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2013年09月15日
「安心・安全・便利・快適」を意味なく望む人々(国民)が増えれば増えるほど、権力は彼らの望みを適えてやると言いながら、非常に巧妙に彼らを監視する社会を構築する。監視社会をテーマとしたジョージ・オーエルの小説「1984年」が近づいてきたような感じだ。小説のような環境設定はないのだが、自由を一定の範囲で切り売りしてでも監視社会を望む国民がいるわけだから、飛んで火にいる夏の虫のような按配だ。「1984年」を買って読めとは言わないが、“あらすじ”をパクリで紹介しておく。
「1984年」ジョージ・オーエル著のあらすじ
≪1950年代に発生した核戦争を経て、1984年現在、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国によって分割統治されている。さらに、間にある紛争地域をめぐって絶えず戦争が繰り返されている。作品の舞台となるオセアニアでは、思想・言語・結婚などあらゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョンによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。
ロンドンに 住む主人公ウィンストン・スミスは、真理省の役人として日々歴史記録の改竄作業を行っていた。物心ついたころに見た旧体制やオセアニア成立当時の記憶は、記録が絶えず改竄されるため、存在したかどうかすら定かではない。スミスは古道具屋で買ったノートに自分の考えを書いて整理するという、禁止された行為に手を染める。
ある日の仕事中、抹殺されたはずの3人の人物が載った過去の新聞記事を偶然に見つけたことで体制への疑いは確信へと変わる。「憎悪週間」の時間に遭遇した同僚の若い女性、ジューリアから手紙による告白を受け、出会いを重ねて愛し合うようになる。
また、古い物の残るチャリントンという老人の店を見つけ、隠れ家としてジューリアと共に過ごした。さらにウインストンが話をしたがっていた党内局の高級官僚の1人、オブライエンと出会い、現体制に疑問を持っていることを告白した。
エマニュエル・ゴールドスタインが書いたとされる禁書をオブライエンより渡されて読み、体制の裏側を知るようになる。
ところが、こうした行為が思わぬ人物の密告から明るみに出て、ジューリアと一緒にウィンストンは思想警察に捕らえられ、愛情省で尋問と拷問を受けることになる。彼は「愛情省」の101号室で自分の信念を徹底的に打ち砕かれ、党の思想を受け入れ、処刑(銃殺)される日を想いながら"心から"党を愛すようになるのであった。
本編の後に『ニュースピークの諸原理』と題された作者不詳の解説文が附されており、これが標準的英語の過去形で記されていることが、スミスの時代より遠い未来においてこの支配体制が破られることを暗示している。 ≫(ウィキペディア抜粋)
この小説は1949年に刊行されているので、インターネットの概念が生まれたのが1960年で、1969年にUCLAとスタンフォード研究所間で接続され、同年12月UCサンタバーバラ、ユタ大学が接続され4つのノードとなったのが現実の姿であり、1995年の、MS社Windows95の登場で一般個人でのインターネットの利用が加速度的に普及した。つまり、オーエルがこの小説を執筆した時点では、ITは萌芽の兆しさえなかったのである。オーエルの小説にインターネットの目覚ましい進化などを加え、FBやTwitterにアルゴリズム等云う数学的分散処理機能が加われば、トンデモナイ小説が生まれていたに違いない。国家権力の監視だけにとどまらず、国民相互監視社会が誕生する方向性が見えてくる。直接監視社会に警鐘を鳴らしているわけではないが、面白いコラムがあった。
≪ネットで炎上…監視社会に「喜んで」飛び込む若者 編集委員 田中陽 監視社会――。
この言葉を聞いて、大半の人たちはいいイメージを持たないはずだ。監視社会を題材にしたジョージ・オーウェルの小説「1984年」。国家権力が各所に設置した監視カメラ「テレスクリーン」によって市民の行動と音声が把握され、プライバシーの全くない息苦しい、暗黒の社会を描いた。
ところがである。そんな監視社会に「喜んで」飛び込む若者たちがこの夏、相次いだ。例えばコンビニエンスストアのアルバイトが店内にあるアイスケースの中に入っている写真をフェイスブックにアップ。また飲食店では客がテーブルにあったソースなどの容器を鼻に突っ込んだ写真をツイッターに投稿した。最近も 飲食店で全裸となっている姿をフェイスブックで公開したケースもあった。こうした悪ふざけはネットの世界でたちまち拡散し、社会問題に発展した。仲のいい友達だけに見てもらおうと思った「内輪受けネタ」「軽い気持ち」のはずが、その写真を見た友達が面白がって拡散させたことなどで白日の下にさらされて炎上 してしまう。
本人たちは意識はしてないだろうが、ネット社会に築かれた監視社会に自ら飛び込んでしまっているのだ。
かつてネット社会は匿名性の高いメディアと言われていたが、もはやそんな時代ではない。「足跡」は至る所に付き、そこに写真があろうものなら、「誰がやったのか」という特定もすぐされてしまう。スマートフォンなどにある全地球測位システム(GPS)が働けば「どこ」という現場も捕捉される。やっかいなのは社会的な制裁を受け、猛省してもネット上では半永久的に悪ふざけが残る。「時効」はない。
筆者は2年半前にこの「ニュースこう読む」で、「ネットに縛られる若者たち」と題して、SNS社会は「ソフトな監視社会だ」と書いたことがある。互いに 「いいね!」をポチッと押して、居場所や行動を知る。ポチッと押さないと仲間はずれになることを恐れるから、「いいね!」合戦を繰り返す。互いが行動をモニタリングする社会を「ソフトな監視社会」とした。
今回はあまりにも悪質だからネット社会の監視機能が働き、騒動に発展したが、何気ない投稿であっても自らが監視社会に飛び込んでいることに他ならない。そして、面識のない人から「いいね!」をポチッと押されて、驚くこともある。繋(つな)がっている安心感なのか縛られているような違和感なのかわからない。
リアルな世界であっても建物の内外には監視カメラが至る所に設置されている。そこでは日常的に私たちの姿を捉えている。東日本旅客鉄道 (JR東日本)がICカード乗車券「Suica」の乗降履歴などのデータを販売していたのも監視社会の一コマかもしれない。おそらく今や誰にも足跡を知られることなく自宅から学校や職場、バイト先までたどり着くことはできないだろう。
結果的に監視されている世界にはSuicaのようなビッグデータが生まれ、使い方によっては企業や生活者に大きなメリットを生む可能性は大いにある。一方、監視社会の不気味さを描いた「1984年」で独裁者として登場するのはビッグ・ブラザーだ。
悪ふざけの顛末(てんまつ)のニュースを気にかけながら、どうやって「2つのビッグ」とこれから付き合っていくのかを考えてしまった。 ≫(日経新聞)
安倍政権で成立を試みるであろう「特定秘密保護法案」にせよ、既に法案化乃至は条例などを通して、監視社会は確実に我々の生活の中に忍び寄っている。 安心のファシズムと云う言葉があるが、秘密保護法案、共通番号制度、住基ネット、生活安全条例、監視カメラ、Nシステム、暴力団排除条例、暴排法、児童ポルノ改正案等など、思い出すだけでも、相当に暑苦しい世の中になっている。安倍政権は日本版NSCの創設を当初の予定よりも繰り上げる方針を決定しているし、2020年オリンピック開催の決定により、東京の安全と確実さは、極めて強く作用するだろう。たった2週間程度のスポーツの祭典によって、日本、特に東京周辺は、監視社会のサンプルになるかもしれない。その後も、おそらく監視システムは作動し、それからの東京の街を監視し続ける。
つまるところ、「安心・安全・便利・快適」と「自由・個人情報」のトレードオフの関係である。悪いことさえしなければ、監視など怖くないと思うのは勝手だが、想像以上に息苦しい社会が生まれるような気がする。警視庁は、噂によると、あのイカガワシイ街として名高い“アキバ”の浄化を狙っているとも言われている。孫の水浴びの写真をPCに取り込んだだけで、児童ポルノ云々と言われる日は近そうだ。オーエルの小説の上を行く世界をこの目で見られるかもしれない。イヤハヤである(笑)。さしずめ、筆者も極悪人にされるかもしれない。10年後、どこぞに移住しなけれならないのかも?
PS:米国では、政府によるプリズム等々の覗き盗聴行為が一般市民にも及んでいる事を感じたのか、オーエルの小説「1984年」が米アマゾンの売り上げで、7000%増を記録したそうである。日本でも現実には監視社会の体制は強化の方向だが、それを怖れる人々は、まだ少数のようだ。
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