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麻生太郎・副総理兼財務相は、政治家としては落第でも、ニュース解説をやらせたら、なかなかの名解説者になっていたのではあるまいか。というのは、ヒットラーのナチス政権という格好の比喩を使って、安倍政権がこれからやろうとしていることを、国民の気がつかなかったことまで含めて鮮やかに浮かび上がらせてくれたからだ。私がなぜそんな皮肉な見方をしたか、その理由を語る前に、麻生氏の発言の内容を再録しておきたい。各紙の報じたところによると、麻生氏の発言の要旨は以下のようなものだった。「護憲、護憲と叫んでいたら平和が来るなんて思っていたら大間違いだ。改憲は単なる手段だ。狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。ヒットラーは民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って出てきた。ワイマール憲法という当時ヨーロッパで最も進んだ憲法下にあってヒットラーが出てきた。常に憲法が良くても、そういったことはありうる。私どもは、憲法は改正すべきだとずっと言い続けているが、わーとした中でやってほしくない。ワイマール憲法もある日気づいたらナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」
もし欧米で閣僚がこのような発言をしたら、最低でも辞任はまぬがれないだろうが、政治家の失言に甘い日本では、麻生氏の発言撤回だけで、謝罪もなしで済まそうとしている。こんなことでいいのだろうか。
ところで、麻生発言の責任追及は別の問題として、「改憲は狂騒の中でやるな。ナチスの手口に学んで国民の気づかないようにやれ」という麻生発言が、なぜうまい解説かといえば、安倍政権がいままさにやろうとしていることを先取りして解説しているようにみえるからだ。
安倍首相が熱烈な改憲論者であることはよく知られている。6年前の第1次安倍政権でも国民投票法を制定するなど改憲に向けて一直線に進もうとして途中で挫折し、今度の第2次政権では、一番変えたい9条は後回しにして、改憲手続きの96条(国会議員の3分の2による発議を2分の1に変える)から着手することを思い立ち、参院選の公約に掲げようとしたのである。
ところが、それに対して改憲派の憲法学者からも「まるで裏口入学だ」と激しい批判を浴び、途中からあまり言わなくなった。憲法を改定しようとしたら、国会議員の3分の2以上の発議というハードルもあれば、国民投票という関門もある。どうしても大騒ぎにならざるを得ないのだ。
そこでいま、安倍政権が秘かにやろうとしていることは、憲法を改定しないで、憲法解釈を変えてやりたいことをできるようにしようという方法だ。集団的自衛権の行使という問題である。日本政府は戦後一貫して「集団的自衛権は権利としてもってはいても、憲法9条のもとでは行使はできない」という統一見解を堅持してきた。「行使したければ憲法を変えるほかない」というのが法律の番人、内閣法制局の一貫した見解だったのである。
安倍政権は、まずこの内閣法制局長官の人事から着手することにしたようだ。麻生発言の3日後に、内閣法制局長官に集団的自衛権の行使を認めるべきだと主張している小松一郎・駐仏大使を任命する人事を、改憲派の新聞(読売と産経)にリークし、両紙が1面トップででかでかと報じたのである。これまで内閣法制局長官は、法制局に勤務した人の中から選ばれていたのに、まったく勤務経験のない外務省関係者に代えようというのだ。
ヒットラーは、ワイマール憲法をナチス憲法に変えたのではなく、変えずに全権委任法をつくって憲法違反のことまでやりたい放題にやったわけだが、まさにその手口に学ぼうとしているかのようだ。
集団的自衛権の行使とは、同盟国が攻撃されたとき自国への攻撃とみなして反撃することであり、日本の同盟国は米国だから、米国の戦争に自衛隊の参戦を要請されるということである。イラク戦争にも自衛隊の派遣が要請されたが、集団的自衛権の行使は認められないと、復興支援という形にして、かろうじて戦闘に巻き込まれることはまぬがれた。
ベトナム戦争には自衛隊の派遣要請はなかったが、集団的自衛権の行使を認めている韓国は米国の要請に応じて31万人を派兵し、1万2千人が死傷している。韓国兵がベトナム人を何人死傷させたかは分かっていない。
改憲もせずに集団的自衛権の行使を認めるように憲法解釈を変えるということは、こういうことが日本の自衛隊にも起こるということである。麻生氏の名解説? で浮かび上がらせてくれた安倍政権の狙いに、国民はしっかりと目を光らせていく必要がある。
ナチス発言に感度が鈍かった日本のメディア
ところで、この麻生氏のナチス発言をメディアはどう報じたのか。麻生発言が日本で大騒ぎとなり、麻生氏が発言を取り消したのは、発言の3日後のことであり、米国のユダヤ人人権団体や韓国、中国の外務省など外国から批判の声があがったあとなのだ。その意味では、日本のメディアの感度は極めて鈍かったといわざるを得ない。
まず麻生発言のあった翌日の紙面で報じた新聞は、私の調べたところ読売新聞と日経新聞だけだった。いずれも見落としてしまうような小さなベタ記事で、産経新聞も麻生発言を載せてはいるもののナチスの部分がまったくないのだ。そのほか、共同通信もその日の深夜に配信したようだが、いずれにせよ、これらの新聞社や通信社に言えることは、記者が現場にいたのに感度が鈍く、問題意識の乏しい報道となったことである。
東京新聞は翌々日、朝日新聞や毎日新聞は翌々々日、そして3日後に麻生氏が発言を撤回して、読売新聞や産経新聞もあらためて報じなおしたのである。
遅れたとはいえ、朝日新聞の報道は問題点を最も丁寧に捉えて報じていたようにみえたのだが、あとになって発言の現場に朝日新聞の記者もいたのだと知って仰天した。「ナチスに学べ」という発言を聞いて「これは問題だ」と感じない記者がいるとは、信じられなかったからだ。
そこで、思い出したのは1996年に朝日新聞であった「花田事件」である。文藝春秋社の雑誌『マルコポーロ』が「ナチの『ガス室』はなかった」という記事を載せて世界中から批判を浴び、雑誌は廃刊、編集長の花田紀凱氏は謹慎処分になっていたのを、朝日新聞社が創刊する女性誌の編集長にわざわざ招いたのである。
この事実が明るみに出ると、読者や社内から批判の声が沸きあがった。「朝日新聞はいつから歴史観を変えたのか」「政治家の歴史認識に厳しい姿勢を示してきた朝日がなぜ」「『マルコポーロ』でやったことを朝日がやったら当然クビではないのか」といった声が渦巻いたのである。
しかし、朝日新聞社はこうした批判を無視してこの人事を強行したが、結果は大失敗に終わった。新女性誌は10億円の赤字を残して1年半後に廃刊。赤字だけでなく朝日新聞の信頼感にも大きな傷跡を残した事件なのに、誰一人責任も取らず「あれはまずかった」という総括さえされていないのだ。朝日新聞の「劣化」はあれから始まったという人も少なくない事件なのである。
この事件と今回の感度の鈍さとはまったく関係のないことだが、同じナチスということでそんな古傷までうずいてくるのである。
麻生発言に対するメディアの感度は鈍かったが、その2週間後、8月13日の東京新聞が1面トップで報じた集団的自衛権に絡む記事は鋭いフォローだった。航空自衛隊のF15戦闘機の編隊が、米戦略爆撃機B52の爆撃援護訓練に参加していたことは、専守防衛の範囲を逸脱し、集団的自衛権の行使の先取りではないか、というものだ。
航空幕僚監部広報室は「そんな事実はない」と否定しているが、参加した隊員の体験記が航空自衛隊の部内誌に載っている、と指摘した見事な特ダネだった。東京新聞の最近の活躍ぶりには目を見張るものがある。
原爆忌、終戦の日に見せた安倍首相の歴史認識と核意識
このほか8月は、ヒロシマ・ナガサキの原爆忌、15日の終戦の日と過去の戦争と向き合う記念行事が続いたが、そのすべてに出席した安倍首相の式辞が、今年はひときわ物議をかもした。
まず原爆忌に対しては、それ以前に安倍政権が日本の国是に反する政策をとったことに厳しい批判の声があがったのに、まったくそれに応えなかったことだ。一つは今年4月、ジュネーブで開かれたNPT再検討会議で核兵器の非人道性を訴える共同声明に80カ国が賛同しているのに日本は署名しなかったこと。もう一つは、NPTに加盟せず核兵器の所有国になっているインドと原子力協定を結ぼうとしていることだ。
松井一実・広島市長は6日の原爆忌の平和宣言で「インドとの原子力協定は、核兵器廃絶の障害となるかもしれない」と指摘し、田上富久・長崎市長は9日の平和宣言で「『人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない』という言葉が受け入れられないというのでは、被曝国としての原点に反する」と厳しく追及したのに対して、安倍首相の式辞は通り一遍で何の釈明もなかったのだ。
また、15日の終戦の日の式辞では、歴代の首相が触れてきたアジア諸国に対する加害責任や不戦の誓いが、今年はまったくなかったのである。それでなくとも韓国や中国との間がギクシャクしているときに、わざわざそういう言葉をはずした式辞を述べるとは、どういう意図があるのだろうか。
それに対するメディアの批判も手ぬるいと感じるのは私だけではあるまい。安倍首相のもつ歴史認識や核意識に同調するメディアがあっても一向にかまわないが、今年の式辞は例年と違ったという事実まで報じないメディアがあることは、どうしたものであろう。
8月のニュースでさらに付言すると、原爆の悲惨さを描いたマンガ、中沢啓治氏の『はだしのゲン』が、松江市教育委員会の判断で小中学校の生徒たちが勝手に見られないようにする措置がとられたことが話題を呼んだ。
最近出版されたものでもないのに、なぜ、いまごろ急に、そんな措置がとられたのか。市民からの抗議があったからとのことだが、安倍首相の歴史認識に擦り寄ったのではあるまいか。戦争体験者が少なくなったなかで、教育現場での戦争の実体を学ぶことの重要さがますます大事になるときだけに、このような動きにはメディアもしっかりと目を光らせていたいものだ。
http://www.magazine9.jp/article/shibata/7688/
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