まれであるヴィンツェント=ロストフスキはこのころロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で経済学と歴史学の研究、そしてポーランドの「連帯」の支援活動を続けていた。また、アメリカではこのころジミー・カーター政権であったが、その安全保障担当補佐官ズビグニュー・ブレジンスキーがポーランド生まれのポーランド人であることは広く知られたところである。ブレジンスキーはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世とも密に連絡を取り合っていた。 このように、ポーランドでは民主化に向けてのメタ理論、実践理論、実践計画、そして役者たちがこのとき全て揃ったのである。 (ちなみにスリーマイル島原子力発電所事故は、1979年3月28日に発生。新設されたばかりのFEMAを指揮していたのがブレジンスキーである。) ◯アイルランドのロックバンド「U2」の最初期の大ヒットシングル「ニュー・イヤーズ・ディ」は独立自主管理労働組合「連帯」を歌ったもので、ヴァウェンサが描写されている。また「連帯」支持者でもあったアンジェイ・ワイダ監督の映画『鉄の男』(1981年)には本人役で出演した。また1983年3月11日発売の「サンデイ・ブラッディ・サンデイ 」は、最近行われたサミット開催地の近隣(Enniskillen)で起きたテロ事件を追悼してライブアルバム『ラトル・アンド・ハム』にも収録されている。 ◯『焔』 (ほのお、The Unforgettable Fire) は、アイルランドのロックバンド、U2のアルバムである。原題のThe Unforgettable Fire(忘れざる炎)とは、広島・長崎への原爆投下を生きのびた被爆者達が描いた絵画のタイトル。アメリカライブツアー中、シカゴのピース・ミュージアムでこれらを見たU2のメンバーは感銘を受け、ニューアルバムのタイトルに取り入れた。6曲目に、7月4日 - 4th Of Julyという曲がある。 ◯1983年、レフ・ワレサはノーベル平和賞を受賞。5月9日、ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ・ガリレイに対する宗教裁判の誤りを認める。 ・・・・・・・・・ 米ソ軍拡競争で経済危機 チェルネンコの時代においてますます深刻化した経済的危機を打開するべく、1985年3月に誕生したミハイル・ゴルバチョフ政権は社会主義体制の改革・刷新を掲げ、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を推し進めた。 チェルノブイリ原子力発電所事故、1986年4月26日。 ソビエト連邦を含む東側諸国の相次ぐ民主化により東西の冷戦構造は事実上崩壊し、これらの動きを受けて1989年12月2日から12月3日にかけて地中海のマルタでゴルバチョフとアメリカ大統領のジョージ・H・W・ブッシュが会談し、正式に冷戦の終結を宣言した(マルタ会談)。 その後に起こった東欧革命の本格的展開は、1985年にソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ政権が始めた「ペレストロイカ」により起こった。この「新思考外交」は、フランク・シナトラのヒット曲「マイ・ウェイ」から「シナトラ・ドクトリン」と呼ばれた。ちなみに、シナトラはラスベガスに自らが所有するカジノホテル、「サンズ」を中心にツアーを行った。シナトラ一家(Rat Pack/ラット・パック)には『マルタの鷹』のハンフリー・ボガートも顔をつらねる。 ・・・・・・・・・ 1968年の「プラハの春」 世紀を刻んだ歌:「ヘイ・ジュード」 2000年に放映されたNHKの番組がBS20周年ベスト・コレクションとして2009年10月に再放送されました。1968年に発表され、ビートルズ最大のヒット曲「ヘイ・ジュード」が、当時共産圏の国チェコでどのような運命をたどったかを追ったユニークなドキュメンタリーです。… 「プラハの春」と謳われていた1968年8月、突如ソ連軍がチェコの首都プラハに進攻します。その理不尽さに怒り、当時アイドル・スターであった歌手マルタは闘う女へと変身します。「ヘイ・ジュード」をチェコ語でカバーして、その歌に込められたメッセージにより、革命のシンボル曲として民主化を求める原動力となり、21年に亘る長い戦いの末、自由を取り戻しました。… http://www7a.biglobe.ne.jp/~frommybeatles/heijyu-do.htm より抜粋 「レヴォリューション」(Revolution)は、1968年8月にビートルズが発表した18枚目のオリジナル・シングル(「ヘイ・ジュード」)のB面曲である。 ◯ちなみに、1968年には大江健三郎『万延元年のフットボール』が発表されている。 「万延元年のフットボール」についての柄谷行人による批評 「万延元年…」は、アレゴリー的である。1960年にこだわるがゆえに、1960年に関する固有名や安保闘争の直接描写を排除する。1960年を描きながらも、万延元年(1860年)、1945年と重ねてゆく。… ・黒船来航・日米修好通商条約(発効は1860年) … 敗戦 … 日米安保(1960年) … TPP? (主にWiki等の情報をもとに再構成した) |