02. 2013年8月27日 02:11:55
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JBpress>ニュース・経営>政治 [政治] 岸信介の憲法解釈を変えた田中角栄内閣 これでいいのか?集団的自衛権論議(その1) 2013年08月26日(Mon) 筆坂 秀世 安倍晋三首相の悲願の1つに集団的自衛権の行使が可能になるように憲法解釈を変更することがある。新しい内閣法制局長官に前駐仏大使の小松一郎氏を起用したのも、そのためだと言われている。 これまでの内閣法制局の見解は、「日本は集団的自衛権を保持しているが、憲法9条の下では行使できない」というものだった。これを「行使できる」ように憲法解釈を改めようというわけである。 新聞の世論調査では、憲法解釈を改めることに反対の方が多いようだ。ただ、そもそも集団的自衛権とは何か、これまでの憲法解釈はどのように構築されてきたのか、おそらく多くの国民は知らないことであろう。それも無理からぬことで、国会議員でさえ、この問題を正しく理解しているものはごく少数と思われる。それぐらい曲芸のような、そして欺瞞的な憲法解釈が横行してきたからである。 そこで、この問題を少し整理しながら論じてみたい。 かつては集団的自衛権の行使を容認していた 現在は、先に述べたように「集団的自衛権保持、行使は不可」というのが政府見解である。だが、安倍首相の祖父、岸信介内閣では違っていた。いくつか当時の国会答弁を紹介しておこう。 「一切の集団的自衛権を持たない、こう憲法上持たないということは、私は言い過ぎだと、かように考えています。・・・他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守るというようなことは、当然従来集団的自衛権として解釈されている点でございまして、そういうものはもちろん日本として持っている」(1960年3月31日、参院予算委、岸首相) 「基地の提供あるいは経済援助というものは、日本の憲法上禁止されておるところではない。仮にこれを集団的自衛権と呼ぼうとも、そういうものは禁止されておらない。集団的自衛権という言葉によって憲法違反だとか、憲法違反でないという問題ではない」(1960年4月20日、衆院安保特別委、林修三内閣法制局長官) 旧日米安保条約を現在の安保条約に改定する真っただ中での国会論戦であり、基地提供など安保条約上の日本の義務を否定することなどあり得なかった。そして岸内閣では、それを「集団的自衛権の行使」だと認めていたのである。 つまり日米安保条約を締結し、米軍に日本の基地を提供した時点から、日本は集団的自衛権行使の道に踏み入っていたということである。 日本の集団的自衛権は「制限」されたもの 岸内閣は、集団的自衛権について、広義の意味と、狭義の意味を厳格に区別していた。これも当時の国会答弁を紹介しておく。 「実は集団的自衛権という観念につきましては、学者の間にいろいろと議論がありまして、広狭の差があると思います。しかし、問題の要点、中心的な問題は、自国と密接な関係にある他の国が侵略された場合に、これを自国が侵略されたと同じような立場から、その侵略されておる他国にまで出かけていってこれを防衛するということが、集団的自衛権の中心的な問題になると思います。そういうものは、日本国憲法においてそういうことができないことはこれは当然」(1960年2月10日、参院本会議、岸首相) 「日本が集団的自衛権を持つといっても集団的自衛権の本来の行使というものはできないのが憲法第9条の規定だと思う。例えばアメリカが侵略されたというときに安保条約によって日本が集団的自衛権を行使してアメリカ本土に行って、そしてこれを守るというような集団的自衛権、仮に言えるならば日本はそういうものは持っていない。であるので国際的に集団的自衛権というものは持っているが、その集団的自衛権というものは日本の憲法の第9条において非常に制限されている」(1960年5月16日、衆院内閣委、赤城宗徳防衛庁長官) アメリカ本土にまで出かけていくなどということは、現実的にはあり得ないことではあったが、ともかくも集団的自衛権の行使が憲法第9条の下で無制限ではないという縛りはかけていた。 岸が言う「広義」というのは、基地提供や経済援助のことである。「狭義」というのは、他国(アメリカ)のために海外にまで出かけていって武力の行使を行う、ということである。岸が言う「集団的自衛権の中心的な問題」である。 田中角栄内閣で変更された「政府資料」 岸内閣では「広狭の差」を設けて論じていた集団的自衛権が、田中角栄内閣になって変更される。それが1972年10月14日、参院決算委に提出された「政府資料」である。 そこでは次のようにその見解を述べていた。 「政府は、従来から一貫して、我が国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場に立っている」 「我が憲法の下で、武力行使を行うことが許されるのは、我が国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」 この見解では、岸内閣時代にはあった「広狭の差」、あるいは憲法第9条の「制限」という考え方は、考慮されていない。 この「政府資料」の立場が、その後の「国際法上保有、憲法上行使不可」という政府見解の原点となっていくことになる。 この背景には、ベトナム戦争があった。1964年以来、アメリカは自らの傀儡政権であった南ベトナム政権が北ベトナムや南ベトナム解放民族戦線の攻勢によって危機に陥っていたため、南ベトナム政権を助けるために「集団的自衛権を行使する」として、ベトナム戦争に踏み切っていた。しかし、企図したような成果が上がらないばかりか、戦況は泥沼化し、アメリカ国内ばかりか、日本をはじめ世界でベトナム戦争反対の世論が高揚していった。アメリカは泥沼化から抜け出すため、今度はアメリカを助けるためにオーストラリアや韓国に集団的自衛権を行使して、ベトナムに派兵するよう求める始末であった。 この結果、韓国は32万人を超える兵力を派兵し、5000人以上の戦死者を出すことになった。しかもベトナム戦争は、アメリカの無残な敗北に終わった。 集団的自衛権には、こうしたダーティなイメージがつきまとっていた。こうした事情も「政府資料」の見解には、反映されていた。 1981年の政府見解で今日の憲法解釈が確立 1980年代に入り、日本とアメリカの同盟関係をより強固なものにするため、シーレーン防衛や日米共同統合実動演習などが行われるようになった。こうした下で、政府は集団的自衛権について、より明確な見解を示すこととなった。それが81年5月29日付の稲葉誠一衆議院議員の質問主意書に対する答弁書である。 「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているものとされている。我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている」 「ゼロ」と言いながらなし崩し的憲法解釈の道へ この政府見解は、岸内閣当時とは大きく変貌したものである。他方で、日米安保条約という軍事同盟を結び、日米共同演習を強化しながら、「集団的自衛権の行使は憲法上許されない」と言うのだから、何をかいわんや、である。 当時の角田禮次郎内閣法制局長官は、「個別的自衛権についても、海外派兵はできないとか必要最小限度の行使というように、一般にほかの国が認めているような個別的自衛権の行使の態様よりもずっと狭い範囲に限られている。そういう意味では個別的自衛権は持っているが、実際に行使するに当たっては、非常に幅が狭い。ところが、集団的自衛権については、全然行使できないのでゼロである」(1981年6月3日、衆院法務委)と答弁している。 この答弁を字面だけ見れば、極めて明瞭である。なにしろ集団的自衛権の行使は「ゼロ」だというのだから。 だが現実はまったく違った方向に向かっていった。集団的自衛権の行使を岸内閣時代よりもはるかに狭い範囲に限定することによって、日本は着々と集団的自衛権の行使を拡大することになっていったのである。81年の政権見解は、なし崩し的憲法解釈の出発点でもあったのだ。 次回は、どのようになし崩し的に憲法解釈がなされてきたのか、を論じたい。 (つづく) |