http://www.asyura2.com/13/senkyo153/msg/146.html
Tweet |
松江市教育委員会が、原爆の悲惨さを描いた漫画「はだしのゲン」を、子供が自由に閲覧できない「閉架」の措置を取るよう市内の全市立小中学校に求めていた。 この出来事は、昨年、「はだしのゲン」は「間違った歴史認識を植え付ける」として学校図書室からの撤去を求める陳情が市議会に出されたが、市は年末に不採択を決めた。だが、当時の教育長が「一部に過激な描写がある」として、図書室での「閉架」の措置をとるよう要請し、それに応じた学校が広がり、問題が発覚した。前任の教育長は教育委員の意見をとりまとめたわけではなく、独自に事務局を動かし各校に要請していた。
(JCJふらっしゅ「Y記者のニュースの検証」=小鷲順造)
朝日新聞によると21日、下村博文文部科学相は、漫画「はだしのゲン」を学校で閲覧制限した松江市教育委員会の対応について、「特段の問題はない」と述べた。漫画の内容について「教育上好ましくないと考える人が出るのはあり得る」とも話した。下村氏は、「子どもの理解力に委ねるべきだ」という意見があることについて、「その通りだと思うが、相当露骨なもの、子どもの発達段階においていかがなものか、という作品を(学校図書館に)入れてはいけない。教育上の配慮は要る」と答えている。また、菅義偉官房長官も同日、「教委の判断で学校に指示することは通常の権限の範囲内だ」と述べている。
こうした政府の姿勢について、信濃毎日新聞は24日付の社説に<はだしのゲン 拝啓 下村文科相様>を立てて、下村文科相に対しあらためて厳しく認識を問うた。
――松江市教委が過激だと指摘したのは、旧日本軍がアジアで人の首をはねたり、女性を乱暴したりする場面です。後半、主人公の中岡元(げん)が中学の卒業式で「三光作戦」の残酷さを訴えるところです。三光作戦は旧日本軍が中国で行った抗日ゲリラの粛正作戦です。三光とは「殺し尽くす、奪い尽くす、焼き尽くす」という中国側の言い方で、非戦闘員の住民に対する虐殺や略奪などを指します。多くの証言があり、日中両国の有識者による歴史共同研究委員会の報告書でも認められた史実です。
――「正しく理解できない」とは、どういう意味で言っておられるのでしょうか。歴史教育を見直す持論によるものですか。 ――実話に基づくこの物語は、大人でも泣きます。主人公の生き方は子どもたちに勇気も与えます。多くの人に支持され、単行本や絵本など累計出版部数は1千万部以上になりました。広島県内では被爆の惨状を伝える“教科書”として読み継がれてきました。今回、松江と同様に学校図書館からの撤去を求める男性の要請を受けた高知県教委は「小学生の推薦図書に指定している」と断りました。
人気漫画家の倉田真由美さんは「これほど戦争や原爆の怖さ、悲惨さを伝える本はない。これからも子どもたちに絶対読んでほしい」と語っています。こんなに評価の高い漫画を子どもたちが自由に読めないなんて悲しいことではありませんか。
――図書館を所管する文科省の大臣として、もう一つ読んでいただきたいものがあります。約2300の公立や学校の図書館が加盟する日本図書館協会の「図書館の自由に関する宣言」(1954年採択)です。かつて、図書館が国民の知る自由を保障しなかった時代があったとの反省に立って、「すべての図書館資料は、原則として国民の自由な利用に供されるべきである」と掲げています。
下村文科相の「閲覧制限、問題ない」発言については、読売新聞が25日付社説<「はだしのゲン」 教育上の配慮をどう考えるか>で、擁護を試みている。同紙の社説は、松江市教育委員会のよる市立小中学校への閲覧制限の要請について、以下のように記している。
1)市民が広く利用する一般の公立図書館で蔵書の閲覧を制限することは許されないが、松江市教委は生々しい原爆被害の場面ではなく、旧日本軍にかかわるアジアの人の首を面白半分に切り落とす、妊婦の腹を切り裂いて中の赤ん坊を引っ張り出す、女性を惨殺する、といった描写の一部を、過激で不適切と判断したものであり、成長過程の子供が本に親しむ小中学校図書館の性格を考えて市教委がとった措置と、市教委の措置を擁護する。
2)作品が子供に与える影響を考える必要がある。心身の発達段階に応じた細かな対応が求められるケースもあるだろうから、小中学校図書館を一般図書館と同列に論じることは適切ではあるまい。下村文部科学相が「市教委の判断は一つの考え方。教育上の配慮はするべきだと思う」と述べたことはもっともである。
3)「はだしのゲン」は、連載当初は、広島の被爆シーンがリアルすぎるとの批判もあったが、そうした描写こそが原爆の惨禍の実相を伝えてきた。被爆者の高齢化が進み、戦争体験の継承が大きな課題になっている中、「はだしのゲン」が貴重な作品であるのは間違いないが、一方で、作品の終盤では、「天皇陛下のためだという名目で日本軍は中国、朝鮮、アジアの各国で約3000万人以上の人を残酷に殺してきた」といった根拠に乏しい、特定の政治的立場にも通じる主張が出てくる。
4)松江市のケースは、学びの場で児童生徒が様々な作品に接する際、表現の自由を尊重しつつ、同時に教育上の影響にも学校側がどこまで配慮すべきかという問題を、投げかけている。
この読売新聞の社説は、文科相などの「閲覧制限」を容認・擁護した発言をフォローし、松江市市教委の独りよがりな対応を擁護するために巧妙に論点をずらして書かれた社説としか読めない。そうでないとするならば、同紙のジャーナリズムの基礎を疑わねばならなくなる。信濃毎日新聞が下村文科相に問いかけた内容は、そのまま読売新聞の社説の認識を問うものともなっている。
▽「閉架撤回」求める署名サイトに2万名を超える賛同者
毎日新聞によると22日、5人の市教育委員による定例会議が松江市役所であった。閲覧制限を求めるこの件は、当時の教育長(教育委員)と事務局が<独自に判断>していたことがわかった。事務局が経緯を初めて説明した。また、事務局は、問題発覚後、全49小中学校長を対象に実施したアンケート結果も報告した。全校に改めて意見を聞いたところ、「閉架の必要性はない」が16校、「再検討すべきだ」が8校、「必要性はあり」が5校、「その他・記載なし」が20校だったという。
「閲覧制限」を継続するかどうかは、26日の次回会議でさらに検討する、としている。
朝日新聞によると22日の教育委員会会議を、市民ら約20人が傍聴席で見守った。堺市から駆けつけた学童保育指導員の樋口徹さん(55)は、自身が呼びかけたネット署名が約1万9千人に達したことを、松江市教委事務局に報告した。
21日正午までに市にメールや電話などで寄せられた意見は1914件。賛成が357件、反対が1446件、どちらとも言えないものが111件で、大半が抗議する内容だった。
なお「子どもたちが自由に読めるように戻してほしい」署名サイトへの賛同者の数は、25日昼現在、2万1000名を超えている。
▽「はだしのゲン」閉架措置を擁護するコラムのずさんな中身
産経新聞は24日の[産経抄]で、以下のように書いて、「はだしのゲン」の閉架措置を擁護した。その粗雑な書きぶりから、擁護したいのは松江市と高知市の小中学校から「はだしのゲン」を撤去するよう求める陳情や申し入れを行った「市民」とされている政治活動家たちのようにも思えてくる。
1)漫画「はだしのゲン」をいくつかの新聞は、「貴重な作品」と評していてびっくりした。たぶん辞書を引くのをお忘れになったのだろう。
2)ゲンが全国津々浦々の学校に置かれるようになったのはなぜか。ジャンプで連載が打ち切られると、ゲンは、日本共産党系雑誌に、そこも打ち切られると日教組系雑誌に掲載された。根拠のない日本軍の“蛮行”や昭和天皇への呪詛がてんこ盛りになったのもこのころである。
3)親の知らぬ間に、「平和教育」の美名の下に教師たちが、グロテスクな「反天皇制」漫画を喜々として図書室や教室に置いていったこと自体がおかしい。松江市教育委員会は、教師の許可を得てから閲覧させるよう市立小中学校に指示したが、当たり前で遅すぎるくらいである。
さらにこの記事には、下記のような表現もある。
4)少年ジャンプで連載が開始された当時、抄子は、なけなしの小遣いをはたいてジャンプを毎週買っていたが、「ど根性ガエル」は覚えていてもこの作品は、ほとんど記憶がない。同誌名物の読者アンケートでも下位を低迷していた。
5)同じ作者の手による「反原爆」漫画でも、大阪万博の年に発表された「ある日突然に」の方が、被爆2世とその父の哀切を描いて完成度が高かった。
6)同時代にジャンプでヒットした永井豪の「ハレンチ学園」は、ついぞ小学校の図書館に置かれなかったが、誰も言論抑圧とは言わなかった。ふだんは漫画を下に見ているのに、ゲンだけを特別扱いにする教師や新聞には、何か別の意図があると疑ってかかった方がいい。
これらのどこから、「閲覧制限」を正当化する理由を見出せというのだろうか。いや、そもそも書き手自身の漫画体験と作品比較でしかなく、何も語っていないに等しい。これを新聞のコラムとして読むことに違和感を覚えるのは私ばかりではないだろう。
なお同紙は、社説に当たる「主張」で、「秘密保全法案 言論に配慮し情報管理を」(13日)、「教科書採択 神奈川の判断を広げたい」(18日)、「集団的自衛権 首相は惑わず行使容認を」(20日)などを掲げている。最近の論調でも、戦争や軍備増強や原発や統制に反対し、自由や平和を唱える者たちを一からげに「左翼」と呼んでこきおろそうとする傾向があるようにも感じている。そのターゲットとされた人が、自分が「左翼」と決め付けられることに狼狽し、自分の主張や立ち居地を見直したり同紙の論調に迎合してずらしたりすることを期待してのことなのであろうか。
▽全国各紙が社説で「はだしのゲン 閲覧制限」を批判
この件については、全国各紙が社説で取り上げ、問題を多種多様に掘り下げた。私が読むことのできたものについて、以下、ざっとみていくことにしたい。
北海道新聞は25日付で「はだしのゲン 閲覧制限は権利侵害だ」を掲げた。
1)漫画「はだしのゲン」を子どもたちが自由に閲覧できなくするよう、松江市教委が小中学校に指示していた。戦争の実態を知り、平和の尊さを考えるための機会を奪う行為だ。「学習権」「知る権利」の侵害は明らかである。断じて容認できない。市教委は直ちに制限を解くべきだ。
2)松江市教委の対応について下村博文文部科学相は「違法ではなく、問題ない」と発言した。見識を疑わざるを得ない。
3)教育行政の権限を事務方の責任者である教育長に集中させる方向で検討が進んでいるとされるが、今回の事態が独断専行の恐ろしさを露呈したといえる。熟慮が必要だ。一連の運動が制限につながったのであれば、当時の教育長らの歴史認識も問われてしかるべきだ。
4)撤回の可否は22日の教育委員会で結論が出ず、26日に持ち越された。次回協議に制限の撤回と、意思決定過程の究明を強く求める。
はだしのゲン 閲覧制限は権利侵害だ(北海道新聞25日)
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/editorial/487581.html
新潟日報は25日付で「はだしのゲン 子らの目覆ってはならぬ」を掲げた。
1)たとえ目をそらしたいと思っても、まなこを開き見つめねばならないことがある。戦争も、その一つだ。委が指摘するように、作品に過激と思われる描写があるのが事実だとしても、それが戦争や原爆の悲惨な現実である。
2)子どもたちの目を覆い、現実から遠ざけることが教育の名に値するのだろうか。教委は措置を再検討し、本を子どもらの手に戻すべきだ。
3)原爆と戦争を憎みながらたくましく生き抜く少年ゲンの物語は教材にも使われ広く読み継がれている。原爆投下国である米国をはじめ世界各地の20言語に訳されている。連載開始40年に当たる今年は、核開発が問題視されているイランでも翻訳出版されるなど国際的評価も定着しつつある。
4)閲覧制限は当時の教育長が教育委員の意見を求めず、独自に判断したものだった。文部科学相は「教員と一緒に学習しようとの考えだと聞いている」とその判断を容認する考えを示した。歴史認識にはさまざまな意見があるのは事実だ。だが、文科省がそうした多様な意見について学ぶ機会を教育現場で持つよう、積極的に指導しているという話は聞いたことがない。
5)教委が行ったアンケートで大半の校長が「戦争の悲惨さが伝わる作品」と高評価し、閲覧制限が必要と答えた校長が一人だけだった。
6)教育現場の責任者が自らの判断、良心を脇に置き、上からの命令に従う社会が何を生むか。その怖さを私たちは知っているはずだ。
はだしのゲン 子らの目覆ってはならぬ(新潟日報25日)
http://www.niigata-nippo.co.jp/opinion/editorial/
朝日新聞は20日付で「はだしのゲン―閲覧制限はすぐ撤回を」を掲載した。
1)学校図書館で読める数少ない漫画として「ゲン」を手に取り、初めて原爆に関心を持った子どもも少なくない。市教委の指示は、子どもたちのそうした出会いを奪いかねないものだ。
2)重要な決定の場合、公開の教育委員会議にかけるべきだが、今回は事務局の判断で決まっており、不透明というしかない。市教委はただちに指示を撤回すべきだ。
3)「ゲン」には連載当時から「残酷」という声が寄せられ、中沢さんも描き方に悩んだと述懐している。旧軍の行為や昭和天皇の戦争責任を厳しく糾弾している点から、「偏向している」「反日漫画だ」といった批判も保守層の間で根強い。それでも、「ゲン」が高い評価を得たのは、自身が目の当たりにした戦争の残酷さを力いっぱい描くことで、「二度と戦争を起こしてはならない」と伝えようとした中沢さんの思いに子どもたちが共感したからだ。
4)旧日本軍の行為や天皇の戦争責任をめぐっては今もさまざまな見方があり、「ゲン」に投影された中沢さんの歴史観にも議論はありえるだろう。それこそ、「ゲン」を題材に、子どもと大人が意見を交わし、一緒に考えていけばいい。最初から目をそらす必要はどこにもない。
はだしのゲン―閲覧制限はすぐ撤回を(朝日新聞20日)
http://digital.asahi.com/articles/TKY201308190454.html
毎日新聞も20日付で「はだしのゲン 戦争知る貴重な作品だ」を掲げた。
1)原爆や戦争を教育現場で学び、その悲惨さを知る機会を子供たちから奪うことになるのではないか。措置が先週明らかになると、市教委に全国から抗議や苦情が多数寄せられた。現場の教員からも、子供の知る権利の侵害だという批判が相次いでいる。
2)戦争の恐ろしさを知り、平和の尊さを学ぶことは教育の中でも非常に重要な要素だ。平和教育を推進すべき教育委員会がそれを閉ざす対応をとったことには問題があり、撤回すべきだ。また、今回の措置は教育委員が出席する会議には報告していないというが、学校現場の校長らも含めてしっかり議論すべきだろう。
3)「はだしのゲン」は、戦争が人間性を奪う恐ろしさを描いた貴重な作品として高い評価を得てきた。約20カ国語に翻訳され、原爆被害の実相を広く世界に伝えている。松江市教委も、作品が平和教育の重要な教材であること自体は認め、教員の指導で授業に使うことに問題はないと説明している。
4)作品に残酷な描写があるのは、戦争や原爆そのものが残酷であり、それを表現しているからだ。行き過ぎた規制は表現の自由を侵す恐れがあるだけでなく、子供たちが考える機会を奪うことにもなる。今回のような規制が前例となってはならない。
社説:はだしのゲン 戦争知る貴重な作品だ(毎日新聞20日)
http://mainichi.jp/opinion/news/20130820k0000m070105000c.html
東京新聞は21日付で「はだしのゲン 彼に平和を教わった」を掲載した。
1)漫画「はだしのゲン」。英語、ロシア語、クロアチア語など世界約二十カ国語に翻訳されている。世界中の子どもたちが彼に平和を学んでいる。それを図書館で自由に読めないようにした大人。ちょっと情けなくないか。
2)書物を出すのに政府の許可が必要なイランでも、ことし五月にペルシャ語訳が出版された。原爆を投下した米国でも、全米約三千の図書館に所蔵され、韓国では全十巻三万セットを売り上げるベストセラーになっている。
3)「はだしのゲン」は、漫画やアニメが日本文化の代表として、世界でもてはやされる以前から学級文庫に並んでいた。今月五日、広島原爆忌の前夜には、市民グループの手によって、原爆ドームの足元を流れる元安川の川面に、作者の中沢啓治さんとゲンの姿が映し出された。
4)松江市教委が問題視したような残虐とも思える描写も確かにある。しかし、子どもたちは、それも踏まえて物語を貫く平和への願いや希望を感じ取り、自分の頭で考えながら、ゲンと一緒にたくましく成長を遂げている。表現の自由や図書館の自由宣言をわざわざ持ち出すまでもない。
5)大人たちがやるべきなのは、目隠しをすることではない。子どもたちに機会を与え、ともに考えたり、話し合ったりしながら、その成長を見守ることではないか。
はだしのゲン 彼に平和を教わった(東京新聞21日)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013082102000169.html
神奈川新聞は22日付で「文化の海外展開」を掲載した。
1)漫画「はだしのゲン」は多くの読者に衝撃を与えた。核兵器がもたらす悲劇がリアルに描かれ、目を背けたくなるような場面もあるが、連載されたのは少年誌だった。戦争の真実を後世に伝えようという編集者の気概が伝わってくる。
2)多言語に翻訳され、各国で読者が増えているという。この作品の広がりは、核兵器の拡散を阻止する市民レベルの活動にもつながる。翻訳に携わったのは金沢市のボランティアグループ。草の根の文化が社会を変えうる力となることを示す一端だ。
3)近隣の国々と歴史認識をめぐって摩擦が絶えない中で、文化を通して日本への理解を深めてもらう好機といえないか。たとえば原爆の悲劇は、まだ他国にきちんと伝わっていない。「はだしのゲン」を読んだ人の多くは、亡くなった人たちや被爆者の苦しみに素直に共鳴するだろう。
4)日本は世界に誇れる独自の文化を数多く持っている。その一つ一つが日本の良さを広く、クール(格好よく)に世界に知ってもらうこの上ない武器となろう。経済効果はすぐには期待できない。何がヒットするかは予測し難い世界だ。しかしアニメや漫画はもちろん、漆器や伝統舞踊などにも魅せられ、日本を訪れる外国人は増えている。こうした個々のつながりはやがて大きな流れとなり、日本を発展させる原動力となるに違いない。
文化の海外展開(神奈川新聞22日)
http://news.kanaloco.jp/editorial/article/1308220001/
信濃毎日新聞は21日付で「はだしのゲン 子どもに目隠しするな」を掲載した(24日には前述した「はだしのゲン 拝啓 下村文科相様」を掲載した)。
1)漫画「はだしのゲン」の作者は、「はだしのゲンはヒロシマを忘れない」(岩波ブックレット)の中で、「ぼくは、若い世代に期待しているんです。だから若い世代、子どもたちに語りかけていって、戦争と原爆の実態をしっかり教え込んでいくことでしか、日本は本当に平和を守れないのではないか―」と書いている。多くの人に支持され、累計出版部数が1千万部を超える。英語をはじめ約20の言語に翻訳もされている。 2)戦争は残酷で非人間的だ。そこから目を背けるばかりでは実態は伝わりにくい。松江市や鳥取市の措置は、中沢さんら被爆者の願いを踏みにじるだけでなく、表現の自由や知る権利に関わる重大な問題だ。見過ごすことはできない。閲覧制限を撤回すべきだ。
3)松江市のケースは制限の決定過程が不透明という問題もある。作品の歴史認識をめぐって市民が学校の図書館から撤去を求める陳情をした。市議会は不採択とした。にもかかわらず市教委は、議会で「大変過激な文章や絵がこの漫画を占めている」という意見が出たとの理由で、校長会に学校での閉架を要請した。しかも、このような重要な判断を教育委員に諮らず、当時の教育長ら事務局だけで決めている。合議の教育委員会制度を軽視するものだ。
4)子どもの感性をもっと信じてほしい。中沢さんは「―忘れない」で、こんなエピソードを紹介している。「ゲン」を読んだ子どもが「こわい」と泣き、夜トイレに行けなくなった―と親から抗議の手紙が来た。それにこう返信した。「あなたのお子さんは立派です。トイレにいくのをこわがるぐらいに感じてくれた。…褒めてやってください」
はだしのゲン 子どもに目隠しするな(信濃毎日新聞21日)
http://www.shinmai.co.jp/news/20130821/KT130820ETI090007000.php
はだしのゲン 拝啓 下村文科相様(信濃毎日新聞24日)
http://www.shinmai.co.jp/news/20130824/KT130823ETI090017000.php
京都新聞は24日、「はだしのゲン 閲覧制限すべきでない」を掲載した。
1)一部の残酷な表現が子どもに与える影響を配慮したというが、自由に手に取り、作品を入り口に原爆や戦争について考える機会を奪うべきでない。 2)「はだしのゲン」は原爆で家族を失い、自らも被爆した故中沢啓治さんが描いたフィクションだ。投下直後の広島をさまよう人々の姿や川に浮かぶ遺体の描写は、体験者にしか描けない生々しさにあふれる。連載当時にも「気持ちが悪い」という声があった。中沢さんは「読んでもらうために残酷さを薄めた。でも本当はもっともっと…」(「はだしのゲンはヒロシマを忘れない」岩波書店)と、原爆の実相を伝えようとしつつも表現には悩み抜いたという。
3)漫画は、孤児になったゲンが被爆者への差別と闘いながら生きる姿も描く。この中で、中沢さんの目を通した日中戦争や沖縄戦、アジア諸国への加害責任など歴史認識が表現されているのも特徴だ。ゲンの描写は時に目を背けたくなるが、それは戦争や核兵器による被害が悲惨で残酷だからだ。読むか読まないかは子どもの選択に任せたい。その上で大人は、他の材料の提供や補足説明を通し、衝撃を受けた子どもに寄り添い、深い学びへと導くことが大切だ。
4)問題としたのは一部の箇所なのに松江市教委が全巻を撤去させた措置も乱暴だ。教育委員に諮ることなく決めた経緯も疑問が残る。下村博文文部科学相が松江市教委を擁護する発言をしたが、戦争の悲惨さを伝える作品の役割を理解しているのだろうか。
5)閲覧制限に関して、多くの教育現場や市民が「必要ない」としているのは当然だろう。松江市でも自由に読める環境に作品が戻り、子どもと出合うことを願う。
はだしのゲン 閲覧制限すべきでない(京都新聞24日)
http://www.kyoto-np.jp/info/syasetsu/20130824_2.html
中国新聞は23日付で<「はだしのゲン」閲覧制限 戦争から目を背けるな>を掲げた。
1)国内外にメッセージを送り続ける不朽の名作ゆえだろう。漫画「はだしのゲン」を小中学校の図書館で自由に手に取らせないよう求めた松江市教委への批判が全国に広がっている。どんな理由を付けたとしても、原爆の悲惨さを子どもたちに伝えることに後ろ向きだとみられても仕方あるまい。早急に撤回すべきである。
2)作品の意義を見つめ直したい。多くの国民が「ゲン」を通じて核兵器の脅威を脳裏に刻んだはずだ。原爆被害の告発だけではない。戦時下の生活や戦後の混乱も庶民の視線で描き、戦争とは何かを問い掛けてきた。今やヒロシマの代名詞ともいえよう。その重みを考えれば、市教委側が並べた理屈は、あまりにも空虚に思える。
3)閲覧制限は歴史認識の問題ではなく、子どもの発達に影響を及ぼすためだとする言い分は説得力に欠ける。これまで普通に開架してきたはずだ。一部表現が衝撃的だったとしても、命の重みを考える「ゲン」の教育的な意味は変わるまい。そもそも戦争とは残酷極まりない。子どもへの配慮を口実に、そこから目を背ける発想があるとすれば見過ごせない。
4)いま若い世代は戦争被害を自分のものとして実感できなくなっている。一方で戦争の悲惨さに目をつぶり、正当化しようとする空気もある。だからこそ原爆や戦争の負の側面をしっかり子どもたちに教えるべきだ。もっと「ゲン」を読ませたい。広島市教委の取り組みを参考にしたい。本年度から独自のテキストに引用して平和教材として活用している。松江市はもちろん全国の学校も図書室に置くだけではなく、平和教育で「ゲン」をどう生かせるかを考えてはどうだろう。もし作品の表現が過激だと気にするのなら、教員がしっかり説明すればいい。
5)政府の姿勢も問われよう。下村博文文部科学相は松江市教委の対応をあっさり容認したが、第1次安倍政権の「ゲン外交」を知らないのだろうか。当時外相だった麻生太郎氏が自らの肝いりで英語版を各国政府に配って核軍縮をアピールした。いうなれば「国家公認」の作品であることも忘れてはならない。
「はだしのゲン」閲覧制限 戦争から目を背けるな(中国新聞23日)
http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/Sh201308230076.html
高知新聞は22日、<【はだしのゲン】納得できない閲覧制限>を掲載した。
1)漫画「はだしのゲン」を小中学校の図書室から撤去するよう求める陳情が、高知県・市の両議会にも提出されていたことが分かった。高知市議会が全会一致で不採択とするなど、議員からは批判の声が上がっている。県市の教育委員会も撤去はしない方針だ。「表現の自由」の重さを踏まえた当然の対応である。
2)松江市と本県の議会に陳情を提出したのは高知市の男性で、「間違った歴史認識を持った作者が執筆し」「特定の政治色の強いものだとうかがえる」としている。しかし、自らの考えと相いれないからといって、一方的に排除しようというのは戦前の検閲をほうふつとさせる。
3)原爆や戦争体験の風化が危ぶまれている時だからこそ、それを学ぶ機会を子どもから奪ってはならない。松江市議会も陳情を不採択としたが、同市教委は首をはねたり女性を乱暴したりする場面などが過激だとして閲覧制限を求めた。確かに漫画には残酷な描写もあるが、それは原爆や戦争の非人間性をそのまま表現しているからにほかならない。
4)「はだしのゲン」の累計部数は1千万部を超え、約20言語に翻訳もされるなど世界で読み継がれている。松江市教委が市内の小中学校長に実施したアンケートでも、多くが平和学習の教材として評価していた。にもかかわらず、教育委員にさえ諮らずに市教委事務局の独自判断で閲覧制限を決めている。不透明なやり方も問題と言わざるを得ない。
5)作者の故中沢啓治さんが本県の図書館を訪れた際、「はだしのゲンは本棚にいくら入れてもなくなる」と言われた。1巻を読んだ子が2巻目も読みたくて、それを秘密の場所に隠すからだ。表紙はぼろぼろになりベニヤ板で止めてあった。「作者冥利に尽きる」と著書に記している。「はだしのゲン」はそれほどまでに子どもの心に根を張っている。大人の勝手な判断で取り上げないよう松江市教委には再考を望みたい。
【はだしのゲン】納得できない閲覧制限(高知新聞22日)
http://203.139.202.230/?&nwSrl=306909&nwIW=1&nwVt=knd
愛媛新聞は24日付で<「はだしのゲン」 公による閲覧制限許されない>を掲げた。
1)「図書館は、権力の介入または社会的圧力に左右されることなく…国民の利用に供する」。現在約2300の公立や学校の図書館が加盟する日本図書館協会が、過去の「思想善導」の反省から、1954年に採択した「図書館の自由に関する宣言」だ。
2)国民の知る自由を保障するこの理念を、ないがしろにしたと言わざるを得ない事態が起きている。松江市教育委員会が漫画「はだしのゲン」の閲覧制限を市立小中学校に求めた問題である。公権力による、知る権利や表現の自由への干渉は断じて許されない。憲法違反の疑いも拭えない。松江市教委に要請の撤回を求めたい。
3)「はだしのゲン」は実体験を基に、原爆や戦争の悲惨さと、たくましく生き抜く少年を描く。40年前に連載が始まり、約20カ国語に翻訳され世界で読み継がれている「平和の語り部」だ。それがなぜ、いま突然に閲覧制限なのか。不可解だ。
4)市教委は全校長を対象にアンケートを実施。大半が作品を高評価したにもかかわらず市教委は学校に閲覧制限を求めた。しかも、教育長ら事務局が、重要事項に当たらないとして教育委員に諮らず独自判断した。この経緯は不透明で、到底納得できない。
5)市教委は過激な描写を問題とするが、むごい戦争の真実としっかり向き合い、考えることが必要だ。愛媛でも「はだしのゲン」をきっかけに戦争経験者や被爆者らと対話し、平和の尊さを学ぶ子どもたちがいる。ゲンと同じ目線の子どもだからこそ見えるものがある。戦争を知る人たちが少なくなった現代、平和を築く大事な機会を奪ってはならない。
「はだしのゲン」 公による閲覧制限許されない(愛媛新聞24日)
http://www.ehime-np.co.jp/rensai/shasetsu/ren017201308241363.html
西日本新聞は24日付で、<はだしのゲン 「事なかれ」では守れない>を掲載した。
1)「はだしのゲン」は、広島出身の中沢啓治さん(昨年12月に死去)が、自らの被爆体験を基に描いた漫画である。特に原爆投下直後の広島の惨状を描いた部分は、被爆の実相を伝える資料として評価が高い。全国の学校図書館に置かれ、平和教育の貴重な教材となってきた。
2)市教委は、閲覧制限の理由について、旧日本軍による斬首や女性への性的暴行のシーンを挙げ、「発育段階にある子どもにとって、一部の表現が適切かどうか疑問が残る」と説明している。しかし、閲覧制限の背景からは、「ゲン」に描かれた歴史観と、それに対する保守派からの批判、その矢面に立ってたじろぐ市教委−という構図が浮かぶ。
3)「ゲン」は、前半は少年漫画雑誌に連載されたが、後半は大人向けの教育誌などに連載された。後半では、日本軍の加害行為や昭和天皇の戦争責任など、国民の間で論議の分かれるテーマについても、より大胆に踏み込んでいる。保守派が批判するのは主にこうした部分だ。最近では、先の戦争での日本の加害責任など、歴史の負の部分に目を向けようという意見や作品表現に対し、一部の保守勢力からの攻撃が強まっている。「ゲン」についても、ネット上では「反日漫画」などと決め付ける声もある。
4)論議の分かれる点はあるにせよ、実体験に基づく「ゲン」の平和思想には、戦争を知らない世代にとって計り知れない重みがある。実際に、長年にわたり多くの子どもたちが「ゲン」を読んで育ってきた。閲覧制限しなければならないほどの弊害が出ていただろうか。
5)そもそも図書館とは、多種多様な思想や英知の宝庫であり、その最後の守り手でもある。そこから特定の思想を排除することは、図書館の存在意義を自ら否定する行為といえないだろうか。松江市教委は「ゲン」の取り扱いを再検討している。「ゲン」のケースに限らず、教委や図書館などの現場はさまざまな圧力や抗議にさらされることもあるだろう。しかし「事なかれ主義」で対応してしまえば大事なものが守れない。図書館の原点に立ち返って判断してほしい。
はだしのゲン 「事なかれ」では守れない(西日本新聞24日)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/syasetu/article/34998
琉球新報は22日付で「はだしのゲン 目隠しをして何になろう」を掲載した。
1)原爆や戦争のむごたらしさから子供たちを目隠しして何になろう。実相を学ぶ貴重な機会を子供たちから奪ってはならない。市教委は直ちに制限を撤回すべきだ。
2)1973年から12年間描き継がれ、学校や図書館に置かれるようになる。英語・ロシア語・ペルシャ語など20カ国語に翻訳され、世界にも広まった。作品の価値の高さゆえであろう。国境や世代を超えて読み継がれた名作を、当の、唯一の被爆国の子供たちが読めないとは、不条理そのものだ。
3)閲覧制限はある男性が松江市教委に送った陳情書がきっかけだ。日本軍が中国人の女性を殺す場面などを例に挙げて「偏ったイデオロギー」と非難し、学校からの撤去を求めている。同じ男性が高知でも同様の陳情書を送っており、各地に広げる狙いを持っているのは明らかだ。一部の人々からの抗議のメールや電話を受け、公的機関が当初の姿勢を撤回するのは、沖縄県が旧32軍壕の説明板から「慰安婦」「住民虐殺」の文言を削除した際の姿と、うり二つである。
4)ある考え方が気に入らないからといって作品そのものを閉め出すのは、ナチスの焚書と同質の行為ではないか。これを許せば、軍部に恐れをなし、徐々に自由な言論が奪われた戦前の繰り返しとなりかねない。
5)「はだしのゲン」は鳥取市立中央図書館も閲覧制限していたことが分かっている。日の丸掲揚・君が代斉唱の強要に注意を促す教科書について、各地の教育委員会が不採択を求めたことも想起される。この国の表現の自由、知る権利は危険な水域に入ったのではないか。言論封殺の進行はぜひとも食い止めなければならない。
はだしのゲン 目隠しをして何になろう(琉球新報22日)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-211401-storytopic-11.html
沖縄タイムスは23日付で<[はだしのゲン「閉架」]平和考える機会奪うな>を掲げた。
1)子どもたちが戦争の実相に触れ、平和を考える機会を、教育現場から奪うことになりかねない。市教委は「作品自体は高い価値があると思う」と認めつつも、暴力描写が過激だと問題視する。旧日本軍によるアジアの人々への残虐行為などだ。「教員のフォローが必要だ」と学校側に「閉架」措置を要請した。だが、教育委員の会議では諮られておらず、校長へのアンケートでも、制限が必要と答えたのは約1割の5人にとどまっていた。
2)作品には、確かに残酷な描写はある。だが、描かれた惨状は戦争そのものである。克明な描写には少年誌への連載当時も批判が寄せられた。しかし、作者の中沢さんは「現実から逃げるな」とはねつけたという。各教育委員には、この物語に込めた作者の信念、そして戦争のむごたらしさを子どもたちに伝えてきた役割を、いま一度、思い起こしてもらいたい。「閉架」要請は撤回すべきだ。子どもたちが、図書室で自由にこの作品を手に取る機会は保障してもらいたい。
3)下村博文文部科学相は「子どもの発達段階に応じた教育的配慮は必要」と松江市教委の判断に理解を示した。しかし、子どもたちは、たとえすぐに全てを理解できなくても、胸をえぐられるような感情を通し、本質をつかみ取る力を持っている。だからこそ世代を超えて読み継がれてきたのだ。一部の指摘をきっかけに、開かれた議論も十分ないまま自主規制に走る姿勢は疑問だ。
4)教育委員会が教育現場に介入する事例が相次いでいる。国旗掲揚と国歌斉唱に関し「一部自治体で公務員へ強制の動き」と言及した日本史教科書について、神奈川県教委は使用を希望した高校に再考を求めた。東京都教委なども「不適切」との見解を示した。これまで自由に読めていた蔵書に許可が必要になった。これまで現場が判断していた教科書選択で、見直しが求められた。なぜか。
5)安倍晋三首相は全国戦没者追悼式の式辞で、アジア諸国への反省と加害責任に触れなかった。安倍政権の歴史認識に象徴される「空気」が背景にないか、注視する必要がある。
社説[はだしのゲン「閉架」]平和考える機会奪うな(沖縄タイムス23日)
http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-08-23_53206
(こわし・じゅんぞう/日本ジャーナリスト会議会員)
http://jcj-daily.seesaa.net/article/373021050.html#more
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。