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明治維新以来、国家主導により順調な発展をとげてきた日本資本主義。日清、日露の戦争に勝利し、第一次大戦を機会に中国・アジアへの 進出をさらにすすめる。成功に次ぐ成功。
最初の敗北はもちろん1945年8月。
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そして2011年3月の福島原発事故は、これに次ぐ「第2の敗北」というべきものであった。
「あった」というのは、現在言われている汚染水漏れ・海洋汚染などは今に始まったことではないからだ。
当初よりあった事実が(そして阿修羅に集う諸氏には当初よりほぼ明らかであった)事実が、今ようやく広く知られつつあるからである。
「今ようやく・・知られつつある」というのは、政府・官僚・東電・御用学者たちが、彼ら自身知らなかったことを知るようになったからではない。 彼らは知っていた。知っていたことを今ようやく認めるようになった、ゴマかせなくなった(あるいはゴマかす必要がなくなった)に過ぎない。
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当初より知っていたがゴマかそうとした事実は3つ。彼らはこれを3つのウソに代えようとした。
まず、核爆発は(おそらく)あった。大気中への拡散・汚染は少なくともチェルノブイリ級だった。相応の避難体制が必要だった。
彼らはこれを「水蒸気爆発」として、貧弱な避難・支援・補償体制で乗り切ろうとした(している)。
核燃料は手がつけられない(再臨界もあったかも知れない)。ただジャブジャブ水をぶっかけるしか、そしてそれを太平洋に垂れ流すしか やりようがない。
彼らはこれをタンクに貯める、あるいは循環処理することができるとゴマかそうとした。水は高きより低きに流れ、狭いところに閉じ込められれば広いところへ滲みだし溢れだすものなのだ。
汚染は広範で深刻だ。福島全体、東日本、日本全体での人口・産業・インフラの再配置が考慮されなければならない。
彼らはこれを、「除染」という作業が有効だとして、それでゴマかし切ろうとしている。5年後、10年後、いや「いつか」帰れる日が来る・・というウソ。
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この事故(=人災)を1945年8月に次ぐ「第2の敗北」というのは、この事故が日本経済(日本資本主義)にとって、国民生活にとって、そして日本の国際的信用にとって、3つの大きなマイナスをもたらしうるからだ。(日本経済〔日本資本主義〕にとってのマイナスと国民にとってのマイナスを別に数えるのは、もちろんこの2つがイコールの関係にはないからだ。)
この3つのマイナスにおいて1945年8月と2011年3月は対比されうる。
そのほかにも1945年8月、2011年3月、2つには対比さるべきこと、類似点は多い。
そういえば、1945年8月にも日本列島では2つの核爆発があった(それが「第1の敗北」のちょくせつ原因だというのではないが)。 不思議なことに、それが誰によってもたらされたものかは言われず、まるで天から降った災難であるかのようにあつかわれる。「アヤマ チハクリカエシマセンカラ・・」
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2つの敗北の対比さるべき点としては、この敗北からの立ち直りをどういう形でするか、も重要だ。
「第1の敗北」のとき日本資本主義は、その受けた打撃を国民の負担に転化し,国民の犠牲(と戦勝国アメリカとの結託)において、復活をとげた。
今度はどうか。国民はふたたびその負担をすべてかぶることになるのか、それとも国民の側が日本資本主義を(その用いる国家機構をも含めて)変革することによりこの危機を乗り切るのか。
今度もまた「アヤマチハクリカエシマセンカラ・・」のお題目のもと、日本資本主義(とその用いる国家機構)は温存され、すべての負担は国民の犠牲へと転化されて終わるのか。
そしていつか「第3の敗北」の来るときまで、「アヤマチハクリカエシマセンカラ・・」と唱えつつ同じ道を行くのか。
これがいま問われている。
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