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「かつて体験したことがない」豪雨や猛暑やで、この国はどうなってしまったのだろうか、というなか、「8.6」、「8.9」、「8.12」、「8.15」と、3日おきに人の命について思いをめぐらす日々が続いた。どこの国の政治指導者も、「それぞれの記念日」をどのように活かすか(利用するか)に気をつかってきた。しかし、この国のトップは通り一遍の「挨拶」を読み上げはするが、人の心に響く(届く)言葉を発することができない。広島でも長崎でも、安倍晋三首相は、米国の核戦略を忖度して、核兵器に対して中途半端な態度しか示せなかった。それどころか、「8.15」に「間接参拝」(自民党総裁としての「私的な」玉串料奉納)をするという、いずれの側からも非難されるようなことをやった。首相参拝を主張する側からの不満は、『産経新聞』8月16日付総合面「首相が堂々と参れる日いつ」、第2社会面「『首相も参拝してほしい』」などに見られるが、ネット上では参拝を主張する人々の間に強い失望感が広がっていた。
暑い夏がくると、「首相、靖国、8.15」。この3点セットが毎年注目される。靖国神社に首相が参拝することの何が問題なのか。小泉純一郎首相の靖国参拝に関する訴訟では、福岡地裁判決(2004年4月7日)や大阪高裁判決(2005年9 月30日)がその理由のなかで、「内閣総理大臣による参拝により、国が靖国神社を特別に支援している印象を国民に決定づけた」と認定している。首相の公式参拝は、国の機関が、特定の宗教団体の施設内において、その宗教体系に組み込まれた形で拝礼をするという点において、憲法20条3項が禁止する宗教的活動にあたると考えるべきである。自民党総裁=首相である以上、自民党総裁名で参拝(代理による玉串料奉納)しても、それが「私的」参拝になるわけではない。メディアには、憲法の政教分離原則との関連で首相・閣僚の靖国参拝を問題にするものはほとんどなかった。
靖国神社は単なる宗教施設ではない。「国のために死ぬことを正当化するイデオロギー装置」であり、新しい戦争を精神的に準備する装置でもある。246万余の「みたま」は戦争の度に増殖していく。魂の「差別化」も徹底している。NHK大河ドラマ「八重の桜」は戊辰戦争を描いていたが、そこで死んだ会津藩の人々は靖国神社には祀られていない。靖国神社が出した『靖国神社忠魂史』にはそれまでの戦没者の名前が戦役ごとに並べられているが、第1 巻の最初のところに「櫻田事變」という章がある。桜田門外の変である。そこには、襲撃して死んだ水戸藩士の名はあるが、大老井伊直弼を守って命を失った彦根藩士の名はない。「国家」に忠義を尽くして死んだかどうかで、「みたま」は決まる。靖国神社はそもそもの原点からして、魂の選別は不可避である。ここに靖国神社が他の神社と区別される特殊性がある。これが、戦争で死んだ人々すべての共通の慰霊施設になれるわけがない。首相の地位にあるものが、その地位にある間は(純粋に私的でも、首相はSPなしには行動できない。警備費用は税金)、首相個人の信教の自由だからいいだろう、というわけにはいかないのである。
靖国神社に「英霊」として祀られている特攻隊員のなかに、慶応大学生・上原良司がいる(直言「靖国神社には行かないよ―ある特攻隊員の遺書」)。彼は、出撃前に遺書を3通残した。それは感動的な文章である。詳しくは上記「直言」で紹介した本を読んでほしい。例えばこうだ。
「…私は明確にいえば自由主義に憧れていました。日本が真に永久に続くためには自由主義が必要であると思ったからです。これは馬鹿な事に聞こえるかも知れません。それは現在日本が全体主義的な気分に包まれているからです。しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的なる主義だと思います。戦争において勝敗をえんとすれば、その国の主義を見れば事前において判明すると思います。人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦は火を見るより明らかであると思います。日本を昔日の大英帝国の如くせんとする、私の理想は空しく敗れました。この上は、ただ日本の自由、独立のため、喜んで命を捧げます」。
「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。云いたい事を云いたいだけ云いました。無礼を御許し下さい。ではこの辺で。出撃の前夜記す」…。
上原は出撃前に家族に、「俺が戦争で死ぬのは愛する人たちのため、戦死しても天国へ行くから、靖国神社には行かないよ」と語ったという。
戦争で亡くなった人はみな、個人としてすばらしい人たちだった。それを「靖国の思想」で一律に扱うことに、国家機関は関与すべきではない。もちろん、靖国神社で家族に会える、仲間に会えるという人々の気持ちも大切であり、それは尊重されなければならない。だが、首相・閣僚の参拝は、これらの人々が「静かに」亡き人たちのことを偲ぶ空間と時間を奪っているのではないか。
今年の政府主催「全国戦没者追悼式」における安倍首相の式辞は象徴的だった。『日本経済新聞』電子版が8月15日12時18分にアップした記事は、「安倍首相、アジアへの加害責任明言せず 『不戦』の文言もなく」だった。これは『東京新聞』が付けるような見出しで驚いた。16日付朝刊各紙は、『産経』を除いて厳しい見出しが載った。たとえば、『山梨日日新聞』は一面トップが「首相、加害と反省明言せず 『不戦の誓い』もなく」、社会面の受け記事は「安倍さん戦争するの…首相式辞に遺族ら批判、不安」だった。共同通信編集委員の解説記事「首相式辞『戦後和解』から後戻り 良識に背を向ける愚行」も掲載している。
2007年安倍第一次政権のときの挨拶では、「多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」として、「深い反省」を表明していた。また、この2年続けて、管直人、野田佳彦両首相は東日本大震災からの復興の決意を式辞のなかで表明していた。ところが安倍首相は、アジア諸国についても、大震災についても具体的には言及せず、「歴史に対して謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻みつつ、希望に満ちた、国の未来を切り拓いてまいります」という類の、「美しい」言葉の羅列に終始した。歴代首相の式辞のなかでも、稀にみる無内容なものだった。否、アジア諸国への反省や哀悼の言葉をあえて落とすことによって、安倍政権の対アジア外交の姿勢を積極的に示そうとする「内容ある式辞」だったのかもしれない。早速、『産経』電子版(15日)は、中国・韓国などの「外交カードにさせない」という明確な意図に基づくものと書いた。
ところで、「外交カード」とは何だろう。あの小泉首相ですら、戦後60年にあたる2005年の式辞では、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。…過去を直視して、歴史を正しく認識し、アジア諸国との相互理解と信頼に基づいた未来志向の協力関係を構築していきたいと考えています」と述べていたのに、安倍首相の「外交カード」論は、国の対外政策を担う者に必要な観点を欠いた、あまりに視野の狭い、内向き論理ではないだろうか。
「それぞれの記念日」でも紹介したように、ドイツは周辺諸国との関係に細心の注意を払う「記念日外交」をやってきた。特にフランスとポーランドが重要である。ドイツにとってのフランスは日本にとっての中国、ドイツにとってのポーランドは日本にとっての韓国である。ドイツは戦後60年を前に、これら諸国と良好な関係を確立し、ヨーロッパにおいて確固たる地位を占めるに至った。アジアにおける日本のお寒い地位は、ドイツの周回遅れではもはやすまなくなった。『山梨日日新聞』16日付総合面(共同配信?)に、式辞は「戦後レジームからの脱却」の意図をもって、「戦後70年」に向けて「村山談話」を見直していく「布石」、との指摘もあった。
安倍首相がアジアに一言も触れなかったのは、小さなことのようだが、国と国との関係では決定的にマイナスである。安倍首相の外交的失策といってもいい。それを失策と感じず、「未来を切り拓いて」いけると思い込ませている要因の一つに、「ネット世論」の支持があるように思う。
安倍首相はフェイスブックをやることで知られる。『ニューズウィーク』誌7月30日号は、安倍氏のことを「フェイスブック宰相」と命名した。この表紙の写真を見ると、黒目が赤らんでいる。安倍首相は「いいね!」「いいね!」と反応してくれるネット民に好かれる言動を行おうとする。かつてナチス第三帝国では、指導者に対する民衆のアクラマチオ(喝采)が権力を支えた。ライヒ宰相(Reichskanzler) となったアドルフ・ヒトラーは「ジーク・ハイル」の喝采を受けて権力を強化していった。いま、「フェイスブック宰相」は「いいね!」「いいね!」のアクラマチオに元気をもらっているのだろうか。
Yahoo ニュース「意識調査」をクリックすると(8月15日17時最終閲覧)、安倍首相の「加害責任に触れない式辞」について、「反省や哀悼の意を盛り込むべきだ」が22.8%、「盛り込まなくていい」が72.8%と、圧倒的に安倍支持である。ちなみに、麻生副首相の「ナチス発言」について、「問題あり」とする人は40.5%、「問題ない」とする人は55.0%である。ネットには「麻生副首相を守る会」ができて、ナチス発言を擁護しているというから、過半数が支持というのもその「運動」の成果だろう。ちなみに、「意識調査」の回答者は男女比で男性80%と、圧倒的多数を占める。猛暑の日中にネットをつないで、政治ネタをあれこれクリックしたり、書き込んだりする男たち。上記の日経電子版に対しても、「日経よ、お前もか」といった非難が並んでいた。「日本のマスコミは朝鮮人と同じ思考回路か」といった書き込みをする男たちが、ネットには昼間から群れている。この人々の声に押されて、安倍首相はますます元気である。だが、この人々が日本の世論を代表しているとは言えないだろう。バングラデシュなどに「クリック工場」があって、「いいね! 」が24時間体制で捏造されているというから、この世界への深入りはなおさら危うい。
山口県長門市を訪れた安倍首相は、そこで「憲法改正は私の歴史的な使命だ」と熱弁をふるったという(『朝日新聞』2013年8月13日付)。自分に酔っているとしか思えない。ここまでくると、「改憲ナルシスト」である。論理ではなく、情動で憲法改正に突き進む。 「フェイスブック宰相」、「いいね!」「いいね!」の「喝采」に支えられ…。
(2013年8月16日稿)
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