http://www.asyura2.com/13/senkyo152/msg/737.html
Tweet |
http://blog.goo.ne.jp/segawakousuke/e/8756d512e13ed2bff6735ad0dd7800fa
2013年08月19日 世川行介放浪日記
NHK大河ドラマ『翔ぶが如く』を観ていた。
我が国の警察制度を創った薩摩出身の川路利良が、
海外視察から帰国して西郷隆盛邸を訪れた後、
「征韓をやったら諸外国からすぐに猛攻撃を受けることを、西郷さんに進言しようとしたら、
西郷さんの隣には桐野利秋がいて・・・・、」
とぼやく。
桐野利秋とは、かつては「人斬り半次郎」と異名をとった武闘派の雄で、
西南戦争で西郷軍の総指揮官を務めた男だ。
すると、
西郷隆盛の弟の従道が、
「今の兄さの周囲には、
人が多すぎる」
と嘆く場面に出くわした。
思わず、
隣で一緒に見ていた吉岡さんに、
「いずこも同じ秋の夕暮だね」
そう言いながら、或る一人の現職政治家の顔を思い浮かべた。
彼にしても、また然り。
集団の中の人間というのは、
見る側によって、長所が時には欠点に映ることもある。
リーダーの務めを果たし続けるというのは、本当に難しいものだ。
これまでも何度か書いて来たが、
僕は、幕末期の尊王攘夷浪士や、戦前の大陸浪人や軍人という類の人間が、大嫌いで、
威勢のいい言辞だけで人をあおり、
時には恫喝すらして恥じない心性を、
「あの阿呆たちが、ある時期、国をゆがめた」
と、
軽蔑してきた。
そうした心性は一時的なものではなく、
この国の大衆意識の底流に流れ続けているものだと理解していて、
それを考察把握しなければ政治や大衆については語れないぞ。
そう思って、結構必死に見つめてきた。
そうした視座に身を置く僕には、
小沢一郎の不幸は、
もちろん、彼自身の至らなさは沢山あるのだけれど、
そうした<閉鎖的な過激>を周囲に散りばめ過ぎたことだ、
と見え、
その<閉鎖的な過激>をリードしようとする、
平野貞夫や二見伸明や伊藤章といった老人たちを、
一貫して批判し続けたが、
威勢よさに幻惑されて、幼稚な過激に向かった小沢支持者たちには、
僕の意見などは、理解もされなかった。
彼らには、
「統治する側」の思惑や計算やしたたかさが、
まるで見えていなかった。
統治するものは、強いのだ。
統治する者たちは、これまでの学習効果をきちんと整理棚に保管していて、
「こんな場合はこう対処すればいい。」
と、すぐに処方箋が出せる。
学習をしたことのない集合体は、それができない。
出来ないから、謙虚に学習すればいいのだが、
その謙虚さを持たないリーダーたちは、
自分のちっぽけな知識と経験を前面に押し出し、
それで集合体をまとめようとするから、
おのずと、ムード先行の<排他的な過激>に陥ってしまう。
ムードだけで戦いに勝つなんてことは、
1万回に1回くらいの確率でしか存在しない。
統治する側の強さと心理を研究して、
それに拮抗できる論理と戦術を所有しなければ、
統治する側に敗けるに決まっている。
在野の小沢信者たちには、それが全然わかっていなかった。
いま、「小沢版・夏の陣」が無惨すぎる大敗で終わった夏の終わりの空を仰ぎ、
僕は、
「学ぶこと」と「戦略」の必要性を、
しみじみと思うのである。
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。