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ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」の「大阪府教委もブラック官庁だ」を覗くと、ブラックという言葉が多用され、「ブラック官庁」、ブラック度、ブラックユーモア、とまるで自らが名誉白人になりきったようなブラックの使い方である。
もともと白人の言語である英語を使うのであるから、当然「ブラック」には好ましくない印象(マイナスイメージ)がつきまとう。そんなことには無頓着、「無知は力」の日本低国民、そう黒い目(英語では面汚しの意味)――もちろん当たり前、全員ではないし、そういう人が多い傾向ぐらいで、色だって黒く見えたとしても、おおよそ黒く見える程度だが――の日本低国民はバナナ人としての面目躍如、南アのアパルトヘイトを支持した馬鹿日本人並みの呆れた知性で「ブラック」という言葉を多用。多分白人差別主義者の貧困な精神に近づきたいのだろう。これでは私の「目の黒いうち」に、トンデモ和製英語・「ブラック」の言葉狩りはできるのかと哀しくなってきた。
で、ここでは津田幸男の言葉を借りて、白人が‘black’(ブラック)に込めた思いを再確認してみよう。
▼津田幸男『英語支配とは何か――私の国際言語政策論』明石書店、2003年
頁111――
●英語の差別イデオロギー
言語には差別的機能が備わっており、英語も例外ではない。人間にはもともと、自分や自分の属しているグループには、プラスのレッテルを貼り、他人や他集団――特に敵対していたり、軽蔑、あるいは支配している場合――に対しては、マイナスのレッテルを貼り、差別しようという意識があるようだ。(これは社会学では、「ラベリング」(注15)と呼んでいる)。
・・・
それでは、‘black’の意味はどうであろうか。再び、前出の『ランダムハウス英和大辞典』を調べてみよう。‘black’の形容詞の部分には15項目が掲げられているが、そのうち、わずかにプラスの意味を含むものは、「全くの、徹底的な」(第14項目)の一つのみで、残りのほとんどは著しく否定的な意味を含むものばかりである。
それらは、「よごれた、きたない」(第4項目)、「まっ暗の、やみの」(第5項目)、「陰気な」(第6項目)、「不吉な、険悪な」(第7項目)、「故意の、たくらんだ」(第6項目)、「腹黒い、よこしまな」(第9項目)、「荒廃地の」(第10項目)、「非難されるべき、不名誉な」(第11項目)、そして「不正な、やみ値の」(第15項目)の、合計9項目にわたり、‘black’がいかに、マイナスのレッテルとして使われているかがよくわかる。
このように‘white’がおおむね「善と公正」を指し示すために使われ、‘black’が
、「悪と不正と汚れ」を示すために使われていることと、‘white’が白人を指し、‘black’が黒人をさすということばの使われ方は、任意のものではなく、作為的なものであろう。
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というわけで、今の日本低国の惨状が理解できるだろう。この国の国民は公民権運動も「ブラック・イズ・ビューティフル(黒は美しい)」運動も知らないのである。滅茶苦茶な英語を多用して白人に近づきたがっている。これほどの愚劣をしながら難解な法律英語で翻弄される詐欺協定TPPに参加するのだから、世も末である。
国民のほとんどが馬鹿な右翼で、残りの「良識派」といえば遅れた白人並みの精神でブラックを多用する間抜けな奴隷でしかないのだとしたら、私たちはいったいどこへ向かおうとしているのだろう。
※追記:「口元チェック」などというトンデモを通知する教委は“思想警察”と目くそ鼻くそである。だから思想警察と呼べばいい。それを「ブラック官庁だ」など表現する馬鹿がいては、人権を守るための何事も始まらない。
▼澤藤統一郎の憲法日記
大阪府教委もブラック官庁だ
http://article9.jp/wordpress/?p=1197
この人の感覚は異常と評するしかない。憲法感覚において、社会感覚において、そして人間という存在の根源的な理解において。秩序感覚と権力志向のみが異様に発達して、他人の心情やプライドへの理解能力、共感能力が皆無である。基本的人権ということがまったく分かっていない。こんな人物が弁護士であることが理解できない。こういう人物に権力という玩具を与えてはならない。周りが迷惑することこの上ない。いや、橋下徹のことではない。その仲間の、中原徹のこと。
民間人校長として大阪府立立和泉高校長となり、2012年3月の卒業式で、教頭らに指示して、教職員が国歌斉唱の際に斉唱しているかを確認する「口元チェック」を指示して世論の非難を浴びた。もちろん、秩序派・橋下徹は「素晴らしいマネジメント」と賞賛したが、当時の大阪府教育委員長までが、「そこまでやらなくてもいいのではないか」とたしなめている。
その中原が、今年の4月大阪府の教育長に就任した。そして、今月4日府立学校の校長宛てに、「入学式や卒業式の君が代斉唱の際に教職員が実際に歌ったかどうか、管理職が目視で確認するよう求める通知」を発したという。「目視で確認」とは、「口元チェック」のことだ。年度末の卒業式に向けて、改めて全府立校に通知を出す方針だと報じられている。
「口元チェック」となると、思想・良心や表現の自由侵害(憲法19条・21条)などという精神的自由権侵害レベルの問題ではないのではないか。こんなやり方で、こんなところまで、人を追い込みプライドを傷つけることは、世上の用語で「人権侵害」というにふさわしい。つまりは、人間の尊厳を根底から損なう公権力の発動として、憲法13条違反レベルの問題として把握すべきこととなろう。
都立高校で、10・23通達が発出された際に、「自分には思想的な『日の丸・君が代』への違和感はない。だから、これまで少数派の教師の一人として、式では起立し斉唱してきた。しかし、職務命令として起立・斉唱を命じられたら立てない。歌えない。自分の信念として教育に強制はなじまず、教師が生徒の前で、強制に屈してはならないと思うからだ」という教師にお目にかかることができた。まさに、尊敬に値する教育者ではないか。
中原教育長の通知文の中に、「公務に対する府民の信頼を維持することが目的」と記載されているという。何たることか。本気で、教育への府民の信頼が「口元チェック」で獲得できると考えているのだろうか。あまりに貧しい発想というほかはない。およそ教育の場で語られる言葉ではない。
教育とは、個性豊かな教師と生徒との人格的接触によって成立するものだ。信念を貫く教師がいなければならない。「権力などは屁のような存在」「誰がなんと言おうと我が信念を貫く」という教師がいてこそ、硬骨な子どもが育つ。学校をロボットがロボットを製造する工場にしてはならない。
「口元チェック」は、パワハラであり、イジメである。チェックをされる教職員だけでなく、チェックをするよう命じられる校長や教頭にとってもだ。多くの良心的な教職員が気持ちを暗くし、心を傷つけ、教場を去ることになるだろう。都教委を「ブラック官庁」と言ってきたが、大阪府教委はさらにひどい。東西両都市が、ブラック度を競い合っている。ブラックユーモアにもならない。
ところで、府立校の校長やら教頭やらに、聞いてみたい。「あなた、口元チェックやりますか」「ほんとに、チェックして報告を上げますか」「こんな馬鹿げたことが校長の役目だと思いますか」「あなたは教育者ですか。教育行政の下僕ですか」「あなたの視線は、子供に向いていますか。それとも人事権者に向いているのですか」
大阪府の有権者にも聞いてみたい。「こんなアホな教育長を抱えて、大阪の恥やおまへんか」「口元チェックの学校に、子どもをやれますか」「大阪人は、そんなに『日の丸・君が代』大好きですか」「個性や自由や硬骨や叛骨は、お嫌いなのですか」「いつまで、橋下や中原のような連中に好き勝手なことをやらせておくつもりですか」
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