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9月14日、文藝批評家の山崎行太郎氏の著作『保守論壇亡国論』が弊社より刊行されます。ここでは本書と関連して、弊誌8月号に掲載された山崎氏のインタビュー「なぜ保守論壇はかくも幼稚になったのか」を紹介したいと思います。
『月刊日本』8月号「なぜ保守論壇はかくも幼稚になったのか」より
安倍総理はネット右翼レベルだ!
―― 安倍政権は依然として高い支持率を維持しており、おそらく参院選も自民党が勝利するだろう。
山崎 安倍総理が名門出であることやその人柄の良さが国民に安心感を与えているのだろう。そのあまりにも軽い言動に違和感を覚えないと言えば嘘になるが、菅総理や野田総理に比べれば遥かにマシであることは間違いない。
日本国民は民主党政権末期に、頭でっかちの秀才政治家の持つ権力欲や後ろ暗さ、人間性の悪さといったものを嫌というほど味わった。彼らのような秀才は、一度権力を握るとそれに固執し、権力を維持するために何をしでかすかわからない。
他方、安倍総理のような世襲政治家たちは、生まれたときから既に金や地位を手にしているので、そうしたものに固執しない。彼らはむしろ、ご先祖様や子孫に対して恥ずかしくないように、あるいは、顔向けできるように、といったような名誉や誇りの方にこだわる。私は、以前は世襲政治家に批判的だったが、今では世襲政治家こそ必要なのではないかと思うようになった。
安倍総理は育ちの良さから来る素直な性格で、自分のブレーンたちの話をよく聞いているのだろう。しかし、それは同時に安倍総理の危うさでもある。人の話をよく聞くということは、自分の頭で物を考えていないということでもあるからだ。
アベノミクスの金融緩和はイェール大学の浜田宏一の理論そのものだし、成長戦略は、竹中平蔵的新自由主義の影響が濃厚だ。また、安倍総理の発言には、最近の保守論壇の影響も見られる。
―― どのような発言に保守論壇の影響が見られるか。
山崎 安倍総理は6月9日に渋谷で都議会選の応援演説をしていた時、TPP参加反対デモに遭遇したらしい。彼はこのデモの参加者を自身のフェイスブックで「左翼の人達」と批判している。
私はこの「左翼」という言葉の使い方に強い違和感を覚える。「あいつは左翼だ」といった罵倒の仕方は、まるでネット右翼のようではないか。復興庁の役人がツイッターに「左翼のクソども」と書き込んだことが話題になったが、それと同レベルだ。
かつて保守と呼ばれていた人たち、たとえば小林秀雄や江藤淳、福田恆存、三島由紀夫などは、「左翼」を罵倒語として使うことはなかった。彼らは左翼に批判的だったが、同時に敬意も払っており、マルクスや丸山眞男、大江健三郎などの著作をしっかりと読んでいた。
おそらく現在の安倍総理にも第一次安倍政権時代と同様に保守論客のブレーンがついているのだろうが、彼らの知的水準が低く、ネット右翼レベルなのだろう。そのため、彼らの話を素直に聞いている安倍総理もまた、ネット右翼と見紛うような発言をしてしまったのだと思う。
もっとも、これは安倍総理やそのブレーンに限った問題ではない。保守論壇全体の問題だ。現在の保守論壇自体がネット右翼レベルにまで落ちてしまっていることが問題なのだ。
保守論壇は「左翼化」してしまった
―― なぜ保守論壇は劣化してしまったのか。
山崎 その原因の一つは、保守がイデオロギー化してしまったことにある。イデオロギー化とは簡単に言えば、「保守とは何か」を定義して型にはめてしまうことだ。これは典型的な左翼的発想である。つまり、保守論壇は「左翼化」してしまったのだ。
たとえば、保守派は櫻井よしこを始めとして「国家観」や「歴史観」、「伝統」といった言葉を好んで使うが、彼らは、保守とは「国家観」や「歴史観」、「伝統」を語る人間のことであり、あるいは「南京虐殺はなかった」とか「従軍慰安婦は存在しなかった」と主張する人間のことだと考えているようだ。つまり、保守の真髄なるものがあって、それに当てはまる人間を保守とみなしているわけである。
しかし、これは逆に言えば、そうした条件を満たせば誰でも保守になれるということでもある。中国を批判し、靖国神社に参拝し、愛国心の重要性を訴えれば、あなたも明日から保守になれます、というのであれば、保守も実にお手軽になったものだと言わざるを得ない。まさに「サルでもなれる保守」である。これほど簡単に保守になれるのだから、小林よしのりのようなマンガ右翼が力を持ち、在特会のようなネット右翼が台頭するのも無理はない。
しかし、保守とは「こうあらねばならない」と定義できるものではない。江藤淳は「保守主義というと、社会主義、あるいは共産主義という主義があるように、保守主義という一つのイデオロギーがあたかも存在するかのように聞こえます。しかし、保守主義にイデオロギーはありません。イデオロギーがない――これが実は保守主義の要諦なのです」と言っている。
イデオロギー化された思想は、単純でわかりやすいものである。それらをお題目のように唱えていればいいのだから、自分の頭で物を考える必要もない。保守の定義にこだわるような論客が増え始めた頃から、保守論壇は急速に通俗化し、幼稚化していったのである。
―― 最近の保守論壇の議論は、タイトルを見ただけで中身がわかるようなものばかりだ。
山崎 かつての保守論客たちには「作品」と呼べるものがあった。ここで言う「作品」とは、右翼・左翼といったイデオロギーを越えて、誰もが認めざるを得ないような著作のことだ。たとえば、小林秀雄の『本居宣長』や三島由紀夫の『金閣寺』などである。
これらの作品は、左翼運動に参加している学生たちの間でも読まれていた。実際、文藝批評家の柄谷行人は、学生の頃に福田恆存や江藤淳、小林秀雄などを熟読していたらしい。現在、左翼の人たちの中で、櫻井よしこや中西輝政などの著作を真面目に読んでいる人などいるだろうか。
「作品」を創造するためには「深く思考すること」が必要となる。これは易々と実践できることではない。保守の定義にこだわっているような人間には不可能だろう。(以下略)
なお、インタビューの全文と、『保守論壇亡国論』の「はじめに」を併せたものを、キンドル版「保守論壇亡国論序説」でご覧いただけます。ご一読ください。(YN)
http://blogos.com/article/69358/
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