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福島第1原発を訪れた安倍首相 [Photo] Bloomberg via Getty Images
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/37101
2013年09月27日(金)長谷川 幸洋 現代ビジネス
福島第1原発の汚染水問題で、国会の閉会中審査が27日と週明け30日の2日間にわたって開かれる。日本中が心配する汚染水問題がようやく閉会中とはいえ、国会の場で議論されるのは良かった。
いや「良かった」というのは適切でないだろう。こんな大問題を国民の代表である国会議員が「どうなるのか、どうするのか、こうすべきだ、ああすべきだ」と議論するのは当然である。むしろ、遅すぎたくらいだ。
今回の対応はもしかしたら、これから先数年間の国会のありようを象徴するかもしれない。大問題が起きても国会の動きは鈍い。ようやく取り上げられたと思ったら、なんのことはない、野党は型どおりに政府与党を追及し、政府はといえば用意した答弁を演説して「はい、おしまい」。そんな結果になりはしないか。
与党が衆参両院で多数を握ったので予算は必ず成立する
つまり、国会が形骸化するのだ。
なぜ、そういう懸念があるかといえば、衆参両院のねじれ状況が解消してしまったからだ。
政府与党は衆参両院で多数を握っているから、予算案と内閣提出法案(閣法)は必ず成立する。べつに野党が審議拒否して「寝てしまった」ところで、最終的に採決さえすれば決着するのだ。
国会がねじれていたときは、野党が参院で反対すれば、衆院で与党が3分の2以上の多数で再議決しない限り、法案は通らなかった。衆院の議決が優越する予算案も、予算本体が成立したとしても、関連法案とりわけ特例公債法案(赤字国債を発行するための法案)が野党の反対で成立させられないと、たちまち政権運営が立ち往生してしまう、という事態が続いていた。
そんな状況を新聞はじめマスコミは「決められない政治」とさんざん批判してきた。今回、ねじれが解消したから「ようやく決められる政治になる」と半ば歓迎するきらいさえある。
この「決められない政治」というキャッチフレーズは、野田佳彦元首相が2012年1月の施政方針演説で初めて使った言葉だ。
私は財務省が「消費税引き上げを決める」ために演説の中に入れ込んだのではないか、と疑っている。当時、多くの新聞は演説をそのままパクって、社説などで「決められない政治からの脱却」を訴えた。
だが、ねじれ状態を解消して実現する「決められる政治」とは、実は「形骸化した国会の下で政府与党が独走する政治」なのではないか。
そんな政治を新聞が歓迎していいのだろうか。
■政治に求められるのは決められるか決められないかではなく「議論」
私は単純に「決められない政治」がダメで「決められる政治」が良いのだ、などとは思わない。本当に必要なのは「議論する政治」だと思っている(この点は、安倍政権がスタートした直後の2013年1月25日に元経産官僚の古賀茂明さんと対談した際にも指摘した)。
そういう立場から見ると、なんでも反対の野党の抵抗に遭って何も決まらないよりは、国民が選んだ政府の政策が着実に進んでいったほうがいいとは思う。
だが、だからといって、国会審議が歌舞伎のように「お約束のお芝居」になってもらいたくはない。
今回の閉会中審査は実質的に、ねじれ解消後、初めての与野党論戦になる。だからこそ与党も野党も真剣に議論してもらいたい。それはそうなのだが、与党が衆参で多数を占めているという現実は、構造的に緊張感を欠いてしまう面があるのもたしかなのだ。
では、どうするか。私は、いまこそメディア、とりわけマスコミが存在感を取り戻す絶好のチャンスではないか、と思う。国会が形骸化しかねないからこそ、新聞はじめメディアが問題点を国民に提示して「これはどうなんだ」と政府に迫るのだ。
たとえば、今回の汚染水問題である。東京新聞は9月23日付朝刊で「福島第一原発と地下水」という1ページの特集面を組んだ。原発の敷地にはもともと沢があり、豊富な地下水が海に流れ込んでいた、という話を図解入りで紹介した。
■汚染水対策にメディアも大胆な選択肢を提示せよ
と思えば、翌日の24日には毎日新聞が夕刊の特集面で「福島原発の汚染水問題」を取り上げ、水で原子炉を冷やす水冷方式に代わって空冷方式や敷地全体を掘で囲って包囲する案、地下ダムを建設する案などを紹介した。
これらは地下水問題を抜本的に考え直してみよう、という試みだ。
政府は470億円を投じて、地下の地面を凍らせる遮水壁の構築に乗り出す構えだが、そんな案だけが選択肢ではないかもしれない、という可能性を示している。
実は「もともと原発の敷地が川だった」という話はウォール・ストリート・ジャーナル日本版が8月22日に報じている。私はそれを直後に『週刊ポスト』(9月13日号)の連載コラムで紹介しつつ「水で冷却するという方法自体を見直す必要さえ出てくるかもしれない。政府が言わない部分にこそ大胆に斬り込んでほしい」とメディアに注文した。
そういう動きが出てきたのではないか。
国会が閉まっていて、議員たちが国民の前で議論さえしていないときに、新聞がいち早く問題点を報じる。それこそメディアの仕事だ。国会が開かれても、ねじれ解消で議論が形骸化してしまう懸念があるなら、なおさらである。
国民の目から見て、議員たちがおざなりな議論しか展開できない、あるいは時間制限のために徹底的な掘り下げができないようなら、そのときこそ取材時間に縛られず、紙面や番組編成を自由にできるメディアに出番がある。
国会や与野党のありようを批判するだけがメディアの役割ではない。まして「決められる政治の到来」を歓迎しているどころではない。国会に代わって、自分たちが問題の核心に迫っていく。それでこそメディアだ。
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