http://www.asyura2.com/13/senkyo153/msg/380.html
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欧米のシリア侵略の目的さえ知らないトンチンカン理論から出てきた「人道的介入」。それを未だにを口にする愚劣。“何もしないのが最善の時がある”とチョムスキー言っているけど、ゴロツキ弁護士、ポン引き市長の橋本徹を見てればそれぐらい分かるだろう。あいつだって何もしなければ、市民への害は少ない。そういえばユーゴ当たりでは劣化ウラン弾をばらまかれてヒバクシャになった市民も沢山いたが、それも「人道的介入」だったよ。テロ国家アメリカがアジアでサリン攻撃をアジアでやっていたことは知っていて、枯れ葉剤では300万以上の被害者がいて、加えてベトナムのカンボジア攻撃が歴史的には稀少な人道的介入の一つで、それでポルポトの国内虐殺を止めたけど、それをも知っていたら聞くけど、その時ベトナムは「人道的介入」って言ったの?だいたいテロ国家アメリカの「人道的介入」って、暴力団が人道を説くよりヒドクナイ?あの国なら、日本への原爆2発も「人道的介入」って言うかもよ。だってあれでヒロヒトが戦争やめて、その後の日本の無辜の民の被害者が減ったと言い張ることもできるからね。
▼反戦エッセイ 36
「人道的介入」の非人道性を明らかにした劣化ウラン弾被害
井上 澄夫(戦争に協力しない!させない!練馬アクション)
http://www.jca.apc.org/keystone/K-ML200101/3501.html
▼2013.09.02 シリアへの介入は遅すぎたが、やるべきだ
―大量虐殺と国土の破壊を続けるアサド政権
坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-2504.html
米国のシリア攻撃は遅れているが、オバマ政権はやるだろう。その間にも、シリアでは航空機、戦車はじめ軍の兵器を(おそらく化学兵器も)総動員した市民の虐殺と街や村の破壊が続き、難民は増え続ける。国際社会は、もっと早く、軍事介入を含め最大限に積極介入し、シリア軍による市民の虐殺に歯止めをかける努力をすべきだった。国連安保理が常任理事国の拒否権で動けないときにも、軍事力を含む人道的介入(オバマ大統領はこの言葉を避けているが)をしなければならないケースがあるはずだ。今回のシリアのケースは、それに相当する、深刻な人道危機だと思う。
米国のイラク戦争の場合とは違う。イラク戦争は、大統領とネオ・コン(右翼的な新保守主義者)が支配したブッシュ政権が、軍と軍事産業界にも押されて強行した、中東での覇権とイラクの石油を握るための帝国主義的戦争だった。だから、世界中に「No!War for Oil」の抗議デモが拡がり、わたしも、できる限り「米国のイラク戦争反対」を戦った。いま、この、最も重要な違いに触れずに、まるで米国のメディアのコピーのような報道をしている、日本の新聞やテレビは情けない。
▽際立って残虐なアサド政権
わたしは、1973年から76年まで共同通信のベイルート特派員をして以来、中東の独裁政権を見続けてきた。イランのパーレヴィ、イラクのフセイン、リビアのカダフィ、エジプトのムバラク・・・。その中で、シリアのハフェズ、バッシャール親子2代にわたるアサド独裁政権は際立って残虐だ。
シリアの民主化闘争が2011年3月、「アラブの春」のさなかに始まって以来、アサド政権の軍と治安警察の弾圧に抗して燃え広がり、軍内部からも反乱が起こって武器を持って加わり、内戦状態になった。人口2,112万人のこの国でこれまでに、国連によると死者10万人以上。その8割〜9割が政府軍の空爆、戦車と重火器による砲撃による犠牲者だと推定される。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)に登録した国外難民だけで170万人、うち隣接するレバノン、ヨルダン、トルコに逃げて登録した人だけで166万人を超え、今日も増え続けている。それ以外に、もう一つの隣国イラクや中東諸国、欧州にまで避難した多数の人たちがいる。国内難民も100万人以上いて、難民の全体数は「数百万人」と国連は推定している。この一人、一人が、家族の命を失い、あるいはひどく傷つき、家庭を壊され、家を捨てて国外難民になった。これが、きわめて異常な、残酷な現実なのだ。
なぜこんなことになったのか。その理由は何よりも、シリアの政府=アサド政権が、航空機と戦車をはじめ軍の兵器を総動員して、国民を攻撃し、大量に殺害するからだ。
シリアでは、一部にスンニ派、シーア派のどちらかの宗派の住民だけが集まった集落があり、都市でもそういう地区があるが、全体としては様々な宗派の住民が集まって暮らしてきた。反乱が拡がり、市や町、農村の集落が、あるいはアレッポ(人口306万人)、ホムス(265万人)などの都市では一部の地区が反政府勢力の支配下に入ると、政府軍はその全域を航空機で爆撃し、戦車や野砲で砲撃する。だから、反政府武装勢力の戦闘員だけでなく、すべての住民が、女も男も、子供も大人も、イスラム教徒もキリスト教徒も、区別なしに犠牲になる。しかも、いつ自分の住む町や村が、反政府勢力の支配下になり、あるいはそれを疑われて政府軍の無差別攻撃を受けるのかわからない。おそらく首都ダマスカスの中心部以外では、安全な人は誰もいない。このため、これだけ多くの人々が、国外に逃れる。
▽現政権の異常性
父親の故ハフェズ・アサドは1970年に無血クーデターで政権を握って以来、軍と警察を強化、支配を固め、2000年に死去するまで、独裁政権を維持した、その間、イスラエルと2回戦争、イスラエルにゴラン高原を奪われたが、政権は揺るがなかった。与党バース党と軍、治安警察の首脳部を、自らの親族と出身のアラウィ派で固めたことが、長期政権の公然とした秘密だった。その一方で、シリア人の宗派はスンニ派が70%、アラウィ派(シーア派の分派)が12%、アサド政権は常に少数派としての不安を異常なまでに抱いていた。1982年、ハマでスンニ派のムスリム同胞団が、市政を支配し、政権に反旗を翻すと、軍を大動員して市を包囲攻撃、数万人の市民を虐殺したのもアサド政権の不安の表れだった。ハフェズ・アサドの死後、政権首脳部は、ロンドンで眼科医をしていた長男のバシャールを呼び戻し後継者に据えた。父親は独裁者として君臨する実力を持っていたが、息子にはそのような特質はなく、父親が残した政権首脳部、とりわけハフェズ以上に残虐のことをやった”実績“もある親族たちと調整し、政権を維持することになった。だが、それが、「アラブの春」で高まった民主化運動に対し、大統領が政権内部の強硬派に引きずられ、ときには自ら号令をかけて、過酷な弾圧そして内戦へと国を陥れることになった。
▽シリアはとてもいい国だった!
ベイルート特派員時代、シリアには毎月行った。記者証のチェックと情報省に顔を出していないと、いざというときに、入国すらできない恐れがあるからだった。全国を車でほとんど回った。シリアは、古代ギリシャ・ローマ以来の遺跡が豊富で、そのまま現代の都市に残り、人々の生活の場になっているところも多い。首都ダマスカスも第2の都市アレッポもそうだ。西に地中海とアンチ・レバノン山脈、東は中央アジアへの続く乾燥地帯、その中央が緑多い農業地帯で、美しい国だ。5年前までカイロに2年8か月ほど暮らしていたときには、何度もレバノンに行き、シリア人を含む友人たちに、シリアのことを聞いた。
親しくなったシリア人たちー支局のお手伝いさん、ジャーナリスト、ダマスカスのスーク(市場)の商店のおやじ、ホテルの従業員そしてパルミラの小さな博物館の館長さん・・・。
やさしく、実直ないい人たちだった。秘密警察がうごめく暗さがいつも付きまとったが、シリアは大好きだった。いま、多くのシリア人たちが、命の危険にさらされ、住む町と家を破壊され、国外に脱出している。その責任はアサド政権が負わねばならない。(了)
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