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「ゆっくり間違う」に危機感 [情報保全隊訴訟]](毎日新聞平成25年9月30日朝刊)
陸上自衛隊の諜報組織「情報保全隊」の市民団体やメディアに対する監視活動を違法として、国に損害賠償を求める訴訟が仙台高裁で争われている。防諜の強化を目的とする特定秘密保護法制定の動きが加速する中、原告団長で写真家の後藤東陽さん(88)は危機感を募らせている。
「じわじわと真綿で首を絞められているんじゃないか。この不安は経験した者にしか理解できないのかもしれませんね。」
仙台市近郊で豆腐屋を営む両親のもとで生まれ育った後藤さんは、小学校3年生の時、母校の校歌を作詩した「鈴木シンジ」という作詞家にあこがれていた。「隣の集落から塩釜の造船所に通っていた30代のインテリ。堂々とした体格に背広が似合っていました。」1934年(昭和9年)頃のことだ。
その姿を見たくて、出勤と帰宅の時間を見計らっては店の手伝いを抜け出し、道行く鈴木さんにあいさつするのが日課になった。「おはようございます」「おはよう」。鈴木さんは優しく答えてくれた。
ところがある日、鈴木さんは姿を消した。「逮捕された」と、数日後に聞かされた。「造船所で『働く者には権利がある』と行ったんだと」「勝手なことを言うから捕まったんだ」。大人たちはささやきあった。
2〜3週間後、巡査が村の一軒一軒に触れて回った。「非国民の鈴木が釈放された。鈴木と口をきいた者は逮捕する」。だが、後藤少年はどうしても鈴木さんをみたくて道端に立った。
「その時の鈴木さんの見るも無惨な……」と言って、後藤さんはしばらく絶句し、涙をぬぐった。
「頬がげっそりこけて、幽霊みたいな顔になってしまって……」
後藤さんの叔父は仙台の憲兵隊長だった。鈴木さんは塩釜の警察で拷問された後、仙台の憲兵隊に送られ、釈放されたのだと聞いた。戦後、鈴木さんがどうなったのかはわからない。
小学校を15歳で卒業した後藤さんは国鉄に入る。そこで中国戦線帰りの30代の先輩職員から
「誰にも言うなよ。ブタ箱に入れられっから」と口止めされて、日本兵の残虐行為を聞かされた。」
「地獄だよ。ああやんだ、嫌だ、戦争なんて」とつぶやいて、静かに涙を流した先輩は、再召集されて南方で戦士した。
後藤さんも19歳で召集。仙台の対戦車砲中隊に配属され、戦争への疑問を胸に秘めつつも自爆攻撃の訓練に明け暮れた。ある時、青森県出身の兵が脱走して戻され、懲罰で重営巣に入れられた。衛兵当番をしていると、中から弱々しい声が聞こえてきた。「衛兵殿……衛兵どの……小便がしたいんであります……」。後藤さんは鍵を開け、やつれ果てた脱走兵に自分の食事を分け与えた。これが憲兵に知れ、後藤さんは「国賊!」とののしられながら殴る蹴るの激しい暴行を受けた。この時に痛めた腰の後遺症は今も残る。
戦後は曲折を経て写真館の経営者となり、今は、仙台市中心部の一等地に本社を構える。偶然にも、かつて憲兵隊があった土地の隣だ。「憲兵との関係は、私の心に重く暗く沈んでいるのです」
平和運動に積極的に関わるようになった後藤さんは、自衛隊そのものが嫌いなわけではない。情報保全隊による監視が、かつての憲兵や特効警察のような徹底的な国民監視にエスカレートし、誰もが自由にものを言えなくなることを恐れる。
「『まさかあの時代のようにはならないだろう』という人は多いけど、当時も変化はゆっくりだった。国を間違った方向に引っ張る政治を食い止めるのは、戦争経験者の責任だと思っています。」
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情報保全隊訴訟
自衛隊のイラク派遣反対運動をしていた後藤さんら4人が2007年、国に監視差し止めと損害賠償を求めて訴訟。原告は最終的に107人になり、仙台地裁は昨年3月、5人について、「人格権を侵害した」として国に計30万円の支払いを命じた。原告は判決を評価する一方、差し止め請求却下などを不服として控訴した。情報保全隊は03年に陸海空の各自衛隊に設置され、09年に統合された。
【日下部聡、写真も】
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写真入れようと思ったんですが上手くいきませんでした。すいません。by投稿者
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