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8.31講演
◎辺見庸講演会
辺見庸は2013年8月31日夕から、東京・四谷区民センターで死刑とファシズムに反対する講演(約2時間)を行います。
8月31日(土)
主催 死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90
場所 四谷区民ホール・地下鉄丸ノ内線 新宿御苑前 2番出口より徒歩5分
開場 18時15分
開演 18時45分
急告 入場券は8月14日までに完売いたしました。申し込みをされたのに、切符を入手できなかった方々には心からお詫び申し上げます。すでにチケットを受けとったみなさまのうち、都合でどうしても参加できなくなった方は、参加希望者がまだ多数いらっしゃいますので、まことに恐縮ですが、お手もとのチケットを主催者側に送り返していただければたいへん助かります。ご高配よろしくお願い申し上げます。(フォーラム90)
fax 03-3585-2330
メール stop-shikei@jca.apc.org
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7月末に私が申し込んだときはチケット番号が00232だったので、2週間で200人あまりの申し込みがあったことになる。当日は元気な辺見庸氏に会いたいものだ。
辺見庸ブログ 2013/08/14より
・なりすまし、というのがいるらしい。わたしの文章を解体・分離し、毎日、それらの断片をわたしの写真とともにせっせせっせとばらまいているのだという。ご苦労なことだ。サイバースペースではIDも著作権も肖像権もあったものではないから、とくにおどろきはしない。なりすましが「わたし」とおもわれ、わたしのほうが逆になりすましとみなされたりする。わたしがなんの齟齬もなく「わたし」であろうとするほうが楽天的にすぎるのだ。いまは亡きJ.Bに言わせれば、「つまるところ、客体と主体はひとつだ」。この根源的な等価性を理解できるばあいにしか、いまの世界というものの本質(もしも本質があればの話だが)を見とおすことはできない。殺戮者と犠牲者の最終的等価性というやつだ。ところで、わたしから言わせれば、つきなみだけれどもじゅうぶんに執拗で暴力的なこの妨害に、情状酌量は適用されるだろうか。J.Bは、適用されない、と断じている。理由は面倒だから書かない。ただ、ふとおもふ。危険だな。なりすましにはどうやら誤解があるようだ。「わたし」がごくおとなしく、フツウに正気で、平和的で、非倒錯的で、いわゆる正義の味方だ・・・という平板な誤解。残念だ。
わたしではない「わたし」がけふ、このブログを読んだからであろう、Twitterに告知をだしたという。友人が転送してくれたメールによると、告知は「権力に迎合して皆が口をつぐむこの時代に、辺見庸氏の言葉の重みがひとすじの光のように心に届けば…という思いでこの BOT を始めましたが辺見氏に不快な思いをさせてしまいました。氏に無断で著作の文章をネットに載せた事を深くお詫びするとともにBotを閉鎖いたします」と述べている。BOTとはなにか、どのような目的のものか、当方にはまったく不分明ながら、なりすましをやめるというなら、よいことだ。わたしではないのに「わたし」を演じたひとが熱心な読者であることは、引用をしてきた拙文の、その選び方からつとに知れていた。しかし、「権力に迎合して皆が口をつぐむこの時代に、辺見庸氏の言葉の重みがひとすじの光のように心に届けば…という思い」は、なりすましの言い訳になりはしない。わたしは、おのれの顔をかくし、なにかになりすまし、だれかの背に隠れて戦えと呼びかけたことはいちどもない。〈辺見庸の言葉があなたの心の深みに届きますように・・・〉などと、だれかに懇願や委託をしたこともありはしない。わたしの言葉がとどこうととどくまいと、わたしの責任でしかないのだ。はっきり言えば、状況とのどつきあいをわたしは望んでいる。つまり、BOTやロボットやそれらの延長線上の無人暗殺機や「無人自動死刑執行マシーン」の発想を、わたしは根本から否定している。ロボットはもともと、チェコの作家カレル・チャペックが戯曲『人造人間(R.U.R.)』のなかで、「労働」「賦役」を意味するチェコ語 robota(古代スラブ語では「隷属」)をもとにあみだした造語である。「辺見庸_Bot」という語感じたい、とうてい受けいれがたいものなのであり、Botというネット上の表現・通信方法があるのだとしたら、その根本からなんらかの病性を宿しているとおもう。病性とは、一にも二にも、薄明のなかに主体を消すことである。ないしは主体を徹頭徹尾あいまいにすることである。あたかも、この国の死刑制度や天皇制ファシズムのように、生身の責任主体を隠してしまうことだ。堪えがたいことは、そうすることで堪えうることとなってきたし、わたしらはげんに堪えるべきでないことに、みんなで主体を隠しながら、日々堪えている。けふもエベレストにのぼった。とちゅうテッポウユリを2輪見た。心がすこしもうごかなかった。尾根をゆきながらおもった。だれしも、わたしだって、むかしは理想郷を夢みたものだ。ユートピアを。そのうち、ユートピアの原義が〈どこにもない場所〉であることを知る。尾根をおりながらおもう。いまは、その果ての、そのまた果ての、まがうかたない〈ディストピア〉であることにうすうす気づきつつ、みんなで気づかぬふりをしている。わたしではない「わたし」だった君よ、わたしにとっていまたったひとつたしかなこととは、毎日こうして高さ1メートルの土盛りのエベレストを、よちよちのぼったり、おりたりすることだけなのだよ。わたしはわたしをかくさない。見ればわかるはずだ。わたしではない「わたし」だった君よ、31日の講演にはきてくれるのだろうね。切符は、君のおかげもあって、けふ完売したそうだ。ありがとう!(2013/08/14)
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